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形勢逆転といった感じで、男の拘束から逃れた凛子は、まくし立てた。
「どこって、わたしの部屋なんですけどっ! 勝手に入ってきたのそっちじゃない!!」
怖かったんだから!
と、涙目になりながら凛子は侵入者を睨み付ける。
「ちょっと待て、ここは俺の寝所の筈だが」
「はぁあああああ?」
しばし呆然としていた男が判らないと首を振りながら、完全に身を起こす。
「続き間がなぜ塵溜めのようになっているのだ」
「ご、ゴミ溜めって失礼ね! 明後日くらいには掃除しようと思っていたの!」
「掃除は毎日している筈だろう?」
「わるいけど毎日終電逃してるし、そんな余裕ないから! 夜中に掃除機なんかかけたらご近所迷惑になるしっ!」
「いやお前が、ではなく――お前は……」
ようやく視線の合った男は、まじまじといった風に凛子を上から下まで眺め、眉を顰めて一言。
「服を着ろ」
短く言われた言葉に、興奮したように喚いていた凛子はぴたりと動きをとめ、慌てふためいたようにソファの上に雑然と積みあがっていた布切れを手繰り寄せた。
「な、な、な、な、なんなのーーーーーあんた!」
恐怖と羞恥と混乱で思考が追いつかない。
突然の侵入者に押し倒され、ナイフをちらつかせ脅されたかと思ったら、自分の部屋が塵溜めだ(……実際そうなのだが)掃除しろと言われ、確かにルームウェアにしては無防備な恰好かもしれないが、不愉快そうな顔で服を着ろと言われ。
男は大きく息を吐いて、亜麻色の長い髪を煩わしそうに掻き上げる、と考え込むように額に手をあてる。凛子から外された視線はローテーブルへと向けられ、炎の明りが青灰色の瞳の中にうつりこむ。男が纏う白い長衣の襞はいくつもの影を作っている。投げ出された長い足は裸足だ。
妙だ。
この汚部屋に自分以外の人間が居るというこの状況も妙だが、もっと妙なのは男の格好だ。
「……へんた、い?」
凛子が漏らした一言は思いの他大きく響き、男は視線をこちらへと流す。
「なるほどな」
しかし男は気を悪くした様子もなく、肩を竦めさらには口の端をやや持ち上げた。
「ラストゥーリャの言っていたやつか……誰にも知られぬ誰も知らぬ願えば開かず願わずとも開く」
「……え? らす、らすとー?」
「こっちの話だ。――女、名はなんという?」
「凛子……」
「――リィンコゥ?」
「高宮・凛子!」
「奇妙な音節だな。――リィンと呼ぼうか」
「なんなんですか? 偉そー……」
「ヴェイル・シェイル・ガーランド・エレ・ラ・アゼリアスだ」
「ヴ、ヴぇ」
「シェイルでいい。さて、リィン」
男は腕を組むと、人の悪そうな笑みを浮かべ、厚顔不遜に言い放った。
「掃除をしろ」
◇◇◇
「言っておくがな。暫く俺もお前も此処から出られないと思うぞ。まぁお前は不幸にも巻き込まれたわけだが」
振り返るシェイルの髪先に目を奪われていた凛子は、むっとしたように唇を引き結んだ。
「勿体ぶらないで、とっとと開けてよ」
「そう急くな」
笑いをかみ殺すように肩を揺らしたシェイルが、玄関の扉を開く。そうして向こう側にひろがる空間に、凛子はあんぐりと開けた口を暫く閉じる事ができなかった。
「な、なにこれ――」
一歩踏み出して、足を止める。
一体いつ、だれが、どうやって。
石造りの広い空間。
四隅に備え付けられた金属製のトーチから燃え上がる炎が、その空間を明るく照らしている。飴色に磨きこまれた大小のチェストが左壁に並び、窓にかかるカーテンは濃藍。正面には作り付けの暖炉。右手に両開きの大きな扉、部屋――部屋と言ってもいいのだろうか――の中央に敷かれた紋様の織り込まれた深紅の絨毯の上には、ゆるやかなカーブを描く飴色をしたテーブルと、長椅子。
この冬の特集として取り上げようと思っていた古城ホテルの一室のようではないか。
「ここどこよ……」
「俺の部屋だ」
「ちょっとまって、だって」
背後を振り返る。見慣れた灰色のドアは無く、複雑な彫りが絡みあう木製の扉がある。飛びつくように開くと、脱ぎ散らかされた自分の靴が見え、差し込まれた光によって照らされた埃が舞い上がった。
「ええ、なん……で?」
自分の部屋と古城ホテルのような居室を繰り返し見、凛子は、扉に片手をかけて面白そうに細められた青灰色の瞳を見上げる。
「この扉ひとつを隔てて、俺の世界とお前の世界は繋がっているという訳だ」
「――訳だ。って……なんで!?」
「誰にも知られぬ誰も知らぬ願えば開かず願わずとも開く――そういう術が施されていたのだろう。この扉の紋様が恐らくそうだな。願わず――無意識に力を注ぎ込むのが発動条件のひとつか」
「ぜんぜん言ってることが判んない」
「俺にも委細は判らないが心当たりはある」
堂々巡りになりそうな問答に、凛子はぽかんとしたままの顔でシェイルを一瞥し、視線を落とすと、脱ぎ散らかされていた靴を揃え自分の城へ入り、ドアを閉めた。
「おい!」
ついでに鍵も閉める。
「寝よっと」
酔っ払っているのかもしれない。350ミリリットルを三缶。六%程度のアルコール分で酔えるかどうかは自信ないが、おかしなことが起こっているのには間違いない。先へと広がる暗闇に向かってペタペタ歩き出すと、開錠の音と共に、勢いよくドアが開かれた。薄暗かった廊下が忽ちのうちに照らされ、まるでホラー映画のような巨大な影が落とされる。
「いやぁああああああ! かぎ閉めたのに!!」
両腕で自分を抱きしめ首だけで振り返ると、少々慌てた形相をした男。亜麻色の長い髪。襞が多く取られている白く長い衣を身に纏っている夢の世界の住人が、ずかずかとこちらに向かってくる。
「こ、来ないでよっ!」
「本来なら此処は俺の寝所だ」
「知らないよそんな事! だってここ、私の部屋だもん!」
逃げるようにリビングに飛び込むと、床に突き立てられたままの短剣が鈍色の光を反射させる。
「こんな狭い場所が部屋なものか」
「狭いって、し、失礼ね! 一人暮らしで2Kもありゃ充分だよ! っていうかその物騒なもの持って帰ってよ!」
「にーけー? ああ、忘れていた」
シェイルは凛子の言葉に、首を傾げながらも、自身に驚いていた。護身の剣の存在を完全に失念していたからだ。いずれにせよラストゥーリャには、報告する羽目になるのだろうが、予定調和を超える出来事に遭遇した自分は、やはり冷静さを欠いているのかもしれない。改めて訪問した荒れ果てた空間をぐるりと見回し、シェイルは遠慮なく腰を下ろす。
「あああ、あんたちょっと仕事カバンの上に座らないでよっ」
自分を押しのける女というのも初めてだった。
頬を膨らませカバンを抱きこんだ女を見る。
ずいぶんと変わっている。
曰く、この小汚い空間の主らしい。
両腕はむき出しで、衣は膝丈より少し短い。裸に近い格好をしているのにも関わらず、娼婦のような隠微さは欠片も無い。ゆるく巻かれた濃茶の髪は肩よりも少し長く、瞳は恐らく漆黒。カバンを抱えたまま落ち着き無くうろうろとしていた女が、諦めたようにぺたんとその場に座りこむのを、遠慮なく観察する。
「リィン」
ものを投げつける女というのも初めてだ。
「喉が渇いた。さっき、なにか液体の入ったものを投げつけただろう? 衣も少し濡れてしまったから着替えも欲しい」
その言葉に、これでもかというくらい目を丸くさせて凛子は首を傾げる。
「な――ずうずうしい! 自分の部屋帰ればいいでしょ! っていうか帰って!」
「あちらに帰っても侍女を呼ぶ事も出来ぬ。そもそも寝酒は寝所に用意させるものだしな」
「はぁあああ? 意味、ほんとーに判んない! あっち、あんたの家でしょ!」
「あちらは居室。こちらは寝所」
「ああいえばこう言うって、どんな育て方されたのかしらねっ!」
「それはお前にも問いたいな。例えば、このような狭い空間で塵芥に塗れた――」
「うるさい!」
忙しいんだから。と、凛子はぶつぶつ呟きながら、大股で部屋を横ぎり、戸棚のような場所から何かを取り出すと、押し付けるようにシェイルに渡す。複雑な印字がされてある硬質の筒を指先でなぞってシェイルは複雑そうな表情を浮かべた。
「これは?」
「ビール、お酒」
シェイルが軽く振ると水音がする。
「ああああ、何振ってるのよ! ばかじゃないの! もう」
凛子は呆れたようにシェイルの手元から缶をとりあげ、代わりに自分が持っていたものを手渡した。
「どうやって飲むのだ」
その言葉に凛子は項垂れる。
「なんかあんたと話すの疲れる……やっぱり夢。それとも疲労からくる幻覚と幻視……ストレスかも……」
「夢ではないと思うが……これは冷たいし」
片手で缶を握りこんだシェイルは、あいている方の手を凛子に伸ばし、華奢な肩を抱き寄せた。
「お前は、暖かい」
一瞬の間のうち、叫ばれた単語は、シェイルに理解できないものだった。
いわく、セクハラ。




