楽園の終焉
その楽園は、遠く離れた村々からも見えるほどの壮麗さを持っていた。
山の中腹にそびえ立つ黄金の光を放つ樹。その姿はまるで天と地を繋ぐ神々の象徴のように見えた。
だが、それが単なる自然の奇跡ではないことを知る者は、世界中でただ一人しかいない――セレナだった。
セレナは、山奥の楽園で生まれ育った。人里離れたこの場所で、生命の樹とともに生きるように運命づけられていた。
彼女が幼い頃、母親が語った言葉を今でも鮮明に覚えている。「セレナ、あなたは特別な存在なの。生命の樹を守ることが、私たちの一族の使命。これがなければ、この世界は壊れてしまうのよ。」
母親はやがて亡くなり、セレナは一人きりでその役目を引き継いだ。
楽園は静かで美しい場所だったが、静寂が彼女の心を蝕むこともあった。特に、夜が訪れるたびに胸に広がる孤独感。誰とも言葉を交わさない日々が何年も続き、彼女の中で「人と生きる喜び」が徐々に色褪せていった。
「でも、私はこれがあるから……。」
彼女は生命の樹の幹に手を触れ、祈りを捧げる。そのたびに、樹の金色の輝きが彼女の体に溶け込み、少しだけ孤独が和らぐような気がした。
しかし、この輝きこそが、彼女の不安をさらに煽ることになるとは、その時は思いもよらなかった。
数週間に一度、セレナは村へと降りていく。彼女が楽園で生き延びるために必要な物資を手に入れるためだった。
しかし、村人たちの態度はいつも冷たかった。
「山の怠け者がまた来たぞ。」
「あいつ、一体何をしているんだ?働きもせずに生き延びてるなんておかしい。」
セレナは何も言い返せなかった。彼らに自分の使命を語ることは禁じられているからだ。守護者は、その存在を隠すことでしか成り立たない役目を背負っていた。
ある日、彼女が村の井戸で水を汲んでいると、村人の子供たちが彼女を取り囲んだ。
「お前、何で山に籠ってるんだ?変わってるよな!」
「金の光が見えるからって、宝を独り占めしてるんじゃないのか?」
セレナはその言葉に動揺を隠せなかった。
「金の光……それは生命の樹の輝きのこと?」
噂が広まることを恐れた彼女は、急いでその場を立ち去った。しかし、心の中では不安が渦巻いていた。
「もし、彼らが楽園に近づいたら……。」
セレナが山で不安な日々を過ごしている間に、村では噂が一気に広まっていた。
「山の奥には、金そのものの輝きを持つ樹があるらしい。」
「もしそれを手に入れれば、俺たちの生活は一変する!」
村人たちは、この噂に狂喜乱舞した。彼らにとって、日々の貧しい暮らしを抜け出す希望の光だった。
しかし、この話を最も煽ったのは、村の若き指導者ダンだった。
「俺たちはずっと苦しい思いをしてきた。それを終わらせるには、この樹を手に入れるしかない!」
ダンの言葉に、村人たちは賛同した。貧困に苦しむ彼らにとって、それが唯一の道に思えたのだ。
村人たちは斧やノコギリを手に取り、山を登り始めた。その足音を聞きつけたセレナは、急いで楽園の入り口で彼らを迎え撃とうとした。
「ここに来てはダメ!」
彼女の叫びに、村人たちは一瞬だけ足を止めた。しかし、ダンが彼女を指差して叫んだ。
「嘘をつくな!お前は宝を独り占めしてるんだろう!」
セレナは必死に彼らを説得しようとした。
「これは金じゃない。ただの光よ……!もし傷つければ、すべてが終わる!」
だが、その言葉は彼らの耳には届かなかった。
「お前に邪魔される筋合いはない!」
ダンが先陣を切り、楽園の中心にたどり着いた。そこにそびえる生命の樹の壮麗さに、彼らは息を呑んだ。
「すごい……本当に金だ!」
彼らの目には、それが純粋な金そのものに見えた。
セレナが涙ながらに止めようとする中、ダンは斧を振り上げ、樹の幹に一撃を加えた。
「やめて!お願いだから!」
彼女の叫びもむなしく、樹に刻まれた傷から光が失われ、黄金色の輝きはただの灰色の幹へと変わっていった。
「なんだ、これ……?」
村人たちは自分たちの目を疑った。手に入れたはずの金は、ただの木になってしまったのだ。
その時、大地が揺れ始めた。生命の樹を封印していた力が解き放たれ、災厄が広がり始めたのだ。
黒い霧が村人たちを飲み込み、逃げ惑う彼らの悲鳴が響き渡る。
「助けてくれ!」
「俺たちが間違っていた!」
だが、セレナは静かに首を横に振った。
「もう遅いわ。楽園は壊された。あなたたちの手で。」
セレナはそう呟きながら、崩壊する楽園を静かに見つめていた。
それから何時間?
いや、何日?
いや、何ヶ月経ったのか。
すべてが終わり、楽園は完全に崩壊した。
生命の樹は倒れ、荒廃した大地には何も残らなかった。
セレナはただ一人、崩れた幹の前に座り込んでいた。その顔には安堵の表情すら浮かんでいた。
「ようやく、静かになったわね。」
身体を蝕む痛みも、心を苛む孤独も、もう何も感じなかった。ただ、無音の世界が彼女を包み込んでいた。
彼女は目を閉じ、静かに祈るように呟いた。
「これが私の望んだ終わりだったのかもしれない。」
それから、セレナの姿もまた、静寂の中に溶け込むように消えていった。
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村人たちが滅び、楽園の跡地は誰も知らない荒野となった。
何百年もの時が流れ、楽園は伝説として語り継がれるようになった。
「楽園を守る巫女がいた。しかし、彼女の犠牲を誰も理解しなかったため、楽園は滅びたのだ。」
それを聞く者たちは口々にこう言う。
「もしそんな場所が本当にあったなら、なぜ守れなかったのだろう?」
だが、彼らもまた、真実を知ることはなかった。
静寂だけが永遠に続いていた。