第一話「黒き剣はまだ抜かれぬ」
闇が、都市を包んでいた。
月は雲に隠れ、星すら怯えているように光を放たない。
空気は澱み、湿った冷気が骨の奥にまで染み込んでくるようだった。
スラム──かつて王国の栄華を築いた者たちが見捨てた土地。
そこに身を潜める男が一人。
かつて「黒き剣」と呼ばれた男──ダーク・アルコホル。
最強と謳われたギルド「Monument bleu」の創設者にして、その剣は戦場を切り裂き、希望を背負った。
だが今、その眼は重たく、口は固く閉ざされている。
「……七年、か」
彼の隣に立つ、長髪の男。
ギルド第三部隊隊長──ジル。口数は少ないが、かつての戦友であり、唯一、今も共にいる者。
「復讐の刃を研ぎ続けるには……十分すぎる時間だったな」
「その割には、随分と落ち着いてるな」
「落ち着いているように見えるなら、それはお前の目が濁ったからだ」
ジルがフッと笑う。以前なら、この冗談にすら苦虫を潰したような顔をしていただろうダークが、ほんの僅かに目を細めた。
ふと、遠くで悲鳴が上がる。
「やめろっ……! やめてって言ってるだろ!」
路地の奥、薄明かりの中。
数人の少年たちが、ひとりの小柄な少年を取り囲み、殴りつけていた。
服はボロボロ、顔は血で濡れている。
だが、その瞳だけが、折れていなかった。
「……ジル、あれを見ろ」
「どうする」
「助ける。それだけだ」
ダークは静かに立ち上がり、剣に手を添えた。
「てめぇ、何様のつもりだよ!」
1人の少年がナイフを振るう。
だが次の瞬間、その刃は地面に落ちていた。
ダークは一歩も動いていない。けれど、何かが──剣気のような“圧”が、少年たちを包み、動けなくさせていた。
「命が惜しいなら、二度とこの街に近づくな」
それだけを言い残し、ダークは倒れていた少年へ歩み寄った。
「立てるか」
少年は唇を噛みしめながら、ゆっくりと顔を上げる。
「……あんた、なんで……僕なんかを」
「理由なんていらねぇ。立ち上がろうとする奴は、それだけで強い」
「……ヒルコ。僕の名前は、ヒルコ」
その名を聞いた瞬間、ダークの表情がわずかに揺れた。
ヒルコ──どこか懐かしい響きだった。
「年は?」
「十歳」
答えた少年の白髪が、薄闇の中でも鮮やかに揺れる。
小さな体に宿る、異様な芯の強さ。
(……エリザの髪色に似ているな)
(あいつも十歳になっていれば──)
だが、それ以上は考えなかった。
その先にあるのは、壊れてしまう感情だけだった。
「名前、ダセェな」
「え?」
「ヒルコじゃ、強そうに見えねぇ。今日からお前は……ホワイトだ」
「……勝手に決めんなよ」
口では反発するが、その声はどこか嬉しそうだった。
「ホワイト、お前……剣を握ったことはあるか」
「……ない。でも、強くなりたい。大事な人を殺された……僕、あいつらをぶっ倒したいんだ」
その目に宿る怒りと悲しみを見たとき、ダークの胸が軋んだ。
まるで──七年前の自分を見ているようで。
「なら、ついてこい。剣の握り方から教えてやる」
「……本当かよ」
「俺は約束は破らねぇ」
ジルが後ろから近づき、ボソリと呟く。
「……似てるな、目が」
「ああ。……でも、そんな偶然もあるさ」
ホワイトを見つめるダークの瞳には、どこか痛々しい優しさが宿っていた。
まだ、気づかない。
その少年こそが、自分がこの七年ずっと追い続けていた“希望”そのものであることに──。
一方、王都。
王宮最上階。重厚な椅子に胡座をかき、赤いワインを傾ける男がいた。
ニンカシ・ビア。
ビア王国第十二代、現国王。
「……まさか、奴が動き出すとはな」
側近が息を潜め、ニンカシの命を待つ。
「サブゼを放て。やつらがどこに潜伏していようが、引きずり出してやる」
その瞳には、冷たい憎悪と支配者の自信が宿っていた。
──黒き剣は、まだ抜かれてはいない。
だがその鞘の奥で、確かに目覚めの時を待っていた。