ツナとミント
本格的な梅雨がはいり、湿度とともに、不快指数も急上昇だ。
「こんなときこそ、思いっきり飲もう」
そう言って、仙石エリは会社の後輩の春日ナツを誘った。エリの誘いを、ナツは笑顔で応えた。二人は仕事上がりに、エリがオススメの駅裏にあるアメリカンバーに向かった。
「さあ、ナツちゃん遠慮しないで、ドンドン食べて、飲んで。そして、一緒に体脂肪を増やそう」
エリの言葉に、ナツは「ヤバ」とだけ言い、静かに笑った。そして、メニューを見ているがどうしても最初の一杯が決められない。次第にナツは困った顔になる。
「ひょっとして、ナツちゃん、こんなお店初めて?」
エリの質問に、ただ、コクリとうなずいた。
「そうなんだ。ここ、カクテルのメニューが充実しているけど、カクテルを知らないと、チンプンカンプンよね。普段、どんなお酒が好き?」
「グレープフルーツサワーとか、果物のサワーが好きです」
エリはそれを聞いて、ちょっと考えた後、店員に注文をした。すぐにドリンクが運ばれてきた。ナツは、やたらと鮮やかな色をした液体を、おそるおそる匂いを嗅ぎ、おそるおそる口をつけた。つけた瞬間、すぐに眩しい笑顔になり、そのまま飲み干してしまった。
「気に入ってくれたみたいね。だけど、今、ナツちゃん子犬みたいだった。わたし、実家で犬を飼っているけど、うちの子も、初めての食べ物には、おそるおそる匂いを嗅いで、おそるおそる口につけて、気に入ったら一気に食べる」
エリはそういって笑った。ナツは、ただ、気恥ずかしそうに下をむいた。ナツに続き、エリも一杯目を飲み干し、おかわりの注文をした。
「そうそう、今日のメンバーは、わたしとナツともう一人、いや、一人ではない、一個? いや、一つ? 財布の単位ってなんだっけ?」
エリがひとりごとだか、ナツに言っているかわからない調子でぼそぼそとつぶやいているときに、一人の男が「ごめん。ちょっと遅れた」とだけ言って、席についた。エリの同期の高島コウヘイだ。
「そう、ナツちゃん。今日の財布がやっと来た」
そう言ってエリはコウヘイを指さした。コウヘイは、無言で抗議の目をエリに向けた。
「あらコウヘイ君、ひょっとして短大卒の新入りに、このお店で割り勘は酷でしょう」
そう言って、エリはヘラヘラしている。
「いや、ナツちゃんはいいよ。お前は払えよ」とコウヘイ。
「わたしは、袖がないの。無い袖は振れない」とエリはヘラヘラしながら言う。
コウヘイは、深いため息をつき、エリを睨む。
「いいじゃん。こんな美女二人と飲めるんだから。もし歌舞伎町だったら、こんな美女と飲むだけで、二万は飛ぶよ」エリは同期の男に遠慮がない。
「まあ、ナツちゃんは美女だよ。ただ、お前はどうだろ。美女なのか? ビミョーな女で、ビジョか」コウヘイも同期の女に遠慮がない。
「やだ、これ名誉棄損だわ。裁判起こして慰謝料もらわなきゃ。慰謝料と今日の飲み代、どちらが安上がりかな?」
世の中、男は女に口では勝てないようにできているようだ。コウヘイはさっきよりさらに深いため息をついた。覚悟を決めたようだ。
「わかったよ。今日の支払いは、オレにまかせろ。遠慮はするな。ただ、贅沢もするな」
実は、今回の飲み会には、エリの思惑があった。
それは、コウヘイのナツちゃんへの想いをハッキリとさせることだ。
それというのも、コウヘイは普段から、ナツちゃんに異様にやさしい。そりゃ、新人にはやさしく指導するのは、コウヘイだけでなくエリもみんな一緒だ。ただ、同期のエリから見ると、コウヘイのナツちゃんの優しさは、新人への指導以上の優しさが感じるのだ。
「酒が入ると、お花畑が近くてかなわないよね」
そう言って、エリは席を離れた。今、席にはコウヘイとナツちゃんの二人きりだ。
「ナツちゃん、楽しく飲んでる?」コウヘイはナツちゃんに聞いていた。
「はい」
「おつまみ足りているか? 遠慮しないでね」
「はい」
「まあ、エリの奴が自分の好きなつまみを馬鹿みたいに頼んだからな。鶏肉多いだろ」
「そうですね」
「鶏肉ばっかりだとほかのものも食べたいだろ。そうだ、ガーリックシュリンプ食べる?」
このコウヘイの提案に、ナツちゃんは、とびっきりの笑顔で応えた。
「そうか、ナツちゃんはエビが好きなんだ」
そう言っているコウヘイの笑顔は、優しさにあふれていた。
トイレに行くふりをしたエリは、このやり取りをしっかりのぞいていた。コウヘイはナツちゃんに特別な感情をいだいている。エリのこの疑惑は、確信に変わった。
「コウヘイさ、ナツちゃんのこと、どう思っているの?」
みんなの酔いが大分回っているとき、エリは直接聞いた。コウヘイは突然の質問にぎこちない硬直があった。
「まあ、かわいい後輩だと思っているけど」
コウヘイは返したが、エリは納得しない。
「いやいや、仕事の同期を舐めないで。あんた、明らかにナツちゃんを特別視している。世間は見逃しても、私は見逃さないから」
二人のやり取りを、ナツちゃんは、困った顔をしてみている。
コウヘイは、覚悟を決めたように、グラスに残っていたメキシコーラを飲み干した。
「年ごろの女の人を、こんな目でみるのは、とっても失礼だろうけど」
そうやってコウヘイは切り出した。
「ナツちゃんって、猫か犬かというと、犬っぽいなとおもったのが、最初だね」
「ああ、わかる。確かにさっきも子犬っぽかった」とエリ。
「犬っぽいと思っていたら、だんだん、実家で飼っていた犬と仕草がそっくりに見えて」
「ごめん。それはちょっとわからない」
「いや、ナツちゃんと実家のツナが、別だというのは、頭ではわかっているけど、もし、ツナが人間だったら、ナツちゃんみたいなのかなと思ったら、もう、かわいく見えてかわいく見えて、……
」
そう言われてみたら、コウヘイの優しい口調は、異性ではなくペットにむけた優しい口調だった。エリもナツちゃんも、コウヘイの告白に頭が追いついていない。
「そんな、実家のツナちゃんかわいいんですか?」ナツちゃんが聞いた。
「かわいかったよ。大好きだった。かわいくて離れるのが嫌で、実家から出れなかった。二年前、亡くなったから、それで実家を出た」
「え、もうツナちゃん、亡くなっているんですね」
「そうだよ。ごめんね。年ごろの女の子を、犬と同じ感じで見るなんて、あんまりいい気持ちではないでしょ」
「……、いや、悪い気持ちではないです」
「ありがとう。ナツちゃん」
これで終わりだと、コウヘイもナツちゃんも思っていた。ふと見ると、エリが今日飲んだ酒量以上に涙を流していた。
「そうだよね。ここまでご主人に愛されていたら、生まれ変わるよね」
エリのこの発言に、二人は「いや違う」としか言えない。ナツちゃんが生まれ変わりなはずがない。ツナが亡くなったのは二年前なのだ。一方、ナツちゃんはすでに成人している。しかしエリも引かない。
「なに、二人ともスピリチュアル信じないタイプ? わたしは絶対、ナツちゃんはツナの生まれ変わりだって確信しているから。ナツちゃんは、前世の記憶がないだけなの。さて、すべてがわかったところで、おじゃま虫は退散しますよ」
そう言って、エリは店を出て行った。残った二人は、困った顔で、お互いを見合うしかできなかった。
一方、そのころ、駅前の焼鳥屋で、仕事上がりの男三人が飲んでいた。
「ここさ、焼き鳥はうまいけど、換気が弱いよな。だから、店中に煙が充満しているんだよ。ただでさえ、梅雨で不快指数高いのに、さらに高くなっているだろ」
ハイボールをグイっと飲みながら、大塚はぼやいた。
「そんなところに、三十路手前の男が三人、さわやかのかけらもない男が三人集まっているんだぜ。ひょっとして、世界で一番、不快指数が高いのはここじゃね」
渋谷もチューハイ片手にぼやく。
「おいおい、多少、不快指数が高くても、ここにはうまい酒とうまい肴があるだろ。それ以上、何を望む……、かわいい女の子と飲みたい」
中野もトリ皮串をくわえながらぼやく。男三人のぼやきが止まらない。
「今年入った新人の女の子でも、誘ってみたらよかったな」と大塚。
「いや、付き合うには、あの娘たち若すぎるだろ」と渋谷。
「おいおい、一緒に飲むだけだよ。それに、若すぎると言っても、そこまで年齢離れていないだろ。いや、離れていないと思いたい」と大塚。
「そういえば渋谷クン、新人のアオイちゃんのこと、変に意識していない?」
中野の質問に、渋谷はチューハイを飲む手が止まった。
「まあ、かわいい後輩だと思っているけど」
渋谷はぎこちなく返したが、中野も大塚も納得していない。
「いやいや、世間は見逃していても、オレたちは見逃さないよ。確かにアオイちゃん、垢抜けたきれいな娘だよ。特別に想うのは、悪いことではないよ」と大塚。
「お前の想い、アオイちゃんにぶつけるなら、オレたち協力するよ。だから、正直に言ってくれよ」と中野。
渋谷は、覚悟を決めたように、ジョッキに残っていたチューハイを飲み干した。
「年ごろの女の人を、こんな目でみるのは、とっても失礼だろうけど」
そうやって渋谷は切り出した。
「アオイちゃん、確かに垢抜けてきれいな娘だよ。でも、それ以上に既視感というか、どこかで会ったような、そんな感じがしていた」
「それ、オレもわかる」と中野。
「その既視感、よくわからなかったけど、気づいてしまった。オレはアオイちゃんに似ている娘に出会っていた、いや、知っていた」
「おい、いったいどういうことだよ」
「……、アオイちゃん、オレが学生時代にお世話になった、セクシー女優にそっくりなんだ」
「ひょっとして、水無月ミント⁉」
「そうだよ。やっぱり似ているよな! 水無月ミントとアオイちゃんは別だと頭では理解しているけど、……、たまに勘違いする。いや、勘違いしたくなる」
「悪い。オレも学生時代、ミント姉さんにお世話になった。これに気づいたからには、オレも勘違いしたくなるじゃねえか!」
「この前なんて、『センパイ、ちょっと残業手伝ってください』とアオイちゃんに声をかけられて」
「それ、『水無月ミントのイケナイ残業』の出だしじゃん!」
「そうだよ。このあと『お礼に二人でもっと残業しちゃう』みたいな言葉を期待しちゃうだろ」
「実際、そうはならなかったんだよな」
「そうだよ。まず、アオイちゃんの残業を手伝ったのはオレだけじゃない」
「そういや、オレも手伝った。笑顔でお礼を言われただけだった」
「残業手伝っている間、頭では何も期待していないよ。期待していないのに、……、ずーっと、ふくらんでいるんだ。妄想とか、いろいろなものがね」
「……、この事実を知ったオレもそんな風になるんだ」
ここで渋谷と中野は、芋焼酎のロックを頼んだ。この店の一番強い酒が焼酎だった。二人は、とにかく強い酒がほしかった。
大塚は、年ごろの女の人をあんな目でみるのは、失礼を通り越してサイテーだと思った。ただ、大塚は水無月ミントを知らなかった。だから、中野と渋谷が話している間に、スマホで調べてみた。
「そっくりじゃねえか」
それだけつぶやき、大塚も芋焼酎のロックを頼んだ。