5. Yes と No
「ウップ!?」
聞こえて来た声が消え、俺は酷い目眩に襲われる。
度数の強い酒を浴びるほど飲みまくった以上の目眩であり、今の俺の身体の状況では真面に立っている事さえもできず、俺はそのまま力なくドサっと地面へと倒れる。
三半規管を物理的に掴まれ、激しく振り回されたかと思う様な感覚を感じるほど、脳を中心に身体中がグラグラと揺れている。
地面へと倒れた俺は、激しくグルグルと回る感覚の酔いに耐え切れなくなってしまい、その場で嘔吐を繰り返した。
次第に酔いは治まって来たが、現状の俺は、心身ともに疲弊しており、頭を抱える様に力なく地面へと蹲って横になっていた。
こうなってしまえば、これは夢なんかではないと言う事に嫌でも気づかされ、途端に言い得ぬ恐怖が全身を襲い始めた。
「一体、何処なんだよ此処は……」
視界に入る、青白く光る壁と、早く先へと進めと言っている様にも見える、壁へと穿つ黒く大きな穴。
「なんなんだよコレは……」
そして、先ほどまで一緒に決死の鬼ごっこを繰り広げていた顔の潰れた緑色の奇妙な生き物。
「俺が一体何したっていうんだよ……」
脳裏へとべったりと張り付き容易に思い出される、公園で合った自分そっくりの何か。
頭の中へと聞こえて来る得体の知れない声。
終わりがあるのかさえも分からない現状。
与一の精神状態は限界であり、依然として眼前に浮かぶ異様な文言の選択肢を見て、コレを選べば何かが変わるのだろうか?と言った淡い期待まで出始める始末。
この先、何があるか分からない。
この先、何が起こるか分からない。
この先、何をさせられるか分からない。
そんな負の感情だけが止めどなく溢れ、眼前に出続けている異常な文言のホログラムへと指が伸びそうになる。
だが、与一は、「まだだ。コレはまだ選べない」とホログラムを睨みつけ、フラフラと立ち上がって壁に大きく穿つ穴へと向かって歩き始めた。
与一がフラフラとした足取りで穴を潜り抜けると、穴は先ほどと同じ様に閉じて壁へと姿を変えた。
既に体力の限界にあり、考える余力の無い与一は、壁へと変わった穴を尻目に、フラつく足取りで先へと進む。
通路の様な通りを抜けると、そこは先程と同じ様な広場となっており、コレまた先程と同じ様に広場の中心に得体の知れない何かが佇んでいる。
中央に居るソレは、軽自動車程もある大きさの真っ白い犬の様な狼の様な巨大な獣であり、与一の姿を目に捉えると、手足を畳んで丸くなっていた身体をモゾモゾっと動かして起き上がる。
立ち上がった獣は、180cm近い与一の身長を悠に超えており、先程の緑の何かと同じ様に与一を餌としか見ていない様な一方的な視線を向けて来る。
「最悪かよ……」
四つ足の獣と言う見た目プラス、その巨大さを視線に捉えた事で、流石に今回は逃げ続けて奇襲をかけると言う選択肢を即座に失い、与一は絶望に襲われた。
目の前の獣は、歯茎を剥き出しにしてグルグルと喉を鳴らしており、既に臨戦態勢を取っている。
眼前の獣を相手に、与一が脳をフル回転させ、どうやってこの場を切り抜けるかと言う事で思考を働かせているなか、白い獣は体重を後ろへとかけ、前へと飛び出す様な体勢を取った。
与一が思考を戻し、ヤバいと思ったと同時に、白い獣は既に勢い良く与一へと向かって飛び出す様に駆けており、大きな顎門を開けて与一へと突進して来た。
与一は、あまりにも速い獣の動きに対してなす術なく、とっさに内ポケットから取り出したスマホを右手に、そして脱いだスーツを左腕へとグルグル巻きにしてを前へと掲げ、半身になって受ける様な姿勢を取った。
与一へと突進して来た獣は、与一が掲げた左腕へと噛みつき、与一の腕を食い千切ろうとするが、与一は右手に持っていたスマホの角を獣の眼球へと叩きつける。
ギャン!!
与一のスマホの角を眼球へと叩きつけられた獣は、噛み付いていた与一の腕を離し、仰反る様に与一から距離を取った。
スマホを眼球へと叩きつけられた獣は、目から赤い血の様なものが垂れており、痛みを訴える様に前足で何度も目を擦る様に触っていた。
なんとか命を繋いだ与一ではあるが、スーツをグルグル巻きにしていた左腕は、獣の牙によってスーツごと腕が抉られ、ボロボロになった与一の腕からは、夥しい血が腕に巻いているスーツへと滲み出ていた。
「ぐぅ!」
燃える様な腕の痛さにより、与一は顔へと脂汗を浮かび上がらせながら顔を歪めており、それでも腕を食い千切られなかったことに対して安堵はするものの、あまりの激痛によってこれ以上は腕を動かす事ができなくなってしまった。
血塗れになっている左腕をダランとさせている与一を片目で見つめる獣は、自身の目を潰された事に対して怒り狂っており、口から与一の血が混ざっている涎をダラダラと垂らしながら右へ左へとウロウロとしながら徐々に与一へと向かって距離を詰めて来た。
与一は、獣が左右にウロウロと移動するタイミングを見て、距離が離れた瞬間に移動しようと走り出すが、獣も後を追う様に駆け出し、与一の脚へと噛み付いた。
「がぁぁぁぁぁぁぁぁああぁぁぁぁぁぁぁあああ!」
与一は獣に左脚を噛みつかれ、そこを軸にブンブンと振り回されながら地面へと身体を叩きつけられた。
「ガハァァァ!」
与一は頭を守る様に酷く痛む腕も動かしながら両腕で頭を抱えて包み込むが、背中を地面へと強かに打ち付けた事で、肺から一気に空気が抜けて身体が硬直してしまう。
獣は与一の足を食いちぎろうと頭を激しく降るが、なかなか千切れない足へと更に力を入れて噛みつく。
「ぐぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!!」
与一は身体を地面へと叩きつけられながらも空いている右足で獣の鼻目掛けて必死に何度も蹴りを入れ、獣も与一に蹴られた鼻に痛みを感じたのか、噛み付いていた与一の脚から口を離す。
与一はそのまま地面をズザァーと滑って行き、スラックスが千切れ、スネから血が溢れ出ている脚を引きずる様に地面を這って獣から距離を取る。
脚の痛みに耐える様に、与一はフッフッフッフッと浅く短い呼吸を繰り返しており、ボロボロの身体を壁へともたれさせて獣へと視線を固定する。
与一は、肩を激しく上下させながら短い呼吸を繰り返し、自身へと死を齎すであろう目の前のソレから視線を外すことなく見つめ続ける。
─脚はもう動かない。
─腕も上がらない。
─もう、何も考えられない。
それでも、俺は自分の体に言い聞かせる様に地を這って必死でソレから逃げた。
だが、獣は、大きく顎を開けながら俺を食い殺す為に常に隙を伺っている。
獣の目には知性の光というものを全く感じられない。
獣が持ち合わせている感情や思考は、ただ単純に俺を喰いたいという欲望だけで動いている様だ。
俺は腕や脚へと傷を負ってしまい、獣から逃げる事も、これ以上何かを考える事も、もうできそうにない。
背中には冷たく青く光る壁。
掌にはゴツゴツとした地面の感触。
眼前では俺の味を覚えたのか、涎を垂らし、イカれた目つきで俺の隙を伺う獣。
そして──
──相も変わらず、目の前にチラつくイカれた文字。
クソッタレ……
俺は今にも消え失せそうな朦朧とした意識の中で、眼前に浮かんでいる文字へと手を伸ばす。
─ニンゲンヤメマスカ?─
ガクガクと震える右手を必死で動かし、俺の人差し指は確実にソレを選ぶ。
< Yes / No >
もう、考えるのは止めだ……
俺はこのクソッタレで理不尽な状況から、何をしてでも生き延びてやる……
”Yes”