4. 緑 と 鬼ごっこ
開けた場所の中央に佇むソレは、真っ赤な瞳で真っ直ぐに俺を睨みつけている。
真っ赤な瞳もそうだが、小学生低学年の様な体格、酷く曲がった猫背、尖った耳、そして何より、腰蓑を1枚纏っているだけのドス黒い緑色の皮膚。
突然変異だったとしても、こうは絶対にならないだろうと言う装い。
どう見ても明らかに人ではない。
終いには、俺の全身を舐め回す様に眼球をギョロギョロと動かしながらニタつく様に口を開け、ギザギザの鋭い歯を剥き出しにして涎を垂らし始める。
まるで、餌を前にして”待て”をさせられている狂犬の様だ。
いきなり遭遇した人型の何かに対し、俺は嫌悪感と恐怖を覚え、自然と足が後ろへと下がり後ずさってしまう。
だが、俺を見ているソレは、逃がさんとばかりにゆっくりと俺へと向かって歩を進め、加速する為だろうか、足へと力を込める様にグッと腰を落とした。
瞬間、俺の感情は恐怖に支配され、俺の全身は”逃げろ”と激しく警笛を鳴らす。
緑のソレが俺へと向かって走り出して来たと同時に、俺の命をかけた鬼ごっこが始まった。
ネズミを追う猫。
ウサギを追う猟犬。
ガゼルを追うライオン。
例を挙げればキリがないくらい、今の俺の状況は捕食の対象となって追われる者であり、緑のソレは俺を捕食する為に俺を追い込むハンターである。
走って向かって来る緑のソレに対し、今すぐに横へと走って逃げ出したいと言う気持ちを抑え、俺は確実に逃げ切る為に、少しでもソレを引きつけて、ソレが可動できる範囲を狭める為に必死で動くのを我慢する。
俺へと残り2m程と言うところで、サッカーのフェイントの要領で俺は左へと動く様に、1歩、左足を横に出して体重をかける。
と同時に、ソレが反応した俺の左足の方向とは逆の右側へと全力で走り出す。
緑のソレは、まんまと俺のフェイントに引っかかり、一瞬その場でタタラを踏んだ後に右へと走り出した俺の後を追って走り出す。
フェイントをかけられた事で緑のソレは怒り、ギャギャギャと喚き、涎を撒き散らしながら俺を追いかけて来るが、そんな事には構わずに俺は必死で逃げ回る。
追われている俺は、今の状況を瞬時に悟る。
─捕まったら食われる
─そして俺は確実に死ぬ
と……
ハァハァと激しく荒れる息、一歩一歩足を動かす度に筋肉へと溜まる乳酸、全速力で走り、自身の顔を、頬を撫でる風が、これは夢ではない、これは現実であると言う事をまざまざと伝えて来る。
俺の体型は痩せ型と言っても良いだろう。
ご飯を食べる暇さえも無いくらいに、馬車馬の様に扱われているブラック企業のせいでか、おかげかなのかは分からないが、ソレと言った無駄な脂肪はない方だ。
だが、走り続けるには限度がある。
果たして俺の肺は、体力は、筋力はこのペースで走り続ければどうなる?
そんなのは誰がどう考えても分かり切っている事だ。
俺の肺は酸素を求める様にバクバクと波打ち、ソレに伴い体力を激しく消費し、筋肉はだんだんと硬直していく。
結果、走る速度が落ちていくのだ。
キリキリと悲鳴を上げる俺の身体は、無理だ、休ませろと限界を訴えてくるが、俺の直感がそれを許さない。
身体が訴えて来る全ての要求は、俺の直感によって尽くキャンセルさせられる。
何故かって?
走るのをやめたら死ぬからに決まっている。
チラチラと背後に見える緑のソレも、俺と同じ様にゼェゼェと息を上げている。
こうなれば、どちらが先に脚を止めるかの勝負である。
急に立ち止まって不意打ちでの蹴りの一つでもくれてやりたいが、足を止めてアレに捕まるのも得策ではない。
あまり知性がある様には見えないが、俺を欺くための演技かもしれない。
スーツを脱ぎ、アレへと向かって投げつけて、走る距離を稼ぐと言う事も考えたが、もし捕まってシャツだけの薄着だった場合を考えると、スーツは手元にあった方が何かと自衛に使えるだろう。
革靴で走っている為、走る為の踏み込みが緩くなり、スニーカーを履いて走る以上の筋力が使われる。
足への負担がハンパない。
脹脛がパンパンだ。
稼働域が狭いピッタリとしたスラックスも走りづらさへと拍車をかけている。
今の俺の格好は、全力で走る為の格好ではない。
それを分かっていても、俺は走り続けるしかない。
何故かって?
走るのをやめたら死ぬからに決まっている。
もう、どれくらい緑のアレから逃げながら走っているだろうか。
同じ箇所をグルグルと走り続け、時間も距離も全く分からない。
今まで生きていて、こんなに必死になって全力で走ったのは初めてだろう。
今まで生きていて、こんなに必死になって長時間走ったのも初めてだろう。
そんな中でも俺の視界の先には選択を迫る意味の分からないホログラムが出現し続けている。
こんな意味の分からない選択なんてさっさと消えて無くなって欲しい。
こんな状況でまともな選択なんてできる訳がない。
って言うか、流石にこれだけ長く全力で走っていれば、俺の体力は限界を迎える。
それは俺の背後を走っているアレも同じなのだろう。
緑のアレも、ゼヒゼヒと呼吸をするのもままならなくなり始めている。
アレに肺があるのかは分からないが、腹を抑え始めてすらいる。
今こそがアレに攻撃するチャンスなのではなかろうか?
どうする?
やるか?
でも……
と、俺は息が切れかけ、大量の酸素を求め続ける脳で選択を迫られる。
そもそも、アレに攻撃をすると言う思考は正常なのだろうか?
アレの腕力が強かった場合、いくら息が荒れて苦しんでいるとは言え、俺の攻撃は通じるのか?
今の俺の状態で、身体はちゃんと正常に動くのか?
疑問が多く浮かび上がり、だんだんと負の思考が渦を巻いて曖昧になっていく。
全力で長時間走り続けた為に俺はランナーズハイの状態になり、負の思考や感情が全てアッパー気味に変換され、だんだんとテンションが上がっていく。
もう今だろ?
今ならアレをヤレるだろ?
ヤレなくても、アレもどうせ動けないだろ?
何を考えてもポジティブになってしまい、俺はついに腹をくくる。
俺は前へと踏み出す2の足を止めてその場で力強く踏ん張る。
そして、ゼェゼェ言いながら未だに俺を追い続け、俺の背後から走って来る緑のアレへと向かって、真正面から飛び蹴りを喰らわせる。
「だっっっっっっっりゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
緑のソレは走り続けたせいで体力の限界だったのか、俺の飛び蹴りを躱す事なく、真面に顔面へと俺の革靴の底が綺麗に着弾する。
「ゲャヒィ!?」
俺が蹴りを喰らわせた緑のソレは、実際に蹴ってみて分かったのだが、小さな見た目と同じく意外と軽かった。
そして、走りながら向かって来る緑のソレの勢いと、俺の蹴りの勢いが相まったのか、緑のソレは逆上がりの要領で、俺に蹴られた頭部を軸にして滑る様に下半身を持ち上げ、そのまま後頭部から地面へと落ちた。
走り続けて限界な俺は、飛び蹴りの着地もままならずにそのままドチャっと地面へと無様に落ちる。
そのまま身体を動かさずに休め、肺へと大量の酸素を取り込もうとする身体の要求を気合で突っぱねる。
呼吸もままならない俺は、必死になってその場から起き上がり、緑のソレから距離を取る様にフラつく脚を無理矢理動かす。
ゼェゼェゼェゼェ…………
脚を止めた事で、俺の肺が大急ぎで酸素を取り込み出している。
血中へと大量の酸素が入っていくのを感じ、俺の脳や身体がボーッとし始めた。
そんな中、俺が蹴りを入れた緑のソレを確かめる様に確認すると、緑のソレはグルンと白目を剥きながら口から泡を吹いて舌を出している。
しかも、無造作に四肢を投げだし、だらしない無様な格好でビクんビクんと痙攣しながら倒れていた。
そんな緑のソレを見た俺の脳には、”トドメをさせ!”と言う思考で埋め尽くされ、俺は武器になる様な何かを探す為にキョロキョロと素早く辺りを見回すが、これと言ったものが何もない。
自然と出た舌打ちと同時に「クソ」っと内心で悪態を吐き、とりあえず硬い物で殴ると言う考えの下、俺はスーツの内ポケットから震える手でスマホを取り出す。
昨今のスマホは、銃弾から身を守ったと言う様なニュースもあるほどなかなかに硬く、俺は手にしているスマホの角を立てる様に逆手で持ち、泡を吹いて倒れている緑のソレの顔面へと力一杯振り下ろした。
ガっ!
振り下ろしたスマホの角は、綺麗に緑のソレの鼻へと直撃し、緑のソレの身体が一際大きくビクンと跳ねた。
俺のスマホパンチを食らった緑のソレの鼻からは、青い血の様な物がドクドクと溢れ出ており、ソレを合図に、俺は無心になってスマホの角で緑のソレの顔面を何度も何度も殴打する。
殴打した当初に感じていた硬い骨の感触は、ある時を境にすっかりなくなっており、緑のソレの顔面はみるも無惨にグチャグチャになっていた。
俺の顔や手、着ているスーツは激しく飛び散った緑のソレの青い液体で塗れており、俺は息を荒くしながら地面へと両膝を立てて座っていた状態から臀部を地面へとつけて座り込んだ。
フゥゥフゥゥフゥゥフゥゥ…………
アレだけ何度も何度も緑のアレの顔面へと強く叩きつけた俺のスマホは、体液が着いてグチャグチャになっているにも関わらず、画面が割れたりフレームが変形したりと言うことは全くなく、購入した当初と同じ様に綺麗に原型を留めていた。
「ハァハァハァハァ……スマホ……最強かよ……」
地面へと転がる手放したスマホを見ながら、俺はスマホの頑丈さに驚く。
「と、とりあえず、なんとか、生きてるな、俺………」
乱れた呼吸を整えながら自身の生を深々と感じていると、壁へと穴が現れているのが目についた。
「クソっ……次に行けって事かよ……」
開いている穴を呪う様に睨み付けるが、極度の緊張のなか長時間走り続けたせいで、身体中の筋肉はパンパンになっており、今すぐ立ち上がって歩く事は厳しいと感じるも、いつまであの穴が開いているのか、直ぐに閉じてしまうのではないかと言う恐怖の方が勝り、俺は横に落ちているスマホを拾ってフラフラと立ち上がる。
瞬間、先ほど頭の中へと聞こえて来た声とは違った声が聞こえた。
─”プライベートシステム” 1stステージ ノ クリア ガ 確認 サレマシタ─
「はぇ?」
いきなり聞こえた声に対し、フラフラで疲れ切った俺の口から無意識に変な声が出てしまった。
─1stステージ ノ クリアニヨリ ”上代 与一” ノ 階位 ガ 1 上ガリ マス─
そして、いきなり聞こえて来た声が消えると、俺は酷い目眩に襲われた。