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雑木林の宮さん  作者: 佐奈田
2/2

雑木林の宮さん・2

 大島や石井がここから離れておよそ一時間が経過した。滴る汗を拭いながら参道周りの草を刈り終え、一休みに場所を借りようと手水舎近くに腰掛けて休んでいた時だ。


「わっ」


 突然ザッと強い風に吹かれて目を瞑り、風が止んだのを見計らって静かに目を開ける。すると周囲の様子がそれまでとはまるで違っていて、その事態に驚いて視線を走らせた。


 荒れ放題だった雑木林はきちんと手入れされた鎮守林として周囲にあり、たった今雑草を刈ったばかりの参道は鳥居から社の周りまで綺麗に砂利が敷き詰められ、すっかり枯れていた手水鉢も透明な水で溢れている。そして真っ黒に焦げて崩れていた社は恐らく元の姿のまま静かにそこにあり、長い年月で多少傷んだこの社殿がカミサマとこの地の人々を長く繋いで来たのが判る。

 木に囲まれたこの場所は凛と澄んだ空気で満ちていて、突っ立っているだけで噎せ返りそうな程のエネルギーを感じられる。詳しい事は何も判らなくても、きっとこういう場所にこそカミサマというモノがいるのだと樹は思った。


 と。社の前に石の台座に乗った狐が一匹、参道を通る物を見張るようにピンと背筋を伸ばして座っているのが見える。狛犬ならぬ狛狐といった所だろうか。さっきの社の前に狐なんていたっけ……? と疑問に思ってその狐を眺めていると、石で出来ている筈の耳がぴょこんと動いたような気がした。


『さてはお前のイタズラか』


 自分ではそう発したのに、やけに口が固くて開けられず、言葉にはならなかった。それでも樹の言いたい事は狐に伝わった気がして、石で出来た体に近付いて直に撫でてやった。

 何処かから来る清らかな風に身体中が吹かれ、ひんやりした石製の狐を撫でながらその奥の社を見る。そこに立つ社は古臭さだけでなく深い威厳も一緒に振り撒いており、ここにいるだけで自然と背筋がピンと伸びるようである。これだけ人々に大切にされて来た社が将来あんな風に焼け焦げて朽ちてしまった姿を思い返すのは実に忍びなく、思い描くだけで胸が詰まった。






「おう、起きろ」と、近くから樹の顔を覗き込んだ石井が言った。その側にはスーパーの買い物袋を下げた大島もしゃがみ込んでいて、顔を上げた樹を見てホッとした表情を浮かべているのが見える。

「動けるか」と問われて頷き、腕を引かれながら周囲を見ると樹は手水舎の傍にしゃがみ込んでおり、その周りには来た時と同じ朽ちた社と雑木林があるだけ。社の周囲には変わらず清らかな空気が流れている気がするけれど、手水鉢から溢れる程の透明な水も、全身が洗われるような空気感もありはしなかった。


 ……そうか。もうここにカミサマはいないのか。


 そんな事が腑に落ちた途端に胸の奥がやけに苦しく思え、重苦しい感情が腹の底に積もって行くのを感じる。やり場の無いその感情がただ溜まって行くのはひどく不快で落ち着かず、思わず動き出そうとした樹を前に、心配そうな顔をした大島が「これ噛んで、あとこれも飲みなさい」と言って塩分補給タブレットとお茶を押し付けて来た。


「こんな暑い中で作業したら具合が悪くなって当然だ」

「ああ、すみません。ありがとうございます」

「全く、こんな作業を一人でやらせるなんて信じられない! とんでもない上司だな!」

「フン、生憎と繊細なモンでね」

「そんな性格で何処が繊細なんだ! 踏んづけたって死ななそうな顔して!」

「まあまあ大島さん。この人、こう見えて実際体が弱いモンですから、ホントに勘弁して下さい」

「……えっ、ホントにそうなのか……」

「ええ。なまじ口が悪いだけに、敵を作りすぎてそうは見られないってのは残念な所ですよねえ」

「うるせえ」


 石井と大島のやり取りを遮って樹がそう言うと、大島の方が驚いた様子で石井の方を見、見られた石井が面倒くさそうに明後日の方を向いてしまう。確かに石井のこの調子だとどっからどう見ても健康そのものだし、勤勉ではない性格が周囲に知れればその反応も仕方がないと樹も思う。

 しかし、樹にとっては彼との一番最初の出会いがそもそもぶっ倒れていた現場であり、初めての関わりは救急搬送の際の同乗と処置室での付添である。そこから単なる偶然や色んな意図が絡み合ってこういう付き合いになっている石井という男は、周りが思った以上に厄介な背景と体質を抱えて生きているのだった。


 ほんの少しだけ黙っていた石井は樹の方に目を向け、「それはそうとお前、畜生にまで同調しやがったのか。このお人好しが」と呆れたように口にして大島にスーパーの袋を寄越すように言う。言われるまま袋を手渡した大島には「まあ予想外の結果にはなったが、今回の仕事はこれで終わったようだ」と告げて樹の腕を引っ掴み、「行くぞ」と言って参道の外へ向かって歩き出した。


「ちょっ、おい! 待て、終わりってどういう事だ!」

「終わりったら終わりなんだよ。お前らに悪戯してた元凶は多分、今はコイツの中だ。離れない内にでかい神社にでも置いて来るからお前、代わりにあの草刈機を持ち主に返してとけ」

「はああっ? そんなんでホントに大丈夫なのかっ?」

「多分な」

「多分じゃねえよ! っていうかアレ誰の草刈機だよっ?」

「あの、あそこの青い屋根の家です、トタン屋根で西側に薪が積んである……」

「お、おお、それは判った。まあ、何だ……、取り敢えずお大事になあ?」

「ありがとうございます」


 困惑しきりといった大島をその場に残し、樹は石井と共にその社を後にする。

 腕を引かれながら遠ざかる社とそれを囲む雑木林から目を離す事が出来ず、そこから距離が出来る程に腹の奥が奇妙な程ざわついて行くのを感じる。そんな風に感じるのがどうしてかは判らないが、体の奥に溜まった淀みは兎に角あの場所に未練があるようなのだ。引かれる腕を幾度か振り払いたい衝動に駆られ、それと同時に『もう行ってはならない』という苦い思いも湧き上がる。一つの体に相反する衝動と感情が渦巻くのは想像以上に息苦しい物で、それが長引く程に胸の奥が引き裂かれそうな程痛む。

 仕舞いには目の端まで滲んで何も見えなくなってしまい、痛みに疼く体をただ引き摺られて歩いた。


 樹のおかしな様子には恐らく気付いていながら、石井は何も言わずに助手席のドアを開けて樹を押し込む。助手席のドアが閉まって運転席のドアが開くまでに目元に滲んだ物を拳で握って鼻を啜るが、たった一度そんな事をした程度で収まる筈もなく。運転席に座った石井がエンジンを掛けてシートベルトを締め終えても滲む涙は止まらず、拭えば拭う程滴る数も増えて行く。俯き加減で目元を押さえ続ける樹の体には石井が無理やりシートベルトを締め、無言のまま何処かへ車を走らせた。



 石井は何かがある現場や関係者に触れる事で、フラッシュバックのように鍵になる光景を見る事が出来る人間だ。その力を利用して同業者に敬遠されるような面倒な依頼を受け、多少金額を吹っ掛けて稼ぐのが彼の仕事である。

 彼に対して樹はというと、昔から身の回りで不可思議な何かがあると夢として関連する出来事を見る事が多かった。特に対象にとって最も印象の深い光景や出来事を見る機会が多いが、石井のように第三者の視点ではなく当事者として見る事が多い為、彼に比べると精神的な負担が大きかったりする。

 この日見た白昼夢はあの『宮さん』の本来の姿で、恐らくあの狛狐にとって一番幸せで誇らしかった頃の記憶なのだろう。カミサマの眷属として立派にあそこを守っていた狐が今の状況を見たらどう感じるかなんて歴然としていて、あの時樹が抱いた物悲しさが呼び水となり、狐と、狐の抱いた悲しみまでもが流れ込んで来てしまったのだ。







「はー……、何かめっちゃ疲れました……」

「奇遇だな。俺もだ」

「……半分位俺のせいです?」

「…………」


 比較的大きめな稲荷神社で厄祓いをして貰った帰りの車内で、グッタリとシートに沈み込んだ樹同様、石井の方も疲れた様子でハンドルを握っている。最寄りのインターチェンジの看板が見える頃には外はすっかり暗くなり、高速を下りて街の中へ向かうと対向車のヘッドライトや街頭の明かりが時折車内を照らして遠ざかって行く。

「今更ですけど運転代わりましょうか」と言いながら石井の方を見ると、彼は面倒くさそうに「いい」とだけ応えてウィンカーを出し、交差点の右折レーンに侵入していく。もう少し走れば石井の事務所件自宅に到着するから、そこから解散して自分の車に乗り換えて、スーパーかコンビニで何か買い足して自宅に戻るのか。

 ……考えただけでダルいわ。


「……石井さん、またソファ借りても良いっすか。こっから帰るのダルいっす」

「好きにしろ」

「どうも……」


 今となってはそんな素っ気ない物言いに心を動かされる事も無くなってしまったのだから、慣れという物は恐ろしい。

 樹以上に疲れた様子の石井には先に家屋に入って貰い、車庫に車を入れてシャッターと鍵を閉める。それから無駄に長い階段を玄関先まで上って事務所に入ると、夜だというのに淹れたての熱いコーヒーを差し出された。


「俺は先に仮眠取るから適当にやれ。トイレは判るな、反対側のそっちが風呂と洗面所、汗臭いからその服は洗濯して脱衣所のジャージでも着てろ。食い物も冷蔵庫の中開けて好きなの食っとけ」

「うっす。どうもっす」


 多少明かりのある場所で石井を見ると、彼の顔色が思ったより悪い事に気が付く。流石に草刈りまではしなかったが、考えてみれば彼も炎天下で待機したり樹の拾った物を落としに予定外の場所へ連れ回したりと散々な一日だった。この時期はただでさえ体に負担がかかるのに、こういう案件で余計な体力を使ったりあちこち出掛けたりしていたら、そりゃあ具合も悪くなろうという物だ。


「石井さん」

「何だ」

「寝る前に薬飲んどいて下さいね。途中起きられないかも知れないし」

「……うるせえ」


 見るからにダルそうではあるが、不貞腐れたような声音を残し、石井は冷蔵庫からペットボトルのお茶だけを出してさっさと自分の私室に引っ込んでしまう。それを見送った樹は彼に言われた通り汗を流すべく、普段は立ち入らない浴室の方へ足を向けた。


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