ミステリー・トレイン
ミステリー・トレイン
男が一人ずつ、部屋に入ってきては、私達を眺め回した。それは、かなり不安で屈辱的な気分だった。
『橋本のヤツ、覚えているがいい。』と私は思った。
何で、座席でジッとしていなかったのだろう。
橋本なんかの口車に乗って、こんな所に来るなんて。
「どう?」と一人の男が、私の前に立った。
悪くはなかったが、胸がときめくというほどでもない。私は、一瞬、迷った。
「いいわ。」と私は答えた。
男は、私の手を取った。
私は、自分の手の細胞が、男の手の細胞とピタリとくっつくことに、驚いていた。そんなことは、今までの人生にないことだった。
「どこに行くの?」と私はたずねた。
いけない。声がうわずっている。
「さあね。」と男は冷静だった。
私は、不安だった。橋本からは、それ以後のことは何も聞いていない。
列車の揺れる度に、私の身体と男の身体が触れ合う。その時にも、身体細胞自体が、細い触手を延ばして男の身体に触れているような感じがした。
それは、男の方も同じだったのかもしれない。
私達は、触れ合ったり離れたりしていた。
「下に何を着ているの?」と男が無遠慮にたずねた。
「何も・・」
だめ。どうしても、声がうわずってしまう。
男は立ち止まり、私を見た。私は、目をそむけた。
何て失礼な男なんだろう。
私達は、狭い箱のような部屋に入った。まるで寝るためだけにあるような部屋。
「こんなところで・・・鍵を・・・」と私は焦った。
「誰も来ないさ。」
男が、首筋に唇をつけた時、私は声をあげそうになった。何をこんなに興奮しているのだろうか。
「本当に何も着ていない。」と男が呟いた。
「何て女だ。」
男が私を抱くと、私はわけがわからなくなった。
自分と男との境界が、一切消えてしまい、私はアメーバみたいに、男に貼りついていた。
「いつも、こんななのか?」と男がたずねている。
「わからない。」と答えようとしたが、声が出てこなかった。
「オレを殺す気か。」と男が言った。
「何て女だ。」
「待って。」と私は部屋を出て行こうとする男に言った。コイツは、私の身体の一部を持っていっ
てしまうつもりなのだった。
「まだ、何か用か?」
男の声は、平静だった。
私は、ことばにするのを、しばらくためらっていた。どう言えば、ことばが通じるのだろうか。
「お金を払うわ。」と私は言った。
私の知っている唯一のことばだ。
男の目が、燃えるように光った。
「もう、もらってるよ。」と男は吐き捨てるように言った。
「待って。」とまた私は言った。
「待てねえよ。」
「それでも待って。」
「オレは、こんなクソ列車からは飛び下りてやる。こんなもんに乗るんじゃなかった。」
「待って。私も飛び下りるから。私だって、こんなものに乗るんじゃなかったわ。」
男は、私の足を見た。
「そのまま飛び下りたら、足を折る。靴をはけよ。」
男は、私の身体を見た。
「いつも、何も下に着ないのか?」
「そうよ。」
男の目を見返したつもりだったが、これは、嘘だった。
「いつでもできるようにか。」
私は、顔をそむけた。
「あばずれな女め。」
「私は、あばずれじゃないわ。待ってよ。」
「何で、そんなにオレに構うんだ。」と男は、腹を立てていた。そして、何かを思いついたような
顔をした。
「そんなによかったのか。」
「そうよ。」と私は思わず言ってしまった。
男は、初めて、ニヤリと笑った。
「自分が何を叫んでいたか、知ってるのか?」
「・・・知らないわ。」
「・・・だとか、・・・だとか、・・・だとか・・・」
「嘘よ!」
「嘘だよ。でも、身体がしゃべってたのは、本当だ。オレは、もう沢山だ。もう少しで殺されると
ころだった。」
「待ってよ、私も行くわ。」
「いい加減にしてくれよ! オレには、オレの仕事があるんだ。」
「いやよ。どうしても付いていくわ。」
「飛び下りられるもんなら、飛び下りてみな。」
私と男は、箱みたいな部屋の窓から外を眺めた。
暗い夜しか見えなかった。
「窓が開かないわ。」
「そんなものは、こうやって開けるんだ。」
男は、靴のかかとで窓を蹴破った。
ガラスの破片が周囲に飛び散る。
私は、「あっ!」と叫び、ゴオオという風の音が、窓の外から聞こえてくるのを聞いていた。
その音は、どこか遠い世界に、私と男とを連れ去ろうとしているようだった。
「危ない。怪我をするわ。」
でも、私は、男が窓から身を乗り出して、暗い夜の闇に落ちていくのを、ワクワクしながら見送っ
ていた。
私は、ハイヒールを脱いで、窓わくに残っているガラスを、カンカンと落とした。
ガタンガタンという音をたてて、列車は止まろうとしているようだった。
私が、やっとの思いで窓から外に降り立った時、列車は完全に止まっており、列車に背中を向けた
私の目の前には、大きな黒い物体があった。
「どこに行かれるのですか、奥様。」
橋本だった。
「散歩よ。」
「では、お供しましょう。」
男の姿は、もうどこにも見えなかった。
私は、橋本にエスコートされて、しばらく歩き回った後、また、列車に戻った。
もちろん、今度は、私と橋本のために、列車のドアが開いた。
沢山の目が、窓から私達を見ていた。
私と橋本は、また、元の座席に戻った。
「お休みになりますか?」と橋本がたずねた。
「それとも、別の部屋を訪ねてみられますか?」
「寝るわ。」と私は言った。
「では、コンパートメントの方に、ご案内します。」
「ねえ、橋本。」
「はい。」
「いえ。いいわ。何でもない。」
一人になって、男のことを考えてみた。
変な男。橋本は、こんな列車のことを、どこで知ったのだろう。
あの男は、どうやって、この列車に乗ったのだろう。
この列車は、どこから来て、どこに行くのだろう。同じ場所をグルグルと回っているのだろ
うか。
列車の中を探検してやろう、橋本に見つからないように。もっともっと色々なものがありそうだ
・・・・・と思っているうちに、私は眠ってしまった。
「いつも何も下に着ないのか。」
「そうよ。」
「いつでもできるようにか。」
「そうよ。」
「何てあばずれな女だ。」
全身にびっしょりと汗をかいて、目が覚めた。
身体の節々が痛かった。あの男のせいだ。
『何て男よ。私の夢まで占領して、大きな顔をして、私を押さえつけた。』
服を着て、もちろんきちんと下着も身につけて、コンパートメントの外に出ると、橋本が待っ
ていた。全然寝ていないような充血した目をしている。
列車の中では、清掃が行われていた。
乗客の姿はもう見えない。
「お車が待っています。」と橋本が言った。
「ここは、どこなの?」
「お乗りになった場所です。」
「返事になってないわ。」と言いたかったが、面倒なので言わなかった。
周囲が明るいから、お昼に近い時刻なのかもしれない。でも、外に出ても、空も太陽も見えなかった。人工的な照明なのかもしれない。
駅の名前を読みとろうとしたけれど、どこにも駅名の表示はなかった。
明るい駅の構内から車に乗り込み、外に出てみると、辺りは暗かった。
何となくだまされたような気がする。
ウトウトしていると、車外の風景が見慣れたものに変わった。
「もうすぐ、お屋敷に着きます。」
「わかってるわ。」と私は、うるさそうに答えた。
他に帰る場所もないのに、私はいつも、別の場所に帰る自分を夢想しては、期待を裏切られるのだった。
「由子。淋しかったわ。」
真美が、私を出迎えた。大袈裟に、私に抱きついてくる。
「何言ってるの。ただの一晩じゃないの。」
私は、いつものように、真美の身体を振り払う。私は、相手が誰であれ、身体に触れられるのは、好きではないのだった。
「一晩じゃないわ。」
「一晩じゃない?」
「何日だったか忘れたけれど、少なくとも一晩じゃない。」
「幾晩でもいいわ。」と私は、投げやりに言った。
「由子。私、拾いものをしちゃった。」
「拾いもの? 何よ、それは。」
「お・と・こ。」
「・・・そんなもの、どこで拾ったのよ。」
「山で。おかしいのよ。山に男が落ちていたの。転がってた、と言ったほうがいいわね。」
「まさか。」
「おじさまも、おかしいと言ってたわ。山に人が落ちているわけはない、って。」
「どこにいるの? その男。」
「納屋に転がしてあるわ。だって、どうしていいか、わかんなかったんだもん。」
「死んでるの?」
「わかんない。」
「もう、真美は! 橋本、橋本!」と私は、橋本を呼んだ。
「はい、奥様。」
橋本は、いつも、どこからともなく現れた。
「真美の拾った男を見に行くから着いてきて。」
「私が見て参ります。」
「一緒に行くわ。」
橋本には医学の心得があるらしかったが、私には何もなかった。
納屋の中は、真っ暗だった。
「電気はないの?」
「ここは使ってないところなので。」
「真美はどうやって、こんなところまで、男を運んできたのかしら。」
「山なら、康夫と一緒でしょう。真美様は、車の運転ができませんから。」
「それにしても、こんなところに、人を・・・」
暗闇の中から、誰かが私をにらんでいるのがわかった。
「また、お前か。クソッ。」
どうやら、その聞き覚えのある声は、列車で出会った男のようだった。
「どうして、こんなところにいるの?」と私は、本当に驚いて叫んだ。
「こっちが言いたい台詞だ。何でも、お前の思う通りになると思ったら、間違いだからな。」
橋本が、男のそばに寄って、身体を調べているようだった。
「痛い!何するんだ。オレを殺すつもりか。」
『オレを殺すつもりか。』
男の口癖なんだ、と思って、私は微笑んだ。
「これは、動けませんね。」と橋本が言った。
「手と足の骨が折れている。私の手には負えません。とにかく、もっと明るい場所に運びましょう。」
「私も手伝うわ。」と私は言った。もう一度、男の身体に触れたかった。
「触るな。」と私の気持ちを見透かしたように、男が言った。
「この役病神。」
「奥様に何を言うか。」と橋本が、男の足を蹴った。
「何をする! 元の場所に戻せ! オレをほっておいてくれ。」
男は、わめきながら、橋本の大きな肩にかつがれていった。
「私の部屋に連れていって。」と私は言った。
「奥様の部屋に?」
「下の部屋でいい。」
橋本は、眉をひそめながらも、私の言う通りにした。
「私の獲物。」と私は、二人きりになると、男に言った。
男は、憎まれ口もきけないぐらい弱っているようだった。私のベッドの上に、ボロ布のよう
に横たわり、目だけで、私をにらんだ。
「心配しなくても、橋本が、お医者さんを呼んでくるわ。また、会えるなんて思わなかった。
本当に馬鹿だわ、走っている列車から飛び降りるなんて。」
私は、なぜだかわからない気分で、おなかの底から笑っていた。
「どうせ、馬鹿だよ。何が『奥様』だ、笑わせるぜ。」と男は弱々しい声で言った。そして、笑った拍子に、男はうめいた。
「痛いの?」
「そばに近づいたら、殺すぞ。」
「大丈夫よ、何もしないから。」
「クソッ。オレは、犬じゃないぞ。」
「誰が、そんなことを言ったの?」
「これじゃあ、鎖につながれた犬じゃないか。」
私の喜びは失われつつあった。
いつもと同じだ。
「そうね。馬鹿馬鹿しい。私は、もう来ないわ。後は、橋本にまかすから、怪我が治ったら、ど
こにでも行けばいいわ。」と私は、なげやりに言った。
「どこに行くつもりだ?」
私は、自分の部屋から出て行こうとしていた。
こんな男のために。
「私の勝手だわ。」
「あの大男は、好きじゃない。オレの痛い方の足を蹴った。」
「じゃあ、康夫か、真美にまかすわ。」
「あいつらは、大嫌いだ。ほっておいてくれ、と言うのに、オレを無視した。」
「嫌いなものが、随分多いのね。」
私と一緒だわ、と私は思った。
「時々、私がのぞきに来るわ。」
男が悪態をつかなかったので、私は笑った。
「何がおかしい。」
「私のことは、この世で一番嫌いだと思っていたわ。」
「自惚れるな。」
「自惚れてなんかいないわ。」
「自分で美人だと思ってる。」
「思ってないわ。」
「オレと寝たい、と思ってる。」
私は、しばらく、男の顔を見ていた。そうかもしれない、と私は思った。
「そうね。」と私は言った。
「当分、無理だ。」
男の全身から、力が抜けた。
「手に触ってもいい?」と私はたずねた。
男は、黙っていた。
私は、ベッドサイドにひざまずいて、男の手に触れた。同じ感覚が蘇る。男は私を拒んでい
るのに、男の手の細胞は、私を求めていた。私の手の細胞も、男を求めている。
「傷だらけね。」
「綺麗な手が汚れるぜ。」と男は、顔を歪めた。
「大きな手。食べてしまいたい。」
私は、男の手に、自分の口を近づけた。
「よせ、これ以上、怪我させないでくれ。」と男はうめいた。
ノックの音が聞こえた。
「川上先生です。」と橋本が言った。
私は、部屋を出た。
「ねえ、由子。」と真美が擦り寄ってきた。
「あの男、由子の知り合いなの?」
「まあね。」
擦り寄ってくる真美の身体を押し退けながら、私は答えた。
「あの男と寝たの?」
「そうよ。」
「どうだった?」
「よかったわ。」
「フーン。」と真美は、しばらく、考えるような目をした。
「なぜ、由子の男が、山に落ちていたの?」
「私の方が知りたいわ。」
「おじさまに話したら、きっと喜ぶわ。」と真美は、クフフフ、と笑った。
「話さないわ。」
「私が話す。もちろん、由子がイヤなら話さないけど。」
「どっちでもいいわ。」
「じゃあ、話してもいいのね。」
「変な子ね。」
「でも、康夫が、おじさまの部屋から出てきてから。」
私は、眉をひそめた。
「あなたは、康夫が好きじゃなかったの?」
「そうよ。」と真美は、ケロリとして答えた。
「彼の骨はステキよ。私は見ているだけでいいの。由子の骨も、おじさまの骨もステキだわ。
あの男の骨は、折れていたから、よくわからないわ。でも、あまり上等の骨ではないわ。」
「私は、骨には興味がないのよ。」と私は、ウンザリしながら言った。
「私は、おじさまと一緒に、由子のレントゲン写真を見るのが好きだわ。おじさまは、興奮し
ている私を見るのが好きだと言うわ。ねえ、どうして、由子は、おじさまとは寝ないの?」
「あなたには、関係ないことよ。」
「おじさまが、他の人達と寝るから?でも、それだったら、由子も同じだわ。」
「子供が口出すことじゃないわ。」
「もう子供じゃないわ。」と真美は、唇をとがらした。
「そういうところが、子供だというのよ。何でも知りたがったり、何にでも首をつっこんだり。」
「だって、知らないことのほうが多いんだもん。
ね、また、あの男と寝るの?」
私は、真美を無視した。丁度、川上医師が、私の部屋から出てきたところだった。
「いかがですか、先生?」と私は、仕方無くたずねた。男を誰の手にも渡したくなかったが、この
医者には、それを決める権限がありそうだった。
「複雑骨折はしていないけれど、早く手術して、骨を固定した方がいい。入院の手続きをしておく
から、連れてきなさい。一体、どこであんな怪我をしたんだね? 本人は、言いたくないようだっ
たが。」
「山に倒れているのを、真美が見つけたらしいんです。」
「身元はわかってるのかね。何だったら、警察に届けたほうが・・・」
「ええ。夫の知り合いだったんです。偶然ですが。」と私は、嘘をついた。
「ああ、それなら、身元は確かだろう。じゃ、手続きだけしておくからね。」
ああ、最悪の事態になってしまった。
私は、男のいる私の部屋に入った。
男は、うめいていた。
「バカ医者め!」と男は叫んだ。
「病院に入院しなきゃいけないらしいわ。」と私は冷静に言った。
「手と足の骨が折れているのよ。」
「早く殺せ。」と男はわめいた。
「怪我が治ってからね。」
「・・・バカヤロウ!今、殺せ。」
私は、男に取り合わなかった。私の落胆は、男の怒りより激しかった。
「殺せ!今殺せ。」
「いいわよ。」と私は冷静に言った。
私は、遠慮しなかった。男の手を取ると、その指を口にくわえた。
男は、声にならない悲鳴をあげた。
私は、一本一本、男の指を口の中に入れた。
男の指は、塩と泥の味がした。
「・・やめてくれ・・・」と男が言った。
「いいわよ。」
私は、男の指を、口から離した。
「この・・・」と男は、うめいた。
「ちゃんと怪我を治すのよ。」
男は、担架で病院に運ばれて行った。
男がいなくなると、私の部屋は、元の通り、寒々とした場所になった。
心も身体も凍えてしまいそうな場所だ。
「奥様。」とオドオドとした卑屈な表情で、康夫が私を呼んだ。多分、真美の言う通り、彼は上等
な骨を持っているのだろう。そのオドオドした卑屈な肉体の下に。
「申し訳ありませんでした。」
「何が?」と私はたずねた。
「真美様と一緒に、訳のわからない男を拾ってきてしまいました。」
「それで?」
「それで・・・」と康夫は口籠もった。
多分、本当は、夫と寝たことを謝りたいのだろう。他のほとんどの青年のように。
彼らは、最初、真美のために、この屋敷にやってくる。肉体と精神のアンバランスな真美のため
に。恐らくは、純粋な愛情から、また恐らくは、打算から、また恐らくは、好奇心から。
私は、真美を憎んでいるのだ、と思っていた。
しかし、夫の姪だという少女を、私は拒むことができずにいた。
それは、私の人生と、とてもよく似ていた。どこへともなく、楽な方へ楽な方へと流されていく人生と、本当に、よく似ていた。
「由子。彼、行っちゃったの?」と真美が無邪気にたずねた。
「そうよ。」
「どこへ?」
「病院よ。」
「何で?」
「怪我を治しに行ったのよ。」
「フーン。」と真美は、一応納得する。
「どうして、病院に行ったの? どうして、ここじゃ駄目なの?」
「ここでは、手術ができないからよ。」
「何の手術?」
「骨の・・・」
真美の瞳が輝いた。
「骨を削るの?」
「そうじゃないの。折れた骨をくっつけるのよ。」
「なーんだ。」とハッキリわけのわからないまま、真美は言う。
「骨を美しくするんじゃないんだ。」
「私は、骨には、興味がないのよ。」と私は、悲しい気持ちで訴える。
私は、夫やあなたみたいに、骨格の形成になんか、何の興味もないんだから。
「由子は、そんなに美しい骨を持っているのに、何をそんなに悲しそうな顔をするの? 私の骨が、
由子みたいだったら、どんなによかっただろうって、私はいつも思っているのに。」
「私は、骨じゃないわ。」と私は言った。
私は、肉体よ。本当に、切れば血の出る生身の肉体よ、と私は心の中で訴えていた。
「骨ならよかったのに。」と真美は溜め息をついた。
「私だって、何度そう思ったか、わからないわ。」
私と真美とは、永遠にことばが通じない。
「おじさまだって。」とクククと真美は笑う。
「由子の骨が、とっても好きなんだから。」
「そう?」
夫は、私の骨が好き。そんなこと、私の人生にとって、何の足しになるのだろうか。
夫は、私のレントゲン写真を見て、欲情する。
それが、私にとって、嬉しいことだろうか。
「由子は、どうして、おじさまと寝ないの?」
「あなたは?」と私は意地悪い気持ちでたずねた。
「どうして、おじさまと寝ないの?」
「寝たわ。」と真美は言った。
「寝た?」
「うん。」
「本当に?」
「うん。」
「いつ?」
「ずっと小さい時。おじさまは、私に骨の写真を見せてくれたわ。何て綺麗なんだろう、と私は感
動した。」
「それで?」
「え? それだけよ。」
「それだけ?」
「うん。それは、由子のレントゲン写真だった。
あなたの骨は完璧だって、おじさまは言ったわ。
非の打ちどころがない。
私は、あなたに嫉妬したわ。私の骨は、不完全だったから。」
「そう。」
「そうよ。だから、私は、あなたが好きなの。あなたというより、あなたの骨がね。」
「私は、あなたが好きじゃないわ。」
「そうね。」と真美は、また、唇をとがらした。
「私の骨は、不格好だから。」
「やめてよ!」と私は叫んだ。
「いつでも、骨、骨、骨って言うのは!」
「わかったわ。」と真美が言った。
「だから、あなたは、骨の貧弱な男と寝るのね。」
「そうよ。」と私は言ったが、何が『そう』なのか、わかっているわけではなかった。
「おじさまが、どんな苦労をして、あなたを手に入れた、と思っているの?」
「私じゃないわ、私じゃ。手に入れたのは、私の骨なんでしょ?」
「ま、そうね。」と真美は、屈託なく言った。
「あなたの若い頃の骨。」
私の骨が、私の内部でキシキシと鳴いた。
私は、私の骨は、もう若くはない。
「だから。」となおも、真美は言いつのった。
「若い素晴らしい骨を見れば、おじさまは夢中になるんだわ。私と一緒に。」
私の男は、一ヵ月経っても、二ヵ月経っても、帰ってはこなかった。
康夫はいなくなり、幸子という少女がやって来、彼女もいなくなり、和夫という少年が来、真美と
真美を通して語られる夫だけが狂喜し、橋本は相変わらず無表情で、私も、相変わらず、不幸だっ
た。
「奥様。」と橋本が言った。
「また、列車が出発するそうです。」
「列車?」
「以前お話しましたでしょう。何が起こるかわからない不思議の列車です。」
「ああ。あれ。」
「お乗りになりますか?」
「やめておくわ。」と私は言った。
あのお蔭で、私はそれまでよりも不幸になり、それまでよりも惨めになったことを思い出したからだった。
「私も、ご一緒します。」
「いいのよ、橋本。気を使わないで。」
「はい。」
しかし、日に日に列車のことが気になっていったのは、本当だった。列車のことだけが、頭にあっ
たと言ってもいいぐらいだ。
あの列車は、全ての元で、全ての終わりだった。
「橋本。」とついに私は言った。
前にも言ったことがあるのかもしれない。
「私は、列車に乗るわ。」
「はい。」
「乗ってみるわ。」
「はい。」
私と橋本とは、狭い座席に窮屈な姿勢で座っていた。どこが、不思議の列車なのだろうか。
これでは、一昔前の鈍行列車みたいなものではないか。
「奥様。」と列車が出発した後で、橋本が言った。
「この奥の部屋では、何か不思議なことが、毎日毎日起こるそうだといいます。」
「不思議なことって?」
「大抵の人が夢見ていて、かなえられないこと。」
「馬鹿みたい。」と私は言った。
「私は、大抵の人が夢見ていて、実際にはかなえられない生活をしているわ。」
「それは、そうです。」と橋本は黙った。
「でも、面白そうね。」と私は、黙りこんでしまった橋本の気を引き立たせるように、言ってみた。
「でも、奥様。」
私は、橋本のことばを振り切って、大勢の女のひしめいている奥の部屋にやってきたのだった。
男が、一人ずつやってきて、私達を眺め回した。
男達は、女とペアになると、どこかに消えていった。
『橋本のヤツ、覚えているがいい。』と私は思った。
「どう?」と一人の男が、私の前に立った。
悪くはなかったが、胸がときめくというほどではない。私は、一瞬、迷っていた。
「いいわ。」と、それなのに、私は、男に答えてしまっていた。
男は、まるで、以前から私を知っていたかのように、ニッコリと笑い、とまどっている私の手を
取った。
自分がこれからどこに行くのか、知っているようでもあり、全然知らないようでもある。
でも、一度だけ、ただ一度だけ行ってみる気になっていた。