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8 火曜日午前十時
待ち合わせは十一時だったが、まだ十時にもなっていなかった。
西新宿、都議会議事堂前──。
東京都庁舎に隣接する、地上七階、地下一階の先鋭的な建物だ。
昨日は結局、上原は少年の父親がだれなのかを言わなかった。風花を泊める交換条件として、ここの場所を訊き出したのだ。
「お、はやいな」
しばらく待つだろうから、どこかで時間を潰そうと考えだしたところで、上原がやって来た。
いかにも時間にルーズそうなこの男が、こんなに早く来たことに不信感を抱いた。
「どうして、こんな時間に?」
「ちゃんと娘を泊めてくれたなら、娘の通学といっしょに家を出るだろうと思ってね」
「だからといって、ここへ早く来るとはかぎらないですよね?」
「それもそうだな。そこまでは考えてなかったよ」
上原は軽やかに言った。どこまでが真実なのか、あいかわらずわからない。もしや、ずっと尾行されていたのではないか、という気持ちすら芽生えてくる。娘の身を案じているのが嘘でないとすれば、ありえない話ではない。
「で、だれなんですか?」
起源は、本題に入った。まさかこの期におよんで、また話をはぐらかしたりはしないだろう。
「察しはついてるんだろ?」
こんなところに呼び出されたのだから、想像はできる。
都議会議員のだれかということだろう。
「じき、来るだろうよ」
どんよりした雲はすでに晴れ、太陽の光が都庁舎に反射してまぶしかった。
それから二十分ほど、その輝きに照らされながら待った。上原の無駄話には、適当に相槌を打っておいた。
「あれだよ」
ようやく、問題の人物が現れたようだ。
議事堂に入っていったのは、予想外の大物だった。
「まさか」
「そのまさかだよ」
都議会議員なんて、ほとんど顔を知らない。だが、その人物だけは全国区の有名人だった。
野島謙吾。父親は現役の国会議員で、元厚生労働大臣。厚生族のドンと呼ばれる大物だ。本人も都議会議員に立候補するまえは、厚労省の官僚だった。妻も著名人で、教育評論家としてテレビ出演も多い。
「あの少年の親ってことですか?」
「そうだよ」
「でもたしか、あの小学校は公立でしたよね?」
「政治家一族が私立しか通わないってのは、偏見だな。送り迎えもしてないし、一般家庭の子と同じようにするのが教育方針なんだろう。それに公立とはいえ、名門校ではあるようだ。わざわざ、あの学校に通わせるために引っ越してきたという家庭もあるらしい」
思わぬ人物が関わってきたものだ。野島謙吾は、いずれ父親の地盤を継いで、国政に打って出ると噂されている。
「厄介だろ?」
上原は、他人事のように言った。いや、ジャーナリストにとっては、すべてが他人事なのだ。
その指摘を上原に伝えたら、意味深な笑みが返ってきた。
「議員の息子が、いじめ問題をおこしてるなんて、とんだスキャンダルだ。しかも教育評論家の婦人も世間に顔向けできなくなる」
「おれには関係ありません。いじめの問題は、こっちの領分ではないので」
「君のほうこそ、他人事のようだ」
言われて、起源は図星をつかれたことを自覚した。
「本当に、君とは無関係かな?」
謎めいたことを上原は続けた。
「なにが言いたいんですか?」
「現在の厚労大臣は、なにかと問題が多いだろ」
数々の失言、パワハラ疑惑、政治収支報告書の記載漏れ等々、国会が紛糾するほどの問題をいくつも抱えている。
「いろいろなスキャンダルが重なって、風前の灯火。いまだ更迭もされず、辞任もしないのは、次が決まっていないからだと言われている」
その噂は、起源も知っていた。
「で、いまもちあがっているのが、ドンの復活だよ」
謙吾の父──野村謙一郎。
「本当ですか?」
起源は、異論をとなえた。
野村謙一郎は次期首相を狙っているというのが、世間の一般的な見方だった。いまさら大臣の椅子に座りたがるだろうか?
「いまの首相は、人気があるからね。野村謙一郎としても、なかなか手を挙げられないのが実情だよ」
現在の内閣総理大臣は、野村謙一郎よりも十五歳若い。ルックスも女性うけするし、支持率はつねに高水準をたもっている。
「そこでもう一度、大臣に返り咲こうとしてるんだよ。この混乱のなかで、うまく省内をまとめあげれば、再び与党での発言権が上がる」
失敗すれば逆効果だが、野村謙一郎としても、総理になるための最後の賭けに出るつもりなのだろう。
「つまり、君のところの親会社の社長になるということだ。いってみれば、未来の上司ってことになる」
上原の表現には皮肉がこめられていたが、起源は気づかないふりをして聞き流した。
「厄介と言った意味がわかったろ?」
あの少年を問いただすような真似は難しくなる。あの子供を刺激すれば、都議会議員と教育評論家の両親、さらに厚生労働大臣になるかもしれない祖父が黙っていない──というわけだ。
国立感染症研究所は厚労省の施設だから、それこそ圧力が直接のしかかってくる。上原の皮肉は、そういうことだ。
「べつに、子供のおこないを糾弾したいわけじゃありません。おれの仕事は、感染源の究明ですから」
「だが、その究明には、あの少年のおこないをあばかなければならない」
上原の声は、どこか厳しさを帯びていた。
「関係ありませんよ」
「だろうね。君なら、そう言うと思った」
「……」
「君には、人間同士のしがらみなんて関係ない」
起源は、上原が自分に会ったことがあるという素振りを思い出していた。
「真相を追い求める……それしか頭にないんだよ」
しかし起源には、やはり記憶はない。起源のほうは上原を知らない。上原のほうが一方的に知っている。
「そうですよ。おれには人の都合なんて、どうでもいいことです。圧力にも屈しません」
「頼もしいね」
それまで責めているようだった雰囲気が、もとの上原にもどっていた。
「厚労省からの圧力を、君がどうやってはねのけるのか、それを見物させてもらうよ」
「どうぞ、ご自由に」
「ふふ、それと娘のことをよろしくお願いするよ」
それには眉根に皺を寄せて、不満をアピールした。
「そんな顔をしてもダメだよ。君にも無関係なことじゃないんだ」
「え?」
謎めいた言葉を残して、上原はこの場を去ろうとしていた。
「こちらの約束は果たした」
「ちょっと……」
だが上原は呼び止める声を無視して、行ってしまった。
どうやら上原親子と自分には、なにかの因縁があるようだ。そう思いをめぐらせながら、起源も議事堂をあとにした。
* * *
江藤愛莉が登校していた。
風花は、なんと声をかければいいのかわからなかったので、愛莉との接触をひかえていた。むこうから話しかけてくるのを待つ状態だ。
「ねえ、なんか言ってあげれば?」
お昼休みになってから、さすがにさちが囁きかけてきた。
「一人でいるし……かわいそうじゃん」
彼女が一人でいるのは、いつものことだ。
風花も、さち以外とはほとんどしゃべらないので、友達の少ない者同士、愛莉ともそれなりに会話をするようになった。そして、このあいだ誘われたのだ。
席に座る彼女が、風花のほうを向いた。すぐに視線がそれた。どうやら、彼女のほうも気まずい思いをしているようだ。
「ねえってば」
さちに背中を押された。
気は向かなかったが、風花は声をかけることにした。
「江藤さん……」
「上原さん……」
おたがいが、後ろめたさを感じていた。
風花は、愛莉の乱れた男関係を知ってしまい、かつ性病に感染したことも知った。さらに、さちにそのことを話してしまった。
愛莉のほうも、風花をあんな集まりに誘ったという後悔があるはずだ。あのときも、あやまっていたし。
チラッと風花は、さちのほうに眼をやるが、さちはもともと愛莉と交友はない。助け船を出すつもりはないようだ。
「大丈夫だった?」
いろいろな意味で、そう言ってみた。
「ごめんなさい……あの……」
「いいって、わたしのことは」
「あの……それで……あのことなんだけど」
「言ってないよ、だれにも」
声をひそめて、嘘を告げた。
「……嘘ですよね。川越さん、知ってますよね?」
バレていた。さちがべつのだれかにバラして、その人物から耳にしたのかと疑った。
睨んだ風花に、さちは首を何度も横に振る。距離的に会話は聞こえていないはずだから、雰囲気で察したようだ。
「ちがいます……なんとなく、彼女の様子でそうなのかな、って」
バラしたわけではないようだが、結局はさちが原因だった。とはいえ、さちよりも、そのさちに話してしまった自分のほうが悪いのだ。風花は反省した。
「ごめんなさい」
今度は、風花があやまる番だった。
「それで……病院のほうは?」
「治療をはじめてます」
「体調は、大丈夫?」
「はい。とくに自覚症状はないんです」
あのとき佐竹起源は、いくつかの症状を口にしていた。男たちの何人かは、それに該当していたようだった。
「あの、よけいなことかもしれないけどさ」
一応、そうことわりを入れてから、
「あの男たちなんだけどさ……」
言葉を続けはしたものの、さすがにお節介すぎるかもしれないと、ためらいがある。そんなことを告げるべき深い間柄ではない。
「ああいう男は、あんまり……」
そのさきは言わなかったが、それだけで伝わるだろう。
「はい……」
愛莉の返事は、心をあらためたということだろうか?
風花には、そこまでの心情はわからなかった。