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35 水曜日午前零時
局内のいたるところに制服警察官が配置されていた。さきほど刑事の一人が、犯人は遠くへ逃げている──そのように主張していたが、ちゃんと再襲撃の可能性も考慮しているようだ。
廊下を歩いていると、局内の職員も多くいる。背格好の似ている人物がいると、まさか桐谷翔が変装しているのではないか、と心臓の鼓動がはやくなる。
すぐ前を歩く風花の足取りも緊張したものになっていた。
「方法は、なんだと思う?」
チラッと振り返って、彼女が声をかけてきた。
桐谷翔が風花をどのように襲おうと、細井紗江のときよりも厄介だ。最終目的が風花にHIVを感染させることだとすると、女性から女性への感染とはちがい、正攻法が使える。
細井のように命をかけなくても、たとえば個室に連れ込んで強姦すればそれでいい。HIVの感染力が弱いといっても、出血を利用すれば確率は上がる。細井のおこなった血を浴びせることだって、相当な大博打だったのだ。
局内は部屋の数も多いから、ふとした隙に連れ込まれ、なかから鍵をかけられたらおしまいだ。いくら風花が強くても、なりふりかまわない相手には分が悪い。実際に不覚をとって、細井と桐谷に拉致されているのだ。
「どんな方法でも、あいつの好きにはさせない」
起源は、横に並んで風花と手をつないだ。
「あら、守ってくれるの?」
冗談めかして、風花は言った。心には、まだ余裕があるようだ。それとも照れ隠しなのか。
細井のような方法にしろ、正攻法にしろ、近づいてこなければならない。ならば、だれも近づけさせなければいい。
「どこから出るんですか?」
起源の問いかけに、刑事の一人が答えた。
「地下の駐車場にしたいところですが、警備の都合上、危険と判断しました」
隠れる場所が多いからだろう。出入口に車をつければ安全に地上まで出られるが、乗り込む瞬間を狙われる可能性がある。
「裏の関係者出入り口も、さけることにしました。同じようにリスクが高い」
「では、どこから?」
如月美幸が質問した。
「正面から堂々と出ることにしました」
如月美幸の表情が、釈然としていないことを物語っていた。
「それこそ危険じゃ……」
「メインエントランスは、広くても隠れる場所は限られます。それに、玄関口のすぐ前に車をつけてありますので安全です」
「警察は、遠くに逃走していると考えているんじゃなかったかしら?」
「念のためです」
如月美幸と刑事の会話を聞きながら、いくつも廊下の角を曲がって、ようやくメインエントランスに出た。
この深夜では一般の入場者はいないから、警察関係者を除けば閑散としたものだった。巨大なアニメキャラクターや、さまざまなオブジェが展示されている。しかし刑事の指摘したように、人が隠れる箇所は限られていた。
玄関扉をくぐると、すぐのところにパトランプを点灯した乗用車が二台待機していた。本来なら車を乗り入れることができない場所だ。
「乗ってください」
だが、起源の足は止まっていた。
「どうしたの?」
起源は、周囲の様子をうかがった。
たくさんのフラシュの輝きが眼を射抜く。
マスコミと野次馬。大勢の人々からの注目を浴びていた。ここだけは深夜の光景ではない。
規制線が張られているために、車からは十メートほど離れている。もしあの人だかりのなかに隠れていたとしても、安全は確保されている。
「乗らないの?」
すでに、如月美幸はもう一台のほうに乗っていた。風花に急かされても、起源の動きは鈍かった。
「本当にそうか?」
「え?」
「桐谷翔のターゲットは、キミか?」
「どうしたの? 自分で言ったんじゃん」
そのとき、よく知っている声が聞こえてきた。
「風花! キゲンさん!」
川越さちの呼びかけだ。ニュースを観て、心配して(おもしろがって)やって来たのだろう。
「さちだ」
「どこにいる?」
声の方向を見ていたはずだが、姿は確認できない。規制線の外にはかなりの人数がひしめきあっているので、この場所からはさがせない。
「さちなら、あとで会えるよ」
「……」
「どうしたっていうの?」
「桐谷翔が告白したのは、彼女だよな?」
「え? こんなときになに言ってんの?」
「やつが狙ってるのは、キミじゃない」
考えれば考えるほど、確信に変わっていく。
「彼女だ」
「さち? まさか……」
「桐谷翔が彼女にちょっかいを出したのは、キミのお母さんと細井紗江の再現をしたかったんだ」
いつまでたっても車に乗り込まない起源に業を煮やしたのか、如月美幸が車外に出ていた。
「どうしたっていうの? わたしがなに?」
「あなたと細井さんの再現です。風花さんと友達の川越さちさんで、同じことをさせようとしたんです」
起源は風花にではなく、如月美幸にそう説明した。
「どういうこと?」
「桐谷翔は、川越さんに告白しましたが、同時に川越さんに風花さんへの恋愛感情を呼び覚まそうとしました」
さすがに突拍子もないと思ったのか、如月美幸の眉間には皺ができていた。
「本心かはわかりませんが、それで川越さんは風花さんへの愛情を意識した。おそらく桐谷翔の計画は、こうです。川越さちさんに感染させて、そしてさちさんから風花さんへ感染させる」
「まさか……うまくいくわけないわ」
そのとおりだと思う。だが、桐谷翔はそう考えていない。その計画も細井のものなのか、それとも桐谷独自のファンタジーなのかわからない。が、そういう行動をとるはずだ。
最終的に、風花を感染させる──その信念はゆるぎないだろう。
「狂ってるわ……」
「それをいうなら、一連のことをはじめた段階で……細井紗江の意思に従いはじめたときから、狂ってたんです」
吸血鬼に操られていたほうが、まだ救いはある。
いまの会話を聞いていた刑事たちの顔も、得体の知れない恐怖に支配されているかのようだった。
「と、とにかく……乗ってください!」
刑事に催促されても、起源にその気はなかった。
「ねえ、さちをこの場で狙うっていうの?」
「そうだ」
「ま、待ってください! これだけ大勢の人がいるんですよ!? どうやって……」
そう言いかけた刑事の言葉が、途中で消えていた。さきほどの惨劇を思い出したのだろう。性行為などしなくても、血液を散布すれば感染の危険はある。
確率が低かろうと、ゼロではないのだ。
「わ、わかりました。そのお友達も、うちのほうで保護します。特徴を教えてください」
「それでは間に合わない」
起源は眼を凝らした。
人垣の最前列に出てきてくれなければ、みつけられない。
「どうすんの!? これじゃあ……」
「川越さん!」
起源は叫びをあげた。
ダメだった。こちらの声を聞く気など群衆にはないようだ。野次馬と報道陣の喧騒に消されて届かない。
「さち!」
風花も呼びかけるが、さちからの返事はないし、姿も見えない。
起源と風花は生中継に映ったとはいえ、一般人だ。これだけ多くの人々が集まったのは、事件をテレビで眼にしたことと、有名人である如月美幸に注目するためだ。
野次馬もそうだろうし、マスコミ関係はもっとそうだ。起源や風花の言葉など、人々は待っていない。
「如月さん! あなたから!」
「ママ、さちを呼んで!」
ほぼ同時に、如月美幸にお願いした。
「わかったわ」
彼女が、群衆に向けて足を踏み出した。
いっせいにフラッシュがたかれる。
「川越さん! いるのなら出てきてください!」
予想がはずれた。
「ダメよ……ますます混乱しちゃった」
ニュースの主役である如月美幸の発言で、さらなる騒ぎに発展してしまった。これでは、川越さちに声が届くわけがない。
「どうすんの!?」
「……」
責めるような風花の言葉に、起源はなにも返せなかった。
「如月さん! 事件についてひと言お願いします!」
「死亡した容疑者とは、恋人関係だったということでよろしいでしょうか!?」
報道陣からの興味本位の質問が、縦横無尽に飛び交った。これでは人をさがすどころではない。
「……、一つだけ方法がある」
* * *
まわりの喧騒にかき消されてしまいそうなほど頼りなげに、起源の声が聞こえた。
「え?」
「方法がある」
「さちをみつける方法?」
「どっちでもいい。彼女でも、桐谷翔でも」
「どうやって」
「……」
「はやく言って!」
自分から口にしておいて、言いよどんでいる態度にイライラしてきた。
「江藤さんとのことを思い出せ」
「江藤さん?」
なにを言っているのか、まったくわからなかった。
「おれは、どうやってキミの居場所を知ったと思う?」
「え? 監禁されたとき?」
そういえば、あのTシャツ男の助けで逃げ出したとき、起源もあの倉庫にやって来た。
「キスのこと言ってるの?」
あのとき愛莉と口づけをしたとかで、起源に発作が出た。
「それがどうしたの?」
あきらかな不快感を添えて、風花は反応した。
「おれの発作には、ある副産物がある」
「副産物? 副作用じゃなくて?」
「言葉なんてどうもいい……とにかく、おれの感覚は研ぎ澄まされるんだ」
「だれとしても?」
「エプスタインバーウイルスに感染していれば……」
たしか、ほとんどの人が若いうちに感染しているはずだ。
「……もしかして、わたしとキスするっていうこと?」
「それ以外に、なにがある?」
「どこで?」
「時間がない」
まさか、こんな公衆の面前でやれというのか……。
「わたしが感染していないこともあるのよね?」
「そこは、イチかバチかだ」
「……」
「どうする? ほかの手を考えてもいい」
「あるの?」
「キミのお母さんにお願いする」
「え!?」
思わず、母親の顔を見てしまった。母はいま、マスコミを相手に曖昧な応答を繰り返している。
「どうしたの? なにかあったの?」
視線に気づいた母が、そう言った。
「わ、わかったわよ! やればいんんでしょ!」
母親とキスをされるぐらいなら、自分のほうがいい。風花は、本能的に思った。
「な、なにするの……あなたたち?」
衆人環視のなかで抱き合った二人を見て、母が眼を丸くした。
ゆっくりとおたがいの唇を近づけて、そして触れ合った。
それまでの騒がしさが、一瞬にしてやんでいた。
唇を離して、すぐに異変がおとずれた。
起源の瞳が、ぼやけたものになっている。ふらついて、立っているのもやっとの状況だ。
あのときと同じだった。
「大丈夫!?」
キスをしたことへの恥ずかしさも忘れて、風花は声をかけた。まさか、こんなにはやく発作が出るとは思っていなかった。
「佐竹さん!?」
聞こえているのかどうか……。
「キゲンさん!」
強く呼びかけた。
「あ、あっちだ……」
苦しそうにしながら、起源の人差し指は、ある一方向をしめしていた。
「ど、どこ?」
「あ、あっち……」
とても辛そうだ。しかし、必死に指さす方向には、ただ人の群れがある。そのなかにいたとしても、ここからでは断定できない。だいたい、この能力がどれほど信用できるものなのか、風花にはわからない。
「お、おれを信じろ」
「ど、どうすればいいの? さちが、あっちにいるの?」
「ちがう……いるのは、やつだ」
桐谷翔……。
「川越さんと……キ、キミのお父さんは……」
少し、指の角度がズレた。
とにかく起源の指す方向に、桐谷翔とさち、そして父がいるということだ。
「ど、どういうことなの? 風花!」
母に説明を求められても、答えている余裕はない。
「キミなら、どうにかできる……」
覚悟を決めて、風花は駆けだした。
野次馬に向かって、全速力で走った。思いのほか、身体が軽かった。起源との口づけで、アドレナリンが多く分泌されたのかもしれない。
「どいて!」
大きく叫んだが、群衆はどいてくれない。
かまわずに飛び込んだ。
大慌てで、人の割れ目ができる。
すぐに、さちの姿を発見した。
「さち! ふせて!」
間に合うか!?
いままさに、桐谷が群衆を盾にして迫ろうとしていた。
風花は跳躍した。
さちを飛び越えて、その向こうの桐谷の顔面を蹴り上げた。
アゴに入った。それでも桐谷は倒れなかった。
その手には、ガラスの破片のような尖ったものが握られていた。
尖端を自身の首筋に突き立てた。
「みんな、離れて!」
桐谷の身体がグラついた。確実に脳は揺れている。失神しても不思議ではない。
「ど、どちらでもいい!」
しかし桐谷の眼から、凶行におよぶ意思は消失していなかった。
「本物の愛をみせてやる! どっちかに感染すれば、オレの勝ちだ!」
破片を深く突き刺そうとしていた。抜かれたら大惨事になる。これだけの人が血液を浴びれば、だれかには感染してしまうだろう。
もう一度攻撃をくわえようと、右足を跳ね上げた。間に合わないことはわかっていた。
シュ! とそのとき、なにかの黒い影が疾風のように飛び込んできた。
「ニンジャ!」
思わず風花は、大きく声に出していた。
あのTシャツ男が、なにか布を丸めたようなものを手に巻いて、桐谷の持つ破片ごと傷口を押さえこんでいた。
Tシャツ男の上半身は裸だった。どうやら、着ていたTシャツを使ったようだ。
「は、はなせ……!」
桐谷の声はくぐもっていた。かなり深く破片は刺さっている。いまそれを抜けば、あたりは血の海になり、桐谷の思惑どおりになるのと引き替えに、その命はなくなるだろう。
それを、Tシャツ男の力で防いでいるのだ。
どうにか桐谷は彼の腕を押し返そうとしているが、それは果たせない。当然、押さえ込むTシャツ男のほうが有利なのだ。
傷から漏れ出ている血液もあるが、そのほとんどは丸められたTシャツが吸収している。
「桐谷、あきらめな!」
「く、ううう……」
桐谷の全身から力が抜けた。
自らの首筋に凶器を突き立てたのだから、自殺と同じだ。いつまでも動けるはずがない。
「もうあんたの愛した先生はいない……眼を覚ましな!」
吸血鬼に操られた傀儡が、もとの人間にもどるときがきたのだ。
「い、いやだ……」
「先生は、あんたのなかで生きつづける。よかったじゃない」
「……?」
桐谷が、救いを求めるような瞳を向けた。
「これで先生は、あんただけのものになった。独占欲なんでしょ、本当の愛ってのは」
「……ははは」
悲しそうに桐谷は笑った。
そしてすぐに、意識をなくした。
「無事か?」
母に支えられた起源が、騒動の輪のなかに入ってきた。
「無事よ。たぶん、ほかの人も……」
桐谷翔を見下ろした。体力の限界がきて、地面に倒れこんでいた。いまだに鋭利な破片は、あのTシャツ男が押さえている。
「え?」
ちがった。その役目を担っていたのは、父だった。どうやら、さちといっしょに来ていたようだ。
「パパ……あの人は?」
「どこかに行ったみたいだが……」
周囲には、野次馬と報道陣しかいない。
「どいてください!」
人垣を押しのけて、ようやく警察官がやって来た。父にかわって桐谷を捕まえる。といっても、もう彼に抵抗する力は残っていないだろう。遠くから、救急車のサイレンが聞こえる。
「ニンジャだって人、ホントに仲間なんですか? いっしょにいるところ、見たことないけど……」
「そのうち会えるだろ」
まさしく『忍びの者』といったところだ。
「今度こそ、終わりだよね?」
「ああ」
いかにも具合が悪そうな返事だった。
「大丈夫?」
「なんとか……」
「死ぬことはないんでしょ?」
「それはない……」
「そうなんだ」
「なんか……ヘンだぞ。うれしそうな顔してる……」
「な、なんでもないわよ!」
風花は、ごまかすように言った。
あることをたくらんでいた。
匿名の告白⑥
おもしろいショーでした。
あの方の最後にふさわしい盛大な宴。
わたしのなかだけでなく、人々の心に焼きついたことでしょう。
いつかはわたしも、あんなふうに散ってみたい。
だけどそれは、まださきの話……。
わたしには、やらなければならないことが残っています。
それは、仲間を増やすこと。
もう復讐のためではありません。
あの方が教えてくれました。
愛なのです。
すべては、永遠の愛のために!
エピローグ
おたがい何事もなかったかのように朝、家を出た。
あの大事件の夜から、三日が経っていた。
途中までいっしょに歩いていたが、とくに会話をすることはなかった。風花は高校へ向かい、起源は仕事場へ向かった。
一人になってから起源は、あの夜のことを思い出していた。
事件が解決し、部屋に帰ってからだ。
「ねえ、キゲンさん」
友達の川越さちが呼ぶように、風花から声をかけられた。そういえばテレビ局で発作をおこしているときも、同じように呼ばれたことを覚えている。その呼び名がスタンダードなものになったのかもしれない。いやな気持ちにはならなかった。
部屋には、さちや上原はいなかった。警察署から帰ったのが遅かったから、二人きりの夜だ。
「わたし、きめた」
「ん?」
「キゲンさんに抱かれたい」
「はあ!?」
間の抜けた声をあげてしまった。
「病気をうつされてもいいと思った人とやれ、って言ったよね?」
その言葉どおりではなかったと思うが、そういうたぐいのことはたしかに口にした。
「だから、キゲンさんにする」
「おい……」
「自分で言ったんだから、責任とってよね」
「そんなことで責任はとれない」
どんなに説得しても無駄なような気がした。だが、受け入れることはできない。
「おれには、発作がある」
「でも、死ぬことはないんでしょ」
これも、自分で言ったことだ。
「死にはしなくても、苦しい思いをすることになる」
「ガマンして」
まさか、そうくるとは思わなかった。
「わたしが、病気をうつされても後悔しないんだから、キゲンさんも、発作をおこしても後悔しないでしょ」
見事なきめつけだった。
「あなたも男なら、腹をくくって」
とにかく、なにか否定する言葉をさがした。
「淫行条例とか、そんなつまらない理由は言わないでよ」
先回りされた。
「……」
「じゃあ、妥協してあげる。キスして」
「さっきしたろ?」
「舌入れるやつ」
返事を待たずに、風花の顔が近づいてきた。
数十秒。
「どう?」
「なんともないな……」
発作がない、と安堵した途端に、いつもより激しい苦しみが襲ってきた。それから二日間、高熱にうなされた。とてもではないが、仕事どころではなかった。
ようやく今朝になって、それがおさまったのだ。
これから風花と、どういう関係になっていくのか……。
風花には教えていないことがある。エプスタインバーウイルスは一度感染すれば、その人の体内に潜みつづける。ただし、ウイルスは唾液にしか存在しない。
つまり、キスをしなければ……。
とはいえ実際にそれ以上のことをすれば、もっと大きなアレルギー症状が待っているかもしれない。それこそ愛をためすなら、イチかバチかの賭けをしなければならない。
病気をうつされても後悔しない相手とだけしろ──。
自分の言葉がブーメランとしてもどってきた。
感染源究明室の事務所に入ると、険しい顔をして大木静香が睨んでいた。
「いつも以上に、フェロモンがまとわりついてる」
起源は、ごまかすように天井を見上げた。
「今回の騒動……本来なら、ここの存続にかかわるほど大ごとになるはずでした」
でした、ということは、そうならなかったということだ。
「犯人は一命をとりとめ、直接の被害者がいなかったことが幸いしたんでしょう」
この場合の犯人は、桐谷翔を意味している。あの夜の惨劇で死亡したのは、主犯である細井紗江だけだった。
テレビ局前で襲撃された職員はいるが、いま現在、その犯行が細井か桐谷であるという証拠はなにもない。怪我をした職員は犯人を見ていないということだし、肝心の桐谷も、まだ取り調べを受けられる状態まで回復はしていない。いまのところ傷害事件だけは、一連の事件からは除外されている。
「世間の声も寛容だったことが救いです」
ため息をつきながら、静香はそう続けた。
マスコミの報道が、かなり好意的なものだった。それには、翌日からもキャスターとして出演し続けた如月美幸の功績が大きい。
HIVキャリアであることを正式に公表し、それを細井から故意にうつされたことも視聴者は知ってしまった。普通の人間ならば、カメラの前になど出られないだろう。
それなのに如月美幸は臆することなく、矢面に立ち続けた。娘を守るためもあるだろう。その姿に、他の報道機関も追随した。
そして、もう一つの騒動となっていた野島謙吾一家の問題も、好転したきっかけとなった。少年たちの発症した感染症までが細井の仕組んだものだと起源がつきとめた。一時は危篤状態までおちいった少年二人の容態も峠は越えたということだ。いじめという教育問題までが解決したわけではないが、感染源究明という見地からいえば、解決したことになる。
ただし現在でも起源は、細井が寄生虫を東京に持ち込んだということに関しては疑念を感じている。アフリカマイマイをかりに運んできたのだとしても、それが公園のナメクジやカタツムリを感染させたというのには無理がある。住血線虫の終宿主はあくまでもネズミで、ネズミの糞からナメクジ類に寄生して、そのナメクジ類をネズミが摂取することによって、寄生のサイクルを繰り返していく。そもそも、アフリカマイマイの発見情報もない。
起源は生物学者ではないので断言はできないが、ナメクジ類同士での感染は難しいはずだ。いや、接触することによって線虫がうつことはあるかもしれない……正直、どう判断してよいのか起源にはわからなかった。が、結果として細井の思惑どおりになっことだけは事実なのだが。
「それと、大物政治家とお近づきになれたことも……ですけど」
静香の口調には、からかうような響きがまじっていた。
大物政治家とは、次期厚労大臣に返り咲くと噂される野島謙一郎のことだ。
事態が厳しい方向に進まなかったのは、野島謙一郎が動かなかった……いや、動けなかったことも一因としてある。
騒動に風花がいたからだ。
起源も、あらためてそのことに思いをはせると不思議な感覚におちいってしまう。
父親である上原孝臣が野島謙一郎の隠し子だとすると、その娘である風花は、野島謙一郎の孫ということになる。
野島謙吾は叔父で、あの息子とは従妹同士。
事件が解決したいまとなって、そのことを実感することになった……運命とは複雑なものだ。野島咲子が風花を見たことがあると言っていたのも、写真を眼にしたからではなく、もしかすると野島一族の血筋が風花の容姿に色濃く出ていたからかもしれない。
「ですが、教育機関のいくつかから抗議がきています。おたくの職員は、高校生と路チューをするのか、と」
「路チューって……」
「公衆の面前であんなことをしたんですから、抗議はもっともです!」
キツく言われてしまった。
「それに……ずいぶん、お楽しみのようですから」
クンクンと匂いをかがれ、軽蔑するような視線を向けられた。
「今朝は一段と、フェロモンが強く香っているご様子」
「いや、これは……」
弁解すると嘘になるから、起源は言葉をのみこんだ。
「あ、そうそう、中川さんがなにかを置いていきましたよ」
まだ嫌味が続くのかと思ったが、大木静香は起源の机を見ながらそう告げた。
「中川が?」
いつものように彼の姿は事務所内にはなく、すでに隠密を開始しているようだ。
机の上には、一枚のメモがあった。
そこには、『天野早紀、連絡先』と書かれていた。携帯の番号が記されている。
「この名前は……」
HIVに感染した男性が関係をもったとされる女性の名前だ。居酒屋の店員の証言から、教育関係者であると推測される。
起源は、この名前のことを忘れていた。なぜなら、調査の過程で細井という教育関係者があらわれたからだ。つまり、この名前を細井紗江の偽名だと考えた。
どういうことだ?
いまさら死亡した細井の連絡先を中川が教えるわけがない。
「まさか……」
別人?
これまで、そんなことを想像すらしていなかった。
もし、そうだとしたら……。
「どうしたんですか?」
よほど深刻な顔をしていたのだろう。静香に声をかけられた。
起源はただ瞳を向け、指で携帯を操作した。
「なにかあったんですか?」
番号を入力し終えると、返事をしないまま視線を静香からそらした。
数コールののち、相手が出た。
『……だれ?』
知らない番号からの連絡に、女性の声が不快に応じた。
「もしもし?」
『だれですか?』
警戒するような響きがあった。
「天野早紀さんの携帯でしょうか?」
『……そうですけど、あなたは?』
衝撃が胸中に広がった。
「私は、佐竹というものです」
『ご用件はなんでしょう?』
声の印象では、三十代前半のように感じる。警戒しているさなかにも、言葉づかいや語調は、ぎりぎり社会人の範疇に入るだろう。これが仕事の電話だとしたら、どれほど態度が変わるのか。それを聞いてみないことには、この女性の人となりは推し量れない。
「おたずねしたいことがあります」
起源は、HIVに感染した男性の名を告げた。
「この方をご存知でしょうか?」
『……ふふ、そう』
「もしもし?」
『あなた、佐竹って言ったわね。知ってるわよ。ニュースで見た』
その反応でわかった。
この女性が、HIVを感染させた。
「細井紗江さんのことも知っていますね?」
『わたしはやめない。あなたは、つきとめる人でしょう?』
感染源を、という意味だろう。
「そうです」
『でも、わたしのところまで追いつけるかしら?』
「あなたが《おおもと》なら、いつか必ず」
『ふふふふ』
不敵な笑みを残して、通話は切られた。
『ツーツー』
再びかけなおしても出なかった。
「佐竹さん……まさか」
起源はうなずいた。
「まだ、だどりついていなかったということです」
「調査を続けますか?」
「いいえ」
その答えが意外だったようだ。静香は、疑問の瞳を向けている。
「生半可な調査をしても、たどれない」
「あきらめるんですか?」
今度は、首を横に振った。
「おれは、必ずルーツに行き着きます。それが性分ですから」
一人ではない。今回の件も、幾人もの手助けをうけた。
中川陽介もいるし、大木静香もいる。上原や如月美幸も力を貸してくれるだろう。そしてなにより一番力になってくれたのは、ほかでもない風花だった。
「あ!」
静香が怖い眼をして声をあげた。
「フェロモンの濃度が上がった……いま、イヤらしいことを考えましたね?」
「い、いえ……考えてません」
「嘘おっしゃい!」
とても居づらくなったので、起源は事務所の外へ出た。
空の色は青かった。
これまで事務所を出たときは、暗雲を見ていた記憶が強い。
きれいだった。
すべての《おおもと》のような、原初の色だと思った。




