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ルーツ  作者: てんの翔
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       34 火曜日午後十時


 うずくまるように屈んだ風花に、大量の液体が降りかかった。

 赤い色をしたそれが細井先生の血だとわかったときには、画面が再び『しばらくお待ちください』に切り替わっていた。

「ヤ、ヤバ……」

 なんという惨劇なのだろう。

 過去、ここまで凄惨なシーンが生中継されたことはあるのだろうか……。さちの思い出せる範囲では、経験がない。

「こんなとこで、ジッとしてる場合じゃない!」

 さちは、風花パパの顔を睨みつけた。この期におよんでも傍観しているつもりなら、蹴り倒してやろうと考えた。

 だが、風花パパも重い腰を上げていた。

「そうだな」


     * * *


 真っ赤に染まる風花めがけて、起源は滑り込むように覆いかぶさった。眼をつぶり、できるだけ正面で血液をうけないように気をつけた。

 HIVは、イメージされているよりも感染力は低い。たとえ口や眼に入っても、それだけで感染することはないだろう。

 薄眼を開けた起源は、風花が傷口をちゃんと保護していることに安堵していた。細井の狙いは、風花に傷を負わせて、自らの血液を浴びせることだった。

 これだけの出血をしたのなら、もう彼女は助からない。それに細井の救護措置をする役目は、自分にはない。起源は冷酷な決断をしていた。なによりも風花の安全が大切だ。

 そのときになって、スタジオ内に動きがあった。大きく瞼を開けられないのでハッキリしないが、警察が人質をとっていた桐谷を取り押さえたようだ。

「大丈夫ですか!?」

 警察官にそう声をかけられた。起源は首を縦に振って、無事を知らせた。いまの顛末を警察官も見ていたはずだが、血まみれになった姿を見て気づかってくれたのだろう。

 冷静になってみると、背中には大量の血を浴びていたが、顔にはそれほどかかっていないことがわかった。それに顔の正面についた血液は、すでに凝結していた。

 起源は、瞼を大きく開けた。

「この血液は、HIVに感染しています」

 警察官や、かけつけた救急隊員に警告を放った。医療の専門家である救急隊員は動じていなかったが、警察官は一瞬、躊躇の色が表情にはしった。

「触ったぐらいでは感染しません。ですが、手に切り傷があった場合にはリスクが生じます。あまり切り傷がある人はいないかもしれませんが、指のささくれ程度なら、たいがいの人はあるでしょう。ビニール製の手袋をはめたほうがいいと思います」

 その忠告をどれぐらいの警察官がきくかは推し量れなかったが、あつかいに注意さえすれば、そう簡単に感染することはない。何度も言うが、HIVの感染力は低い。

「こちらの女性は!? 怪我はありませんか!?」

 起源が守るようにしてうずくまる風花が、重傷を負っているように見えたのだろう。救急隊員に声をかけられた。

「だれかタオルを!」

 そう声をあげたのは、如月美幸だった。

 すぐにきれいなタオルを、あの案内をしてくれた女性スタッフが持ってきた。現在スタジオ内は、警察により封鎖されている。外に出ていた人間が入ることはできないようになっていたが、如月美幸からの指示となれば、スタッフとしてはきかないわけにはいかないし、警察としても拒むことは難しいのだろう。

「風花!」

 母からの呼びかけに、風花は顔を向ける。だが風花の全身は、起源とはくらべようもないほど血で汚れ、かたく眼と口を閉じ、言葉を発するどころではない。

「タオルよ!」

 差し出されたとて、自分一人では受け取ることもできない。左手は、右甲の傷にあてている。眼と口よりも、その傷を守るほうが重要だ。

 起源は如月美幸の手から、タオルを取った。

 とにかく顔を拭いた。

 これだけの血液だと、まだ乾いていない。すぐにタオルが赤く染まった。

「もっとタオルを」

 用意できるだけのタオルを要求した。

 五枚を使って、ようやく顔がきれいになった。口と眼のまわりをとくに入念に拭きとった。

「もう大丈夫だ」

 起源のその言葉で、やっと風花は瞼を上げた。

「……細井先生は?」

 起源は、首を横に振った。

 救急隊員が蘇生をこころみているが、息を吹き返すことはないだろう。

「傷は大丈夫か?」

「たぶん」

 顔に次いで、両手を拭いた。幸いなことに、傷のまわりに血液は付着していなかった。うまく守りきったようだ。細井の思惑は失敗に終わったのだ。

「桐谷は?」

「取り押さえられた」

 すでに現行犯逮捕され、このスタジオ内にはいない。その時点ではまだ起源は眼を大きく開けられなかったので断言はできないが、抵抗する素振りはなかったようだ。細井の死とともに、抵抗する必要がなくなったのかもしれない。

「そう……終わったのね」

 まるで桐谷のことを憐れんでいるように、風花は言った。

「吸血鬼が人間にもどったんだ」

 風花が例えた言葉をまねて、起源は声をかけた。

 おおもとの吸血鬼が死んだことで、傀儡とされていた桐谷のマインドコントロールが解けたのだ。

 いや、それを確かめるには、本人から話を聞かなければならない……。しかしそれは、自分の仕事ではない──起源は、無慈悲にそう思った。これから桐谷翔は、病気と向き合い、自らの罪と向き合い、愛した女性の死と向き合わなければならない。

 それを自分一人の力で乗り越えなければ、彼の未来はない。冷たい考えだが、あれだけのことをしたのだから、その責任はとらなければならない。

「調査は終わりなんだよね」

 今回と二年前のHIV感染は、細井紗江の犯行だということが確定した。さらに、並行して調査していた広東住血線虫症までも、細井の仕業だった。

 起源の仕事は、感染症の撲滅ではない。感染源をもとまでたどってつきとめることだ。一応の決着はついたことになる。

「ああ。そういうことだな」

「もう会えなくなるの?」

 答えづらい質問だった。風花と知り合ったのは、梅毒の調査の過程でだった。それから広東住血線虫症とHIVの件でも関係は続いていたわけだが、それらがなくなるのだから、すくなくとも起源のほうから会いに行く理由はなくなる。

 だが、彼女のほうからなら……。

 起源は、ずるい答え方をした。

「帰ろう」

 彼女が、心のなかまで微笑んだような気がした。


     * * *


 しかし、すんなりと帰ることはできなかった。これから警察署に移動して、事情聴取を受けなければならない。

 母は、風花が未成年であることを主張して、後日にしてくれないか、と刑事に食ってかかった。子供あつかいされたくなかったので、風花のほうから了承した。

 それに、起源もいっしょだ。とても疲れていたが、イヤな気分ではなかった。

 ただし、髪の毛まで血でべっとりだったので、局のシャワールームをかりられることになった。

 澄んだ水流を浴びていると、これまでの禍々しいことがすべて洗われていくようだった。

 シャワーを浴び終わって、新しく用意してくれた着替えに袖を通した。髪はまだ濡れていたが、これ以上、みんなを待たせるわけにはいかない。

 起源や母は、控室に移動していた。なかに入ると、二人のほかにもスタッフらしき女性が二名、さらに刑事だと思われる私服警察官が二名いた。計六人がいることになる。

「お待たせしました」

 全員の表情が暗かった。大事件のあとだからなのかと考えたが、どうやらちがうようだ。

「どうしたの?」

 母と起源、どちらでもいいように問いかけた。

 しかし答えたのは、私服警察官の一人だった。

「容疑者が逃走しました」

 失態を悔やむような声音だった。実際にはこの刑事が逃がしたわけではないのだろうが、重く責任を受け止めている。

「申し訳ありません。私たちの失態です」

「桐谷翔ってこと?」

 わかりきっていることを確認してしまった。細井は死亡したのだから、残る犯人は彼しかいない。

「でも、おとなしく捕まったんですよね?」

 起源からは、そういうふうに聞いている。

「車に乗せるときに、突然暴れ出したようです」

 放心状態であり、未成年だったことも考慮して、手錠はしていなかったと刑事は語った。

 どういうことだろう? 桐谷のそんな姿を想像できなかった。

「非常線をはってますから、じき捕まります。安心してください」

 母の顔は、もううんざり、とでも言いたげだった。起源は、どうだろう?

「なに考えてるの?」

 なにか腑に落ちないことがあるようだ。

「彼の行動がわからない」

「だから、逃げたんでしょう?」

「逃げてどうする?」

「え?」

「桐谷翔に、逃げる場所はない」

 風花には、起源の言っていることのほうがわからなかった。

「捕まりたくないからでしょう? 犯人なんだから」

「それほど重い罰を受けるわけじゃない。人を殺したわけじゃないんだ。それに、少年法に守られている」

「少年院にも行きたくないってことじゃないの?」

「彼の場合は、そんなことで逃走しない。いくら未成年でも、高校生ならそれぐらいの損得勘定はできる」

 どうやら起源は、犯罪者は逃げるものだ、という単純なことを論じているわけではなさそうだ。

「あ……」

 遅れて、風花にもわかった。

 桐谷翔にとって、逃亡することは死ぬことと同じなのだ。さすがに逃亡者では、HIVの治療は続けられない。

「死を覚悟してるってこと?」

 自殺するつもりなのかもしれない。

「いや、それはないような気がする」

 起源の否定は、それまでよりは自信がなさそうだった。

「そういう人間じゃない」

 部屋の空気が、恐怖から混乱に変わった。

「そう思わないか?」

 起源の問いかけは、唐突に思えた。まるで、わたしにその判断をさせようとしている──風花には、そう感じられた。

「……そうかもしれない」

 桐谷翔は、自ら死を選ぶ男ではない。起源だけでなく、風花の眼にもそのように映っていた。

「じゃあ、なに? 桐谷は、なにをするつもりなの?」

「寄生生物は、宿主が死なないかぎり生きつづける……そういうことだ」

 寄生? あの少年が感染した線虫のことだろうか?

「本体が滅んでも、一部が彼のなかで生きてるんだ」

「なんの例え?」

「細井紗江だ」

「先生の意思が生きつづけてるっていうの?」

 起源は、うなずかなかった。かわりに、強い視線でみつめられた。

 それが的を射ていたとしたら、桐谷は……。

「わたしを狙う」

 この会話を聞いていた母も刑事たちも、緊張を表情にはりつけた。

「まだ、こんなことが続くの? 風花、ごめんなさい……まさか、あなたに矛先がむくとは思わなかったのよ」

 母は、苦いものを吐き出すように声をあげた。

「あなたは、細井さんから襲われることを望んでいたんじゃないですか?」

 起源の指摘は、奇妙なものだった。しかし風花にも、なぜだか納得できるものだった。

「そこまで考えてなかったわ……でも、彼女を狂わせたのは、わたしの責任でもある」

 だから、先生の名を口にしなかったのだ。二人だけで決着をつけるつもりだった……そして父も、それを黙認するつもりだった。

 母親がバイセクシャルだと知ったショックはあるが、いくら親子でも、そこの部分は踏み込んではいけない領域だ。もうこれ以上、責めることはできない。風花にも、それぐらいのことはわかる。

 コホン、とそこで咳払いがあった。刑事の一人が発したものだ。

「安心してください。お嬢さんが襲われることはありません。われわれが全力で守ります」

「そんなこと言えるのかしら?」

 母の声は、冷淡だった。

「おっしゃりたいことはわかります。ですが、失態はおかしましたが、次は必ず!」

「そういうことだけじゃありません。いま守りきったとしても、ずっと警備してくれるわけではないでしょう?」

「そ、それはそうですが……お嬢さんになにかするまえに、被疑者は逮捕されているはずです」

「いや」

 母と刑事の会話を、起源がさえぎった。

「桐谷翔は、この場所で襲う」

「ですから、そうはさせません!」

「いくら警察でも、本気で襲撃しようとする人間は止められない」

「そんなことはありません! それに今日この場所で襲うなんて、そもそも不可能です! 警官が何人いると思ってるんですか!? 外にはマスコミや野次馬も大勢いるでしょう。どこにも、そんな隙はありません。犯人だって、遠くへ逃げようとするでしょう」

 自信たっぷりに刑事は言った。

「とにかく、出発しましょう。警察署にさえ入ってしまえば、そんな心配は杞憂に終わります」

 二人の刑事に先導されるかたちで、控室を出た。母、風花、起源と続く。

 息が止まりそうな緊迫感があった。


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