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32 火曜日午後九時
それから起源と風花には、女性スタッフが一名つけられた。
年齢は二十代前半で、見ようによっては十代にも見える。この女性がアルバイトのADなのか、局の正社員なのかは判断できなかった。かといって、それを聞く雰囲気でもない。忙しいところを、さらに仕事を一つ増やしてしまったのだ。
女性スタッフは迷惑な素振りはみせず、笑顔でスタジオを案内してくれた。如月美幸の思惑をこのスタッフが知っているはずもないだろうが、結果として役目を果たしているはずだ。いってみれば、監視をつけられたのだ。
「本番中は、声を出さないでくださいね」
スタジオの隅で、そう説明をうけたところだった。
「ねえ……」
風花が小声で囁きかけてきた。まだ本番をむかえていないが、女性スタッフに聞こえないようにしたのだ。
「こんなことしてていいの? 本当に見学することないでしょ?」
「お母さんの仕事ぶりを見るいい機会じゃないか。こういうの、はじめてなんだろう?」
「ううん、小学生のころ、ちがう局だったけど来たことある。……って、だからこんなこと!」
風花の声が大きくなりかけたので、起源は手で制した。
「大丈夫だ。あの女はここに来る。こうしてたほうがいいんだよ」
風花の瞳は、疑いに満ちていた。
「あの……」
会話が途切れたところで、女性スタッフが声をかけてきた。風花に対してのものだった。
「如月さんのお嬢さんなんですよね? こんな大きなお嬢さんがいたなんて、今回の報道ではじめて知りました」
女性スタッフの年齢ではそうなのだろう──起源は思った。如月美幸が上原と別れたころは学生だっただろうから、そのへんの事情は知らなくても無理はない。
「母がいつもお世話になってます」
とってつけたようなことを風花が口にしたので、起源は少しおかしくなった。
「いえ、そんな……わたしのほうこそ、迷惑ばかりかけてしまって」
女性スタッフのほうも、とってつけたような内容で返した。
「たいへんだったでしょう。風花さんのところにも記者が来て」
「え、ええ……」
「でも、カレに守ってもらってうらやましいなぁ」
そう言って、スタッフは起源のことを見た。『カレ』という言葉には、あきらかにそっちの意味がふくまれていた。
「わたしなんて、恋人つくってるヒマなんてないから。高校時代にもどりたいわぁ」
面倒だから誤解をとくつもりはなかった。風花も同じ気持ちだったようだ。
そうこうしているうちに、本番がはじまった。放送は、十時少し前にはじまる。女性スタッフは、すぐに本来の仕事へもどっていった。
トップニュースは、海外でおこった自然災害だった。次いで、国内の事件。そして、あと半年に迫った衆院選の話題へ。
さらにそこから発展して、選挙後におこなわれるであろう内閣改造にまでおよんだ。次期厚労大臣に、野島謙一郎が返り咲くのではないかと。
話題はもどって、衆院選には現都議会議員の野島謙吾も出馬するという憶測。父の地盤とは縁もゆかりもない選挙区から出ることになるので、苦戦するだろうと締めくくっていた。
苦戦は、選挙区だけの問題ではない。それが、その次に報じれた話題だった。
例の広東住血線虫症の続報だ。ニュース番組だけあって、さずがに騒動の原因が野島謙吾の子息だということは明言していないが、ワイドショーではしきりに喧伝しているし、ニュースの順番が意図的だ。
その原稿を如月美幸が読んでいるとき、彼女の視線がこちらに一瞬だけ動いたのは気のせいだろうか。
「ん?」
如月美幸の瞳が、べつの角度に流れたきり、動かなくなった。原稿は滞りなく読んでいるのだが、不自然さがあった。
予感がした。
起源は、その視線の先を追った。
大勢のスタッフにまじって、あの女教師がいた。
桐谷の姿はない。
肘で突いて風花にも知らせた。
「先生……」
放送の邪魔にならないぐらいの声量でつぶやいた。
女教師は、ジッと如月美幸のことを眺めていた。なにをするつもりなのか、想像すらできない。
「どうしよう……警察に通報するっていうのは?」
それが真っ当な意見なのだろうが、それでは彼女を止めるのに間に合わない。
テレビ局の外でおこった傷害事件の犯人が、彼女だと証明するすべがないのだ。警察だって、曖昧な根拠では動けない。もしかしたら局のなかに侵入した可能性を考えて、すでにここにも足を運んでいるかもしれない。しかしそれでも、生放送中に乱入してまで身柄を拘束することはないだろう。
起源は覚悟を決めて、細井紗江に向かって歩みはじめた。
いや、それよりもまえに、細井のほうが歩き出していた。コツコツと、乾いた靴音が不自然に響く。
周囲のスタッフの何人かも、それに気づいた。だがだれもその意図がわからず、対応しようという素振りはなかった。
「お、おい……」
如月美幸とカメラのあいだに割り込んだことで、ようやく異常事態を確信したのだろう。どこかで男性スタッフの声がもれた。
つまり一般視聴者の眼にも、女教師の後ろ姿が映っていることになる。
「その問題なら、詳しい専門家がいるじゃない。というより、調査をした張本人が」
細井はそう言って、起源に視線を移した。
「でしょ?」
スタジオ中の注目が、起源に集まった。べつのテレビカメラも起源をとらえていた。
本来なら、スタジオに乱入した細井をすぐに取り押さえるべきだ。が、どういうわけか、細井、如月美幸、起源三人の会話が成立していた。だからこそ、だれもなにもできないのだ。
「その問題をおこした少年を調査したのが、この人よ。佐竹起源さん」
ますます起源が主役にされた。
「少年の親はね、わたしや美幸にも関係のある人物なの」
このまま放送を続けていいはずはない。CMに行って、とりあえず中断するべきだった。だが放送は、そのまま流れているようだ。
起源の視界に、物騒な光景が映った。
インカムをつけたフロアディレクターらしき人物の首に、銀光をまとった鋭利なものが突きつけられていた。
桐谷翔だ。彼が、スタッフを人質にとっている。インカムのマイクで、桐谷はなにかを伝えていた。どうやら、コントロールルームを声で牽制しているようだ。それで放送を続けるしかなくなっているのだ。
「もう報道でみなさんも知っているでしょうけど、少年の父親は、野島謙吾。わたしの腹違いの兄よ。そして、これはあまり知られていないことかもしれないけど、美幸の……如月美幸さんの元旦那さんも異母兄弟なのよね」
細井の言葉は、妙にはっきりと聞き取れた。はたして、テレビを観ている視聴者には、どのように聞こえているのだろう。ピンマイクはつけていないが、彼女の声を拾うぐらいは簡単なはずだ。もしかしたら、桐谷はそれも要求しているかもしれない。
「だから、わたしたち三人は、この一件に関係しているのよ」
* * *
スゴいことになってる……。
さちは、戸惑いと驚きを強く感じていた。
「ど、どうなっちゃてるの?」
すぐとなりにいる風花パパに眼を向けた。彼も当事者の一人だ。
場所は、起源の部屋。風花とは顔を合わせたくなかったのだが、陰気臭くなるのもいやだったので、思い切ってやって来た。
が、肝心の風花も起源もいなかった。携帯にも出ないし、鍵のありかも知っていたので、いつものように無断で入ることにした。
そこへ、風花パパがたずねてきた。
とりあえず二人して部屋で待つことにした。しかし、いっこうに風花も起源も帰ってこない。いつしか、わが家のようにくつろいでテレビを観ていた。そしてミッキーフリークであるさちは、当然のごとく如月美幸がキャスターをつとめるニュース番組にチャンネルを合わせた。
そういえば、別れた夫である風花パパとこうして番組を観るのは、はじめてだった。少しおかしな感じする……そんなお気楽な心境でテレビ画面を眺めていた。
それなのに、一気に固唾をのむ展開になってしまうとは。
「風花パパって、政治家の子供だったんですか!?」
「そういうことになるね」
さちは映像から眼をはなさずに、その返事を聞いていた。
『あ、そうそう、テレビを観ているみなさんにはもう一つ、このことも説明しなければなりませんね』
番組に割って入った女性が、楽し気に語った。それまでは後ろ姿しか映っていなかったが、そこでようやく振り返った。
「細井先生……」
声でもわかっていたことだが、顔を見たことで、すべてのことがわかったような気がした。
『みなさんもこれまでの報道で、彼女──如月美幸さんがHIVに感染していることはご承知のことでしょう』
* * *
先生は、おおやけには認めていないことを平然と口にした。母をおとしめるつもりなのだ。たとえ事実だとしても、他人が発言していいことではない。
「二年前、この佐竹起源さんが感染源を調査したのよ。だれが如月美幸さんに感染させたのか」
風花の内心を無視するように、三人の──いや、実際に話をしているのは先生一人なのだが、それでも三人の会話は続いていく。
「その犯人は、わたしよ」
先生は、自ら認めた。本人の自白があれば、警察が逮捕することもできるのではないだろうか?
「ですが」
ことさら、ですが、を強調した。
「この男は、わたしのところまでたどりつけなかった。それは、なぜか」
不快なためをつくった。
「美幸が、わたしのことを隠したからよ」
「……」
母は、ただ黙って先生に言わせつづけている。
起源にそのことを告げなかったのは、それしか考えられない。母は、先生の信じるとおり、彼女を守ったのだ。
「わたしを独占したかったのね? 愛なんでしょう? やっぱり、あの男より、わたしを愛しているんでしょう?」
背筋が震えた。
細井に対して、恐怖しか感じなかった。
この盲目的な愛情は、狂気にまで発展している。
そのとき、起源も先生のすぐとなりに移動した。おそらく、その横顔がテレビ画面に映っているだろう。
だが、先生を止めようとはしていない。あくまでも、母の答えを待っているのだ。
「いま、この番組をご覧のみなさま」
母は、細井にではなく、全国の視聴者に向けて呼びかけた。
「一連の報道で、わたくしがHIVに感染しているのではないか、と疑問をもたれている方も多くいるでしょう」
風花は思わす、ゴクリと唾を飲み込んでしまった。
「それは、事実です」
おお、というどよめきが聞こえたような気がした。
「ふふふ、そうよ。そして美幸に感染させたのが、わたしです」
細井は、そのことを繰り返した。母にウイルスをうつしたことを誇りにでも思っているようだった。ここまでの先生の行動をあわせれば、故意に感染させたことの証明になるはずだ。
しかし彼女は、警察など恐れないだろう。世間の眼も怖くないし、職を失うことも恐れていない。
破滅を覚悟している。
「それだけではありません。わたしは、ほかにもたくさんの人と性交渉をもちました。わざとうつしたんです」
「やめなさい!」
おぞましい告白を、母の鋭い声がさえぎった。
「どうして? わたしは、あなたのためにそんなことをしたのよ。あなたを愛してるから、わたしに群がってくる男たちを不幸にしてやったのよ」
支離滅裂な言動だった。
「ちがうだろ。あなたが不幸にしたかった本当の相手は、如月さんの元のご主人だ」
上原、という名前は、生放送に配慮してふせたのだろう。起源は厳しい眼光で細井を睨みつけていた。
「とはいえ、さすがのあなたでも、腹違いとはいえ、実の兄とは関係を結べなかった」
「ふふ……わたしは、そのつもりで迫ったんだけどね、むこうに拒まれたのよ」
当然だ。想像しただけで吐き気がした。
「わたしはね、当時からあなたのことを──佐竹起源さんのことを知っていたのよ」
二年前のことを言っているのだ。
起源が母の調査をしたとき……。
「そのときから、あなたをマークしていた」
なにを伝えようとしているのだろう……。
風花は、えもいわれぬ恐怖を感じていた。
これから細井は、さらに重大なことを口にしようとしている。




