30
30 火曜日午後七時
グニャリ、グニャリと視界が歪んでいる。
音も、ふわり、ふわり、と揺れていた。
嗅覚は霞み、肌の感覚も鈍くなっている。
ただ一つ、頭の奥の感覚だけが研ぎ澄まされていた。
歩いている方向にまちがいはない。しかし、そこになにがあるのかわからない。風花の香りだけを頼りに足を動かしている。
じょじょに周囲の風景を瞳が認識しはじめていた。
前方に見えるのは、大きな建物だ。
そうだった……自分はいま、学校内にいるのだ。それすらも忘れていた。
大きな建造物は、しかし校舎ではない。アーチ形の屋根をしているから、体育館だ。歩いている道の両脇は芝生で覆われていて、さながら校舎裏の抜け道といったところだろう。
体育館と隣接するように、一棟の小さな建物がある。造りは簡素で、プレハブ小屋よりはしっかりしているが、立派な体育館とくらべれば、時代錯誤感が強い。きっと、倉庫として使用しているのだろう。
その倉庫の入り口が開き、なかから飛び出してくる者がいた。
歪んでいても、その人物の美貌がわかった。
「風花!」
無意識のうちに、下の名前で呼んでいた。
細かな判断力は残っていなかった。
「佐竹さん!」
起源は、彼女に抱きついた。
無事を確認したことによる安堵だけではなく、だるい身体を支えてもらうためでもあった。
「だ、大丈夫か!?」
たどたどしい声で言った。
無事かどうかは、まだわからないのだ。不吉なことに、彼女の着衣は乱れていた。
「わたしは大丈夫。あのTシャツ男が助けてくれた」
「ニ、ニンジャが……」
「あの人、ニンジャなの?」
「そうだ……」
周囲に、中川の姿はなかった。はっきりしない視界でも、それだけはわかる。彼女を助けたことで任務を達成したのだろう。そして姿を消したのだ。
「それより、どうしたんですか!? すごく具合が悪そうですよ?」
「発作だ」
起源は短く答えた。
「発作? なんの?」
悠長に風花の質問に答えている場合ではなかった。彼女を追いかけるように、倉庫から出てきた人物がいたのだ。
女性が一人と、男子生徒が一名。
男子生徒のほうは、桐谷翔だ。HIVに感染した高校生。実際に会うのは初めてだが、これまでの調査で写真を眼にしていた。
もう一人の女性は、知らない顔だった。
だが、この女性が一連の元凶だということは、一目でわかった。
「あ、あの女は?」
「担任の細井先生……」
風花の答えには、おびえがふくまれている。やはり、なにかされそうになったのだ。
「お、おまえが……野島謙一郎の娘だな?」
「あら、ずいぶんとお加減が悪そうね」
問題の女性が、おもしろいものを見たときのように喜々として声をあげた。
居酒屋で相手を物色していた教育関係者の女──それが、この女でまちがいないだろう。天野早紀という偽名を使っていた。風花の近くにいるだろうと考えていたが、まさか担任の教師だとは……。
「下の名は、紗江だな?」
「あなたのことは知っていたわ。二年前からね」
起源の問いには答えず、女教師は言った。如月美幸への調査のときに知ったのだろう。
如月美幸は、この女のことを隠しておきたかったのだ。そして、上原も。
「如月美幸さんの感染源は、おまえだな」
すべてのことを総合すれば、おのずと真相はわかる。脳が活性化したことで、体調ももどってきた。
風花に寄りかかっていた身体を、百パーセント自分の力だけで立つようにした。
「ほかの男を使ったわけじゃない……おまえが直接、感染させたんだ」
つまり、この女教師と如月美幸は同性愛者。如月美幸と上原が隠したかったのは、この事実だった。
起源は、風花の顔をうかがった。
どうやら、すでに彼女もそのことはわかっているようだ。この教師から教えられたのか、それとも自身の推理でたどりついたのか……。
「結婚したのが許せなかったのか? しかも、おまえの腹違いの兄に」
上原にとって彼女が妹になるのか姉になるのかわからないが、起源は見た目の印象からそう決めつけた。
そのことについても、風花は知っているようだった。別段、取り乱していないことに少し安堵した。
「結婚制度なんて、ただの紙切れの問題よ。そんなことは、どうでもよかった」
「ではなんだ? なぜこんなことをした? おまえは如月美幸さんだけでなく、不特定多数の人間まで巻き込んだ」
「それこそ、独占欲よ。わたしは、美幸をわたしだけのものにしたかった……それだけ」
「病気をうつすことが愛情だとでもいうのか?」
「それは、人それぞれの価値観よ。わたしにとっては、美幸を《わたしといっしょにする》ことが愛だったのよ」
理解することなど到底できないし、認めるわけにもいかない狂った考えだった。
「どんなにきれいごとを並べても、おまえのやったことは、れっきとした犯罪だ」
「わたしを裁けるというの?」
「裁ける」
「おもしろいわね。じゃあ、止めてみなさい。あなたの妨害なんて怖くない。そんなわたしをどうやって止めるのかしら?」
「警察が動く」
「本当に? 警察がこんなことで動くかしら? 殺人未遂? でもいまではHIVにかかって死ぬ人は、日本ではいない。傷害罪? セックスが傷害といえるの?」
「昭和二七年に最高裁での判例がある。そのときは淋病だったが、傷害罪が適用されている」
「いつの時代の話よ。いまどきは、避妊具をつけることは常識となっているのよ。ゴムをつけなかった相手の責任よ」
「故意に感染させる意思があるのなら、傷害罪になる」
「わたしからは、コンドームをつけることを拒んでいない。性病のリスクを考えることは、現代社会においてあたりまえのことよ。それをおこたったほうが悪いんじゃない? いわば、自己責任よ」
起源は怒りがわいてくるとともに、痛いところを突かれている悔しさもあった。この女が故意に感染させたのではなかったとしたら、まさしくそのとおりだ。その場合、避妊具を拒否したほうが悪い。だが、HIVに感染していると知っていたら、相手は絶対につけるだろう。もしくは、肉体関係を結ばなかった。
如月美幸は、どうだったのだろう。起源は、ふと思った。
男性から女性。男性同士。HIVの感染は、ほとんどがこのパターンだ。女性同士の感染はかなりめずらしく、起源が把握しているものでは、アメリカでの症例一つだけだ。日本においての報告はないはずである。
女性同士では、避妊具うんぬんの話にはならない。おそらく行為中に出血があり、血液をかいして感染したとみるのが妥当だろう。
この女が本当にわざと感染させたというのなら、その出血も自らが仕掛けたものになる。
防ぎようがない。
起源はその意味をこめて、女教師を睨んだ。
「怖い顔」
「どんな詭弁をつかおうと、おまえのやったことは犯罪だ。それにむかしの判例というが、近年でもHIVに感染した男が五人の女性を襲って、懲役二三年の刑を言い渡された」
「それは、論理のすり替えよ。だってそれは、そもそも強姦じゃない。故意に感染させたことを罰してのものじゃない。つけくわえると、襲われた女性たちで感染者はいなかったはずよ」
女教師の指摘は、そのとおりだった。
起源もわかってはいたが、暴論であろうとも、なにかを言わずにはいられなかったのだ。一種の負け惜しみのようなものだ。
「では、こうしましょう。あなたの主張どおり、わたしを罰することができるのか、判断してもらいましょう」
「?」
彼女の言う意味がわからなかった。
「だれが判断するというんだ」
「これからわかるわ」
女教師と桐谷翔は、起源の顔を見たまま後退をはじめた。
「どこへ行く?」
「わたしは、愛に生きるわ」
「まて! 話は、まだ終わってない!」
二人を追おうとしたが、足がもつれた。運動機能は、まだ完全には回復していないようだ。
「だ、大丈夫!?」
再び、風花に支えられた。
すでに二人は、後ろ姿を見せてこの場を離れていた。いまの状態では追いつけない。
「くそっ」
* * *
「いったい、どうしたんですか!?」
「だから、発作だ」
起源の身体は重く、風花にまで疲労と苦痛が伝わってきた。
「キミのほうこそ、本当に大丈夫だったのか?」
「心配してくれたんですか?」
正直、心のどこかに嬉しさがあった。
「わたしが強いの忘れてます。それよりも、発作って?」
そのとき、背後に気配を感じた。
さきほどのことがあったので、起源の身体を放して、風花は身構えた。
「ご、ごめんなさい……」
そこにいたのは、江藤愛莉だった。
「江藤さん……」
風花は、すぐに構えを解いた。
風花が支えを放棄したために、起源は地面に座り込んでいた。
「わたしが、したんです」
「した?」
どうやら愛莉になにかをされたようだ。風花は、愛莉に対する警戒感をよみがえらせた。彼女も、細井と桐谷の仲間かもしれない。
「わたしが、しちゃったんです……」
「だから、なにを!?」
「キス」
「え?」
最初、愛莉がなにを言っているのか理解できなかった。
「キス!?」
責めるように起源のことを見てしまった。
ちょうど、彼は自力で立ち上がったところだった。
「キスで発作がおきるの?」
二人が口づけをかわしたことは、なんとか押しとどめて、風花はたずねた。
「説明が面倒だ……」
ごまかそうとしているようで、思わずギロッと睨んでしまった。
「エプスタインバーウイルスのことは話したな?」
「なんだっけ」
起源と知り合って、いろいろと耳にしたことのない知識を教わっているので、頭が混乱している。
「キス病の原因になるウイルスだ」
「じゃあ、これがキス病なの?」
「ちがう。一種のアレルギー反応をおこすんだ」
「だれともキスできないの……?」
「ウイルスをもっていない相手なら可能かもしれない」
「ほとんどの人がもってるんだっけ?」
「ああ。接吻や性交渉の経験がなくても、赤ちゃんのときの口移しで感染することも多い」
「だから……彼女つくらないんだ」
「そういうことだ。おれに未来はない。子孫を残せないからな。だから過去に──ものごとの根源にこだわるんだ」
風花にだけでなく、愛莉にも言い聞かせているようだった。
おれはこのさきも一人で生きていく──まるで、そう決心しているようだと思った。心のどこかに動揺がはしった。
「……これから、どうするの?」
話題を変えたかったので、風花はそう口にした。いや、細井のこれからが気になっているのも事実だ。
「……先生たちは、これからどうなるの? 本当に逮捕できないの?」
「おれは警察じゃないからな」
その返答を聞くかぎり、起源にもわからないようだった。
細井の思惑どおりに進んでいるのかもしれない。
「だが、社会的なペナルティは必ずうける」
確信というよりも、願望を口にしたようだ。
「どうする? 二人を追うの?」
「ああ。あの女の言ったとおり、おれはやつらを止めなければならない」
「どうやって?」
「行けばわかるだろ」
「先生がどこに行ったかわかるの?」
起源はうなずいた。
「愛に生きるというのなら、目的の場所は一つしかない」
「?」
先生の愛……それは、
「ママ?」
再び起源は、首を上下させた。
「もう局に入ってるころだろう」
夕日は完全に暮れかかっている。起源の顔も、うっすらとしか見えなくなっていた。
平日の夜といえば、母はニュース番組に出演している。
「まさか、テレビ局に?」
「そういうことだろう」
さすがに信じられなかった。テレビ局に行って、いったいなにをしようというのだ。
「生放送に乱入するつもり……なんて言わないでしょうね?」
「そうかもしれん」
「いくらなんでも……」
「いまのあの女は、まともじゃない。いや、あれをやりはじめたときから、正気じゃないんだ」
妙に説得力のある言葉だった。背筋が、ゾクリとした。
「でも、テレビ局に行っても追い返されるでしょ。無理やり入ったら、それこそ警察沙汰よ」
その意見に、起源は賛同できないようだった。
これから、なにがおこるのか……とてもイヤな予感しかしなかった。




