29
29 火曜日午後六時
「おれは病気なんだ」
乾いた声で、起源は告げた。
「病気?」
愛莉は信じていないようだった。
「本当だ。嘘じゃない」
「どんな病気ですか?」
身体的なものなのか、精神的なものなのか、どちらとも判断がつかないようだ。たとえば、異常な性癖を『病気』と表現することもある。
「女性に興味がないんですか?」
愛莉は、そういう意味のものだと結論づけたらしい。
「そんなことはない。それに、それは病気とはいわない」
「……」
「だけど、おれは病気なんだ。それも特殊な」
「それとキスを拒むのと、どんな関係があるんですか? キスすると感染する病気ですか?」
「感染とは少しちがうが、そのようなものだ」
「それ、わたしの梅毒なんじゃないですか? 梅毒は、キスでも感染するんですよね?」
どうやら、愛莉からの感染を警戒しているのだと勘違いしたようだ。
「そうじゃない。おれの身体は特殊なんだ」
「どういうふうに?」
「おれに未来はない」
「言っている意味がわかりません」
「特異体質だ。エプスタインバーウイルスに対するアレルギー症状が出る」
「……」
やはり愛莉からは信用を得られない。
「ごまかすなら、もっとうまくやってください。難しい名前を出せばいいと思わないで」
愛莉が、それまでよりもピッタリと身体を寄せてきた。背伸びして、顔を近づけてくる。
「EBのことは教えたはずだぞ」
それでも愛莉は、唇をつけようとする。
愛莉の華奢な身体を跳ね飛ばすことは簡単だったが、起源は覚悟を決めた。
むしろ、愛莉の身長に合わせるよう屈んだ。
愛莉の唇と重なった。
すぐに離そうとしたが、愛莉は舌を入れようとしている。
「う、うう……」
起源の口から苦悶の呻きがもれた。
さっそく発作がはじまった。
特定の物質に対して自己免疫が過剰に攻撃をおこなってしまうのが、一般的にアレルギー症状と呼ばれるものだ。
起源の体内では、EBウイルスに対してそれがおこる。
EBウイルスは、ほとんどの日本人が若年期に感染し、軽度の症状、もしくは無症状のまま抗体がつくられる。終生にわたってウイルスは潜伏しつづけるが、免疫力が落ちたときなどを除けば、抗体のためにその後も症状が出ることはない。
起源の場合は、アレルギー反応のためにEBウイルスが死滅するので『伝染性単核球症』にはかからないが、そのぶん異常なまでのアレルギー症状に苦しめられる。そして、抗体がつくられることもない。
永遠に、愛し合うことはできない。
だから未来はない。生物にとっての未来とは、子孫を残すことだ。
同性愛者などの性的マイノリティにもあてはまることかもしれないが、起源は愛をたしかめる行為すらできない。起源が根源に──ものごとのルーツにこだわるのは、そのためだ。
鬼門であるはずの口づけは、しかし唯一もたらしてくれるものがある。
「う……」
起源は発作に耐えながら、頭の芯に残った冷静な思考を集中させた。
「さ、佐竹さん……!」
愛莉の戸惑いと驚きの声が、まるで遠くの彼方から反響しているようだ。
さらに遠くから漂うものがあった。
それは、どこだろう?
この部屋の外、校舎の外……。
そこから、よく知っているものが漏れ出ている。
わかりやすい言葉を使えば、フェロモンということになるだろうか。大木静香はその香りを嗅ぎ分けてしまうが、起源におこるこの現象も、それに近い。
ただし嗅覚というよりも、触覚が刺激されている。もはやそれは、第六感のようなものかもしれない。発作自体は苦痛でしかないが、それがもたらす副作用は、まさしく神秘の能力だ。
(あっち、か……)
起源は、さだまらない足取りで歩き出した。
* * *
「姪……!?」
細井の告白が、衝撃的なものなのか、平凡なものなのかも判別できない。
混乱の砂嵐が、脳内に荒れ狂っている。
「わたしが姪……先生と血のつながりがあるということですか!?」
「平たく言うと、そうね」
細井の口調は、あくまで平静だ。そのすぐ近くで傍観している桐谷の落ち着きも、妙に気持ちが悪かった。
血縁話には無関係なのだから、桐谷の様子はこれで正常なのかもしれない。が、どうしても異常な態度に思えてしまう。それだけ、ここの磁場が狂っているのだ。
「だったら、そのわたしに……あなたの姪のわたしに、どうしてこんなことを……!」
会話がスタート地点にもどったような気がした。彼女の憎しみの根源がわからないかぎり、この迷宮は終わりをみない。
「いったい、なにがしたいんですか?」
心を落ち着かせ、風花は問いかけた。
もう寄り道はごめんだった。はやく核心に近づきたかった。
「わたしがしたいこと?」
細井は、からかうように声をあげた。
「先生は、復讐したいんですか? 母に? わたしに? それとも……パパ──父にですか?」
異母兄弟の父に対しての恨み。
「そうよ。一番憎いのは、あなたの父親なんでしょうね」
「父となにがあったんですか?」
「べつに、なにもないわ。血のつながりがあるといっても、わたしたち三人に接点はほとんどないの。会ったことはあるけど、自己紹介をしたていどのものよ。あまり親しくない知り合い、と同じようなものだわ」
「三人?」
「なんだ、それも知らないのね。もう一人は、いま話題になっている野島謙吾よ」
父と野島謙吾も兄弟……。
いや、そんなことに驚いている場合ではない。今回の件と、それとはべつものだ。野島の息子がおこした問題とも、直接は関係がない。
風花は気を引き締めた。
先生は、わたしを篭絡しようとしている──そういう予感があった。
彼女の言葉に引き込まれてはダメだ。
「あなたは、本気で人を愛したことがある?」
突然、話の矛先が変わった。
「相手のことを独占したい気持ちよ。自分一人のものにしたいと思うこと」
まさしく、さちをそそのかした桐谷の言葉と同じだ。今度は、わたしを狂わそうとしている……。
「わたしにはいた。いえ、いまもそう思ってる」
細井は、遠い眼をしていた。
「それが、わたしのパパなの?」
だから憎いのだろうか……。
母を選んだから。
「ちがう……」
その声は細井ではなく、風花自身が発したものだった。
父とは血のつながりがあるのだ。
だからこそ手の届かない相手だからと絶望しているのかもしれないが、それでは父を憎悪していることの説明にはならない。
細井が独占したいほど愛しているのは、父ではない。
では……?
「そうよ。いま、あなたが思ったとおりよ」
残っている対象は、一人しかいない。
「ママ?」
ふふ、と細井は笑った。
「母なんですか……!?」
母親──如月美幸と関係があった。
父は恋愛対象ではなく、恋敵……。
このことに対する両親の秘密主義の理由がわかったような気がした。
「せ、先生……あなたは……」
風花は、言葉の続きを声に出すことができなかった。
「気持ち悪いって、思ってる?」
「そ、そんな……」
思考が止まっている。頭が動いてくれない。
母と細井が、そういう仲だった。
もしかしたら、それが離婚の原因だろうか……。
「嘘は言わなくていいわ。ノーマルな人間から見れば、わたしは異常なのよ」
同性愛を否定するつもりはない。差別しようと考えたこともない。だが、それが自分の母親だったというのは、ごまかしようもなくショックだった。
「で、でも……桐谷くんと……」
そうだ。同性愛者なら、桐谷と関係をもつことは不自然ではないか?
それは、母親にもあてはまる。男である父と結婚して、自分が生まれてきたのだ。
「不思議そうな顔をしてるわね。まだわからないでしょうね、同性愛者が同性としかできないと思い込んでる」
では、男性とも関係をもてるということだろう。それが普通のことなのか、細井や母が特別なのかわからない。風花にはない知識だった。
だが、あれほど男好きだったさちが、桐谷の言葉でコロッと宗旨がえしようとしたのだから、そちらのほうが一般的なのかもしれない。
「どうしたの?」
細井に指摘された。考えれば考えるほど、深みにはまっていた。同性愛者の定義など、これまで知ろうともしなかった。
「あんたは、どう思ってるの……?」
風花は思わず、桐谷に問いかけていた。それはまるで、細井の呪縛から逃れるために助けを求めたようなものだった。
とはいえ、細井の感情に対する彼の心情に興味があるのも事実だ。
「べつに」
桐谷の答えは、素っ気ないものだった。
「あんたのことは、本気で愛してないんだよ」
「先生の気持ちは関係ない。ぼくが愛していれば、それでいいんだ」
達観した表情で、彼は答えた。桐谷の教師ではないはずだが、『先生』と呼んでいることに違和感はなかった。
「……」
風花には理解できなかった。独占したいと思うことが愛だと、さちには語ったくせに、それとは矛盾している。それとも相手の感情はどうでもよくて、自身の愛情だけが重要とでも言うのだろうか?
どういう理由にせよ、そのことで桐谷の動揺を誘うことはできなかった。
母はどうなのだろう? ふと考えた。
母にとって最も愛していたのは、この人だろうか……それとも、父なのだろうか?
「わたしをどうするつもりなの?」
不毛な自問をやめて、風花は当初の話にもどった。
「わたしも感染させるんですか? ママのことは、わざと感染させたんですよね?」
「そうよ」
「もともと……」
途中で質問の声は消えていた。
あまりにも、おぞましい疑問だったからだ。
もともと細井がHIVに感染していたわけではないだろう。いずれかのタイミングで感染した。
はたして、その感染は偶然のものだったのか?
「もしかして……わざと」
「ふふふ」
細井は、不気味な笑みで答えを返した。
いままで風花がイメージしていたのは、不意に感染してしまい、そのことで世をはかなんで、恨みのある人間を感染させた。起源の話を総合すれば、不特定多数にも感染させたようだから、直接憎しみのある者だけでなく、他人はすべて敵──社会全体を恨んで無差別通り魔事件をおこす犯人の心理に似たようなものだろうと。
だが、もし自らへの感染すら故意だとすれば、はたしてそれはどんな心情によるものなのだ?
風花は、とてつもない恐ろしさを感じた。
「どうしてですか!? パパに復讐するため……ママを独占したいために、HIVに感染したんですか!?」
「興奮しないで。わたしだって、本当に感染するなんて思わなかった」
「だれから?」
「居酒屋で知り合った人よ。そのころわたしは、すさんでてね。だれでもよかったの。相手をさがしてたら、その人をみつけた。すぐにキャリアだってわかったわ。運命のようなものね」
キャリア──ウイルス保有者のことだろう。
「それでね、寝てみたのよ」
風花は、恐れを込めて細井のことを見た。
「そんな顔しないでよ。あのころのわたしは、どうかしてたんだから」
いまでも充分どうかしている……その指摘は声にできなかった。
「それで晴れてわたしも、感染者になったってわけ。でね、どうせだから、この幸せをみんなに分けてあげようと思ったの」
「なにが幸せよ!」
「そんなに激昂しないでよ。むかしのように死ぬ病気じゃないんだから」
「それでも……故意に感染させるなんて、犯罪行為です!」
「生徒から道徳を説かれるなんて、品のない冗談みたいね。でもそうね。わたしは犯罪者ね。病気のつらさもよくわかってるのにね。自覚症状はなかったわ。検査で陽性って告げられても、驚きはなかった。どうかしてたから、まともな感覚が麻痺していたの。病院の先生からも、あなたのような反応は、はじめてだって言われたわ」
細井の告白は淡々としすぎていて、人間味を消失していた。
「あれはキツかったなぁ」
「?」
「治療薬は高額だから、障害者手帳を取得するまで処方してもらえないの。それまでは、免疫低下による疾患を防ぐために予防処置をするの。とくに怖いのが、肺炎ね。肺炎予防のために直接肺に薬液を送り込むんだけど、その吸引が地獄なのよ」
つらい治療なのかもしれないが、細井の口調から苦しみは感じない。
同じように涼しい顔をしている桐谷も体験していることなのだろうか。それとも、まだ発覚したばかりだから、これからなのだろうか……。
「そんな苦しみを、ほかの人にもあたえたんですか!? あなたのやったことは、許されることじゃありません!」
わかっていたことだが、そんな常識的な説教は、彼女と桐谷には通じない。二人の表情をうかがえば、あきらかだ。
「言いたいことはすんだかしら。わたしは自らの意思で感染し、自らの意思であなたのお母さんやその他大勢を感染させた。そして、翔のことも」
桐谷は、微笑んでいた。
「ぼくのことはいいんです。ほくも自らの意思で感染したんですから」
まるで、吸血鬼に魅入られた傀儡のようだった。
「では先生、やっちゃいますよ」
「そうね。お話が長くなっちゃたわね」
椅子と胴体に巻き付けてあった縄が解かれた。解放してくれるわけでないことは風花にもわかる。
桐谷は人形をあつかうように、風花を床に押し倒した。両足と両手の縄は、そのままだ。
「それじゃ、やりにくいでしょ?」
「ダメですよ。彼女が強いのは、先生も知ってるでしょう?」
「柔道をやってたキミでもそう思うの?」
「はい。彼女は強い。正々堂々と闘ったら、ぼくの負けです」
「でも足だけは解かないと、できないでしょう?」
「足を自由にしたら、蹴られます。それに逃げられる」
「だったら、わたしも手伝うわ」
二人して恐ろしいことを相談していた。風花は寒気と怒りを体内で混ぜ合わせながら、同時に冷静な思考で状況を分析していた。
足さえ自由になったら、桐谷の言うとおり逃げられる。
はやくほどけ!
風花は、それを期待した。
「そんなことより、いい方法があるよ」
「どうするの?」
「また殴ればいいのさ」
残酷な会話だった。部屋の隅に立てかけてあった長い棒状のものを細井が手にした。話の流れから読み解くと、さきほどはそれで後頭部を殴られたのだろう。なにに使用されるものなのかわからないが、安直に呼べば『鉄パイプ』だ。
「また気絶しているあいだに、やっちゃえばいいのさ」
「そうね。よくよく考えれば、いまも気がつくまで待たなくてもよかったのよね。まあ一応、わたしの親族だから情けをかけてしまったようね」
細井が、鉄パイプを振り上げた。
「キミは、そのまま押さえててね」
もうダメだと思った。
そのときだった。細井の背後に人影があった。細井も桐谷も、その存在には気づかない。
いや、それは本当に人間なのだろうか?
まるで、ただの影……。
その影が音もなく動いた。
細井の手から、鉄パイプが無くなっていた。
「え!?」
カラン、という乾いた音が室内に響いた。
細井の驚愕の声とその音で、桐谷も異変を察知した。
「だれ!?」
そのときになって、風花はようやく影の正体を知った。
Tシャツには『KNOCK OUT!』と書かれていた。




