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26 火曜日午後二時
野島謙吾との約束時間よりも、十五分ほど早く到着した。ホテルのなかにある喫茶店だ。野島謙吾は、時間丁度に入店した。秘書はつれていなかった。
「だれが聞いているかわからない。場所を変えよう」
この店は彼の希望だったが、野島はそう提案した。
「周囲に人はいませんよ」
この時刻、客はそれなりにいたが、気にするような密集度ではない。コホンと、わざとらしい咳払いをして、野島謙吾は席についた。思い直したようだ。
「で、話というのは?」
起源が謝罪をしにきたのでないことを野島はわかっていた。それとも、大木静香はそういうふうに伝えなかったのだろうか。
「息子のことか? 君がいろいろと動いていたことは知ってるよ。どうせ、謝罪するというのは嘘なんだろう?」
「べつに悪いことはしていないので」
「なんだ? なにが聞きたい? これでも忙しんだ。手短にな」
「息子さんのことではありません」
それを耳にして、野島は意外そうな顔をした。
「では、なんだ? ほかになんの用がある?」
「あなたの弟のことです」
「弟?」
声に、さらなる困惑の色があらわれた。
「孝臣のことか? それがどうした?」
「上原さんですよね?」
「ああ、そうだ。記者かなんかをやってる。なんなんだ?」
「どんな仲ですか?」
「血がつながってるといっても、赤の他人とかわらんよ。いっしょに住んだこともない。いっとくが、親父の隠し子というわけじゃないぞ。ちゃんと認知もしている。そんなこと秘密でもなんでもない」
「いえ、重要なのはそこではありません。如月美幸さんを知ってますよね?」
「アナウンサーの?」
「そうです」
「それがどうした?」
野島に不審なところはない。
「有名人なんだから知っているよ。妻とも仕事をしたことがあるはずだ」
「上原さんの奥様だったことも知っているということですよね?」
「あ? ああ……そう言われればそうだな」
いまのいままで気にしたことがないような反応だった。
「いったい、それがどうしたというのだ? 孝臣の嫁さんだったのは知っているが、言われてみて、あらためて思い出したていどのことだ。あいつとは、ほとんど他人なんだから」
表情に変化はない。本当に上原については興味がないようだ。もしそれが本心だとしたら、起源の推理は破綻することになる。
現時点では女性犯人説が有力になりつつあるが、もし当初のイメージどおり男性が犯人だとするなら、起源はこの野島謙吾を疑っていた。
「訊きたいことはそれだけか?」
「……」
「では、次は私の番だな。金輪際、息子や妻には接触しないでもらいたい。どんな理由があれ、それを破ったら、こちらも強硬な手段に出させてもらう」
そう告げて野島は、起源の顔をうかがうように眼を細めた。
「といっても、素直に従うつもりはないのだろうな……君のことは調べさせてもらった。感染症の原因をつきとめる仕事のようだが、厚労省でも困っていたぞ。強引な調査、命令違反……札付きのトラブルメーカーらしいな」
ひどい言われようだった。
「だが、いくら君でも、今度だけはよく考えるのだな。私の父が、だれだかは知ってるね?」
絵に描いたような恫喝だった。
「そんな顔をするな。私だって言いたくはない。これが、どれほど恥ずかしいセリフなのかもわかってるつもりだ」
そうであっても、政治家としてはこうすることが正しいのだ──まるで、そう語っているかのようだ。
「父にかかれば、君の所属する組織ごと潰すこともできるだろう」
そこで、野島の顔色が変わった。
「なにを笑っている?」
そう指摘されて、はじめて起源は自分の口許に笑みが浮いていることを知った。
「私の言っていることを冗談だとでも思っているのか? いや……さすがに君でもそれはないか……」
起源は、それについて言い返すことはしなかった。もちろん、野島の言葉に屈したということではない。
起源にとって、権力者の事情など意に介すことではないのだ。
「ああ、それとさっきの弟の話だがな、こっちはべつにかまわんが、あまりつっつくのもおすすめしない」
唐突に野島が話をもどした。
「孝臣のことをほじくり返すということは、いま話題になっている元の奥さんについても触れるということだし、その娘についても同じだ」
さきほどの恫喝よりも、よほど効果があるといえた。
「どうやらその娘と君は、懇意にしているようじゃないか」
「咲子さんは、上原さんとのことを知っていますか?」
「妻には教えていない。もしかしたら、噂で耳にしたことがあるかもしれんが」
「では、如月美幸さんは?」
「そこまでは知らない。が、普通は知っているんじゃないか? 結婚相手には肉親のことは告げるだろう?」
自身は告げていないのに、野島はそう語った。
「もう一つ教えてください」
「なんだね?」
「あなたは、如月さんに対して、特別な感情をもっていますか?」
「ん? それはどういう意味だ?」
野島には意味が伝わらなかったようだ。起源の推測は、完全にはずれたことになる。
「いえ、なんでもありません」
「では、もういいな」
野島は、席を立ちかけた。
「あ、そうそう」
まだなにかを言おうとしていた。
「孝臣のことが秘密でもなんでもないんだから、そんなことは考えないと思うが……」
「?」
「そんなとぼけた顔をするな」
「なんのことですか?」
「孝臣の娘と関係があるのなら、知ってるんだろ?」
「だから、なんのことですか?」
そこで野島は再び、コホンとわかりやすい咳ばらいをした。
「私には孝臣と同じようにもう一人、妹がいる」
妹……女性。
ひらめくものがあった。
「もしかして、その方は……教育の……」
「なんだ、やはり知ってるじゃないか。いっとくが、それも親父は認知してる。女癖の悪さは永田町では有名だが、むかしはおおらかな時代だったな。いま私がそんなことをやったら、一発でアウトだ」
実際にはやっていることを起源は知っているが、当の本人は妻である咲子が暴露しているなど夢にも思っていないようだ。
それに、野島謙一郎のころも女性スキャンダルは致命的だったはずだ。時代ではなく、野島謙一郎が特別だということだ。それだけ与党内での権力が絶大なのだ。
「その方の名前を教えていただけますか?」
「紗江のことか?」
「その紗江さんは、教育関係者ということでいいんですよね?」
野島自身のように、官僚だろうか。だとすれば、文科省の教育に関する部署だろう。それとも野島咲子のように評論家……。
「あ? なにをいまさら……知っているんだろう?」
「いいえ、知りません」
「それこそ、教育関係者そのものだよ」
あくまでも回りくどい言い方に、少し苛立った。
「教師だよ。高校の教師だ」
起源の背筋に、ゾクッと寒気が走った。
「いまは女子高にいる。孝臣の娘の女子高だ」
「……その方の苗字は?」
「細谷だったか、細川だったか……すまんな。兄妹とはいえ、あまり興味がないからね。腹違いなんて、そんなものだよ。他人とかわらん」
自嘲ぎみに野島は言った。
* * *
あれからどうも、さちの自分を見る眼がちがっていた。それとも気のせいだろうか……?
「なんなの?」
授業中も、休み時間も、それ以外も、とにかくチラチラと見られている。声をかけても瞳をそらすだけで、ここのところ会話らしい会話をしていない。桐谷とのことを反対しているから根にもっているのだろうか。だが、そんな視線ではないような……。
「あのさ、なんか言いたいことがあんなら、いいなよ!」
たまらずに、風花は声を荒げた。
放課後。これから帰宅するところだ。まだ教室には数人が残っていた。
「ほ、ホントに言っていいの?」
思いがけず、そんな言葉が返ってきた。
「え? なんなの? 言いたいことがあるなら言いなよ。ってか、いつもよけいなことまで口にするよね?」
「……」
しかし、さちにはためらいがあるようだ。
「言わないんだったら、わたし、帰るよ」
「まって……ここじゃ」
周囲を見回して、さちは囁いた。
「場所をかえろってこと?」
コクンと、うなずいた。仕方がないので、風花は教室を出た。放課後の廊下を、人けのない方向へ歩いていく。
音楽室や美術室がある区画だった。部活のために行き来する生徒はいるが、一般教室のほうよりもだいぶ人の姿は少ない。
「ここ入る?」
視聴覚室が空いていたので、そこに入った。授業では使ったことはない。いったい、なんのために利用されているのかもわからない部屋だった。
「で、なにを話したいの?」
「あ、うん……」
ここまで来ておいて、さちはいまだ踏ん切りがつかないようだ。
風花は、ため息まじりに、さちの言葉を待った。
「あのね……驚かないでね?」
つくづく、さちらしくない。
「わかった。驚かないから」
「あたしね……気づいちゃったんだ……」
「?」
「あたし、好きになったの……」
「……わかったわよ、あんたが桐谷のこと好きになったのは……でも、わざわざこんなところまで来てする話?」
あきれながら、風花は言った。
「ちがうの……まえから好きだったことに気づいたの」
「? まえから知ってたの?」
どこか話がヘンだ。
「彼が気づかせてくれたの……」
「彼ってだれ?」
いや、それはわかっている。桐谷のことだ。
桐谷が気づかせてくれた……? なにを?
「あんたが好きなのは、だれ?」
「風花……」
「え?」
いつものさちとはちがい、乙女の眼をしていた。
「あたしが好きなのは、風花!」
頭が混乱した。
なんだ、これは!?




