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23 日曜日午前十一時
風花の近くに犯人が近づいているのだとしたら、やはり一番に疑うのは、となりの男子校になるだろう。桐谷翔という男子生徒がHIVに感染している。
だが桐谷本人ということは、もちろんありえない。彼に感染させた人間が元凶とみるべきだ。
そこで疑問がある。
彼に感染させたということは、その相手は、女性ということになる。その場合、上原に対する嫉妬で如月美幸を狙ったのだろうか?
いや、そうではない。そもそも如月美幸が感染したのは、離婚をしてからだ。つじつまがあわなくなる。
では、個人的な恨みなのだろうか?
人気のアナウンサーなのだから、その可能性もある。どんな動機があるにしろ、女性から男性への感染は、その逆にくらべれば難しい。もし本気で恨みを晴らすために男性を感染させているのだとすれば、その犯人は恐ろしく執念深く、遥かに遠回りできるだけの忍耐力を有している。
はたして、如月美幸を狙っているというのは飛躍しすぎているだろうか?
起源のこれまでの読みは、こうだ。
感染させた男性を経由して、如月美幸を感染させた。そしていま、同じ方法で風花に迫っている。
この推理が、どれほど的を射ているのだろう……。
考えれば考えるほど自信がなくなってくる。が、それに反して、頭のどこかで確信を強めている自分もいる。
それもこれも、上原と如月美幸が肝心なことをはぐらかしているからだ。
それはつまり、自分自身でたどってみろということなのだ。
ルーツをだどる。
なんだ、いつものことじゃないか。
起源はそう思うことで、気楽な心境になっていった。
今日は日曜日。起源は、すくなくとも身体だけは休むことにした。本当は頭も休息させたいのだが、あとからあとから考えが湧き出てしまう。
「ねえ、どっか行かないの?」
たいくつそうに、さちが話しかけてきた。
まぶしげな陽光が、窓の外を彩っている。もう少しすれば、直接室内にもさしてくるだろう。
さちは、昨夜の上原一家の面談から、そのまま泊っていった。風花もいるが、今朝起きてからとくに会話はなかった。
「行かない」
「せっかくの休みなんだから、どっか行こうよ」
「行きたければ、どうぞ」
『勝手に』の部分を削除して口にした。
「風花は?」
「あ、わたしはいい。ここにいる」
それからしばらくして、さちは出かけていった。どこに向かったのか、またここにもどってくるつもりなのかはわからない。
部屋に、二人が残った。
「気にしてる?」
なにも会話がないのも気まずかったので、言葉を選んで話しかけた。
風花から返事はなかった。
あの少年のことと、母親のこと、両方の意味をこめていた。
「べつに」
おくれて返事がきた。
また沈黙。だが、長くは続かなかった。
「鳴ってますよ」
起源の携帯だった。知らない番号からだ。
「もしもし?」
『……わたしよ』
最初、だれだかわからなかった。
「野島さんですか?」
昨日、起源のほうから電話をしているから、こちらの番号も記録されていることになる。
「どうしました?」
どこか、切羽詰まっているように聞こえた。
『息子が……』
その声のトーンで直感した。
「発病しましたか?」
『……みたいです』
「早く病院へ」
『わたしどうしたら……』
「だから、早く病院へつれていってください!」
起源は、強く言った。
「近くに救急病院はありますか!? なければ、すぐに救急車を呼んでください」
日曜だから、通常の病院はやっていない。
「できれば、いまから言う病院がいいです」
これまでに感染した四人が入院している二つの病院名を告げた。
『その病院なら、知っています……院長が主人の知り合いなので』
一方の病院について、咲子は答えた。
「では、そちらへ。おれもむかいます」
そこで通話は終わった。
「どうしたの?」
風花にそう問われたが、彼女にも漏れ出た声で察しがついているはずだ。
「あの子が感染した」
「いまから病院へ行くの?」
「ああ」
「わたしも行く」
「キミは、ここにいたほうがいい」
「イヤ! わたしにも責任あるもん」
風花は激しく拒絶した。
「あの子が感染したことについては、キミの責任じゃない」
「でも、わたしの前で食べたのよ!」
「昨日食べたものが原因じゃない。そんなに早くは発病しない。あの少年の言っていたとおり、以前から自分でも食べてたんだろう」
そのときの細かな状況は、風花から耳にしていた。
「それでも……わたしをつれてって」
起源は、ため息のように吐き出した。
「わかった」
* * *
病院についたのは、午後一時だった。救急外来があるようで、日曜のはずなのに院内は驚くほど人がいた。
受付で起源が問い合わせているときに、さちから電話がかかってきた。最近は大丈夫なところも増えたようだが、病院では携帯の使用をひかえるのが一般的だ。電源も切っておくべきだったが、そこまで頭がまわらなかった。
風花は、いったん外へ出た。
「もしもし?」
『ねえ、いまどこいるの?』
「病院」
『え? どうかしたの?』
「ううん、そういうわけじゃない」
説明が面倒だったので、それだけしか言わなかった。
『あのさ、いま──』
「あ、ごめん! あとでかけなおす」
ちょうど、受付と会話を終えた起源がキョロキョロとあたりをうかがっていた。
突然切ってしまったが、どうせ重要な話ではないだろう。
風花は自動扉をくぐった。
「どうかしたのか?」
「さちから電話があったの」
「なんだって?」
「聞いてない。あとでかけなおすから」
起源の足が、病院の奥へ向かって動いた。
ロビーとはちがって、進めば進むほど人の姿がなくなっていく。これが本来の、休日の病院のあるべき光景だ。
処置室の前についた。長椅子に、女性と男性が座っていた。どちらも見たことのある人物だった。
一人は、昨日会っている。あの運転手だ。
もう一人の女性は、テレビで眼にしたことがあった。これまで名前は知らなかったが、この女性が教育評論家の野島咲子なのだろう。
「野島さん」
起源のほうから声をかけた。
「症状が出たんですか?」
「ええ……ひどく頭が痛いって」
野島咲子が、風花に気づいた。
「そちらのお嬢さんは?」
「あ、昨日の……」
運転手が思い出したようだ。咲子に耳打ちして説明している。
「そう。息子をさがしてくださったの……でも、ここにいるってことは、佐竹さんの知り合いなのよね? 偶然通りかかったわけではないのね」
「ごめんなさい」
風花は、頭をさげた。
「騒動になったのは、わたしのせいなんです」
「あなたの?」
「記者にいじめのことを話したのは、わたしです」
「……」
咲子の表情は変わらなかった。
「あの子がバカなことしてたのは、あの子自身の責任よ。あなたのせいじゃない。それに、もっと責任が重いのは、わたしよ。親なのにね」
本当の子供ではないことを知っているだけに、複雑な気持ちになった。が、それを口にするわけにはいかない。
「あれ?」
そこで咲子は、なにかに思い当たったようだ。
「そういえば、見たことあるわね」
「たぶん、ネット画像だと思います。母のことで」
「母?」
「わたしの母は、如月美幸です」
「ああ。だから昨日、あなたは如月さんから番号を教えてもらえたのね?」
起源にそう問いかけていた。
「でもわたしは、ネットニュースなんて観てないわ」
だとしたら、どこで見たことがあるというのだろう?
「思い出したわ。如月さんから娘の写真をみせてもらったのよ。それで見覚えがあったのね」
そこで一瞬、会話が途切れた。
「それはそうと、あなたのお母様もたいへんね。うちもたいへんだけど」
「母は大丈夫だと思います」
「そうね。あの人なら、大丈夫でしょうね。まあ、何回か仕事をしたってだけの仲なんだけど。わたしのように、偽物じゃないわ」
「偽物?」
自虐しているのはわかったが、それでも風花は聞き直してしまった。
「だって、自分の子供をこんなにしてしまうなんて」
たとえ実の子ではなくとも、母親としての責任は感じている。
が、それが世間体を気にしてのものか、教育評論家としての矜持なのか、女性のもつ母性からなのかは推し量れなかった。
処置室から医師が出てきた。
咲子が立ち上がった。
「先生」
「かなりの重症だと思われます。広東住血線虫症でまちがいないでしょう」
「どれぐらい重いのですか?」
「脳炎を発症してるかもしれません。その場合……最悪の事態も覚悟しておいてください」
そう言い残して、医師は去っていった。とても残酷な光景だと思った。
すぐにストレッチャーにのせられた少年が運ばれていく。
「手術になるの?」
風花は、小声で起源に問いかけた。
「この病気は、手術できない。抗生物質の投薬で鎮めるしかないんだ」
では、このまま入院して経過を待つしかないということか。
「あなたの危惧したとおりになったわね。そんな責めるような眼で見ないでちょうだい」
起源の瞳はたしかに厳しかったが、彼女を責めているわけではないことを風花は感じていた。
「ご主人は?」
「いろいろと多忙なのよ、あの人は」
強烈な嫌味をふくんでいた。
「国政をめざすうえで、今回の騒動は、なにかとたいへんでしょうね」
そして他人事のように、そう続けた。
風花は、どんな表情をとればよいのかわからなくなった。
「いいのよ。あなたのせいじゃないし、そんな顔しないでちょうだい。病気に感染したのはあの子自身の責任だし、いじめ騒動にしてもそう。主人の立場が危うくなったことも、子供の問題と真剣に向き合わず、それどころか学校に圧力をかけていたあの人自身のせい……」
最後に野島咲子は軽く頭をさげて、これから入院することになる病室へと向かっていった。
風花と起源は、その後姿をただ黙って見送った。




