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22 土曜日午後六時
約束の時間が近づいたので、起源は自宅アパートに向かっていた。その途中で、風花から連絡があった。
問題の少年──野島謙吾の子供が迎えの車から逃げ出し、風花も行方をさがしていたという。一度は少年をみつけだしたのだが、結局は逃げられてしまった。そのさいに、少年がナメクジを食べるところを目撃したということだった。
わたしは、どうすればいい?
風花は、そう問いかけてきた。
もう自分で家に帰っているかもしれないから、風花にも部屋にもどれ、と伝えた。それでも戸惑っていたので、おれのほうから野島咲子に連絡して確認しておく──と安心させた。
野島咲子には会っているが、番号は知らない。そこで、上原に電話をかけた。野島咲子に連絡をとりたいと相談すると、電話には如月美幸が出た。どうやら、二人して起源の部屋へ向かっていたようだ。
彼女は野島咲子と共演経験があり、実際にかけたことはないそうだが、番号を交換しているという。
彼女から番号を聞いて、起源は野島咲子にかけた。
『どちらさま?』
「佐竹です」
『ああ、このあいだの。どうやって、この番号を?』
「そんなことより、いまどちらにいますか?」
『え? 車のなかよ』
「自宅に息子さんが帰っているのか確認してください」
『ああ、そのこと。運転手から報告はうけています。車から逃げたんですってね』
「そうです」
『心配無用よ。運転手がつかまえて、もう家についたそうよ』
「そうですか……」
『国立感染症研究所の調査員は、子供の素行にも興味があるの?』
「いえ」
どこか深刻さの欠けた野島咲子を短い返事でたしなめてから、起源は続けた。
「いいですか、息子さんは、広東住血線虫症に感染しているおそれがあります。すぐに受診してください」
一瞬、彼女の応答が途切れた。
「わかりましたか?」
『ええ。忠告として聞いておくわ』
「忠告ではありません」
『命令、ということかしら』
「要望です」
『でしたら、それは主人次第よ』
「子供のことですよ!?」
あのとき断言はしなかったが、咲子の実の子供ではないのだろう。だから、冷めている。しかしそれでもいまは母親なのだから、もっと真剣にならなければいけないはずだ。
『佐竹さん、よしましょうよ。わたしに、そんな普通の感情がないことぐらい、もうわかってるでしょう?』
彼女は、隠そうともせずに言った。
「……」
こうも開き直られると、なにも言い返せなくなる。
『こんなに本心を語るなんて、主人にもないわ』
起源の沈黙を無視して、野島咲子は続けた。
『どうしてかしらね? 一回しか会ってないけど、たぶんあなたには隠せないと思ったんでしょうね』
「隠せない?」
『あなたには、必ずつきとめられる……そう感じたのよ。あなたは感染源だけでなく、人の本質までを丸裸にする』
「……」
『教育評論家としての勘よ。まあ、わたしの言うことなんて、あてにならないと思ってるでしょうけど』
「……とにかく、病院にだけは行ってください……わかりましたね?」
そう念を押してから通話を終えた。
それからしばらくして、自宅に到着した。風花も、上原と如月美幸もまだ来ていなかった。部屋には、川越さちだけがいた。
「風花は、いっしょじゃないの?」
「もうすぐ帰ってくるだろう。それより、どうして彼女を外に出した?」
さちには、風花を外出させないよう留守番させていたのだ。アルバイト料も払っている。
「だって勝手に出ていっちゃったんだから、しょうがないじゃん。あの子を止められるわけないでしょ」
たしかに腕力ではそうかもしれないが、さすがに友達に暴力をふるうことはないだろう。
「ご両親も、もう来るぞ」
それでもさちは、テレビを観ながらくつろいでいる。
「あ、そう」
「まさか、キミ、いるつもりか?」
「あったりまえじゃん。こんなおもしろいこと、見逃すわけないじゃん」
「むこうが嫌がるだろ」
「あたしは、友達代表ってことで」
さちは、動じたふうもない。
それから三分ほどしたころに、携帯が鳴った。上原元夫妻がアパートの前に到着したという連絡だった。部屋番号を教えて、入ってくるように伝えた。
「お邪魔するよ」
部屋に入った上原は、興味深そうに室内を見回していた。
「狭いのね」
如月美幸のほうは、遠慮なくそんなことを口にしている。
「あら、あなたは?」
「風花の親友です。川越さちっていいます。いつもテレビ観てます!」
さちが、嬉々として挨拶をした。さちとニュースの相性が良いとは思えないのだが、《ミッキー》フリークを自称しているところをみると、本当に観ているのだろう。それになにより如月美幸の知名度は、高校生にも通用するほどのものなのだ。
あらためてそう考えると、そこまでの有名人が自分の部屋にいるということに現実味がわかなかった。
「風花は?」
「まだ帰ってません。今日は家にいろと言っといたんですが……」
「あの子が、おとなしく男の言うことをきくわけないじゃない。もし、あなたが本気であの子とやっていくつもりなら、覚悟しておくことね」
一瞬だが、語気と眼つきが厳しい母親のものになった。
「だれに似たんだろうねぇ」
上原が、火に油をそそぐようなことを言ってしまった。如月美幸が、そんな元夫をからかうような瞳でみつめた。
「だれに似たって言いたいの?」
上原が困ったような顔を向けてきたが、起源は無視をした。巻き込まれるのは、ごめんだった。
そのとき、静かにドアが開いた。
冴えない表情で、風花が立っていた。
「ねえ、どうだった?」
「もう家に帰ってるって」
起源は、野島咲子から聞いたことを伝えた。
「そうだったんだ……」
しかし、それでも風花の様子は晴れない。
「病院に行けと忠告もしておいた」
「わたしのせいなんだよね……」
「病気にかかってるかもしれないことは、キミのせいじゃない」
「ちがう。こんな騒動になったこと」
起源にもわかっていたが、あえてそう言ったのだ。
「いまさら後悔しても遅い。もうやってしまったことなんだから」
「なに、その言い方……もうちょっと、やさしく言ってくれてもいいじゃん!」
こういう態度を見るたびに、彼女がまだ子供だということを思い知らされる。
「まあまあ、二人とも、ケンカしないで」
「あの少年のことか?」
なだめようとするさちを押しのけるように、上原が声をかけた。そこで風花はようやく、両親がいることに気づいたようだ。
「ママ……」
「久しぶりね、風花」
彼女の感情が、さらに複雑なものとなった。起源には、それがよくわかる。まだいっしょに暮して数日だが、それでも心の動きを察知できるまでになっていた。
「あの少年て、野島さんの?」
風花は返事をしなかった。母親に対して、捨てられたと思い込んでいた彼女と、病気のことで迷惑をかけないようにする配慮だったと知った彼女とが、葛藤しているようだった。
かわりに、起源がうなずいた。
「はい」
「そう……野島さんも、たいへんなのね」
「野島咲子さんとは親しいのですか?」
「番号を交換したぐらいよ。共演は一回しかないし……二回だったかな」
起源は、言おうか言うまいか悩んだ。
「実の子ではないようです」
プライバシーに関することを軽々しく口にするべきではないが、起源一人の胸にとどめておいても、あの親子にとってはプラスにならない。社会的信用のある如月美幸にこそ打ち明けるべきだろう。
「え!?」
驚いていたのは、風花のほうだった。
「連れ子とか、養子とか、そういうこと?」
「実の子じゃない」
高校生に真相を聞かせるわけにもいかず、起源は、はぐらかすつもりで同じ言葉を繰り返した。
「だから──」
「風花!」
さちが察してくれた。大人である上原も如月美幸も、当然ながら意味を理解している。しばらく、風花だけが取り残されていた。
それでも、すぐに思い至ったようだ。
「それって……」
「まったくぅ、風花はお子様なんだから」
「あの子は知ってるの?」
「どうかな……」
起源は正直に答えた。
野島咲子の子供に対する態度は、赤の他人から見ても冷めている。ともに暮していれば、いかに小学生とはいえ、なにか感じるものがあるかもしれない。
だからこそあの少年は精神バランスを崩して、いじめなんてしているのかもしれない……起源はそこまで考えて、それをすぐに打ち消した。いまの世の中、いじめは簡単におこなわれる。いじめる側に理由はないし、どんな家庭環境で育った子供でも加害者になる。
少年の親子関係と、いじめ問題、そして住血線虫症に感染しているかもしれないということは、分けて考えるべきだ。
「いまは、そのことはいい。自分の家族と話し合うんだ」
そのために、この場をもうけたのだ。もとはさちの提案だったが、いまでは起源もよかったことだと考えている。
「それじゃあ、おれたち外に出てます」
起源は、さちに目配せした。
「え、あたしも?」
「あたりまえだろ」
さちの襟首をつかんで強引に出ていこうとした。
「いいのよ。いてくれても」
そう言ったのは、如月美幸だった。同席されるのを一番いやがるだろうと思っていたが、そうではなかった。
「そうだよ。君は、もう他人じゃないんだし」
ニヤついた顔で、上原も続けた。
「お友達も、いっしょにいてかまわないのよ。風花も、そのほうがいいんじゃない?」
風花がうなずいた。
「やった!」
よろこびに瞳を輝かせて、さちは部屋に座り込んだ。といっても、けっして広くはないから彼女を隅のほうに追いやった。
小さな丸テーブルを囲むように三人には座ってもらった。起源とさちは壁に背中をあずけて、三人の邪魔にならないように配慮した。
あくまでも、主役は風花たち家族だ。
「わたしをパパに押しつけたのって、ママの病気のせい?」
しばしの沈黙を破ったのは、風花だった。
* * *
風花は、母親をみつめた。
テレビ画面越しでは何度か見ているが、こうしてじかにということになると、いつ以来になるだろう……二年前に家を出たときだ。よく覚えている。覚えているはずなのに、どこか曖昧だ。
「恋人がいるっていうのも、嘘だったんでしょう?」
「本当よ。つきあってる男性がいるの。それで、あなたをこの人にあずけたの」
「嘘いわないで!」
風花は声を荒げた。
「わたしのため!? わたしに迷惑がかかるから!?」
「ちがうわ」
母が、それを認めないことはわかっていた。
「感染経路について、本当のことを話してくれませんか?」
起源が割って入ったのは、堂々巡りになる会話に水を差すつもりだったのかもしれない。
「昨日も答えたけど、話すことなんてないわ」
「いえ、あなたは、だれかをかばっている。あなたは、犯人を知っている」
「犯人?」
風花自身が、かつて『犯人』と口にしたことがある。しかしあらためて耳にしてみると、とても非現実なイメージだ。
本当に、そんな悪意の塊のような人間がいるなど信じられないのだ。
「犯人の目的は、不特定多数じゃない。あなたです」
風花は、その言葉を恐怖を抱きながら聞いていた。
母親の顔を凝視したが、とくに表情は変わらなかった。それがむしろ、起源の推理の信憑性をうかがわせた。
「で、あなたはそれをだれだと思うの?」
「それはわかりません」
「では、わたしも答えられないわ」
「この期におよんで、そんなことを言ってるんですか?」
起源の語気が、こころなしか強くなっていた。
「お嬢さんにも危険が近づいているんですよ」
「危険て……」
つぶやいたのは、さちだった。
「どういうこと、キゲンさん?」
「HIV感染の行き先を追えば、風花さんに近づくはずです。二年前はあなただったが、いまの標的は彼女です」
風花は息をのんだ。昨日も聞いている言葉だが、耳にすればするほど、おぞましくなる。
「昨日会ったときは、まだ自信をもってないようだったけど、なにかあったのね?」
「風花さんへのデマが怪文書として出回り、個人情報がマスコミに流れています」
「……どれぐらい近づいてると思うの?」
「まだ周辺としか……」
風花には、思い当たることがあった。
「男子校の……」
桐谷という男子のことだ。
近づいている……。
「わたしも……狙われてるってことだよね?」
起源は返事をしなかった。
「どうやって? どうやって、わたしに?」
風花は素朴な疑問を口にした。
起源の推理どおりなら、風花も感染させられるということだ。空気感染する病気ならべつだが、HIVでそれはありえない。
「あくまでも可能性の話だ……」
ようやく起源は答えた。
言葉とは裏腹に、彼は確信している。風花には、そう思えた。
「如月さん」
起源は、母に向き直った。
「それでも、真実を言わないつもりですか?」
「この子に迷惑はかけないわ」
「たぶん、あなたのことが週刊誌に出たのも、その犯人の仕業なんでしょう?」
今度は、母が返事をしなくなった。
「そして、上原さん」
次いで起源は、父のことも見た。
「あなたも、それに気づいている」
「それほど全体が見えているわけじゃないさ」
謙遜するように、父は言った。
「だれなんですか?」
「君は、だれだと思う?」
またここでも、不毛な問答が続けられようとしていた。
「パパ、ママ!」
風花は鋭く呼びかけた。
「佐竹君、君の懸念はもっともだ。娘の安全がかかっている。だがね、証拠もなく人を疑うわけにはいかない」
結局、父も母も、真相を語らなかった。
起源は、それを見越していたのだろうか。しつこく食い下がるようなことはなかった。風花は納得できなかったが、ここでがなりたてるのは、ひどく子供じみた気がして、できなかった。
話は、いまの住居のことに移っていた。
「ここで暮らしていくつもりなの?」
母の瞳には、嫌悪と好奇心が入り混じっていた。母にとって、この部屋が犬小屋のように狭く感じるのはわかっている。三人がいっしょに暮していたころのマンションは、いまから考えれば贅沢すぎるほどの広さだった。
父と離婚してからも母とそこに住んでいたが、風花が父と住むことになったときに、その部屋から母が引っ越したことは知っている。おそらく、いまも高級な部屋に住んでいるのだろう。
一方、父との家は標準的な広さしかなく、それで免疫のできていた風花は、起源の部屋を最初に見たときも、こんなものだろうとしか思っていない。
「いいところじゃないか」
父親のフォローが、虚しく狭い空間に反響した。
「ま、わたしがなにか言えた義理じゃないわね」
母は、自虐的にそう口にすると、より眼つきが真剣なものになった。
「いっしょに住むからには、ちゃんと責任はとるんでしょうね?」
その質問に、二人して沈黙した。
「覚悟があるのなら、親公認の仲ってことでいいわよ」
無責任なことを言い出した。うちの両親はそれでいいかもしれないが、起源にも親はいるだろう。
そこで思い至った。起源の家族構成など、なにもわからない。というより、彼のことをなにも知らないではないか。
「いっしょに住んでるだけで、なにもないからね!」
一応、そのことは言っておいた。だが両親とさちは、信じてくれない。いや、そうではなくて、そんなことは些細な事柄だと思っているようだ。
それから話し合いは、他愛のないものへ移っていった。久しぶりの家族三人は、部外者が二人いたとはいえ、とても平穏なものだった。




