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21 土曜日午後三時
上原一家のことは今夜まで置いておくとして、起源はいまやるべきことを頭のなかで整理した。
任務として動いているのは、二件。小学生たちの感染した広東住血線虫症。そして、故意の感染が疑われるHIV。
住血線虫症のほうは本来なら原因を特定し、報告をすませた段階で終了したはずだが、いじめ問題にまで波及してしまったので、そうもいかない状況が続いている。
とはいえHIVのほうが、現在の重要度は高い。起源は、そちらのほうの調査を進めることにした。
いろいろとたてこんでいたから思うように調べられていないが、それでも少しは進展があった。
これまでの感染者への聞き込みで、坂巻まなみと天野早紀という二人の女性の名前があがっていたが、そのうち坂巻まなみについては感染していないことが確認されている。
もう一人の天野早紀については名前以外不明だが、出会った場所が池袋で、例の地域ではなかったことから、これまで注目はしていなかった。それが、べつの感染者からもその名前が出たことで、その流れが変わった。出会った場所も、今回のHIVが蔓延したエリアのなかにある駅前の居酒屋だった。
行きずりの女性ということで、当初のイメージは水商売、もしくは、もっとストレートに風俗嬢かと考えた。だが、この居酒屋の証言をしてくれた男性の話によると、お堅い職業の女性ではないかという。むろん、その男性の印象でしかないが、軽そうな女性ではないということだった。
店はまだ営業前だったが、起源は入店した。
「ごめんなさい、まだなんですけど」
法被のようなユニホームを着た女性が応対した。
「土曜日は四時からなんです」
女性店員は、レジ奥の壁に貼られていた案内に手を向けてそう言った。店の営業時間などが記されている。それによると、月曜が定休日で、平日は五時、土日は四時からになっている。閉店時間は曜日に関係なく、深夜一時までのようだ。
「客ではないんです。こういう者なのですが」
起源は、名刺を差し出した。
「は、はあ……」
店員は動きを止めて、起源のことを凝視した。
「天野早紀さんという女性をご存知でしょうか?」
「名前を言われても……」
戸惑うのも当然だった。こういう店で、客の名前まで把握していることはないだろう。予約を入れる場合も、ほとんどが名字だけだし、新年会や忘年会の幹事でもしないかぎり、予約をして居酒屋に来る客自体が少ないはずだ。
「あの、なんの調査なんでしょうか?」
「感染症についての調査です」
「は、はい!?」
飲食店で口にするには誤解を生むような言葉だが、嘘を言ったり内容をごまかすような説明をするほうが、相手の口は重くなるものだ。
「わ、わたしでは対応できませんで……」
やはり誤解をしたようで、女性店員は奥へ引っ込んで男性をつれてきた。三十代半ばで、ここの店長のようだ。
「なんですか!? うちが食中毒を出したっていうんですか!?」
「いえ、ちがいます。それは保健所の管轄です」
起源は、店長へも名刺を渡した。
「国立感染症研究所……なんですよね!?」
「そうです。われわれがあつかうのは、感染症です。食中毒ではありません」
ケースによってはそうなることもあるが、今日この店に来た理由はちがう。
「では……どういった用件で……」
起源は、質問を繰り返した。
「名前を言われてもわからないです……」
答えまで同じだった。
「写真とかはないんですか?」
そんなものがあったら、調査はこんなにも難航していない。起源は首を横に振った。
念のため、この店で出会ったと証言した男性の名前を告げた。
「やっぱり……名前だけじゃ……」
店長の答えを聞くまでもなく、無駄なことなのはわかっていた。
だが──。
「その人なら知ってますけど……」
最初に応対した女性店員がまだ話を聞いていたようだ。
「仙田さんでしたら、何度か予約を入れてもらいましたから」
「その男性と親しくしていた女性は知りませんか?」
「あー、あの人かなぁ……」
見込みのありそうな反応だった。
「ほら、店長、いつも一人で来る」
「あー、あのおひとり様!」
店長にも覚えがあるようだ。
「どんな女性ですか?」
「どんなっていわれても……ごく普通の女性です。一人ってこと以外、かわったところはありません」
「男性といっしょにってことはないんですか?」
店長は、女性店員に眼を向けた。
「ないと思います」
その女性店員が答えた。
「では、仙田さんとは、この店で知り合ったということでしょうか?」
「そこまでは……」
女性店員は、困ったように声をもらした。
「仙田さんと飲んでるところも、一回だけ見ただけですから」
「その《おひとり様》が、ほかの男性客と飲んでいるところを見かけたことはありますか?」
「わたしはありませんけど……」
彼女は、さきほどとは逆に、店長へ救いを求めるような視線をおくった。
「あ、そういえば、あるな……」
店長が思い出したようだ。
「どのお客さんかまでは覚えてないけど、あります。男性と飲んでました」
「最近も来てますか?」
「どうだったかなぁ……」
店長の次の行動が読めたので、起源は先回りして、女性店員を見た。
「最後にいらしたのは、三ヵ月ぐらいまえですねぇ」
HIVの検査で陽性反応がでるまでには、感染から二ヵ月ほどかかる。店長の目撃した男性客が、今回の感染者のだれかである可能性は高い。だが、まだ発覚してないべつの第三者かもしれない。
はたして《おひとり様》が、天野早紀なのだろうか?
それとも、まったくの別人なのか……。
どちらにしろ、その《おひとり様》が感染源であるのかを明らかにしなくてはならない。写真があればいいのだが、店内の壁を見回しても、それらしいものは貼っていない。こういう居酒屋では、常連客たちとの和気あいあいとした写真を飾ってあるとこもある。
防犯カメラもダメだろう。設置はされているようだが、三ヵ月前の映像はさずがに残っていないはずだ。
「その女性について、なにかほかに覚えていることはありませんか?」
すがるように、起源は二人に訊いた。感染者である男性からの証言は、これ以上期待できない。なんとか食い下がって、ようやくここの情報を聞き出せたのだ。
二人は、困ったような表情になっていた。
「容姿は? 髪の長さは?」
「美人といえば美人だしぃ……髪の長さも、長くもなく、短くもなく……」
「どちらかというと、地味目な方です」
二人は、どうにか絞り出してくれたが、あまり参考にならない証言だった。
「あ……」
「どうしましたか?」
女性店員の表情が固まった。なにかを思い出したようだ。
「……たしかじゃないんですけど」
そうことわりを入れてから、彼女は答えてくれた。
「めずらしく、べつのお客さんと飲んでるときでした。でも男性じゃなかったです。そのとき、学校に勤めてるって話してました」
「先生ということですか?」
「そこまでは……ただ学校に勤めているとしか……でも、料理運ぶときにチラッと耳にしただけですから。べつのお客さんの話だったかもしれません」
もし問題の女性が学校の職員だとしたら、思い当たることがあった。人物の心当たりではない。今回……そして、二年前のことが故意の感染だとすれば……さらに、如月美幸がターゲットにされたのだとすれば……。
起源は、いくつかの場所を頭に思い描いた。そのなかに、元凶がいるのかもしれない。
* * *
広い公園だから、なかなかみつからなかった。いや、そもそも園内にいるともかぎらない。が、ほかにあてがないのだから、ここをさがすしかなかった。
運転手ともはぐれているので、風花一人でさまよっているかのようだ。
「え?」
風花は眼を見張った。
樹木の密集するエリアで、だれかが手招きをしていた。その人物が着るTシャツの文字が、浮かび上がるように風花の瞳に飛び込んできた。
『WHO ARE YOU?』
それはわたしのセリフだ──と思いながら、風花は人物に近づいた。例の男だ。起源の仲間だということは知っているが、名前など詳しいことは教えてもらっていない。
「なにしてるんですか!?」
Tシャツ男は、ある方向に指をさしていた。
「あ!」
いた。例の少年だ。
水路のほとりに少年が立っている。
「ねえ、キミ!」
風花は呼びかけた。
少年は、睨むような視線を向けた。
「なにやってるの……?」
「オレは、なにもやってない」
いまのことではなく、一連のいじめのことを言っているようだ。小学生が「オレ」と口にすることはめずらしくないが、政治家の息子だと知っているからか、少し違和感があった。
「あなたが原因で、友達が病気になったのよ」
「あんなのは、いじめじゃない」
「まだわからないの!? あなたのやったことで、悪い菌に感染したの!」
実際には菌ではなく寄生虫なのだろうが、子供にはわからないと思い、風花はそう伝えた。それに風花自身もよく理解していない。
「知ってるよ。これだろ?」
少年の指には、あるものがつままれていた。
「これに寄生虫がいるんだろ」
「そうよ。だったら、わかるでしょ? あなたのやったこと」
「わからない」
風花は、子供とはいえ怒りを感じた。
「どうして、わからないの!?」
「それぐらい、オレもやってるから」
そう言って少年は、指に挟まれたものを口のなかに入れた。
「やめなさい!」
あわてて少年に駆け寄った。
しかしそのときには、もう咀嚼していた。
「吐き出しなさい!」
少年が口を開けた。そこには、なにもなかった。飲み込んだあとだ。
「なんてことするの!」
「いままでに、何匹も食べた。だから、オレは悪いことしてない」
「病院に行くわよ!」
「イヤだ!」
少年が走り出した。風花は追った。子供はすばしっこいが、空手の有段者である風花の脚力にはかなわない。
「キミも感染したかもしれないわよ!」
「そんなことない」
自分だけは大丈夫だと考えている愚か者だ。そして、いざ感染してから、この世の終わりのようにうろたえるのだ!
風花はそう思いながら、自身のことに当てはめた。自らの感染ではないが、母親がHIVに感染し、いまうろたえている。
そうだ。この少年が、心のなかまで平然としていられるわけがない。まともな人間なら、罪の意識を感じている。
この少年の行動も、正常な判断を失っている結果によるものだ。
少年の肩をつかむ風花の手の力が、ゆるんだ。
「イタッ」
一瞬の隙で、足元を蹴られた。
「ちょっと!」
少年は、風のように去っていった。
「待ちなさい!」
追いかけようにも、思い切り蹴られたようだ。痛くて全力では走れない。
「追いかけて!」
すぐそばにいるはずのTシャツ男に呼びかけた。
だがそこには、だれもいなかった。
まさしく、神出鬼没の影のような人間だと思った。




