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20 土曜日午前十時
風花たちの高校は休みだった。起源の仕事は休みではなかったが、感染源究明室の事務所はあいていない。事務員だけが休みとなる。とはいえ、調査員と補佐も独自の判断で休む場合もあるので、ある意味、曖昧な曜日ということになるだろう。
起源は、本日も調査にあてようと考えていた。おそらく《ニンジャ》中川も、なにかしらの活動をしているはずだ。
「いろいろと、ご苦労だったね」
さきに店で待っていた上原のほうから声をかけてきた。
テーブルには少しだけ湯気のたったコーヒーが置かれていた。冷めかけているようだが、手をつけた様子はない。
上原の向かいに腰をおろした。
「紅茶を」
「ホットですか、アイスですか?」
「ホットを」
口早に注文すると、上原に視線を合わせた。
以前も来たことのある中目黒のカフェだった。
「見たよ、これ」
上原は、液晶に映し出された画像を、起源にかかげた。
そこには、毎日鏡のなかにいる男が写されていた。起源自身だった。昨日の、女子校前での騒動の一コマだ。
「よく撮れてるじゃないか」
上原は、いつものように軽口をたたく。
自分の娘も写っているというのに、のんきなものだとあきれながら感心した。しかし風花のほうは、顔がわからなように加工されている。ただの一般人の未成年だとわかったいまとなっては、素顔を載せるわけにはいかなくなったのだ。
あの記者は、最初の風花の写真だけでは懲りなかったようだ。やはり、如月美幸の娘という「うまみ」は捨てられないのだ。たとえ素顔は隠されたとしても、すでに世に流れてしまったあとだから、風花だということはまるわかりだ。
今朝、この画像を見た風花は、しかしあまり怒っていなかった。記事には、如月美幸の娘と交際している男性と書かれていた。そのことだけでも怒り狂いそうだが、そうならなかったのは、べつの記事によるものだ。
都議会議員と教育評論家の夫妻『N』の小学生になる息子がいじめ問題を起こし、さらにそれが原因で広東住血線虫症にかかった子供がいる──という内容だった。少しでも世間を知っていれば、それが野島謙吾・咲子夫妻のことだとわかってしまう。
風花がリークしたものであり、同じ記者が書いたものだ。だから風花の怒りは薄かったのだ。自らの記事には眼をつぶるということなのだろう。
「あの子はどうしてる?」
「今日は、おとなしく家にいるはずです」
もちろんその家とは、起源の部屋だ。
記事のこともあるし、とにかく外には出るな、と言い聞かせてきた。それほど効力があるとも思えなかったが。
「これから、どうするつもりですか?」
「どうって?」
上原は、とぼけたように答えた。
事態は上原の予想どおりに進んでいる。ということは、やはり上原はすべての根源を知っているのだ。
「あなたの言ったとおりになりました。もうそろそろ、本当のことを話してください」
「そうだね……あ、それはそうと、例の小学生のほうも進展があったようだね」
ダメだった。いつものように話題を変えられた。
「そっちのほうも、あの子がやらかしたんだろ?」
「なぜ知ってるんですか?」
「いや、ほら、書いた本人から聞いたから」
「え?」
書いた本人ということは、あの記者から直接聞いたということだろうか?
「あのネットニュースの運営会社は、もとはおれもよく仕事をしている出版社が母体なんだ。いまじゃ関係は切れてるみたいだが、それでも少しは顔が利く」
「その記者には怒らなかったんですか?」
「怒りはしないよ」
上原の表情からは、本心はうかがい知れない。
「それよりも、君のほうが心配だ。子供のいじめ問題が表沙汰になったということは、リーク元が君だということはわかってしまうだろう」
リークしたのは風花なのだが、上原はあえてなのかそう言った。
「これで完全に、野島謙吾……いや、野島謙一郎に睨まれることになるだろう。まあ、本当に睨まれるのは、報道した記者のほうだろうがね。彼の勇気も相当なものだ」
その言葉からは、起源に対する気遣いよりも、記者に対する賞賛のほうが高いように感じた。
「……今日は、その話はいいです」
起源は話題をもどした。
「ここまでおおごとになったわけですから、一度ちゃんと話をしましょう」
「ほう」
「お嬢さん──風花さんといっしょにです。もとの奥さんもまじえて」
この提案は、川越さちのものだった。昨夜泊ったさちが口にしたものだ。
当初は風花と如月美幸が会うのは反対だったが、周囲の人間に親子だとバレたいまとなっては、そのほうが良いと起源も判断した。
「おもしろいことを言うね」
冗談とでも思ったのか、上原の様子は、あいかわらず不謹慎で軽い。
「今夜にでもどうですか?」
起源は話を進めた。
「おれのほうはかまわんがね」
元妻──如月美幸の都合がつけばいいと言っているようで、その裏では、都合がつくはずはないから、そんな話し合いをすることはないと考えているように思えた。
「今晩は、帯でやっているニュースはないはずです」
平日だけのはずなので、スケジュールは空いているだろう。浅はかな予想かもしれないが、起源はそのことを口に出した。
「……わかった。おれのほうから、彼女には連絡しておこう」
観念したように、上原は言った。
「で、集まるとして、場所はどこにする?」
「どこか良い場所はありませんか?」
「君の家でいいんじゃないか?」
思いがけない提案をされた。
「え?」
「だって、風花も住んでるんだ。そのほうがいいだろ? おれとしても、どういうところに娘が住んでいるのか気になるところだ」
「狭いですよ」
「かまわんよ」
あくまでも自分本位の言葉を上原は口にした。上原は良いとしても、如月美幸はどうなのだろう。それになによりも、起源自身の都合は考えてくれないのだろうか?
「時間は、七時でいいかい?」
ついには、上原が仕切るまでになった。
こうして、上原家の家族会議が開催されることになった。
* * *
起源からは、一歩も家から出るなと言われていた。だが風花に、おとなしく従うつもりなど毛頭なかった。
風花の通う仙道女子学園は基本的に土曜は休みだが、学校によっては普通にやっているところもある。いま気になっているのは高校のことではない。小学校のことだ。
風花は、例のいじめっ子が通う小学校にやって来た。風花の女子校にも近い場所にある。どうやら土曜でも普通に授業があるようだ。公立とはいえ名門校だから、そんなものかもしれない。
時刻は正午過ぎ。授業は午前までなので、帰宅する児童があふれるように校門から出てくる。
いつもの下校風景ではないようだ。どこかものものしく、教職員が過剰なまでに見送っている。さらに部外者と思われる集団が、子供たちを遠巻きに観察している。まるで獲物を見定めているサメの群れのようだ。
その群れのなかに、見知っている人物をみつけた。あの記者だ。
むこうのほうでも、風花に気がついた。
「やあ、どうも」
近づきながら、なれなれしく声をかけてきた。
「取材?」
「きみのおかげだ。野島謙吾の息子のいじめが原因で、あの奇病がおこったなんて、うちだけじゃなく、ほかの社も注目してるよ」
嬉々として記者は言った。とても不謹慎に聞こえた。
「でも、大丈夫なんですか? 相手は小学生でしょ?」
さすがに風花も、ここまでになるとは考えていなかった。
「一般の子相手なら、おれだってあんな派手に煽り立てたりはしない。だが、政治家の子供なら話はべつだ。政治家は私人じゃない」
「でも、子供は政治家じゃないでしょ」
「べつに子供の本名や素顔を出したわけじゃない」
「わたしの素顔は出しましたけどね」
風花は嫌味を挟んだ。
「それについては、あやまる。きみのお父さんにも謝罪した」
「パパと会ったんですか? 知合いですか?」
「知り合いってほどじゃないが、同じ記者だから名前ぐらいは知っていた」
どんなことを父と話したのか少し興味はあったが、そのためにここへ来たわけではない。
「あなたたちは、その子の顔を知ってるの?」
「いや、顔まではわからない。ちょうどよかった。きみ、教えてくれよ」
そう言って記者は、子供たちのほうに顎をしゃくった。
「教えません」
「そりゃないだろ、もとはきみの情報なんだ」
たしかにそうだが、小学生のことを売るわけにはいかない。
「きみは将来、モデルになるの?」
突然、記者が話題を変えた。
「はあ!? まだそんなこと言ってるんですか?」
「じゃあ、アナウンサーになるんだな?」
記者は、なぜだか決めつけていた。
「だって、きみぐらい美人だったら、絶対なにかにはなろうとするだろう?」
この記者にとって「なにか」というのは、芸能人やアナウンサーのようなメディアに出る職業のようだ。
「……」
風花は、なにも答えられなかった。将来について具体的に考えたこともなかったし、否定しようにも、美人と言われて否定しづらくなってしまった。
「両親のように報道でやっていくなら、ヘンな仏心は捨てたほうがいい。いいか、そのガキはいじめで重い病気を感染させたんだ。三人は軽いようだが、四人目は重症のようじゃないか」
「だからって、そこまでする必要はないでしょう?」
起源に圧力をかけ、子供を放任している親には懲らしめてやりたい衝動はあるが、いくら生意気な子供でも、マスコミの餌食にするのは気が引ける。
「まあ、いい。こっちだって、素人じゃない。調べればすぐにわかることだ。それよりも、きみ」
記者は、そこで声をひそめた。
「われわれの関心は、きみの彼に移ったぞ。きみが一般の女子高生だとわかったいま、いくら如月美幸の娘でも、これ以上、追いかけはしない。だが、きみの彼はべつだ」
「彼って……」
あきらかに、恋人という意味のカレだ。
「昨日の彼だよ」
「そんなんじゃありません!」
「いいか、きみは一般人だと主張するだろうが、厳密にはちがう。如月美幸の娘なんだから」
「カレじゃないし、あの人だって芸能人じゃないんですから、マスコミに追いかけられるのは迷惑です!」
「彼のことは少し調べた。国立感染症研究所に属する機関で働いているんだってな。感染源の究明が任務だという……」
記者の眼は、好奇心にわいていた。
「今度のことで、野島謙一郎と対立することになる。まったくもっておもしろそうだ」
「おもしろがるなんて、悪趣味です」
「絵になるね、彼」
「……」
なぜだろう。まるで自分が褒められたような気分になった。
「近いうちに、表舞台に立つかもしれんな」
起源が……?
風花は頭のなかで想像してみるが、想像しきれなかった。
思考は中断した。校門の前に、黒塗りの高級車が停まったのだ。瞬間的に、野島家のものだとわかった。
校門から出てきた少年が、それに乗り込んだ。記者たちはそれがだれだかわからないが、風花は知っている。
「あれか?」
しかし、記者にもわかってしまったようだ。こんな大層な迎えがあるのでは、勘の悪すぎる人間以外なら予想ができてしまう。
普段は徒歩で通学しているはずだが、この事態に運転手付きの車を用意したのだろう。むしろ、いつもの登校風景のほうがおかしかったのかもしれない。都議と教育評論家の息子で、与党の重鎮の孫になるのだ。
風花はとぼけてみせたが、そんなごまかしはプロの記者には通用しなかった。その記者が車に近寄って、同行していたカメラマンがシャッターをきった。まわりの報道関係者も、それにならう。
後部座席の窓には遮光シールが貼られていたが、それでもかまわずに写真を撮っていた。風花は、記者たちの行動が信じられなかった。いくら大物政治家の孫でも、まだ幼い小学生相手にこんなことをするなんて。
「やめろ!」
思わず、記者たちの群れに飛び込んでいた。
レンズの前に手を置いて邪魔をした。
「ちょっと、こら!」
ひと騒動おこしているあいだに、車は発進した。
「追うぞ!」
こういうことを想定して、バイクも用意してあったようだ。
各社、車を追いかけていく。
「こんなことは、やめてください!」
残っていた記者たちに詰め寄る女性がいた。年齢は六十歳ぐらいだろうか。
「子供を追いかけまわすなんて、厳重に抗議させてもらいます!」
「いじめ問題については、どうお考えですか!? 校長先生ですよね!?」
記者たちには、女性の抗議など聞こえていないかのようだ。
「校長として、どのように責任をとるおつもりですか!?」
記者の追及に、校長だという女性は顔を赤くさせた。
「当校に、いじめなどありません!」
この期に及んで、そんなことを言っている。風花は、ただただあきれた。これ以上、見苦しい言い訳や、それに群がるハイエナの姿を見るのはしのびなかった。
小学校から遠ざかると、自宅へ(起源の部屋へ)向かった。駅へ行く途中、必然的にあの公園のなかを通った。
「ん?」
土曜の昼間、人の姿は多い。そのなかで、異質な存在があった。スーツ姿の男性だ。年齢は三十代から四十代。その年代の男は、風花の眼には同じように見えてしまうから、細かな年齢は当てられない。
どこか慌てて、周囲をさがしている。きちっとした身なりの男性と、その行動がとても違和感があった。
「どうかしたんですか?」
思わず声をかけてしまった。やめておけばよかったと、少し後悔した。
「あ、いや……なんでもありません」
男性は、息を切らしながらそう答えた。
「なにか探してるんですか?」
「そういうわけでは……」
そこまで言ったところで、考えを変えたようだ。
「あの、小学生を見ませんでしたか? 赤い服を着た」
瞬間的にわかった。
あの子だ。
「いなくなっちゃったんですか?」
「は、はい……」
男性は、曖昧に返事をした。おおかた、車が信号待ちでもしているときに、勝手に降りてしまったのだろう。
「わたしもさがしましょか?」
「あ、いえ……」
「遠慮しないでください!」
風花は男性をなかば無視して、さがしはじめた。こんなことになった責任も感じていたし、あの少年に言いたいこともあった。




