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2 月曜日午前十時
国立感染症研究所──『NIID』と略称される研究施設は、新宿区の戸山庁舎と、武蔵村山市の村山庁舎、東村山市のハンセン病研究センターからなる。
佐竹起源の所属する『感染源究明室』は、しかしそれらにはない。いわば分室であり、新設されたばかりのセクションだ。
研究が目的ではなく、あくまでも感染源の調査である。これまでにも同様の係官はいたのだが、その究明は致死率の高いものや、治療法がないものに限られていた。
今回のように、梅毒で動くことはない。そういう案件でも調査をするのが、起源の任務だった。
研究所では、細菌第一部第五室が泌尿生殖器系細菌をあつかっている。起源の調査結果はそこにもたらされ、研究データとして蓄積されていくことだろう。
あくまでも、治療をしたり、病の根絶をめざすものではない。起源の仕事は、徹底的に『たどる』ことだ。
「はい、はい……そうですか。確認ありがとうございます」
事務員の大木静香が、電話連絡を終えたところだった。
感染源究明室のオフィスは、一般的な事務所とかわらない。研究施設ではないから、ものものしい設備などもない。広くもなく、国立の施設としては、かなり物足りない印象が強い。
所員は、調査員が二名。調査員それぞれにつく補佐役が二名。事務員が一名。責任者になる室長が一名。計六名が働いている。
起源は、その調査員の一人だ。ただし、もう一人の調査員と補佐は海外での任務が多いので、ほとんど顔を合わせたことはない。
さらに室長も厚労省からの出向で、限りなく天下りに近い。それゆえ、滅多に顔を出すことはなかった。
「江藤愛莉さんが受診されたそうです。梅毒に罹患していました」
大木静香の報告を耳にしても、起源に達成感はなかった。
「あまり関心はないみたいですね。佐竹さんの興味は、たどる、それだけなんですね」
静香の指摘どおりだった。
起源の思考は、単純だ。もとをたどる、ただそれだけ。原因を追及し、元凶をつきとめる。それをしなければ、とにかく気持ちが悪いのだ。
幼いころから、そうだった。どんなことでも、たどっていった。たとえば、自分のルーツ。自分はだれの子孫で、そのおおもとにはだれがいるのか。答えは出ない。詳細な家系図があったとしても、そのおおもとにも、親がいて、子孫がいる。それをたどろうとすれば、進化論に行き着いてしまう。
進化論についても、それが正しいのかは断言できない。タイムマシーンでもなければ、進化の過程を正確に言い当てることはできないはずだ。いまの学術は、研究者の推論でしかないのだから。
起源は学生のころ、疫学に興味をもった。ウイルスの感染経路の解明こそが、たどることの究極ではないかと考えたのだ。
それなのに、なぜ医学者や研究者にならなかったのか?
その答えもまた、単純明快だ。起源は、コテコテの文系なのだ。理数は鬼門。たどる、という思考も、むしろ哲学的なアプローチのものだった。
大学も文系なので国立感染症研究所との接点はないはずだった。それがどう転がったのか、起源は調査員という名目で、国立の研究機関にたずさわっている。
《たどる》こだわり。そのことの情熱は、だれにも負けない自信があった。
それにはもう一つ、起源の背負った宿命がそうさせるのだ。
起源には、未来がない。
余命宣告されたとか、そういう深刻なものではないのだが、ある理由からそうなってしまう。ハンデを負っているとは思っていないが、未来よりも過去に眼がいくのも仕方のないことなのだ。
「彼女とつきあっていた男たちは?」
「いまのところ、来てないそうです」
起源は落胆した。あの男たちのだれかが、海外から梅毒を持ち込んだ可能性がある。むろん、国内でも数年前から患者数が増えているから、そのラインのいずれかの系譜かもしれない。
もっと《たどる》ことができれば、元の元──発生源まで逆上ることができるかもしれない。
もどかしかった。海外まで行き、それをつきとめたいが、そうもいかない。もう一人の調査員は危険度の高い感染症を担当しているから、海外での調査も認められている。
が、おもに性感染症や身近な病をあつかう起源の活動範囲は、国内に限定されていた。この仕事をしていれば、徹底的にたどれるものと思っていたが、現実はそうなっていない。
「まあ、これから受診するかもしれませんよ。提携する病院は伝えてあるんですから。それとも、ちがう病院に行ってる可能性だってあります」
慰めるように、静香は言った。検査をうけていないことだけに落胆していると考えているようだ。
「あ、そうじゃないんですね? 気にしてるのは」
ようやく彼女も悟ったようだ。
「佐竹さんも、病気みたいなものですね」
遠慮なく静香は口にした。
年齢は三十歳前後、起源よりも年上だが、年下のような口調で話す。見た目も、年下のようだ。まだ二二、三歳の新卒にしか見えない。本省にいたというキャリアを知らなければ、絶対に年上とは思えないだろう。眼鏡が似合っているが、それをはずせば、もっと幼く感じるはずだ。
「否定はしません」
起源は、感情を込めずに言い返した。
次いで、コンビを組む相棒の行方が気にかかった。
「中川は?」
「もう一つの調査に向かってます」
ここ数日、東京都のごく狭い地域で、原因不明の症状を訴える患者が出ている。発熱、吐き気、全身のだるさ──感染症の疑いがあった。
その調査依頼が、今朝もたらされた。調査員補佐の中川陽介が、さっそく動いているようだ。
中川は口数が少なく、影のように行動する。陽介、という名前がまったく似合っていない。
通称『ニンジャ』。
「小学生二名が入院している病院に行っていると思います」
べつの病院にも一名が入院しているそうだから、計三名ということになる。
「原因は、まだ?」
「いまのところは」
起源は手早く支度をすませて、中川を追った。ニンジャの姿をとらえるためには、こちらも迅速に動かなければならない。
事務所の外は、淀んだような曇り空だった。
* * *
江藤愛莉は、学校に来ていない。
あれから三日。土曜日に病院へ行くということだった。検査をうけるためだ。あの男、佐竹から病院を紹介されていた。彼の所属する組織名は忘れたが、そこと提携している病院らしく、検査料が安くすむということだった。
結果が出るのにどれぐらいの時間がかかるのかわからないが、もしかしたら陽性だったのかもしれない。だから今日も休んでいるのだ。
風花も、梅毒のことを少し調べてみた。現在では死に至ることはなく、ほぼ性行為でしか感染しない。なので学校に来たとしても、ほかの人にうつす心配はない。
しかし、もし自分だったら……と思うと、休むのは仕方のないことかもしれない。性病にかかるだけでも恥ずかしい。それをクラスメイトに知られてしまったのだ。
いや、それよりも病気のまえに、あんな乱れた男女関係を恥じているのか……。
いまでも、意外すぎて信じられない。人間は外見や雰囲気では判断できない、の典型のようだ。
「江藤さん、今日も休みなんだ」
素朴にそう言ったのは、前の席の川越さちだった。交友関係の薄い風花の、たった一人の親友と呼べるクラスメイトだった。
「先週、どっか行ってたよね、二人で」
「うん」
風花は、気のない返事をした。あの日のことは思い出したくもない。
(でも……)
思い出したいこともあった。
佐竹起源という男。
なぜだか、強く記憶に残っていた。
「どしたの?」
さちが、軽い口調で問いかける。
「なんでもないよ」
「まだ、家出中? はやく帰んなよ」
そうなのだ。風花は現在、家を出ている。
江藤愛莉のあやしげな誘いにのったのも、そのためだった。彼女の部屋に泊めてもらうことを条件についていったのだ。
結局、あの騒動のために愛莉の家へは行けず、ネットカフェで週末をすごした。
「ねえ──」
と、風花が口にした瞬間、かぶせるように、
「あ、ダメ! 今日はダメ。明日もダメ」
さちから、必死に断られた。
「まだ言ってないし」
「どうせ言うじゃん」
そのとおりだった。
さちの部屋には、家出してから五日ほど泊まらせてもらっている。最初のころは、さちも喜んで招いてくれたのだが、いまではあきらかに迷惑がっている。
「いいかげん、仲直りしなって」
「べつに、ケンカしたわけじゃない」
父親とのことだ。
「もともと相性がよくないの」
「カッコいいパパじゃん。うちとくらべたら、月とスッポン、ダイヤモンドとミドリガメだって」
「ただの仕事バカ……もう、あの人のことは考えたくない」
風花は、その話題を一方的に打ち切った。
今夜の泊まる場所は、またネットカフェになりそうだった。