18
18 金曜日午前十時
起源は、上原に急ぎ連絡をとり、風花の母親──如月美幸の住所をたずねた。直接会って話すことが必要と判断したのだ。
如月美幸は、起源も知っている中目黒のマンションから、いまでもすぐの場所に住んでいるという。
到着したのは、十時三十分ごろだった。
人気キャスターにふさわしい高級マンションだった。風花と住んでいたころの部屋よりも、ランクが上がっているようだ。報道が出ているにもかかわらず、マスコミの人間は見当たらない。
上原のほうから話がいっていたので、有名人とはいえ、会うのは簡単だった。室内に通されると、おたがいがとってつけたような挨拶を交わした。
「お忙しいところ、すみません」
「久しぶりね。また会うことになるなんて思わなかったわ」
こうしてあらためて彼女と面談すると、あの教育評論家の野島咲子と雰囲気が似ていると感じた。年齢でいえば、彼女のほうが十歳ほど上になる。どちらともメディアに露出があるからか、洗練された美貌の持ち主だ。
「その後、おかげんはどうですか?」
適切な言葉なのかわからなかったが、起源はそう声をかけた。
「ふふ、もっとほかにないの?」
如月美幸は、吹き出していた。
「……」
「わたしは、なんともないわ。治療は順調よ。こうなってみて、しみじみ思うけど、医療の進歩ってすごいわね」
悪戯っぽく、彼女は言った。
「で、今日は?」
いろいろあるので、なにから切り出していいか迷ってしまった。
「上原さん……もとのご主人から、ぼくのことは?」
「知ってる。あの子と住んでるんでしょ?」
そのことを知ってもらっているだけでも気が楽になった。
「ちゃんと、責任はとってくれるんでしょうね?」
少しきつめの口調で言われた。
「……なんの責任ですか?」
「もちろん、一生をともにする覚悟よ」
ますます困った方向に会話は進んでいった。
「……」
「冗談よ」
追い込まれたと思っていたら、彼女は笑みをたたえた。
緊張がとけた。
「でもあの子、かわいいでしょ?」
その返事にも困った。
「そうですね」
否定するわけにもいかなかったので、そう答えておいた。
風花のことを女性として意識をしたことはないが、客観的に見れば、たしかに美人ではある。
「今日うかがったのは、二年前のことです」
彼女は意外そうな顔をした。
「二年前? あの調査は、まだ続いているの?」
「いえ、あのときで終了しています」
「では、なぜ?」
「今回の件と、関係があるかもしれないからです」
「……どういうこと?」
「おかしいと思いませんか?」
「なにが?」
「あなたのことが記事になったことです」
HIVに感染しているということが、このタイミングで表沙汰になった。
「マスコミって、そういうものよ」
硬派な報道と、下世話な週刊誌ではちがいはあるのだろうが、同じマスコミということで彼女の言動には説得力があった。
「佐竹さん……でしたよね? あなたは今回のこと、どういうふうに考えてるの?」
「何者かの悪意を感じます」
「悪意?」
「そうです」
「なにに対しての?」
「あなたにです」
二人のあいだに緊張感が生まれた。
「それはつまり、わたしへの悪意で、いろいろなことがおこっているということ?」
「もっと具体的に言えば、あなたに感染させるために、すべてが仕組まれていたということです」
起源は、勇気をもって告げた。
確信があることでは、無論ない。だが、いままでに心の奥底で湧き出していた懸念だった。
「では、二年前のことは、わたしを狙ったことだというの?」
「……」
明言は避けた。
「もしかして……いまも?」
「詳しくは言えませんが、二年前と同じことがおこっているかもしれません」
「……風花があなたといっしょにいるのって……それと関係があるの?」
それまであった彼女の余裕が、瞬く間に消えた。
やはり母親だ。起源は思った。
「それはまだわかりません。ただ……」
「ただ?」
「上原さんは、そう思っているのかもしれない」
「あの人……父親としてはダメだけど、ジャーナリストとしては鼻がきくから」
「信憑性があると?」
「さあ、どうかしらね」
話題が上原のことになったからか、彼女の表情から強張りがなくなった。
「仕事は、通常どおりですか?」
「もちろんよ」
「感染を発表はしないのですか?」
「いずれは、することになるでしょうね。だからといって、すぐに降板することはないはずよ」
あくまでも、すぐには、ということだろう。
「ま、すべてはスポンサーの判断でしょうね」
降板させることで差別ととられることを危惧するかもしれない。昨今のようにデリケートな時代は、どちらに民意が転ぶかわからない。
現在においてHIVに感染したということは、性行為での感染ということになる。当時の彼女は、すでに上原と離婚していたから不倫ということではない。が、イメージとしてよくないのは事実だ。
はたして視聴者が彼女の非難にまわるか、擁護にまわるか……。
それによって、彼女の今後も大きくかわってくる。そしてそれは、風花にとってもいえるかもしれない。
「もしあの子に迷惑がかかるようなら、もう顔向けできないわね」
「二年前にも訊きましたが、相手はだれだったんですか?」
「それは、教えたでしょう?」
以前の調査が頓挫したのは、それが原因だった。彼女があげた名前は、三人いた。よく言えば恋多き女だが、だいぶ奔放な女性だと起源は感想をもったものだ。
しかしその三人は調査の結果、HIVに感染していないことがわかっている。考えられるのは、まだ話していない相手がいるということだ。
「本当に、あれですべてだったんですか?」
責めるように起源は問いただした。
「わたしをどんな女だと思ってるの?」
三人の男と関係をもっているだけでも少しどうかと思うが、それともその常識が古いだけで、ごく普通のことなのだろうか……。
「隠している人がいるんじゃないですか?」
「なんのために隠す必要があるの?」
「その男性を守るためです」
「その相手のことを守ろうとするのなら、逆に言うんじゃないの? だって、その人が感染のことを知らなかったら、もっと大変なことになるかもしれない。一日も早く検査してもらおうとするんじゃない?」
「普通じゃないってことでしょう」
「わたしが?」
「その相手のほうかもしれない」
この推理が正しいのかわからない。だが、彼女がなにかを隠しているのはまちがいないだろう。二年前は曖昧にされたが、今度はそういうわけにはいかない。
そのとき、起源の携帯が鳴り出した。
「いいわよ」
彼女がそう言ってくれたので、起源は出た。
川越さちからだった。
「どうした? いま授業中だろ?」
『ううん、いまは休み時間』
時計を確認したが、昼休みには早い。授業と授業の合間の短い時間のことだろう。
起源自身は、もう学生のころをあまりよく覚えていない。授業が何分間で、休み時間が何分だったのかもあやふやだ。夏休みの開始が七月二十日からだったのか、二五日だったのかも、よく思い出せないほどだ。それとも、二一日だったか。
「どうした?」
『うん……じつは……』
さちにしては言いづらそうにしている。
「なにかあったのか?」
彼女がわざわざ連絡してくるということは、風花のことでなにかがあったのだ。
『学校で、バレちゃってるの』
声をひそめるように、さちは言った。
「バレてる?」
『母親のこと』
「どうやってバレた? 彼女の家庭事情を知っている生徒がいたのか?」
『わかんない……とにかく、学校中で噂になってる。メールとかで怪文書みたいのが回ってんの。風花とは名指ししてないけど、如月美幸の娘がこの学校にいるって』
「……」
『ね、どうすればいい?』
「どうもしなくていい。普通にしてるんだ」
『それ、冷たくない?』
「そんなこと言ったって、おれにだってどうすることもできない」
『母親のことだけじゃない……』
「え?」
『怪文書では、娘もHIVに感染してるって書いてある』
「そんなのは、デマだ」
『わかってるけど、風花は不安になってる……ねえ、なんか言ってあげて』
「……わかった。そこにいるなら、かわってくれ」
『いまここにはいないの。それに電話じゃダメ。直接会ってあげて! い~い? おねがいよ』
困ったことを要望されてから、電話を切られた。
「……」
「……わたしなんかより、あの子のほうが大変みたいね。行ってあげて」
電話の声が漏れ聞こえていたのか、如月美幸は言った。
そのときになって、起源はなにかの胸騒ぎを感じていた。
* * *
針のむしろに包まれているようだった。
なにをしていても、どこにいても、突き刺さるような視線に襲われている。何者かに狙われる恐怖というものを、はじめて知った。
教室の自分の席にいるだけなのに、クラスメイト以外の気配も感じていた。そんなはずはない。学校内に部外者が入り込めるはずはない……。
だが、何者かの瞳が向けられている。
午後の授業がはじまって、しばらく経っていた。担任の細井の授業だ。
オーバーかもしれないが、生きた心地がしなかった。これから、なにかがおこる……。いや、すでに巻き起こっている。そんな予感があった。
細井の授業が終わり、次の授業までの準備時間になった。
周囲の視線が、さらに厳しいものになっていた。
「風花!」
さちの声が、異常事態を告げていた。
「これ……」
またSNSで、情報が拡散しているのだろうか?
「え?」
それは、画像だった。
「それ……なに?」
「ネットニュース……」
風花も信じられなかったが、さちも同じように信じられないようだ。
風花自身の写真だった。
『都内の女子校に通う、如月美幸の娘』
という注釈がついていた。
「な、なんなの……?」
ネットニュースということは、怪文書のようなたぐいではない。平気でフェイクニュースをたれ流す媒体もあるだろうが、ある程度の権威はあるだろう。つまりは、取材対象へのルールも存在しているはずだ。
だが画像の風花には、モザイク処理や目線などは入っていなかった。素顔が、しっかり写っている。
「ホントに、ニュースなの?」
茫然としながら、風花はつぶやいていた。
どうやらテレビ局や新聞社、有名出版社のウェブ版というものではなく、ネットニュース専門の会社が運営しているらしい。
「こんなことしていいの……?」
「そうだよね……風花、一般人だよね?」
さちも、わけがわからなくなっているようだ。
画像は、登校時のものらしい。当然のこと制服は毎日同じだから、いつ撮られたものかは判断できない。
「これ、抗議できるよ!」
そう言われたが、どこに抗議をすればいいのだろう?
すぐには思いつかなかった。
このニュースサイトを運営している会社ということになるのだろうが、新聞や雑誌とはちがって一見しただけではわかりづらい。
連絡方法も、電話をかけるべきなのか、メールを送るべきなのか……。直接、抗議に行くのだとしても、場所はどこだろう?
調べればわかるはずだが、どうにもそこまで頭が回らなかった。
「ね、風花パパにおねがいしてみたら!?」
それが良いアイディアなのかどうかも理解できなくなっている。
風花の頭は、思考停止においやられていた。
いつのまにかさちは自分の席にもどっていて、次の授業がはじまっていた。気がついたときにはそれも終わっていて、帰宅時間になっていた。
「風花、とにかく帰ろう」
「う、うん……」
言われるままに、教室を出た。
廊下を通り、階段を下り、玄関で靴に履き替えていた。たくさんの生徒に混じって、風花は校門へ向かった。
まわりの眼が自分を見ていると感じた。ただの錯覚なのか、本当にそうだったのかは確かめなかった。
校門を出ると、フラッシュの光に瞳を射抜かれた。
「上原風花さんですよね?」
見知らぬ男に声をかけられた。
二人組の男たちだ。その風貌を見れば、記者なのだとわかる。しかも、あまり上品な媒体ではない。下世話な雑誌だと思われる。
「なんですか!?」
攻撃的に、風花は応えた。
「お母さんが大変なことになってるね」
親しげで、それでいて無遠慮に男の一人が言った。この男のほうが記者で、もう一人がカメラマンのようだ。
「なんのことですか?」
風花は、とぼけてみせた。周囲の人間に疑われているといっても、まだ風花自身はだれに対しても認めていない。
「如月美幸の娘なんだよね?」
「だれが言ったんですか?」
「とぼけてもムダだよ。マスコミの取材力をナメちゃダメだ。君が娘で、モデル活動してることもわかってるんだから」
「え!?」
素っ頓狂な声をあげてしまった。
「モデル……?」
「事務所入ってるんでしょ? 将来は、お母さんみたいにアナウンサーめざしてるの?」
「なに言ってるんですか? わたし、一般の学生ですけど」
「嘘は通じないよ」
しかし記者は、信じてくれない。
「あの! ちゃんと確かめてるんでしょうね!?」
さちが援護してくれた。
「風花は、モデルなんてやってません!」
「またまた」
いっこうに真に受けない記者を前にして、風花は深くため息をついた。素顔のまま写真が出た理由がそれかもしれない。
「言っときますけど、わたし本当に一般人ですから!」
「え……嘘だよね?」
「そんなことで嘘言って、なんになるんですか? もしモデルやってたら、進んで売り込もうとするのが普通でしょ?」
記者が、自身の考えに不安をおぼえたのがわかった。
「君……、一般の子!?」
「もしかして、ネットニュースもあなたですか!?」
強く非難するように、風花は声を発した。
「……い、いや」
「確認とかしなかったんですか?」
さちも追い打ちをかける。
「ま……まさか、そんな……」
「名刺を渡してください!」
「え……」
記者は、あきらかにうろたえていた。ヤバいと思っているのだろう。
「渡してくれますよね? ちゃんとした会社の人なら、持ってますよね?」
「な、なんに使うつもり?」
「もちろん抗議するとき、証拠になるでしょう?」
「いやぁ……いまは持ってないんだ」
「いいから、はやく渡して!」
記者は、しぶしぶと名刺を手渡した。
たしかに、あのネットニュースを運営している会社のようだ。社員ということなのか、フリーという立場で一時的に契約しているだけなのかわからないが、例のサイトのURLも記載されている。
「だれからわたしのことを聞いたんですか?」
その人物が勘違いしていたのかもしれない。
(ちがう……)
風花はすぐに思い直した。
故意に嘘をついたのだ。
「だれですか!? だれがわたしのことを!」
「だれって……」
記者は、答えるのをためらっていた。その人物をかばうというよりも、騙されたことがわかって、途方に暮れたようだった。
「ねえ、風花……」
さちが耳元で囁いた。
「すごく注目されてる」
そのときだった。記者とカメラマンから守るように、風花の前に何者かが立ちふさがった。
「キゲンさん!」
さちの声が、風花の心まで弾ませた。
「おかしい」
起源が言った。風花から顔は見えない。背中を見ながら、その声を聞いた。
「おかしい?」
「ああ。一連のことには、だれかの悪意がある。そして……その悪意は、キミのお母さんじゃない……キミ自身に向かってる」
そこで起源は振り返った。
その言葉が、風花の奥底に深く突き刺さった。