17
匿名の告白③
あの方との出会いは、わたしの復讐心を変えるほど、強烈なものでした。
暗く、澄んでいる憎悪。
あの方を見ていると、光の輝きも黒く、どんよりとすべての感情を歪めてしまう。
これほどまで世を憎んでいる人は、あとにもさきにもこの方しか知りません。
あの方は、わたしの正体に気づいていました。
そうです。自らわたしの仲間になりたいと望んだのです。
こんな愉快なことはありませんでした。
わたしは喜んでその方を仲間にしました。
わたしは、どちらともできますから──。
はたしてあの方が今後、どのように生きていくのか、楽しみで楽しみで……。
わたしの復讐心は、どこかへ行ってしまいました。
いえ、憎しみの心がなくなったわけではありません。
ただ、憎しみよりも、あの方の動向をうかがうことに快感を求めるようになったのです。
HIVキャリアになって、はじめて明るい未来を想像できた。
わたしは、あの方のやることに注目し、陰ながら協力していくことにしたのです。
17 金曜日午前六時
電話の音で眼が覚めた。
起源の携帯だけではない。風花の携帯も同時に鳴り出した。
寝る部屋はべつだが、広くない家なので、おたがいの会話が聞こえてしまう。
起源の相手は、上原だった。
「え?」
同時に風花も、同じような反応をしていた。
起源は慌てて、風花のいるリビングに行った。ベッドで寝るか、リビングで寝るかは、一日ごとのかわりばんこにしようということになった。昨晩は風花がリビングだった。
彼女はちょうど、テレビをつけていた。携帯を耳にあてているから、その相手から起源が聞いたのと同様のことを伝えられたのだ。
テレビは、朝の情報番組をやっていた。時刻は六時二十分。ワイドショーは各局八時ごろからだが、その番組内でも芸能情報をやっていた。
『今日発売の一部週刊誌で、フリーキャスターの如月美幸さんが、HIVに感染していると──』
「ど、どういうこと?」
風花の茫然とした声が、テレビ音声にまじって流れた。
「このことを知っていましたね?」
起源は上原に言った。
彼は、このタイミングで報道が出ることを知っていたのだ。同じマスコミだから、情報も自然に入ってくるのかもしれない。
ああ、と短く返事をしたあと、むこうから通話を切った。
ほぼ同時に、風花も電話を切っていた。
「なんなの……これ……」
「キミのお母さんが、感染していたってことだ」
「まさか……知ってたの?」
起源は否定をしなかった。
「二年前だ。感染源究明室が発足して、最初の案件だった」
話せる範囲内で、彼女には打ち明けた。
「だれかが故意に感染させている可能性があった。その過程で、キミのお母さんに突き当たった」
「ママも、その犯人に?」
犯人という表現には抵抗があったが、まさしくそのとおりだ。
「その人物──おおもとになったのが、だれなのかまではわからなかった」
「わたしのことも知ってたの?」
言葉の奥にトゲがあった。
「いや、知らない。だいたい、キミと出会ったのは偶然だ」
「でも、わたしのママがだれだかわかったときには、気づいたんだよね?」
「ああ」
「なんで言ってくれなかったの?」
「……」
起源は押し黙った。
「なんとか言って!」
「キミのお父さんの思惑がわかったからだ。キミのお父さんは、おれにも責任があると言った。そして、キミのことを守ってくれとも……」
「どういうこと?」
そこで、彼女にも思い当たったようだ。
「まさか……ママが、わたしをパパに押しつけたのは……」
「たぶん、そういうことだ」
「じゃあ、再婚の話も……」
「それは、おれではよくわからない。直接訊いてみればいい」
「ママに? パパに?」
「どちらでもいい。でもお母さんとは電話にしておくんだ。会うのはダメだ」
「ママの番号知らないし……でも、なんで会うのはダメなの?」
「どうして、キミのお父さんが警戒してると思う? キミのことを知られるのが怖いんだ」
「わたしは、ただの女子高生だよ?」
「世間は、そう思っちゃくれない。キミは、有名人の子供だ。スキャンダルの一部だ。……正直、おれもキミと同意見だったよ。しかし、キミのお父さんはそう考えてる。そして、お父さんの見立てどおりに事態が進行してる」
「普通こういうとき、大丈夫だよ、とか言わない?」
「そんな気休めが聞きたいのなら、いくらでもいってやる」
「もっとやさしくしてくれてもいいじゃん!」
ドンッ、と肘打ちが襲いかかってきた。
肩口が痺れた。一般的な女子なら、なんでもない一撃が、彼女の場合そうはいかない。ライブハウスでは、粗野な男たちと対等以上にわたりあっていた。
「いいか、これから数日のうちに、キミが如月美幸の娘だということがバレる」
痛みを我慢して、起源は告げた。
「なんでそんなことがわかるの?」
「キミのお父さんが、それを予感しているからだ。どういうわけかあの人は、そうなることを知っている」
「パパが……?」
「なにか思い当たることがあるんだ。だけど、それを教えるつもりはないらしい」
「……わたしは、どうすればいい?」
「日常を生きるしかない。その積み重ねが、人間のいとなみだ」
「なに哲学者みたいなこと言ってるの?」
彼女の心には響かなかったようだ。
「もっと具体的に言って」
「おとなしく、学校へ行け」
* * *
「なんなの!?」
「なに怒ってんの?」
「あの男だよ!」
「でも……いまは、キゲンさんのこと考えてる場合じゃないんじゃない?」
さちが、少し囁き声になってそう言った。
「ミッキー、大変じゃん」
朝の電話は、さちからだったのだ。
《ミッキー》とは母の愛称らしいが、さちの口以外から耳にしたことはない。
「ねえ、このこと知ってるの……」
「あんたと、江藤さんだけ。あとは、ママと住んでたころの同級生」
だが中学時代の知り合いは、この学校にはいない。
「キゲンさんは、そのことがバレるって心配してるんでしょ?」
「うん。でも、それはパパが言い出したことだって」
「本当に知らなかったの?」
さちの質問は、母の感染のことと、母が如月美幸だということを知っている人がいるか、ということが交互になっている。風花は、混乱しそうだった。
「知らなかった……今朝のあれで、はじめて知った」
「心当たりもないの?」
「心当たりって、なに?」
「だから、そんな素振りがあったとか……」
「まったくない……でも、わたしがパパと生活することになったのは、それが原因だって」
「風花パパが言ったの?」
「彼が……」
「なんかさ、風花パパとキゲンさんが、いろいろなことを隠してるってことじゃん」
そのとおりだ。
「一回、ちゃんと話したほうがいいよ」
「どっちと?」
「両方とも。できれば、ミッキーとも」
「ママとはダメ。会っちゃダメって」
「とにかく、風花パパとキゲンさんとは、ちゃんと話し合いったほうがいいって」
風花も、それには賛成できる。
そこで会話が一段落した。次の授業までは一分もない。もうまもなく、担当教師が入室してくるはずだ。
「なんか、おかしくない?」
さちが、なにかを感じ取ったようだ。周囲を見回している。
「みんな、風花を見てる……」
さちは、一人にターゲットをしぼって近寄っていった。
「聞いてみる」
その子は、携帯の画面を指さしながら、なにかをさちに告げていた。
さちが帰ってきた。
「なにこれ……」
さちも自分の携帯を見ていた。
「なに?」
風花は覗き込んだ。
「こんな文章が出回ってるって……」
──如月美幸の娘が、この学校にいる。その子供も、HIVに感染しているかもしれない。
要約すれば、そのような内容のものだ。
LINEやメールで広まっているようだ。
それがだれなのかまでは断言されていないようだが、みんなは風花のことだと思っているらしい。
「どうして……」
「顔じゃない?」
さちの指摘は単純明快だった。親子なのだから、どうしても似てしまう。
「だいたいさ、ミッキーに匹敵する美貌となると、それだけで限られちゃうじゃん。あんたか、あたしのどっちか。そうなると消去法で、より似てる風花ってことになる」
ちゃっかり自身の株を上げることも忘れていない。風花は、そのことにはふれなかった。
「まあ、みんなも、なんとなくそう思ってるだけだと思うよ」
「でも、だれがこんなこと……」
最初の発信者がいるはずだ。いったいそれは……?
風花も、さちも、愛莉のことを見てしまった。
愛莉も、どういうことなのか理解したらしく、首を横に振った。瞳は険しかった。疑いをかけられたことに憤慨したのだろう。
だが風花の母親を知っているのは、この学校では、さちと愛莉だけだ。教員でも知らない。
ここの生徒に広まっているということは、この学校のだれかが漏らしたということになる。
それとも、この情報は当てずっぽうで、適当に書いただけなのか……。娘も感染しているというのは、あきらかにまちがっている。
(……)
ふと、風花は恐ろしくなった。
感染しているかどうか、検査したことなどない。
だが感染しているとしたら、母子感染ということになる。現在において、それはないはずだ。
(十七年前も……?)
どんどんと不安になっていく。
いや、それだけの潜伏期間があれば、発病しているだろう。
(HIVの潜伏期間は長い……)
十年以上あるという記述も読んだことがある。
感染していないと否定しきれなくなっていた。冷静に考えれば、自分にわからないことを、他人がわかるわけはない。検査をしたことがないのに、第三者がどうやってそれを知ることができるのだ。だれだかわからないが、まったくのデタラメだ。
「風花? 風花!?」
さちの呼びかけで、われに返った。
「とにかく、とぼけてな。こんな噂なんて、すぐに消えちゃう」
不安ながらも、風花はうなずいていた。