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16 木曜日午後二時
病院から凶報がもたらされたのは、午後になってからだった。広東住血線虫症に罹患した三人のうち、二名が入院している病院だ。
新たに小学生が発病した。しかも重傷で、髄膜炎を発症している可能性があるということだった。
これまでの三人は、いずれも症状は軽く、対処療法で完治をめざしていた。そのことの確認はしていないが、退院している少年もいるかもしれない。
それにくらべ、髄膜炎をおこしているというのは最悪の事態だ。
その少年の名前と連絡先をたずねた。すでに原因はわかっているから、入院した少年に会う必要はない。
教えてもらった携帯番号にかけた。母親の携帯ということだったが、つながらなかった。病院にいるために電源を切っているのかもしれない。十分ほどして、着信を見たのか、むこうから折り返しがあった。
身分と概要を告げ、住所と子息の学校名を教えてもらった。
同じ小学校だった。驚きはしない。むしろ、べつの地域の子供が感染したほうが驚くことになるだろう。
通話を終えると、起源は例の小学校に急いだ。
到着したのは午後三時ごろだった。高学年生は、まだ授業をやっていた。
校長室に入ると、女性校長が苦虫を噛みつぶしたような顔で待っていた。事前に連絡をしていたのだ。
「たしか、佐竹さんだったわね?」
「はい」
「どうなさるおつもり?」
「それは、こちらの質問です。どうなさるおつもりですか?」
起源は淡々として言った。もしかしたら、それを耳にした者には、とても冷たく聞こえたかもしれない。
「わたくしは、なにもまちがっていない。わたくしの判断は正しかった」
強気に校長は言い放った。
が、そんなことが聞きたいわけではない。
「このまま、なにも動かないつもりですか?」
「あなたには関係のないことよ!」
「また、患者が増えますよ」
「わたくしの責任だというの!?」
「だれの責任なのかは知りませんが、あなたの方針は、賢明ではない」
「わたくしに、どうしろというの?」
「例の少年を適正に指導するべきです」
「そんなの……できるわけないわ!」
「あなたが大事なのは、子供たちの健康ですか? 偉い政治家の意向ですか?」
「政治家の意向にきまってるじゃない!」
言ってしまってから、後悔の表情が校長の顔面を埋めた。
「ちがうのよ……いまのは、ちがうの!」
「聞かなかったことにします」
「……大人の話をしましょう。わたくしだって、子供の健康は大事だと思うわ……でも、それだけで世の中は動いていない。あなたにだって、わかるでしょう?」
いまの地位に彼女がいるのは、こういう人間だからなのかもしれない。長い物に巻かれろ、の例文に出てきそうだった。
「じゃあ、こういうのはどうですか? あなたがやらないのなら、おれがやる」
「それはできないわ……子供への調査は認められない」
この場合の子供は、例の少年のことだ。こういってはなんだが、それ以外の少年──被害者たちもふくまれていない。いや、仮に加害者の少年がもう一人いたとしても、その子供もふくまれない。あくまでも、野島謙吾の子供ただ一人のことだ。
「では子供ではなく、親のところに行きます」
「あなた、本気なの!?」
「校長先生、あなたがどうしてそんなに驚くのかわからない。子供のケンカに親が出てきたのだから、その親にケンカを売るまでです」
起源は、あえて過激な言葉を選んだ。
「わ、わたくしは関係ないわ! こっちまで巻き込まないで!」
「あなたのことなど知らないし、どうでもいいと思ってます。ですが、あなたが教育者だというのは我慢ならない。早々に引退することをおすすめします」
憎しみのこもった眼光が襲いかかってきたが、起源は意に介さなかった。
「巻き込みませんよ。あなたには、巻き込む価値もない」
その言葉を残して、起源は校長室を出た。
次に会う人物が決まった。少年の母親だ。
教育評論家の、野島咲子。
おそらく自宅にはいない。この時間なら、テレビ局のどこかだろう。夕方のワイドショーやニュースのコメンテーターとしてよく出ている。調べれば、すぐにわかるはずだ。
大木静香に調べてもらった。早速、そこへ足を運んだ。
現在、野島咲子はこのテレビ局にいる。報道に強いといわれる放送局だった。如月美幸のニュース番組も、この局だ。身分を明かしてなかに入り込むというのも考えたが、説明が面倒になるので、外で待つことを選んだ。とはいえ自家用車で来ていた場合、地下の駐車場から専用レーンを通って外に出るので会うことはできない。
タクシーか迎えの車の場合は、局の裏の関係者出口で待っていれば、会うこともできるはずだ。局によってはタクシーでも地下まで入れるところもあるが、そうだったとしたら無駄足になる。
数人のスタッフらしき若い男女が、タクシーを誘導していた。だれかが出てくるようだ。野島咲子だった。タクシー移動するかは賭けだったが、どうやらうまくいったようだ。
「野島さん」
起源は呼びかけた。本人よりもスタッフのほうが警戒していた。
「あなたは?」
「あやしい者ではありません。ファンでもありませんが」
野島咲子は、さすがにファンから出待ちをうけるような存在ではないから、周囲に関係者以外は見受けられない。しかし実年齢は四十歳ぐらいでも、まだ三十歳でも通用する若さと美貌をもっていた。
起源は、名刺を渡した。
「そう、あなたなの」
彼女は、起源のことを知っていた。
「うちの子につきまとってるそうね」
「だれかが止めなければ、住血線虫症の感染が広がっていきますよ」
「いいがかりはやめて」
そう言って彼女は、つき従っているスタッフたちを視界に入れた。
「これから、食事の約束があるの。そこまでなら話をしてあげる」
どうやら周囲の眼を気にして、タクシーに乗れ、と言っているようだ。
「わかりました」
彼女がさきに乗り、起源も続いた。
走り出してから、
「で、わたしにどうしろというの?」
「やめさせてください」
「なにを?」
起源は、運転手のほうを見た。
「かまわないわ」
「いじめです」
「うちの子にかぎって、そんなことはしないわ」
その言葉はバカな親が使う常套句だが、どうやら彼女はわざとそう口にしたらしい。
「知ってますよね?」
「言ったはずよ。わたしの子は、そんなことしない」
わたしの子……それはつまり、例の少年は自分の子供ではないと匂わせているのだ。野島謙吾の子供であることはまちがいない。では、彼女の──野島咲子の実子ではないということなのか?
いや、それはない。野島謙吾は再婚ではないから、連れ子のはずはない。それ以外で、彼女の実子でないケースはあるだろうか?
「不思議そうな顔してるわね。世間じゃよくあることでしょ?」
考えられるとすれば、べつの女に産ませた子供。それを咲子との実子ということにしている。
「そうよ。そういうこと」
起源の眼を見ただけで、彼女は考えを読んでいた。
「でも、母親は母親だ」
至極あたりまえのことを起源は伝えた。
「一般論なんて聞きたくない」
「あなたは、教育の専門家でしょう?」
「べつに専門家というわけじゃない。評論家という肩書があるだけよ」
さばさばとした口調で、彼女は発言した。
起源のほうは運転手を気にして少し声をひそめているが、彼女のほうは堂々としたものだった。
「あの子のことは、わたしじゃなく、あの人に言って」
「言ったら、どうにかしてくれそうですか?」
「ムリでしょうね。あの人は、政治家になりたいくちだから」
「どういう意味ですか?」
「うちは、一般家庭とはちがう。政治家一族は、個人の思惑では動けないの」
「では、だれなら動くと?」
「そういうのは、学校の仕事でしょ」
はじめからこの女性は、母親としての役目を放棄している。それを悪いこととも思っていない。
「学校は、動いてくれません。あなたの義理の父親が怖いみたいです」
直接、野島謙一郎がなにかしているわけではないだろう。それでもあの女校長は、それを恐れている。
「そうでしょうね。お父様は、厚生族ってだけじゃないから。文科省にも顔がきく」
「野島謙一郎氏に頼むことはできませんか?」
「わたしが?」
ほかにだれがいるんですか、と言いたいのをどうにかこらえた。
「やめてよ。言えるわけないじゃない。でも、もしあなたが、うちの主人を説得しようとしてるなら、本当に説得すべきは、お父様のほうよ」
タクシーが停まった。
「さあ、お話はここまでよ」
* * *
放課後──。
「なんかおかしんだよね……」
風花はつぶやいた。
「先生は昨日、わたしたちが桐谷のところに行ったことを知ってた」
「だからそれは、桐谷が教師にチクッたからでしょ」
それしか考えられないのだが、どうにも風花は納得できない。
「そんなこと言うかな、先生に」
「言うんじゃない? だってこれ以上、ヘンな噂をたてられたら、だれだってイヤじゃん」
「それこそ、話を大きくしちゃうんじゃない?」
「本当に感染してるんだったら、むこうの先生たちも知ってるんだよ。学校への報告義務とかあるんじゃない?」
「究極の個人情報だよ?」
起源の言い方を真似ていた。
「たとえ本人が秘密にしたくても、親は学校に言うんじゃない?」
「逆に、親なら隠そうとするんじゃない?」
じゃない? の応酬になっていた。
「ま、どっちにしろ、キゲンさんが動いてるなら、プロにまかせたほうがいいよ。それとも若妻としては、ほっとけない?」
「なに、ヤラしい言い方して。そっちだって、頭の軽そうな男とよろしくやってんでしょ」
「あたしのことは悪くいってもいいけど、たっくんの悪口は言わないで!」
さちはそう言うが、あきらかに顔がふざけている。さちも、たっくんのバカっぽいところは折り込みずみなのだ。
「ねえ、風花はなにを疑ってるの?」
「……わからない」
だが、なにかがおかがしい……そう感じているのだ。
「考えすぎだって。いまはキゲンさんとのことだけを考えてな」
あいかわらず、さちの顔はふざけていた。