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12 水曜日正午
「どうだった、あそこの校長は?」
上原は会うなり、そう切り出した。小学校に行ったことがわかっているかのようだった。
この待ち合わせ場所には、起源は時間どおりに到着した。だが上原は、だいぶまえからいたようだ。すっかり場になじんでいる。
中目黒にあるカフェだった。場所柄を考えれば仕方のないことかもしれないが、とてもおしゃれな外観で、こんなことでもないかぎり立ち寄るような店ではない。面会の申し込みは起源のほうからだが、場所と時間は上原の指定だ。
「上からの言葉を忠実に守る、じつに立派な人物だったろう?」
嫌味をこれほど気持ちよく耳にしたのは、生まれてはじめてだった。
「そうかもしれませんね」
否定はしなかった。
「あそこの教員で、あの校長に良い感情を抱いている者はいないだろう。ま、そういう人物ってことだ。女性だから話がわかると思っていると、失望することになる。君のように」
「……」
「察しのとおり、野島謙一郎は文科省にも顔がきく。いじめ対策なんて、なにもしないさ」
「おれが聞きたいのは、そのことじゃありません」
起源は話題を変えた。
「ほう、なにかな?」
「おれのことを知っていましたね?」
「はじめて会った日に、そう言ったはずだよ」
たしかにそうだが、こんな重要な関係性があるとは思いもしなかった。
「如月美幸さんの一件ですよね?」
「いいのかい? 守秘義務があるんじゃないのか?」
「あなたは身内だ」
「元夫だから、厳密にはちがう」
そんな禅問答をしている状況ではなかった。
「おれのほうは、あなたを知りません。あなたは、いつおれのことを?」
「元妻から相談をうけたのさ。それで、君のことを調べた。だから知っている」
「なんで言わなかったんですか?」
「言っても仕方ないだろう?」
「……風花さんの……お嬢さんのことは、おれのせいですか?」
「君のせいというわけではない。君は、ただ自分の仕事をしただけだ」
「風花さんは、母親に捨てられたと思っています。真実を告げていないんですか?」
「いまは、その時機ではない。いずれ、あのことが白日のもとにさらされる。そのときにでも、おれの口から伝えるよ」
「あのことが表沙汰になることはありません」
「君たちが漏らすことはないだろう。だがね、うちの妻は一般の人間ではないのだ」
上原自ら、元、を取っていた。
個人情報が厳重に守られるようになっている昨今、しかし特殊な職業に就く人種だけは、その常識の流れからは除外されている。
それが、有名人というものだ。
芸能関係、政治家、スポーツ選手──それらにスキャンダルはつきものだ。
「そんな日が来るというんですか?」
「来なければいいがね……希望的観測は、はずれるものと相場がきまっている」
もっともらしい説得力があった。
この世の物事など、そんなものかもしれない。
「娘は、どうだね?」
「元気にしてますよ」
一昨日の夕方に会っているはずなのに、上原はそう訊いた。
「ちがうよ。どうだね? 魅力的だろ?」
答えに窮した。上原と風花の話をすると、いつもこうなる。
「母親に似てるんだ」
「見ればわかりますよ」
如月美幸とくらべればわかる。
「似なくてよかったですね」
「あ? おれとか?」
「そうですよ」
冗談のつもりで言ったのだが、上原からいつもの軽口は返ってこなかった。
「風花のことを頼む。恥ずかしいことだが、父親としてはなにもしてやれない」
「いっしょにいてあげればいいじゃないですか。親子なんだから、それだけでいい」
「っていっても、むこうに嫌われてるんだからどうしようもないだろう」
親の心、子知らず……か。
すぐに訂正した。
親も不器用、子も不器用。
「どうした?」
「いえ、なんでもありません。親子って、似るんだなって」
「母親とか? おれとは似てないんだろ?」
「見た目じゃなくて、性格ですよ」
「おれは、あの子ほど頑固じゃない」
「そういうことにしておきます」
話題は、そこで一段落した。
「……味方でいてくれ」
ふと、上原がそうこぼした。
「え?」
「味方だよ」
「だれのですか?」
上原の、ではないだろう。話の筋からは、おのずと答えはきまっていたが、起源はあえて問いかけた。
「娘のだよ」
「敵も味方もないでしょう?」
「あるんだよ。重要なのは、あの子がどう感じるかだ。あの子にとって、味方でいてもらいたい」
大袈裟だな、と起源は感じた。
上原は、なにかにおびえている──同時に、そうも考えた。
これから、なにかが起こる。そして上原は、それを予感している。
起源には、想像すらできないことだった。
* * *
お昼休みのあと、午後の授業のまえに、特別授業ということで担任から話があった。
それはまさしく、さちが仕入れた情報どおりの展開だった。教員たちにも噂は広まっていて、それについて生徒へ説明するつもりのようだ。
「えー、根拠のない話がまわってるみたいですけど、そんなものに踊らされないように」
担任は、細井という英語の女教師だった。年齢は、四十代前半ぐらい。ほかにも同世代の女性教師はいるが、生徒たちから見れば、いずれもオバさんになる。だが、この細井だけはオバさん呼ばわりされていなかった。美人だからだ。
細井をこころよく思っていない生徒は、無駄に美人とか、顔だけと陰口をたたいている。ここが共学だったら、年齢的なハンデがあったとしても男子から人気を得ていただろう。赴任する場所をまちがえた、という悪口も聞いたことがあった。
風花も、あまり好きではない。
「あなたたちの年齢なら性的な興味を抱くのも仕方のないことかもしれません。ですが、まだ学生だということを自覚してください」
細井は、ありきたりなことを口にする。
「恋愛を禁止にするということはありませんが、節度をもってください。そして、性病の危険も頭に入れて」
「となりの学校に、エイズに感染した人がいるって本当ですか?」
生徒のだれかが、そう質問した。
「わたしの話を聞いてたんですか? 噂話、と先生は言いましたよ! それに、エイズではありません。HIVです」
風花は、その細井の言葉を聞いて、起源の語った内容を思い出していた。『エイズ』という名称を使わない風潮。まさしく、細井はそのとおりの考えをもっているようだ。
「いいですか? わかりましたか? 上原さん?」
急に名前を呼ばれて、風花はビクッと驚いてしまった。
「は、はい」
「本当にわかってますか? ちゃんと聞いていましたか?」
ちゃんと聞いていたし、ちゃんとわかっている。風花は、不満げに細井を睨んだ。
「最近、渋谷のライブハウスで、いかがわしい集まりに参加した生徒がいると、噂が広まっています。まさか、うちの学校の生徒にはいないでしょうけど」
それは、みんなに向けたようでありながら、風花一人に言っていた。まるで、風花があの集まりにいたことを知っているかのようだ。
一瞬、視線を江藤愛莉に向けた。
彼女も驚いたような顔をしていた。
「さらに、男性といっしょに住んでいるなど、あるはずありませんよね?」
教室中がざわついた。
それって、同棲ってこと?
クラスの視線が風花に集中した。みんなも、細井が風花に言ったと感じたのだ。
どうすんの!? という顔で、さちが見ていた。
「同棲なんて、してません」
風花は場の空気に耐えられず、口を開いた。
「同棲とは言っていません」
たしかに言っていないが、言っているようなものだ。
まったく根も葉もない話ではないから、風花も強くは否定できない。
しかし、なぜ細井がそれを知っているのか?
ライブハウスのことと、起源の部屋に泊まっていることを知っているのは、さちと愛莉しかいない。
二人のどちらかが、先生に告げ口したのだろうか?
いや、それはおかしい。二人とも起源の部屋に泊まったのだ。立場は風花と同じはず。
考えられるとすれば、だれかに目撃されていて、それが先生にまで伝わった……いや、それも腑に落ちない。起源と二人きりになったことはないはずだ。いつも、さちがいっしょにいた。ライブハウスでは、愛莉と。
「それこそ、根拠のない噂話です」
風花は、挑戦的に言い返した。
しばし、細井と風花は睨み合った。
「……わたしからは、以上です。いいですか、男性との交際にも、いろいろとリスクがあることを念頭に置いてください」
結局は、細井のほうが折れて、強引に臨時授業を締めくくっていた。




