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1 金曜日午後八時
いつもなら、渋谷に近寄ることもない。
女子高生をJKと呼ぶのにも抵抗がある。
膝上の丈をあたりまえと思っている世間の風潮も嫌いだ。
だから風花は、制服であろうと私服であろうと、スカートの丈は膝下にすると決めている。
男たちの視線を、べつの意味で集めてしまう。
なぜなの? そう瞳が訴えている。
容姿でいえば、イケてる部類に入るだろう。なのに丈が長いから、奇異の眼で見られてしまうのだ。
「ごめん、上原さん」
いっしょにいる江藤愛莉が、そんな謝罪の言葉を口にした。
場所は『クローム』という名のライブハウスだ。
愛莉から誘われたのだ。音楽ライブがひらかれているわけではなかった。入場してからすでに三十分以上経つが、いったいこれがなんの集まりなのかわからない。
場内は、ライブハウスとしては広いほうだろうか。とはいえ、けっして広大とはいえない空間に、男女が入り乱れている。クラブのように踊るわけでもなく、音楽は流れているがDJがいるわけでもなく、風花には謎のイベントだった。
「どうしたの?」
「ごめん」
風花の問いにも、あやまるばかりだった。
「おう」
そこに、羽毛よりも軽そうな声がかかった。見れば、いかにもチャラそうな男だった。
「アイリ、よく来たな。お友達も楽しんでって」
そう言うと、男はべつの女性に声をかけにいく。どうやら、このイベントの主催者のようだ。
「だれ?」
「カレなんです……」
意外だった。あんな男とつきあっていることもそうだが、そもそも恋人がいること自体が驚きだ。
愛莉の容姿は可愛らしく、身体の線も細い。魅力的といわれればそうなのだが、それ以上にマジメそうなのだ。とても男性経験があるようには思えなかった。
もし恋人がいるのだとしても、清い交際しか連想できない。あんな軽そうな男とくっつくというのは不自然でしかなかった。
「あれが?」
思わず聞き返してしまった。
愛莉は、照れたようにうなずいた。
わたしだったら、恥ずかしくて紹介なんてできない──風花は、内心で無遠慮に考えた。
「これさ、なんのイベントなの?」
やって来てから、聞こう聞こうと思っていたことを、ようやく口にできた。
彼女とは、それほど親しくはない。同じクラスではあるが、何度か言葉を交わしたことがあるぐらいだ。風花に友人と呼べる同級生は一人しかいない。その一人以外と、こうして放課後にどこかへ行くということは、ほぼ初めての経験だった。
「ごめんね」
またあやまられた。
それがよくわからない。
「カレにね……言われてたの」
ためらいがちに、彼女は語りだした。
「イケてる友達、つれてこいって」
そこで男がもどってきた。
一人ではなく、数人をひきつれていた。
「アイリ、ごくろうさん」
そう言って一瞬、彼女のことを抱きしめると、風花に向き直った。彼女は、すぐにどこかへ行ってしまった。
「江藤さん?」
風花は、男たちに囲まれてしまった。
「カワイイね、キミ」
男たちは、そろいもそろって下卑た笑みを浮かべている。
「な、なんですか?」
後退しながら、風花は声をあげた。しかし、真後ろにも男がいて逃げられない。
周囲を見回した。
あっちでもこっちでも、男女が抱き合っている光景が飛び込んできた。
どう考えても、これは健全な集まりではない。
この状況に焦りを感じながらも、風花の視界は、ある人物の姿をとらえていた。
その人物は、いやらしさに盛り上がる男女になにやら話しかけたかと思うと、またべつの男女に次々と声をかけている。年齢は二十代半ばで、この集まりには不釣り合いだ。
「ネエ、ネエ、このなかのだれがいい?」
気を取られていた風花に、男の一人が迫った。
「あ、あの……やめてください」
「いいじゃん。オレらに抱かれなって」
「は!?」
あまりのことに、風花はあきれた。
「どうして、わたしがあなたたちに抱かれないといけないんですか?」
相手にするのもバカバカしいと思いながらも、そう言った。だいたい、この場所でおっぱじめるとでもいうのだろうか?
まわりを見ても、抱き合って、なかにはキスをしているカップルもいるようだが、さすがにそこまでしかやっていない。ここはライブハウスだから、VIPルームのような個室もないはずだ。
「もちろん、これからラブホ行くっしょ」
「バカじゃないの?」
心の底からの言葉だった。
「そんなこと言っちゃっていいの?」
べつの男が、背後から肩をつかんできた。
「気持ちよくさせてあげっから」
耳元で囁いた声も息づかいも、最低に気持ち悪かった。
さらに調子にのって、腕を回して抱きついてきた。
反射的に、ひじが出た。
「グッ……」
その男は、呼吸もできずにうずくまった。
「なにしやがった!」
そう叫んで、つかみかかりそうだったべつの男にも、ひじを当てた。
「ガッ……」
同じように、うずくまった。
「な、なんだ……おまえ! なにした!?」
残りの男たちは、風花から距離をとった。
「わたし、帰るわよ」
風花は男たちを見据えたまま、後ずさりで離れていく。
「ま、まてや!」
プライドと性欲をつぶされた男たちは、もはやなりふりかまっていられなくなったようだ。
外見はチャラいとはいえ、それほど暴力的ではなかったはずなのに、いまではチンピラ並みにガラが悪くなっていた。
風花は考えをめぐらせた。
この状況で、どうすることが最善なのか?
背中をみせて駆け出すか。
このまま男たちをぶちのめすか。
建物内では、人が邪魔になって逃げきれない可能性がある。かといって全員を倒すのも、そう簡単ではない。
いかに、黒帯をもっている風花でも……。
「気をつけろよ、この女、なんかやってるぞ」
男の一人が、仲間たちに警戒の声を発する。
「空手か?」
風花は、答えなかった。
男たちは武器を所持していない。すくなくとも、いまは取り出していない。ならば、闘うほうが合理的か……。
懸念材料としては、周囲でイチャついているべつの男が加勢するのかどうか。このフロアにいる男全員が仲間かもしれないのだ。いや、男だけに気をとられるわけにはいかない。女だからといって、脅威にならないと考えないほうがいい。現に、自分自身がいい見本だ。
風花は、脳内でシミュレーションを開始した。だれを最初のターゲットにするか。どういう順番で倒していくか。どういうルートで逃走するか。それらを瞬時に。
あとは、行動を起こすだけ。
「江藤愛莉さん?」
一歩目を踏み出そうとした刹那、ふいの角度から声が降りかかった。
背後。愛莉の名を口にしても、風花に問いかけたのは明白だ。
振り返るのは危険だったが、声の男をそのままにしておくほうがもっと危険と判断した。
風花は勇気をもって、後ろを向いた。
「やあ、江藤愛莉さんだね?」
「ちがう……」
その男性は、さきほどから周囲で話を聞きまくっていた場違いな男性だった。
スーツ姿。チャラさはなく、ちゃんとした社会人風だ。
ただし、どこかに独特の雰囲気があった。それがどういうものなのか、言葉ではあらわせない。マジメななかにも、異質な要素が奥深くに潜んでいるような……。
「わたしじゃない……」
「キミが、江藤愛莉さんじゃないの?」
「ちがいます」
警戒しながら、風花は答えた。
いまでは背後にいることになる男たちも、この様子を静観しているようだ。
「どうして、わたしだと思ったんですか?」
「仙道女子学園の制服を着てる」
なるほど。だから愛莉とまちがえているのだ。さきほどからの聞き込みは、愛莉をさがすためだったのだろう。
「江藤愛莉さんは?」
この男の素性がわからないので、風花は彼から眼が離せない。
が、どうやらこのイベントを主催している男たちとは無関係のようだ。
「このなかにいると思いますけど……」
謎の男はそれを聞くと、踵を返した。
「悪かった」
「まって」
そのまま立ち去ろうとした男の腕を、風花はつかんだ。
「なに?」
「わからない? この状況」
風花は、苛立ちながら言った。
「さあ」
「わたしは、この男たちにヘンなことされそうなのよ」
「じゃあ、助けを呼べばいい」
「だから、あなたに助けを求めてるんでしょう?」
怒るように続けた。
「すまないが、ほかをあたってくれ。おれにはやらなきゃならないことがある」
「困ってる女性がいるんですよ?」
「キミ、強いでしょ? かまえが堂に入ってた」
「たとえ強くても、助けるのが普通でしょ?」
風花は、強いことを否定しなかった。
「あなた、それでも男? 女性を見捨ててまで、なにをするつもりよ。やらなきゃならないことって、なに?」
「たどることさ」
男性は言った。正直、意味がわからなかった。
「たどる……?」
なにかをたどっているということだろうか?
「なに言ってるの?」
「とにかく……おれはキミではなく、江藤愛莉さんに用がある」
風花との会話を、男性は打ち切った。
だが立ち去ることはなく、一方向をみつめていた。
風花もつられて、そちらへ視線を向ける。
そこには、愛莉がおびえたような瞳でたたずんでいた。
「江藤愛莉さん?」
大きめの声で、男性はそう呼びかけた。
愛莉は戸惑ったようにうなずいた。
「キミに大事な話がある」
謎の男性が、愛莉に駆け寄った。
風花も、風花をどうにかしようとしていた男たちも、当初の行動を忘れていた。仲良く並んで、二人の様子を眺めるしかなかった。
「な、なんでしょう……」
「高田浩司という男性を知ってるね?」
「は、はい……それが、なにか……」
「キミに、VDの疑いがある」
「VD……?」
「それ、DVじゃないの?」
風花は、思わず口を挟んでしまった。
男性は振り返ると、冷めた視線を向けてきた。
「それは、ドメスティック・バイオレンスだろう」
バカにするような口調が、風花の心を逆撫でした。
「VD──性行為感染症。キミとつきあいのある高田浩司さんは、梅毒に感染している。いろいろ調べたが、感染源はキミだ」
思いもしなかった言葉に、とうの愛莉も、風花も、男たちも唖然とするしかなかった。
梅毒……性病だということはわかる。しかし、もうずっとむかしの病気で、いまでもかかっている人がいるという常識は、風花にはなかった。
「いますぐ、診察をうけるんだ。これ以上、感染を広げるな」
言われた愛莉は、放心状態だ。
「梅毒がむかしの病気だと思ってるのなら、それは大きなまちがいだ。ここ数年で患者数が、かなり増えている。現在進行形の性感染症だ」
「あ、あなたは……だれなんですか?」
ようやく愛莉が、それだけを口に出せた。
「おれは、こういう者だ」
男性が名刺を愛莉に渡した。
好奇心に勝てなかった。風花も駆け寄り、その名刺を覗き込むように見た。
国立感染症研究所、感染源究明室。
佐竹起源。
「あ、下の名前は、それで『おきもと』と読む」
「研究所……」
風花は、しみじみと男性──佐竹起源を観察した。
研究員には見えなかった。白衣よりも、いまのようにスーツ姿のほうが似合っている。もっといえば、ネクタイをはずして、ジャケットもカジュアルにしたほうがいい。髪形をもっと工夫すれば、スリムな体型と端正な顔だちから、モデルにも見える。
「キミ、海外へ行った経験はないね?」
「は、はい?」
「渡航歴」
「家族旅行でグアムなら……」
「そういうことじゃない」
まるで責めているような佐竹の口調に、愛莉がおびえたように縮こまった。
「ちょっと、怖がってるじゃない!」
かわいそうに思えて、風花は佐竹に食ってかかった。
「大事なことなんだ。まだ高校生だから、自分だけで旅行はしないだろう? 友達同士でもないね?」
「は、はい……親としか」
「だったら、海外へ渡航歴のある男の知り合いは?」
「え……」
突然尋問されて、愛莉も困っている。
「男。もっと言えば、つきあってる男」
「……」
愛莉の瞳が宙を泳いだ。考えをめぐらせているのか、それとも思い当たることがあって、それをとぼけようとしているのか……。
「さらに言うと、肉体関係のある男だ」
無遠慮に、佐竹は言った。
女子高生に問い詰めるような内容ではない。
「あなた、さっきから……もうちょっと配慮してよ!」
とてもではないが、愛莉に耐えられる質問とは思えなかった。すくなくとも、梅毒になってしまった高田浩司という男性のほかにも、性行為をした男性がいるということになる。
「そういう関係のあった男を教えてくれ」
しかし佐竹は、風花の話に耳を傾けてくれない。
愛莉は、しばらく黙っていたが、ふいに右手が動いた。
指先が示していたのは、いまでは風花ともども佐竹の動向に気をとられていた粗野な男たちの一人だった。そういえば、愛莉のカレがこのなかにいるのだった。
だが愛莉の指は、止まることがなかった。
べつの一人へ。
さらに、もう一人。
……結局、風花に迫っていた男たち全員を順に指さした。
「ど、どういうこと……?」
風花は、唖然としながら訊いていた。
「この男たち全員と関係があるんだね?」
佐竹の言葉に、愛莉は恥ずかしそうにうなずいた。
風花は、空いた口がふさがらなかった。チャラい男とつきあっている段階でおかしいとは感じていたが、それにしても乱れすぎた私生活だ。イメージとはちがいすぎる。
「じゃあ、キミらだ。質問に答えてくれ」
愛莉の男性遍歴についてはどうでもいいのか、佐竹はすでに男たちへ身体を向けている。
「……あ?」
だれもしばらく反応できなかったが、一人がようやく自分たちのことだと考えがいったらしい。
「海外へ行ったか? 半年から一年前」
「そ、それがなんだっていうんだよ!?」
「行ったのか?」
「だから、それがどうしたっていうんだよ!」
一人が、ムキになって威嚇した。
「どこへ行った?」
「あ!? どこでもいいだろ!」
「いいから答えろ」
佐竹の迫力が勝った。その男が口にしたのは、東南アジアの国だった。
「そこで、女を買ったな?」
「……そうだよ! 悪いか!?」
売春は日本では違法だが、その国ではどうなのか風花ではわからない。この男は責められるべきなのだろうか?
「良い悪いの話をしてるんじゃない」
佐竹は、冷静に言った。
「あなたが梅毒を持ち込んだ可能性がある、という話をしているんだ。とにかく、キミたちはすぐに病院で受診しろ」
「う……うるせえ!」
「最近、発熱が続いてないか? 関節は痛くないか? だるさを感じないか? 身体に発疹は出てないか?」
全員ではなかったが、一人、二人、思い当たっているようだ。
「たかが梅毒と思わないほうがいい。たしかに、現代においては大した病気ではない。完治もする。だが、いまのように不特定多数の人間へ感染させていくことになるのを黙って見ているわけにはいかない」
一気に発言すると、佐竹は場内を見回した。
次いで、愛莉を見た。
「キミも、軽々しく性行為を考えないほうがいい。キスでうつる病気だってあるんだ」
「……」
愛莉は、なにも言い返せずに、ただ圧倒されている。
「梅毒や淋病、クラミジア、ヘルペス──治る病気ならまだいい。完治しない病気だってあるんだ。一生、病を背負っていかなければならない」
「……だったら、どうやって愛し合えばいいんですか?」
消え入りそうな声が、口をついた。それが愛莉の言葉だというのが、いまだに信じられない。
「性病を怖がっていたら……カレと愛し合えません……」
正式な彼氏以外とも性交を結んでいるというのに、その言いぐさもおかしなものだが、風花にも少し気持ちはわかった。
佐竹が言うには、キスだけでも感染する病気があるという。しかしいまどきそれぐらいならば、小学生でもやっている行為だ。それが危険だと言われれば、それこそなにもできなくなる。
「病気をうつされたとしても、後悔しない相手とだけしろってことだ」
毅然として、佐竹は言った。
愛莉は、悔しさからなのか、自らのおこないの反省からなのか、涙ぐんでいた。
風花の心にも、いまの言葉は深く突き刺さっていた。