対外試合
ガタ、ゴトと揺れる車内で次々と通り過ぎていく景色を見ながら、僕はおにぎりを一口齧った。僕の住んでいる地域は車社会の田舎なので、電車に乗る機会なんてほとんどない。ましてや車内販売があり、椅子の背面にテーブルがついていて飲食ができるようになっている特急電車に乗ったのは、これが人生で初めてだった。
「わ、見て、ヒロ。やっぱり駅弁は豪華だね」
「ん……本当だ」
隣に座る千里が僕の方に顔を寄せ、ぼそりと呟く。僕達の席の斜め前に座る乗客が、駅弁と思われる大きな四角い箱をテーブルの上に広げていた。色とりどりのおかずはどれもおいしそうで、僕達が食べている一個百円のおにぎりとは豪華さが違う。朝食は車内販売で買おうと決めていたのだけれど、さすがに値段を見ると駅弁には手が出せなかった。だけどいつかは食べてみたいな、と僕は憧れの眼差しでしばし他人の弁当箱を見つめた。
そのとき、スッ、と車内の真ん中の通路を若い男の人が通った。顔を上げると、ばっちりと目が合ってしまう。僕は慌てて目を逸らすけれど、その男の人は尚も僕と千里のほうを見ていたようだった。男の人が通り過ぎて後ろの車両へと行ってしまってから、僕はかねてからの疑問を口にした。
「ねえ、そういえば、なんで今日制服じゃないといけなかったの?」
僕は、ちらりと千里の胸元で揺れている赤いリボンに目をやる。おそらくさっきの男の人の行動は、僕らの制服姿が原因だ。日曜日の特急電車に制服姿で乗車しているのが、ちょっと奇妙な光景に映ったのだろう。
「や、向こうがさ、こっちの制服見たいって言うんだよね。あとまあ、部長の受け売りでもあるし。サバゲーは制服に限る、ってね」
「う、うーん?」
千里の言葉の前半部分には納得がいったけれど、後半部分はいまいちピンとこなくて僕は首を傾げた。そもそも制服は、運動に適した服装じゃないし。
「ヒロの言いたいこともわかるけどね。まあでも学生のうちしか着られないわけだし、今のうちに着ておいて損はないんじゃないかな」
千里はそう言って、にこりと微笑んだ。それを見て僕も、まあそんなものかとそれ以上は深く考えないことにした。僕は目立つのが好きじゃないから、周りの視線はちょっと気になるけれど。
「……えっと、今日会う二人って、どんな子なの?」
僕はおにぎりをもぐもぐと咀嚼しながら、千里に尋ねた。僕達が今こうして特急電車に乗っているのは、千里の前の学校の友達と会うためだった。その子達は僕達と同じく向こうの学校で『ライトトイガン部』に所属していて、会うついでにサバゲーをしないかというお誘いがあったのだ。ちなみにそのサバゲーの関係で、向こうも僕達に合わせて二人で来るとのことだった。
「一言でいうと、超お嬢様だよ。学費がバカみたいに高い私立のお嬢様女子校に初等部から通っている子達だからね。まあちょっと世間知らずなところもあるけれど、二人ともいい子だよ」
「へえ、そうなんだ……って、あれ? 千里も同じ学校だったんだよね?」
「あたしは学費免除の特待生で中等部から入ったから。全然お嬢様じゃないよ」
「ああ、なるほど」
母さん一人でそんな学費をどうやって捻出したのだろうと思ったら、そういうカラクリだったわけか。しかし特待生で入ったとなると、千里は相当頭がいいのだろう。母さんの事故で仕方がなかったとはいえ、そんないい学校に通っていたのに田舎の公立中学校に転校しなければならなかったのは千里も悔しかったのではないだろうか。
「二人ともヒロに会えるの、すごく楽しみにしていたよ」
「え……、いや、なんか期待されてたら申し訳ないな……」
僕は、思わず苦笑いを浮かべる。向こうにどんな情報が伝わっているのかはわからないけれど、千里の双子の弟ということで変に期待をされてしまっている気がする。顔は似ているけれど、僕の性格は千里と違って暗くて臆病な意気地なしだし、会ったらがっかりされてしまいそうだ。それに相手が二人とも女子だということも、僕を緊張させていた。正直、まともに話ができるかどうかも怪しい。
僕は、隣の座席に座る千里をちらりと見た。千里は僕みたいにわかりやすく感情を顔に出すようなタイプではないけれど、友達に会うのを楽しみにしていることはなんとなく雰囲気で伝わってきた。最近色んなことがありすぎたからもう随分前のことのように感じてしまうけれど、母さんが事故で亡くなったのはつい数週間前のことだ。ずっと一緒に暮らしてきた千里にとって、それはとても辛い出来事だったに違いない。千里は葬式のときも気丈に振舞っていたし、僕の家に来てからも一斉弱音を吐くことはなかった。だけど、千里だって僕と同じ中学二年生の子供だ。まだまだ心の中には、母さんを喪った悲しみがあるに違いない。それにせっかく入った学校を転校して新しい環境に馴染まなくてはならず、千里にとっては気苦労の多い日々だっただろう。……ましてや、実の弟の不登校問題もあったし。
だから今回の友達との再会が千里にとって少しでも気分転換になったらいいな、と僕は思った。きっと父さんもそんな千里を心配していたから、決して費用として安くはない隣県への小旅行を承諾してくれたのだろう。
ガタン、ゴトン、と列車は走り続ける。僕はまだ見ぬ千里の友達へと思いを馳せながら、その小さな揺れに身を委ねた。
「おーっ、いいね、天気もよくて」
「わ、やっぱり都会だね……」
改札を出て駅前に降り立った僕たちは、各々そんな感想を漏らす。周辺には高いビルがあちこちにそびえ立っていて、田舎者の僕にとってはそれだけでちょっと不安になるくらいだった。特急列車で二時間ほどで行けるすぐ隣の県なのに、僕の住んでいるところとはまったく違う。しかし名古屋に住んでいた千里にとっては、ここもただの地方都市にしか見えていないだろう。僕なんて駅に着いてすでにもうあたふたしていたというのに、千里は冷静に出口に向かって進んでいたし。
「えーっと、その友達とは、お昼に待ち合わせなんだっけ?」
僕は肩に掛けたスクールバッグの中から黒いスマートフォンを取り出して、待ち受け画面の時刻表示を見た。現在時刻は、午前十一時十二分。待ち合わせまでは、もう少し時間がありそうだ。
「うん。だからそれまでに、ちょっと行きたいところがあるんだよね。ヒロは、どこか見たいところあるかい?」
「ううん、僕は特に」
僕はきょろきょろと、辺りの建物を見回す。それぞれの建物がどんなお店、はたまた会社なのか、施設なのか、それすらも僕はよくわかっていなかった。
「そっか。じゃあ、あたしの行きたいところに付き合ってもらおうかな。行こう、こっちだよ」
「あ、うん」
そう言って、千里は迷うことなく駅前の道を歩き始めた。僕も千里の脇に並んで、見知らぬ街の中を進んでいく。日曜日ということもあって、駅周辺には私服姿の学生や家族連れがたくさん行き交っていた。そして五分ほど歩いたところで、千里は一つのビルを指差した。壁面に大きな垂れ幕がいくつか掛かったこのビルが、千里の目的地みたいだ。自動ドアをくぐり抜けてビルの中に入ると、軽快な音楽が耳に入ってきた。一階は土産物や食料品を扱っているフロアのようで、全体の雰囲気としては百貨店のような感じだった。
「三階に行くよ」
千里は、向こうに見えるエスカレーターをくいっと顎で示した。途中にあったフロアガイドを横目で見ると、三階には『キッズ・ファミリー』と書かれてあった。あまり僕達には馴染みがなさそうなところに思えたけれど、千里は迷いのない様子でエスカレーターを上って行き宣言通り三階に降り立った。そこは『キッズ・ファミリー』の名の通り、子供服やベビー服が並んだフロアだった。赤ちゃんを背負ったお母さんや、ベビーカーを押した家族連れの姿があちこちに見える。
「せ、千里、ここ?」
「うん。もうちょっと奥のほうかな」
階を間違えたのではと思ってそう確認してみるけれど、千里はずんずんと子供服の中を進んでいく。クエスチョンマークが消えないまま後を追うとやがて衣料品の陳列棚が途切れ、カラフルな箱がたくさん積み上げられたおもちゃコーナーが姿を現した。そこかしこに幼稚園児や小学校低学年くらいの子供たちがいて、キラキラした目でおもちゃの箱を見つめている。
「ふふ、可愛いね。まあでも、あたしたちが用があるのはこっちかな」
千里は子供たちを見て微笑むと、おもちゃコーナーの端のほうへと進んで行った。後に続くとカラフルだった箱の群れが一転し、黒やシルバーといった硬質な色のディスプレイの一角が現れた。そしてそこには、見覚えのある物が陳列されていた。
「あ……! これ、銃じゃないか……!」
「やっぱりヒロも、いつまでも借り物じゃなくて自分の銃が欲しいかと思ってね」
僕は、ショーケースに顔をくっつけて中に入っている銃を見つめた。飾られているのはシルバーと黒の二種類だったけれど、その下に並んでいる箱を見るとまだまだたくさんの種類があるようだった。銃のコーナーの脇には色とりどりの弾倉も陳列されていて、ぱっと見ただけでも三十種類近くはあるように思えた。
「すごいね。これって、おもちゃ屋さんに売ってたんだ」
「どこのおもちゃ屋にもあるわけじゃないけどね。調べたら、家から一番近いのがここだったんだ。まあネットでも買えるんだけど、やっぱり店頭で買ったほうがわくわくするから、最初くらいはね」
いくら玩具とはいってもサバゲーの対象年齢はやっぱり高めなのか、銃の陳列棚付近にいるのは僕と千里だけだった。この通りだけおもちゃコーナーらしくない静けさだったけれど、逆にじっくり見ることができてよかったかもしれない。
「えーっと、じゃあ、どれがいいかな……」
「ん、迷う必要はないよ。ヒロが買うのはこれだ」
積み上げられている銃の箱に伸ばそうとした僕の手が、千里にぐいっと引っ張られた。そのまま少し左に移動すると、千里は棚の上から一枚の紙を手にとった。「はい」と言って、千里はその紙を僕へと手渡す。
「……スターターセット?」
僕は、その紙の一番上に太字で記されていた文字を読み上げる。その下には銃や弾倉の写真が白黒で印刷されていて、説明と思われる文章も記されてあった。
「そう。銃と弾倉と、あと的やホルスターなんかがついた初心者向けのセットだよ。色や種類は選べないんだけど、何より安いんだ。初めはこれで十分だと思うよ」
「ふーん……」
僕は一旦紙から目を離し、陳列棚のほうに目を向ける。たしかに銃や弾倉はかなりの種類があるようで、その中から一つを選ぶのは中々大変そうだった。値段も安いというのなら、このスターターセットを選んでもいいかもしれない。
「そうだね。じゃあ、これにしようかな。えーっと、お金……」
僕は財布を確認すべく、バッグの中にごそごそと手を突っ込んだ。遠出をするということで一応多めにお金は持ってきたから、足りないということはないはずだ。
「あ、お金は大丈夫。父さんから軍資金をもらってきたから」
千里はそう言うと、肩に掛けた茶色のスクールバッグからスッと茶封筒を取り出した。
「い、いつの間に……」
僕は驚いて、千里が持つ茶封筒を見つめる。出発前に電車代と食事代ということで父さんからそれぞれお金をもらったけれど、まさかそれ以外にもあったとは。父さんは結構お堅い感じの人だからそう易々とお金をくれたりはしないはずなのに、一体どんな手を使ったんだろう。
「部活で必要な道具を買いたいって言ったら、わりとあっさりくれたよ。よかったね、ヒロ」
「あ……そうなんだ……」
その言葉を聞いて、僕の胸の奥がちょっと熱くなった。なんていうか、僕の新たな挑戦を父さんにも応援してもらっている感じがしたのだ。ただの学校の部活だから大げさかもしれないけれど、ずっと家に閉じこもっていた僕にとっては大きな一歩だ。ありがたく使わせていただきます、と心の中で父さんにお礼を言いながら、僕は茶封筒を片手にレジへと向かった。
「はい、いらっしゃい」
「……!」
レジの前で挨拶をする店員の姿を見て、僕は一瞬固まってしまった。その店員は色黒でムキムキマッチョな体型の三十代後半くらいの男の人で、どう考えてもおもちゃ屋にいるとは思えない風貌の持ち主だった。頭はドレッドヘアなのに子供受けを狙ってかファンシーなくまの絵が描かれた黄色のエプロンをしていて、ちぐはぐ感が半端ない。僕は思わず隣に立つ千里の顔を見るけれど、千里は至って普段と変わらない表情でこの奇抜な店員を見つめていた。さ、さすが千里だ。
「あ、あの。この、スターターセットっていうのが欲しいんですけど……」
千里が普通にしている手前、僕がビビるわけにはいかない。僕はなんとか平常心を心がけて、口を開いた。
「ああ。これね。はい、じゃあこの中から一つ引いて」
マッチョの店員は僕がカウンターに置いた紙を見ると、店の奥から四角い箱を持ってきて僕に差し出した。
「……?」
僕は言われるままにくじ引きの箱のような形状のそれに手を突っ込んで、中から一枚の紙を引っ張り出した。手の中の紙をちらりと見ると、『メタリックブルー』と印刷された文字で書いてあった。
「はい、あとこっちも一つ」
今引いた紙を店員に渡すと、さっきのとは違う箱を突き出された。再び中から紙を掴みとって、店員へと手渡す。今引いた紙には、『雷・機関銃』と書かれていた。マッチョな店員はそれらを見ると奥へと引っ込んでいき、両手にたくさんの荷物を抱えて戻って来た。ことり、とカウンターに置かれた商品たちを、僕はまじまじと見つめる。どれも個別にビニール袋に入っていたけれど、色や形は大まかに確認できた。銃の色はメタリックブルーで、弾倉の色は黄色。あとは千里が持っていたのと同じ的がいくつかと、黒いベルトみたいなのが二つ。店員はそれらをまとめて一つの大きめの袋に入れると、ピッ、ピッ、とレジを操作した。
「お会計、税込で千六百二十円です」
「あ、はい」
僕は茶封筒の中から千円札を二枚取り出して、カウンターの上に載せる。お釣りと商品の入った袋を受け取って、僕はレジを後にした。
「ありがとうございましたー」
視界の端でマッチョの店員が、頭を下げているのが見えた。見た目は強面だけど接客は普通だったな……なんて感想を抱きつつ、僕は右手に持った袋の重みを確かめた。
「あは、良かったね。銃ピンクとかじゃなくて」
「えっ、ピンクになる可能性もあったの?」
「そりゃーランダムだし」
千里が横からそんなことを言ってくるので、僕の顔が今更だけれど青ざめる。よ、よかった。ブルーで。僕は思わず商品の入った袋を抱きしめて、これは絶対に大切にしようと誓う。千里はそんな僕を見て微笑むと、ちらりと壁に掛かっていた時計に目をやった。僕もつられて目をやると、時刻は午前十一時四十六分だった。
「待ち合わせは駅だから、そろそろ向かってもいい頃かな。目的は果たしたしね」
「うん、そうだね」
そう言うと僕と千里はビルを出て、駅へと向かう道を並んで歩いた。一度通った道なので、今度は僕もあまりきょろきょろせずに歩くことができた。何度か信号を渡り駅の近くまで来たところで、千里が「あ」と声を上げた。
「あれじゃないかな。あの、入り口の脇にいるの」
「ふうん?」
千里の目線の先を追うと、たしかに駅の入り口脇には白いセーラー服姿の学生らしき女子が二人立っていた。その二人は向かい合ってお喋りをしているみたいで、まだ僕達のことは視界に入っていないみたいだった。
「あ!」
それからもう少し近づいたところで、二人のうち一人の女子がこちらに気付いた。活発そうなショートカットの女子はこっちに向かってたたーっと走って来ると、すごい勢いで千里に抱きついた。千里も慣れた様子で、その女子からの抱擁を受け入れる。
「わーい! 千里だ! ひさしぶりだー!」
「はは、元気そうだね、晴日」
千里はそう言って、にこりと微笑む。晴日と呼ばれたショートカットの女子も、白い八重歯を覗かせて満面の笑みを浮かべていた。
「もう。晴日はすぐに人に抱きつくんですから。周りの人がひいてますよ」
「だって感動の再会だしー」
その後ろからひょこっと顔を出したのは、長いウエーブのかかった艶のある黒髪の女子だった。言葉遣いも丁寧だし仕草や雰囲気にどことなく品のような物が感じられて、絵に描いたお嬢様みたいな子だと僕は思った。千里の事前情報によると晴日という子も超がつくほどのお嬢様らしいけれど、健康的に日焼けした肌やフレンドリーな言動などが相まって、パッと見ではあまりそんな風には見えなかった。
「沙綾も久しぶり。最近部活はどう?」
「千里がいなくてみんな寂しがってますよ。部長はそんなみんなを元気づけようと毎日暴れ回ってますし」
「はは、それは大変そうだね。ちょっと見たいくらいだ」
「リクエストがあれば動画で送りますよ」
千里と沙綾という名前の女子も、そんな風に和気あいあいと言葉を交わしている。その様子を見て、僕の心にはちょっとほっとするものがあった。名古屋の学校でも、千里はみんなにかなり慕われていたみたいだ。
「というかそれより、ねえ! 君か! 君が千里の双子の弟くんか!」
そしてそんな風にしばし再会の光景をあたたかく見守っていた僕に、いきなり焦点が当てられた。晴日さんがずいっと近づいてまじまじと顔を見つめてくるので、僕は思わず後ずさってしまう。
「すげー! 千里の男バージョンだ! まあなんか、ちょっと頼りなさげだけど!」
「晴日、失礼ですよ」
目をキラキラと輝かせてそんなことを言う晴日さんを、沙綾さんがぐいっと引っ張って窘めた。晴日さんが至近距離からいなくなってくれて、とりあえず僕はほっと一息を吐く。
「紹介するよ。あたしの弟の千尋。新しい学校で一緒にライトトイガン部始めたんだ」
「ど、どうも……。はじめまして、千尋です……」
千里はそう言って、二人に僕を紹介してくれる。僕はまだまだ緊張の中にありつつも、それに合わせてぺこりと頭を下げた。
「どもどもー! あ、アタシは松岡晴日! 千里とは一年のときから同じクラスでさー、部活も一緒だからすっげー仲良かったんだ! というわけで、弟くんもヨロシク!」
晴日さんは笑顔でそう言うと、右手で銃のポーズを作って『バン!』と僕を撃つ真似をした。突然のことに僕は上手い反応もできず、ただただ目をぱちくりさせる。
「もう、晴日! ……すみません千尋君、騒がしくて。決して悪い子ではないんですけど。……ええと、申し遅れました、わたしは三舟沙綾、中学二年生です。千里とは部活が一緒で、いつも仲良くしてもらっていました。よろしくお願いします」
「こ、こちらこそ。よろしくお願いします……」
一方沙綾さんは、ものすごく丁寧に挨拶をしてくれた。僕も改めて、二人に向かってお辞儀をする。二人の性格は随分違うみたいだけれど、中々いいコンビのように思えた。なんていうか、子供と保護者というか、飼い犬と飼い主……は言い過ぎか。
「ていうかさ、おなかすいたよ! いつまでも立ち話してないでさ、お昼ご飯にしようよー!」
そうして互いに自己紹介を済ませたところで、晴日さんが空腹を訴え始めた。バタバタと落ち着かない感じは、やっぱり犬っぽい。でもたしかに時刻はもうお昼を回っているし、電車でおにぎりを二つ食べただけの僕もそろそろ何かお腹に入れたいところだった。
「ん、そうだね。じゃあ、どこか近くのお店に……」
「はいはーい! アタシ、行きたいお店があります!」
千里が近くの飲食店を調べようとスマートフォンをバッグから取り出そうとしたところで、晴日さんがびしいっ、と真っ直ぐに手を挙げた。指先までぴんと伸ばした手を天高く突き上げる晴日さんを見て、千里はちょっと顔をしかめる。
「言っておくけど晴日、高級レストランなんかはこっちの予算オーバーだからね。おごってもらう気もないし」
「行くかそんなとこ! だいじょーぶ、ついてきたまえ!」
あらかじめ釘を刺した千里に晴日さんはそう言い切ると、ずんずんと駅構内へと入って行った。その後ろ姿はごくごく普通の女子学生といった雰囲気で、お嬢様にも色々いるのだなあということを学ばされる。
「すみません、千里、千尋君。晴日の決めたお店でいいですか? あの子、すごく楽しみにしていたので」
沙綾さんが申し訳なさそうにそう言うので、僕と千里は一瞬顔を見合わせてから揃ってこくりと頷いた。突拍子もないような値段のお店でなければ、こっちとしては別にどこでお昼を食べようが構わないし。「ありがとうございます」と嬉しそうにお礼を言う沙綾さんと共に、僕達は駅の人ごみの中に消えた晴日さんの後を追った。
「いっただっきまーす!」
がぶり、と晴日さんは大きな口を開けてハンバーガーにかぶりついた。そしてもきゅもきゅと口を動かして味を堪能すると、「うまー!」と叫んで恍惚そうに眼を細めた。そんな晴日さんの様子を、向かいに座る千里は何とも言えないような微妙な表情で見つめる。
「……あのさあ晴日。こっちとしては安く済んでありがたいけれど、せっかく遠くに来たんだからご当地グルメとかじゃなくてよかったのかい?」
千里の言うことは、もっともだと僕も思った。晴日さんがお昼ご飯を食べるために選んだのは、全国のどこにでもあるファストフードのハンバーガーショップだった。馴染みのある味で僕は結構好きなのだけれど、わざわざ遠出した席で食べるような物でもないのは確かだった。
「ん? あー、そういうのはさー、お取り寄せすれば家で食べれるし。だけどこういうのは普段食べさせてもらえないしさー、今食べるっきゃないっしょ! くぅー! いいねー! この体に悪そうな感じ、最高だ!」
晴日さんはとても楽しそうな様子で、ポテトをつまんでは口の中へと放り込む。お昼時ということで賑わっている店内のどこを見渡しても、晴日さんほど幸せそうに食事をしている人はいないだろう。
「よーく見ておきな、ヒロ。これがお嬢様だ」
「あー……」
隣に座る千里がぼそっとそんなことを言うので、僕はコーラの入ったストローを咥えながら苦笑いをする。物腰や雰囲気には親近感を感じた晴日さんだったけれど、やっぱり僕達とはちょっと違う暮らしをしている人だったみたいだ。そしてそんな僕の表情を見て、テーブルを挟んで斜め向かいに座る晴日さんはぷうっと頬を膨らませた。
「む、なんだね弟くんその顔は! いっとくけどねー、この店をチョイスしたのはアタシだけの意見じゃないのだよ! 沙綾もここがいいって言ったんだから!」
「え、あ、そうなんですか……」
晴日さんにそう言われ、僕はちらりと向かいに座る沙綾さんに目を向ける。沙綾さんは晴日さんとは違って、さっきからおしとやかにハンバーガーを食していた。僕の視線に気付くと、沙綾さんはちょっぴり恥ずかしそうに微笑んだ。
「実は……そうなんです。こういう機会じゃないと、滅多に食べられないので……。すごくおいしいですよね、これ」
「あー、はは……」
僕は再び、苦笑い。ちらりと横に座る千里を見ると、学校でもこういう会話は日常茶飯事だったのか、今はもう気にすることなく平然とハンバーガーを齧っていた。まあたしかに気にしても仕方のないことでもあるし、僕もそういうものだと思って深くは考えないようにしよう。
「そーいや最初見たときから思ってたんだけどさー、千里の学校の制服かっこいーね! ブレザーだ!」
晴日さんはもぐもぐと口を動かしながら、千里が身に纏っている茶色のジャケットに赤いリボン、白いワイシャツに黒のプリーツスカートの制服をまじまじと見つめた。
「晴日たちは一生そのセーラー服だもんね」
「一応そうじゃない可能性もありますけどね。高校に上がるときにあまりにも成績がひどいと、エスカレーター式といえど追い出されちゃいますから」
「追い出されてたまるかー! 高校でもこの制服着てやるぞー!」
制服の話題になったので、僕もつい向かいに座る二人のセーラー服姿に目が向いてしまう。晴日さんたちが着ているのは白地に黒のラインが入ったセーラー服で、スカーフの色は黒。下は黒のプリーツスカートで、全体的に清楚な雰囲気でまとまっている。そういえば千里も、母さんの葬式のときにはこのセーラー服姿だったっけ。お嬢様っぽいセーラー服姿の千里も中々絵になっていたけれど、なんというか、ちょっとおとなしすぎる感じもした。もう見慣れてしまったからかもしれないけれど、千里にはやっぱり僕の学校の制服のほうが似合うような気がした。
「あ、あとさー、そっちの学校共学なんでしょ? どんな感じなの? カップルだらけか!」
「だらけではないよ。ちらほらはいるようだけど」
「すごいですね……。わたしたちなんて、男の子と会う機会といえばお友達のご兄弟くらいですし」
「ねえ、同じクラスにイケメンいた? イケメン!」
きゃいきゃいと盛り上がり続ける会話を横で聞きながら、僕は女三人寄れば何とやら、という言葉を思い出した。女子が集まったときに発せられるエネルギーは、男子にとっては理解できないくらい強いものとなる。僕は人生勉強の意味も含めて、ポテトを齧りながらその様子をただただ見守っていた。やがて全員が食事を終えおしゃべりにも一段落がついたところで、晴日さんがすっくと立ち上がった。
「よーっし、お腹も満たされたことだし! 食後の運動といきますかっ!」
「!」
その言葉を聞いて、僕の頭の中に忘れかけていた一つの事実が思い起こされた。そうだ。このお嬢様たちも向こうの学校で『ライトトイガン部』に所属している、れっきとしたサバゲーマーなのだ。しかし僕の中でお嬢様とサバゲーという単語がどうにも結びつかなくて、なんとも言えない違和感が纏わりつく。なんとなく晴日さんが銃を振り回しているところまでは想像ができたのだけれど、おしとやかな沙綾さんには銃なんて一番似合わない物のように思えた。
「ふふ、楽しみです。千里と千尋君のコンビと戦うの」
沙綾さんはそう言って、僕ににこりと笑みを向けた。その言葉を聞いて、僕の中で緊張と期待がどんどん膨れ上がって行く。
「行こう、ヒロ」
「う、うん」
千里に名前を呼ばれ、僕はみんなに続いてファストフード店の自動ドアをくぐり抜けた。
ピッ、とボタンを押すと、ガコン、と音がして学校の上履きみたいな真っ白な靴が取り出し口に落ちてきた。隣では千里も、自動販売機に向かって同じ動きをしている。僕はもう一度お金を入れて、再びボタンを押す。今度ガコン、と落ちてきた靴は、僕の足よりもいくらか小さいサイズだ。
「おまたせー! 受付済んだよー!」
小さなICカードのような物を手に、晴日さんはレンタル靴の自動販売機の前にいる僕と千里のところへやって来た。その後ろには、沙綾さんの姿も見える。
「こっちもレンタル完了だよ」
千里はそう言うと、両手に持っていた靴の片方を晴日さんへと手渡した。僕もそれに倣って、今出てきたばかりの小さい方の靴を沙綾さんへと差し出す。
「ど、どうぞ」
「ありがとうございます、千尋君」
沙綾さんがにっこりと微笑んで受け取ってくれるので、僕はほっと一安心する。僕達四人はその場でお揃いの白いシューズに履き変えて、今まで履いていた靴は受付脇にあった下駄箱の中へと入れた。
ここは駅から歩いて十分ほどの距離にある、サバゲー専用施設。昼食を済ませた後、僕達は古びたビルのような外観のこの施設へとやって来ていた。こういう施設は主に弾の出るエアガンで行うサバゲーのためのものだそうで、一般の人を巻き込まないためにこういう施設を借りてやるのがマナーだそうだ。その点僕達が使う赤外線銃は弾が出ることはないから、本来なら特別な場所を用意する必要はない。だけど千里たちは時々、こういう場所でもサバゲーをしているらしかった。
「迷ったんだけどさー、結局遮蔽物の多いフィールドにしたよ。人数も少ないことだし」
「うん。いい判断だと思うよ。さて、何階なのかな?」
「四階です。向こうのエレベーターから行けるそうです」
施設にやって来た際晴日さんと沙綾さんは受付を、僕と千里は全員分の靴をレンタルするという役割分担をしていた。だから複数あるというサバゲー用のフィールドの中からどれを選択するかは、受付担当の晴日さんたちにお任せてしあった。僕はこういうところに来るのは初めてなので、フィールドって一体どんな感じなんだろうとドキドキしながらエレベーターを待った。やがてポーン、と音がして、ちょっと古びた感じの灰色のエレベーターの扉が開いた。
「!」
そしてその中から出てきた人達の姿に、僕の目は釘付けになる。僕達よりもちょっと年上、大学生くらいと思われるその若い男の人達は、全員が迷彩服姿だったのだ。胸に黒い防弾チョッキのようなものを付けている人もいて、まるで本物の自衛隊みたいだった。
「さーて、四階、四階」
しかしその自衛隊風の集団に驚いているのは僕だけで、他の三人は一斉目もくれずにエレベーターへと乗り込んでいた。歌うように目的の階数を呟きながら、晴日さんがドア脇のボタンを押している。僕も慌てて後に続き中へと入ってから、隣に立つ千里にぼそりと尋ねた。
「えっとさ……、サバゲーって、ああいう格好でやるのが普通なの?」
「ん? ああ、そうだね。迷彩服を着る人が多いよ。ここの施設は屋内だけれど、屋外だと自然が一杯の山の中とかでやることが多いからね。迷彩服だと保護色になって有利なんだ」
「へえ……そうなんだ」
てっきり見た目の好みで着ているのかと思っていたけれど、ちゃんと合理的な理由があったみたいだ。僕はそこで、制服姿の自分が緑一杯の山の中で佇んでいるのを想像してみる。……うん、すごくいい的になる。強さを追求するならそういう場面では迷彩服を着るべきのように思えるけれど、なんだかコスプレみたいでちょっと勇気がいりそうだ。そういうのもあって、千里たちは着慣れた制服姿でサバゲーをしているのかもしれない。
「やー、はじめてのフィールドはやっぱ楽しみだねー!」
閉まるボタンをピッと押して、晴日さんはにかっと笑顔を浮かべた。エレベーターが動き始めると体には普段の何倍もの重力がかかり、よろめきそうになった僕は慌てて手すりを掴んだ。
「あんまり期待はしないほうがいいと思うよ。外観を見た限り、名古屋の施設とは比べものにならないと思うし」
「意外と全国的にあるものなんですね、サバゲー用の施設って。千里の新しい家の近所にもありましたか?」
千里と沙綾さんの会話を聞いて、僕は地元の比較的栄えている地域の辺りを思い浮かべてみる。最近全国チェーンのネットカフェができたという話は聞いたことがあったけれど、サバゲーの施設についてはまったく覚えがなかった。
「それが調べたんだけど、市内にはなかったんだよね……。そういうところでやるとしたら、遠くまで足を延ばす必要がありそうだよ」
「そうなんですか……。それはちょっと残念ですね」
悔しそうに息を吐く千里に沙綾さんが言葉を返したところで、ポーン、と音が鳴り、再び体にずっしりとした重みが襲いかかった。目的地の四階に着いたのだ。ドアが開くと、今流行りのJ―POPの音楽が耳に入ってきた。どうやら廊下のスピーカーから、ラジオか何かが流れているようだった。エレベーターを降りた僕達は、一本道の廊下をとりあえず奥へと進んでみる。廊下の右側にはいくつか扉が見えていたので、その扉のうちのどれかが僕達が今回使用するフィールドへと繋がるものなのだろう。
「あ、ここだ! フィールドEって書いてある!」
先頭を歩いていた晴日さんが、たたーっと一つの扉の前に駆け寄った.。その手に持つICカードの表面には、目の前の扉と同じく『フィールドE』の文字が書かれてある。晴日さんがピッ、とドアノブの上の黒い部分にカードをかざすと、がちゃりと金属音がしてドアが開錠された。
「おおーっ! すげー! マジで迷路だ!」
一番に部屋の中へと入った晴日さんは、目の前の光景を見てバンザイと両手を振り上げて飛び跳ねた。晴日さんは受付のモニターでフィールドの写真を見ているはずだけれど、その反応を見るに写真よりも実物のほうがすごかったのだろうか。
「へえ、なんだか屋内にあるのがもったいないくらいの造りだね」
「迷路の壁、結構高いですね。三メートルくらいはありそうです」
続いて入った千里と沙綾さんも、中々好感触といった感想を述べる。そして一番最後に部屋に入った僕も、初めて目にしたサバゲーのフィールドというものに強く目を奪われた。
「す、すご……」
僕は思わず、そんな感嘆の声を漏らす。空間の広さはは学校の体育館くらいはありそうで、天井もかなり高い。そしてそこかしこに張り巡らされている、四角い壁の集合体。それは前にテレビか何かで見たことがあった、昔流行ったという『巨大迷路』にそっくりだと思った。僕は迷路の入り口と思われるところへと近づき、壁に手で触れてみる。壁には薄いクリーム色の塗装がされていて、材質は木製のようだった。ところどころに傷や汚れがあり、かなりの年季が感じられる。どこか別の場所で使っていた物を、サバゲーのフィールドとして再利用したのかもしれない。
「あ、一応地図が書かれてるんだ。んーと、入り口……というか、出口? まあどっちでもいいけど、それは四つあるみたいだね」
晴日さんがそう言って、部屋の入り口のドア脇の壁に貼られた紙をじいっと見つめていた。僕もそちらに行ってみると、その紙には巨大迷路を上から見た図が書かれてあった。
「あ、それじゃあ、スタート位置はそれで決まりですね。四人バラバラの位置でスタートしたほうが面白そうですし」
沙綾さんはそう言って、ぱちりと胸の前で手を叩く。
「お、そーだな。えーっとじゃあ、地図はどーする? オッケーにする?」
その晴日さんの問い掛けに、千里は腕を組んで少し考え込む仕草を見せた。
「そうだね……見た感じ結構複雑そうだし、ありにしていいんじゃないかな。何か緊急事態が起きたときに、迷路から脱出できないってのも困るし」
「あ、そうですね。もし火事が起きたりしたら大変ですし」
千里の意見を後押しするように、沙綾さんもそう頷く。そんなふうに三人が話し合っているのを見て、僕は改めてサバゲーというものの面白さを感じていた。細かいルールを自分たちで調整することで、よりゲームを楽しいものにする。ルールづくりの時点でもう、ゲームが始まっているような気さえした。
「えーっと、ゲーム時間は、三十分にしとく? 一時間レンタルだけど、もうすでに結構時間経っちゃってるし」
晴日さんはそう言って、肩に掛けていた黒いスクールバッグの中からクリアイエローの銃を取り出した。その眩しい向日葵のような色は、元気な晴日さんにとても似合っていると思った。一方沙綾さんが取り出した銃は、メタリックピンク。それを見て僕は、自分の銃があの色にならなくてよかったと改めて思った。女の子らしい沙綾さんには可愛らしくていいと思うけれど、僕があの色を持ったらギャグでしかない。みんながゲームに向けての準備を始めたので、僕も手に持った袋の中を覗き込んで必要な物を取り出していった。僕が今日使うのは千里から借りていたシルバーの銃ではなく、さっき買ったばかりのメタリックブルーの銃だ。新品ほやほやの銃をビニール袋から取り出して、右手でそっと握ってみる。型は同じはずだけれど、まるで自分のために作られたもののようにしっくりと手に馴染んだ。それから銃の画面を操作して時間設定をしたり、これまた今日買ったばかりの銃のホルスターを腰に付けたりと、わからないところを千里に手伝ってもらいながら僕は着々と準備を進めていった。そしておおよその準備が整ったところで、沙綾さんがみんなに声を掛けた。
「みなさん、準備はもうよろしいですか? よろしければ、五分後にスタート設定をして、各自スタート位置に……」
「あ、待った沙綾。言うの忘れてた。ヒロには今回レアを使わせるから」
その言葉を遮って、千里は思い出したようにそう呟いた。自分の名前が出てきたことで、僕はぎょっとして顔を上げる。晴日さんも「えっ!」と言って、ぐりんと僕に顔を向けた。
「マジでー? あのチート弾倉使わせるのかよーっ」
「それだと、中々に厳しい戦いになりそうですね……」
晴日さんは不満の意を隠しもせず、ぶーっと頬を膨らませる。沙綾さんも露骨に態度に出すことはないけれど、難色を示しているようだった。
「ヒロはまだまだ初心者だからね。あたしとの対戦でも、まだ一度も勝利したことがないんだ。レアを使わせるのは妥当だと思うよ」
「むー……」
晴日さんは何かに葛藤するように、しばらく唸り声を上げていた。沙綾さんも考え込むように、しばし沈黙している。僕は事の成り行きを、はらはらしながら見つめていた。僕個人としてはレアの弾倉でも、はたまた今日買ったばかりの黄色の弾倉でもどちらでもよかった。だけどまあ力が拮抗するような勝負になるのが一番いいのかな、とは思っていた。そこらへんのさじ加減はまだ僕にはよくわからないので、経験者三人に判断を任せるしかない。やがて自分の中で結論が出たのか、晴日さんがはーっと息を吐いた。
「まー、そーだね。そのほうが、アタシたちも本気になれるか」
「頑張りましょう晴日。腕の見せ所です」
どうやら、話はまとまったみたいだ。二人の言葉を聞いて、千里がひゅっと僕の方に何かを投げて寄越した。反射的に手を出して受け取ると、それはシルバーに輝くレアの弾倉だった。僕は頷いて、自分の銃にその弾倉をカチャリと差し込む。
「ふふ。楽しいゲームにしよう」
「望むところだぜーっ」
千里と晴日さんが、そう言ってがっちりと手を合わせた。その様子を、僕と沙綾さんは少し離れたところから見守る。五分後にゲームがスタートするようにタイマーを設定して、僕達は敵と味方に分かれた。晴日さんと沙綾さんは迷路の向こう側へと姿を消し、こちら側には僕と千里が残る。
「……えーっと、何か作戦とかって、ある?」
僕は、ちらりと横に立つ千里の顔を覗き込んだ。思えば、二対二の対戦はこれが初めてだ。今までは何もかも自分で考えなければならなかったけれど、今回は頼れる味方、千里がいる。それだけで、僕はとても心強さを感じていた。
「んー、そうだね。作戦っていうほどじゃあないけれど。おそらく向こうは、狙撃タイプは使って来ないんじゃないかな」
「え……、どうして?」
千里の言葉に納得がいかなくて、僕は首を傾げる。使用弾倉は僕のレアを除いて、敵には明らかにしないこととなっていた。だから僕達は、敵である晴日さんと沙綾さんがどの弾倉を使用するのかを知らない。だけど僕は、向こうが射程の大きい狙撃タイプを使ってくるのではないかと密かに予想していた。それは僕が前回までの対戦で、千里の使う狙撃タイプの弾倉に大いに苦しめられていたからだ。すべての能力が高いレアの弾倉に対抗するには、発射距離の長い弾倉を使うのがセオリーだと感じていた。しかし、千里は僕とは真逆の予想をしている。
「今回のフィールドは迷路だからね。おそらく中は入り組んでいて、長い直線の一本道なんてないんじゃないかな。つまり、射程の大きさはあまり活かせそうにないんだよ。おそらくレアの射程と似たり寄ったりの機関銃タイプを使ってくるんじゃないかなあとは思うけれど、こればっかりは対峙してみないとわからないね」
「な、なるほど……。って、あ、そういえば千里は何の弾倉にしたの?」
説明に納得しつつ、僕はちらりと千里の持つメタリックレッドの銃に目をやった。味方の使用弾倉を知っておくことは、ゲームをするうえでいくらかプラスになるはずだ。
「ふふ。あたしはねー、今回は草、機関銃タイプにしたんだ。連射で弾をばらまこうと思って」
千里はそう言うと、グリップの底から緑色の弾倉を取り出して見せてくれた。僕の弾倉はすべての属性に強いから気にしなくていいらしいけれど、千里の場合はそこらへんも含めて予想を立てて決めたのだろう。運良く、向こうの弾倉と噛み合うといいのだけれど。
「あ、それと。たぶん二人一緒に行動したほうがいいと思うんだよね。だからスタートしたら、できるだけ早く合流を心がけてくれ」
千里はそう言って、ちらりと銃の液晶画面を見た。僕も自分の銃を傾けて画面を見ると、スタートまで後一分を切っていた。そろそろ、スタート位置である迷路の入り口に移動したほうがいいだろう。
「うん。わかった。合流ね」
「よし。じゃあまた後で、ヒロ」
最後にそう言葉を交わすと、千里はスタート位置のある迷路の端へと歩いて行った。僕もちょっと移動して、四つあるうちの入り口の一つの前に立つ。緊張と期待で高鳴る心臓の音を聞きながら、この先どこに続いているのかわからない迷路の壁をじっと見つめた。
『スタート』
「……っ!」
相変わらずやけに発音のいいスタートコールを聞いて、僕は高い壁で仕切られた迷路の中へと踏み出した。いよいよ、僕、千里VS晴日さん、沙綾さんの二対二のサバゲーが始まったのだ。僕はできるだけ早く合流するように言われていたので、千里のスタート位置のある方角に向かって足を進める。辺りはしん、と静まり返っていて、この迷路の中に四人もの人間がいるなんて信じられないくらいだった。もう何度か角を曲がったけれど、一向に人の気配は感じられない。迷路はかなり入り組んでいて、この方角に進んでいてよかったのかだんだん自信がなくなってきた。僕は一旦立ち止まると、左腕に装着したスマートフォンの画面を操作した。ちなみにこのスマートフォンを装着している黒いベルトは、先ほど購入したスターターセットの付属品である。僕はさっき写真を撮って保存しておいた、迷路の地図の画像を呼び出した。
「えーっと、ここは……」
地図には、所々に番号が振られている。迷路の壁にも番号が書かれているものが時々あったので、それを照らし合わせれば今自分がいる位置がわかるのだろう。僕はちょっと歩いて、とりあえず番号の書かれた壁を探すことにした。
「あ、あった……えっと、19番……」
三メートルくらいの高さがある壁の上部に書かれた番号を確認して、僕は画面の中の地図を覗き込む。19番……は、ここか。……あれ、結構歩いたと思ったけれど、まだスタート位置からそんなに離れていない。千里のスタート位置がここだから、番号でいえば20番台の壁があるほうに進んで行けばいいのか。僕は地図と睨めっこして進路に目星を付けると、再び歩き出した。相変わらず周囲からは音がまったくしないので、なんともいえない緊張感が纏わりつく。いつ晴日さんや沙綾さんに出くわすかもわからないので、角を曲がるときには十分に警戒した。
「!」
ドドドドドッ……、という銃声がして、僕は思わず近くの壁に張りついた。銃声に続いて、いくつものヒットコールも聞こえてくる。だ、誰かが、戦っている。銃声や声の大きさからしてすぐ近くではなさそうだったので、僕はちょっとほっとして壁から体を離した。だけど今も尚銃声は鳴り続けていて、バタバタという足音も聞こえてくる。戦っているうちの一人は、千里で間違いない。晴日さんと沙綾さんは味方同士だから、二人が銃を向け合うことはない。僕が今こうして一人でいるのだから、その相手は千里しかいないのだ。
「……」
僕は聞こえてくる声に神経を集中させて、千里が戦っている相手を特定しようとした。しかし、ここから聞いた限りでは晴日さんなのか沙綾さんなのかいまいちわからない。銃声とヒットコールは未だ止むことがなく、僕のいる位置から壁何枚かを隔てたところでは壮絶なバトルが繰り広げられているようだった。と、ここでようやく僕は、加勢しに行くべきなんじゃないかという考えに思い至った。千里からは元々合流するように言われていたし、音のするほうに進んで行けばそれは実現するだろう。僕は銃を体の前に構えながら、迷路の中を小走りで駆け始めた。しかし角に差し掛かる度にスピードダウンして辺りを確認する作業をしているので、中々現場に辿り着くことができない。そうこうしているうちにやがて銃声が止み声も聞こえなくなったので、僕は進むべき方向を見失って立ち止まってしまう。一旦どちらかが退避したのだろうか、なんてことを考えていると、ズズッ……とノイズのような音が響いた。
『あー、ヒロ、聞こえる?』
「千里?」
僕は、左腕を持ち上げてスマートフォンの画面を見つめた。画面には先程表示していた地図の画像はなく、その前に起動しておいていた無線アプリの表示に切り替わっていた。サバゲー中は味方同士で交信するために、このアプリを起動しておくように言われていたのだ。
『ごめん。死んじゃったー。後頼むよ』
「え?」
一瞬聞き間違いかと思う程に、スマートフォン越しに聞こえた言葉はかなり衝撃的なものだった。し……死? それはつい数週間前に母親を亡くした僕達にとっては、中々に不謹慎な表現のように思えた。だけど千里には、たぶんそういう感覚はない。ゲームで自分のキャラがモンスターにやられたときのように、何の気なしに使っている言葉なのだろう。しかし、死んだって……それは、えっと、今僕達が参加しているサバゲーで、千里の体力ゲージがゼロになった、ということ?
「え……なんで……! 何があったの、千里」
僕は混乱した頭のまま、画面に向かって叫ぶ。さっき聞こえたあの戦いで、千里はやられてしまったのか?
「んー、ごめん。あたしもう死体だから、余計なことは喋れないんだ。味方に死亡宣告するのだけはオッケーなんだけど。だからまあ、頑張って」
「え……っ」
その言葉を最後に、ブチッ、という音がして通信が途切れた。僕はしばらくぼうっと画面を見つめていたけれど、いくら待っても千里の声が聞こえてくることはなかった。辺りには再び静寂が戻り、僕は得体の知れない恐怖を感じた。……千里は、もういない。ここから先は、僕一人で戦わなければならない。その現実が、否応なく突きつけられる。今更になって僕は、先程戦いの現場に駆けつけられなかったことを後悔していた。いちいち警戒なんてしていないで全速力で音のするほうに走れば、きっと間に合った。千里が死ぬことは、なかった。
「……」
僕はコツン、と傷やささくれだらけの壁に頭を打ち付けた。萎えそうになる気持ちをなんとか奮い立たせて、これからのことを考え始める。僕は、千里を喪った。じゃあ、向こうは? 晴日さんか沙綾さん、どちらかと相討ちになったという可能性もなくはない。そうだとしたら、残るは一対一。僕の弾倉のほうが性能はいいはずだから、上手くやれば勝ち目はあるだろう。
そして相討ちではなかった場合も、千里が向こうにまったくダメージを与えなかったとは考えにくい。向こうの体力もかなり削られているはずだから、弱っているほうを早々に倒してしまえばあとは一対一に持ち込める……。
「……ん」
そこまで考えたとき、僕の頭になんとも言えない違和感がちらついた。なんだろう。何かがすっきりしない気がした。僕は、うーんと顎に手を当てて、その違和感の正体を突き止めようと考えを巡らせる。
ドドドドドッ……!!!
「!」
思考の渦に飲まれかけていた僕を、銃声が現実へと引き戻した。手元が何度か細かく震え、僕は「ヒ、ヒット! ヒットぉ!」と繰り返し叫ぶ。慌てて体で銃を隠し、弾が飛んできたと思われるほうへと目をやった。見ると五メートル程先の曲がり角から、銃の先端だけががひょっこりと覗いていた。その色は、眩しいほどのクリアイエロー。晴日さんの、銃だ。
「……っ!」
僕は今も尚銃撃を続ける晴日さんから逃れようと、走って次の角を左へと曲がった。とりあえずここに隠れて銃を復活させて、タイミングを見て弾を撃ち込むしかない。そう思ってシルバーの弾倉に手を掛けたとき、再びドドドド……と銃声が響いたので僕は飛び跳ねそうになった。
「ヒ、ヒット、ヒット、ヒット、え」
見ると体力ゲージは全体の半分ほどが削られ、すでに緑色へと変化していた。僕は、たった今銃撃があった方向に目を凝らす。先程晴日さんがいた方向からではない。僕が角を曲がった、その先。そこから、メタリックピンクの銃口が覗いている。
「!」
沙綾さんも、まだ生きている。僕は銃を背中に隠しながら、思わず後ずさった。だけどそれを許さないかのように、背後からもドドドド……と銃撃が続く。晴日さんだ。そこで僕はようやく、今が大変まずい状況であると理解した。今僕は晴日さんと沙綾さんに、挟み撃ちにされている。晴日さんからの銃撃を避けられても、違う方向から沙綾さんの弾が飛んでくる。そのすべてを避けきることはできず、僕の銃は何度も細かく震える。銃を復活させようにも、二人がその隙を与えてくれない。じりじりと、僕の銃の体力ゲージだけが確実に減って行く。
「……っ!」
僕は大きく地面を蹴り、沙綾さんの銃が覗く角へと全力でダッシュした。とりあえず挟み撃ちから抜け出さないと、話にならない。向こうも追いかけてくるだろうけれど、一方向からならまだなんとか捌けるだろう。勢いよく角を曲がると、銃口を僕に向けている沙綾さんの姿が目に入った。敵であるはずなのに、僕はこの迷路の中で初めて人に会えてちょっとほっとした気持ちになってしまった。沙綾さんは僕の姿を見ても、怯むことなく銃撃を続けている。僕は一瞬反撃するべきかとも思ったけれど、ひとまず距離をとることを優先にして迷路の中を滅茶苦茶に走った。しばらくは僕を追いかける足音が聞こえていたけれど、やがてその気配がぱったりと途絶えた。なんとか、撒けたようだ。僕は辺りに耳を澄まして今すぐに追っ手が迫ってはいないことを確認すると、壁に手をついてはぁはぁと荒い息を繰り返した。今ので銃の体力ゲージはもちろん、僕自身の体力も大きく削られてしまった。
「……くそ、挟み撃ちか……厄介だな」
そして僕は、先ほど感じた違和感の正体に辿り着いていた。それは千里がゲーム序盤で、あっさりとやられてしまったことについてだ。一体一ならレアの弾倉相手でも勝利することができる千里が、なぜ今回のゲームではすぐに敗北してしまったのか。考えてみれば、その答えは単純なものだった。つまり、一対一ではなかったのだ。さっきの僕のように二人に挟み撃ちにされて、千里は倒されてしまったのだ。
僕は、自分の銃の体力ゲージをちらりと見つめた。残りのゲージは全体の五分の一ほどで、色は黄色になってしまっている。チートと言われるレアの弾倉でこれなのだから、千里の弾倉ではたとえ上手く立ち回ったとしてもかなり厳しい戦いだっただろう。経験した今だからこそわかる。二方向からの銃撃は、かなり厄介た。どう隠しても被弾を完全に避けることはできないし、反撃しようにも銃を復活させる隙を相手が与えてくれない。対処法としては今みたいに片方の相手へと突っ込んで行って一旦逃げるか、それか遭遇した時点で相手より先に弾を撃ち込みまず一方の銃を使用不能にしてしまう、といったところだろうか。
「……難しいな」
僕は頭の中でシミュレーションをしてみるけれど、どうにもうまくいかなかった。まず逃げるという方法だけれど、逃げるにあたっても体力ゲージがいくらか削られてしまうのは確実だろう。残りわずかな体力が、それで吹き飛んでしまう可能性もなくはない。そしてもう一つの相手より先に弾を当てるという方法は、僕の技術的に上手くいくかどうかあまり自信がなかった。相手の姿を先に見つけることができればなんとかなりそうだけれど、そうでなければさっきのように不意打ちで弾をくらってしまうだろう。そしてそうなったらもうアウト、二人からの一斉攻撃が僕を襲うのは明らかだ。
「……」
僕は今いる通路の角と角を行ったり来たりして、晴日さんたちの姿がないかをちらちらと確認した。辺りは静寂に包まれていたけれど、逆にそれが嵐の前の静けさのようで怖かった。思えば、いくら全力とはいっても僕の走る速さなんてたかが知れている。たぶんあの時、あの二人は追いかけようと思えば僕を最後まで追いかけることができたはずだ。だけどそうしなかったのは、あのまま追いかけるよりも再び挟み撃ちで狙った方が確実に倒せると判断してのことだったのかもしれない。二人は今も僕の位置を探りながら、両側から挟むべくベストなポジションを模索している。そんな絵が鮮明に想像できて、僕の顔から血の気がさーっと引いていった。ダメだ。もう一度挟まれたら終わりだ。じゃあ、どうする? 動かないといけない。相手のことを、先に見つけないと。先に見つけて、不意打ちで撃つ。……でも、果たしてこの方法で上手くいくだろうか。なんとか違う通路へと移動し始めた僕の中に、じわじわと不安が押し寄せてくる。技術としては、僕は経験者の晴日さんと沙綾さんに遠く及ばない。何かもっと、確実な方法が欲しい。でも、そんな方法あるのだろうか?
考えるしかない。こうなったら頭を使って考えて、その中から最善の策を選んで実行するしかない。僕は迷路の中を歩きながら、バチン! と両手の平で自分の頬を叩いた。高い壁に囲まれたこの異質な空間が、まるで永遠に続くかのように感じられた。
ドドドドドッ! という銃声は、一気に二方向から聞こえてきた。通路の真ん中に立っていた僕はどっちに反応すればいいか迷って、顔をきょろきょろと落ち着かなく動かす。僕から見て右側の角からは晴日さんのクリアイエローの銃が、左側の角からは沙綾さんのメタリックピンクの銃が顔を覗かせていた。やはり、挟み撃ちで来た。だけど僕は怯むことなく、そのまま通路の真ん中に立ち続ける。ドドドド……と左右からの銃撃は鳴り止まない。だけどここで異変に気付いたようで、スッ、と晴日さんの銃が一旦引っ込んだ。
『沙綾。なんか変だよ。こんだけ撃ち込んでるのに、弟くん一回もヒットコール言わない。というか、銃構えてもいないよ』
その晴日さんの言葉は、スマートフォンの無線アプリを使って沙綾さんへと届けるためのものだった。だけど距離が近いこともあって、晴日さんのひそひそ声は声は僕の耳にもばっちり届いてしまっている。
『……ホルスターの中に銃は、入ってないですね。まあ入っていたとしても赤外線受光部は露出するはずですから、関係ないですけど。……となると、服の中とかに隠しているんでしょうか』
「おいおーい、弟くん!」
無線に乗って届いた沙綾さんの言葉を聞くと、スッ、と晴日さんが角から姿を現した。相変わらず銃は手に持ったままだったけれど、戦闘モード、といった様子ではない。話をするために出てきた、といった感じだった。
「銃の赤外線受光部をすっぽりと覆い隠すのは、ルール違反だよ! だってそんなの、どうやったって当てられないじゃないか。とゆーわけで、大人しく服の中から銃を出すんだね!」
晴日さんはそう言うと、びしいっと僕に向かって人差し指を突きつけた。その仕草はまるで、正義の味方が悪を糾弾しているかのようだった。その様子を見て心配になったのか、沙綾さんも角から姿を現して僕の前に進み出た。
「晴日、千尋君は初心者ですよ。ええと、千尋君。一応ルールではそうなっているので、銃を出してもらってもいいですか? それから勝負を再開しましょう」
沙綾さんがそう言って優しく微笑んでくれるので、僕の中の良心が少し痛んだ。だけど、やり遂げなければいけない。だってこれが、僕が考えに考えて辿り着いた作戦なのだから。僕はすうっと大きく息を吸い込むと、目の前の二人に向かって言葉を投げた。
「服の中に、銃はないです。銃は、この迷路のどこかに置き去りにしてあります」
「え……」
晴日さんも沙綾さんも、大きく目を見開いた。二人にとって、この言葉は予想外のものだったのだろう。晴日さんは落ち着かない様子で、沙綾さんの顔を見た。
「え、えーっ? 銃を置き去りって……さ、沙綾、それってルール的には……」
「……問題ないでしょうね。常に銃を持っていなければならない、なんてルールはありませんから」
沙綾さんがそう呟くのを聞いて、僕は密かにほっと胸を撫で下ろしていた。もちろんルールには触れないはずだと思ってこの作戦を実行したのだけれど、万が一ということもあった。沙綾さんの口からはっきりとその言葉が聞けて、とりあえず一安心だ。
「えーっ、でもさ、弟くん。銃を持たないってことは、アタシたちに攻撃できないってことだよ? それじゃー意味ないじゃん!」
「意味なくはないです。たしかに攻撃はできませんけど、攻撃されることもないですから」
僕は毅然と、晴日さんにそう反論する。そんな僕を見て、晴日さんはちょっと困ったような顔をした。助けを求めるように、沙綾さんに視線を送っている。
「……ええっと、千尋君。ゲームの勝敗について、ちょっと確認させてもらいますね。どちらのチームも全滅しなかった場合は、生き残っている人数の差で勝敗を決めることになっています。こちらは二人とも生存状態、千尋君チームは千里が離脱してしまったので、今のところ二対一です。ここまではいいですか?」
晴日さんに促されるようにして、沙綾さんが口を開いた。その先生のように丁寧な説明に、僕はこくりと頷いて返事をする。そんな僕の反応にほっとしたような表情を見せてから、沙綾さんは言葉を続けた。
「たしかに銃を隠せば、千尋君の体力ゲージはこれ以上減ることはありません。でも今のままの状態で時間切れになってゲームが終了してしまったら、戦況は二対一のままなので千尋君チームの負けになります。つまりわたしたちに攻撃をしないということは、そのまま負けを待つことになってしまうんです」
だから、銃を隠すことは意味がない。沙綾さんは、僕にそう伝えようとしているのだろう。……だけど、違う。僕の考えは、そうじゃない。
「でも、僕は死なずにゲームを終えられますよね」
僕がそう呟くと、今までにこやかだった沙綾さんの表情がひきつった気がした。場の空気が変わったことをぼんやりと感じながらも、僕は言葉を続けた。
「『負け』と一言で言いますけど、僕はその中身が大事だと思います。全滅して負けるのと体力ゲージをいくらか残して負けるのでは、全く意味が違いますよね。だから、僕は銃を手放しました。体力ゲージを、少しでも多く残すために」
しぃん、と沈黙が場を支配した。二人は無言のまま俯いて、僕が言った言葉を咀嚼しているようだった。そして少し経ってから、晴日さんが口を開いた。
「……弟くん。ということはつまり、弟くんは、もうアタシたちに勝つのは諦めたってこと?」
僕は、真っ直ぐに晴日さんを見据えて頷いた。
「はい、そうです。だって、挟み撃ちされたらもう手も足も出ませんから。だから僕は、最善の状態で負けることを考えました。それが、今の僕にできる精一杯です」
「……」
晴日さんは僕の言葉を聞くと、無言ですたすたと歩き始めた。沙綾さんはその様子を見て追いかけたそうにしていたけれど、僕の事を放っておくのも気がひけたのだろう。心配そうな顔をしたまま、その場に留まり続けていた。やがて、晴日さんはさっき自分が隠れていた角のところへと差し掛かった。そのまま角を折れて姿が見えなくなってしまうと思われたとき、晴日さんがぼそりと声を発した。それはいつも明るい晴日さんには珍しく、とても低いトーンの声だった。
「沙綾、そっち半分よろしく。アタシはこっち半分洗うから」
「……えっ、と。晴日」
沙綾さんは少し戸惑うように、晴日さんの名前を呼んだ。そしてそれが彼女の中の何らかのスイッチを押してしまったのか、晴日さんはぎん、と目を剥いてこっちに振り向くと大きな声でがなり立てた。
「ふっざけんな! 勝負は勝ちか負けだろ! 最善の負けなんかねーよ! 絶対に銃見つけて、最後まで体力ゲージ削ってやるからな! そこで縮こまって待ってろ!」
そんな鮮烈な言葉を残して、晴日さんの姿が角の向こうに消えた。残された僕と沙綾さんは、唖然としてしばしその場に立ち尽くした。さっきの言葉が、今も尚壁に反響してそこらじゅうを飛び回っているような感覚がした。
「……ごめんなさい、千尋君。晴日、口が悪くて」
やがて沙綾さんが、ぼそりと謝罪の言葉を口にした。ちょうど脇の髪が顔にかかってしまっていて、僕の位置からではあまりその表情は窺えない。
「ああ、いえ、大丈夫です」
「まあでも、言っている内容に関してはわたしも賛成ですけど」
「え」
沙綾さんの声のトーンから不穏なものを感じ、僕は凍りついた。顔を上げた沙綾さんの表情には微笑みが浮かんでいたけれど、とても友好的なものには感じられない。
「晴日にも頼まれたことですし、わたしはこっち側を探しに行きます。残り時間は……五分ちょっとですか。まあでも、なんとか見つけ出しますよ。というわけで千尋君、わたしがあなたを完全に打ち負かした後でまた会いましょう」
「……!」
沙綾さんはちら、と銃を傾けて画面に表示されているゲームの残り時間を確認してから、晴日さんとは反対方向の角へと歩いて行った。沙綾さんの姿が見えなくなって、僕は一人通路に取り残される。壁に背をこすりつけながら、僕はその場に座り込んでしまった。
「……」
しん、と静まり返った空間で、僕の心臓の鼓動だけが聞こえる。僕は膝に顔を埋めるようにして、両腕できつく体を抱いた。……まだだ。焦るな。僕は自分の心臓の音を聞きながら、1から順に数を数え始めた。じれったいほどにゆっくりと時間は過ぎて行き、やがて数えた数字が60に達したとき、僕は跳ねるように立ち上がって地面を蹴った。
「……っ!」
全速力で、どこも同じような造りの迷路の中を駆け抜ける。壁の上部に記された数字を頼りに、僕は目的地を目指した。頼む。間に合ってくれ。両手と両足を限界まで動かして何度も角を曲がると、やがて訪れた通路の端に青白い塊を見つけた。僕は腰を低くして走りながらそれを回収すると、キュッ、と靴を鳴らして方向転換をした。右手にしっかりとメタリックブルーの銃を握りながら、敵がいるであろう方向へと当たりを付けてがむしゃらに走り続ける。そして何度か角を曲がったとき、白いセーラー服姿を視界に捉えた。
「……! え、弟くん?」
バタバタと足音を鳴らして現れた僕を見て、晴日さんは驚いた表情をしていた。その手にはしっかりとクリアイエローの銃が握られていたけれど、それを僕に向ける素振りは見せない。僕が今銃を持っていることに、まだ気付いていないのだ。その隙だけで、十分だ。
ドォン! と僕は背中から銃を出して晴日さんを撃った。ビイィィィーン……という振動音が向こうの銃から上がり、晴日さんの顔色が変わった。慌てて銃を隠して僕から距離をとろうとするけれど、……もう遅い。
ピイィィーッ! という甲高い音は、今までに聞いたことがない音だった。だけど僕は、それが晴日さんの銃の体力ゲージを吹き飛ばしたことを知らせる音だとすぐに認識できた。
「ヒ、ヒット……。っ、弟くん、なんで」
晴日さんは唖然とした表情で、空になった自分の銃の体力ゲージを見つめていた。しかし僕は言葉を交わすことなく背を向け、再び走り始めた。……まだ、一人残っている。
「……っ! 沙綾っ! 悪い死んだ! 後任せた!」
背後から、晴日さんがそう叫ぶ声が聞こえた。無線アプリを使って、沙綾さんに死亡宣告をしたのだ。僕は無我夢中で走り続け、この迷路のどこかにいる沙綾さんの姿を探し回る。
「!」
艶のあるウエーブがかったロングヘアが、僕の視界に入った。沙綾さんは左腕を持ち上げてスマートフォンの画面を見つめていて、たった今晴日さんからの通信を受けところだったようだ。僕は沙綾さんが振り向くよりも先に、トリガーを引いた。僕が放った弾は真っ直ぐに沙綾さんの銃の赤外線受光部に吸い込まれていき、直後甲高いファンファーレが鳴り響いた。
ピピー……、ピピー……、ピピー……。
それは、僕達の戦いの終わりを告げる合図。僕は銃を傾けて、液晶画面を確認した。
『GAME SET YOU WIN』
「ははっ」
はじめて見た勝利表示に、僕は思わず声を上げてしまった。そしてそんな僕のすぐ傍で、信じられない、と言った表情で立ち尽くしている人がいる。銃を持った右手をだらりとぶら下げた、沙綾さんだ。
「……っ、どうして、千尋君が……」
沙綾さんの視線は、僕の持つメタリックブルーの銃に向けられていた。僕は上手く説明できるかなあと不安になりつつも、口を開く。
「えっと、実はですね……」
そのとき、ズズッ、というノイズが僕のスマートフォンから聞こえてきた。一旦言葉を止めて左腕を持ち上げると、画面には千里からの通信が入った旨が表示されていた。
『おめでとうヒロ! 初勝利じゃないか。色々と詳しい話も聞きたいし、とりあえず出てきなよ。晴日や沙綾もそこにいる?』
僕と沙綾さんは、互いに顔を見合わせた。沙綾さんがにっこりと笑って「出ましょうか」と言ったので、僕は一旦説明を後回しにして迷路からの脱出を目指した。地図を見ながら右往左往してなんとか外へ出ると、千里と共にすでに晴日さんの姿もそこにあった。
「……ええと、つまり、二人を分散させることが勝利の確率を一番高めると思ったんです。銃を迷路の中のどこかに隠したと言えば、残り時間も少なかったですし二人はバラバラに探しに行くだろうなと思って。それから僕は自分の銃を回収して、二人を各個撃破していったわけです」
「ほー……」
そして迷路から出るやいなや、僕はみんなに促されてこれまでの戦いの顛末を説明していた。千里はそれを興味深そうに頷きながら聞いてくれていたけれど、晴日さんと沙綾さんの表情を見るとどこかまだしっくりきていないような感じだった。説明が下手くそだったかな、と僕はちょっと心配になる。
「お見事だね。二対一の不利な状況を、よくひっくり返したもんだ。ヒロの作戦勝ちだね」
千里はそう言って、僕にパチパチと拍手を贈ってくれる。僕は照れくさくなりつつも、笑顔でそれに応えた。
「ビビったぁ……。弟くんって、小賢しいキャラだったんだね……。やー、マジでビビったよ……。アタシあの時、マジで勝負投げやがったかと思った……」
晴日さんは先程から、はあーっと何度も溜め息を繰り返していた。作戦とはいえ騙すような真似をしてしまったのは、僕もちょっと申し訳なかったと思っていた。
「かなりのトリックスターですよ……。正直、完全に予想外でした。初心者ということで、知らず知らずのうちに舐めてしまっていたのかもしれません……。反省です」
沙綾さんもそう言って、しゅん、と肩を落とす。そんな風に二人が落ち込んでいる姿を見て、僕は慌てて口を開いた。
「あ、で、でも。僕が銃を回収する前に銃を見つけられてしまっていたら、この作戦は終わりでした。だから、運の要素にもかなり助けられたんです」
フォローというか事実を僕は伝えたのだけれど、二人はまだちょっと元気がない感じだった。それだけ二人がサバゲーに対して真剣だということなんだろうけれど、僕はやはり落ち着かない気持ちになってしまう。
「ふふ、どうだい? あたしの弟は。なかなかやるだろう?」
「!」
そんな若干微妙な空気の中、千里ががばっと僕の首に腕を回してきた。体が密着することに加え至近距離に千里の顔が迫っているので、僕はちょっとどぎまぎしてしまう。
「なかなかっていうか、じゅーぶんすごいよ……。なんていうか、さすが千里の弟って思ったよ」
「あ、わたしもです。はじめ千尋君を見たときには性格はあまり千里に似てないんだなと思いましたけど、ゲームをしてみてその考えが変わりました。なんというか、根っこの部分というか、芯の強さみたいなのがそっくりです。さすが双子です」
二人にそう言われ、僕はちらりと千里を見た。顔以外で千里に似ていると言われたのは、これがはじめてのような気がした。小さい頃から僕は内気で気弱で、千里は明るくて凛としていて。それは、今でも変わっていないと思う。だけどそんな僕にも、千里に似ている部分が少しはあったのだろうか。千里は今も昔も僕にとってヒーローだから、似ていると言われたことは純粋に嬉しかった。
「あ、あの。晴日さん、沙綾さん」
そう呼びかけると、千里は何かを感じ取ったのか僕の首に回していた手を解いた。僕は右手に握った銃のグリップの底から覗く、シルバーに輝く弾倉を見つめながら言った。
「僕は今回、レアの弾倉を使わせてもらいました。勝利できたのも、この弾倉によるところが大きかったと思います。……なので、今度。僕がレアの弾倉を使わなくていいくらいに強くなったら、そのときにもう一度対戦してもらえませんか?」
僕の言葉が意外だったのか、晴日さんと沙綾さんは目をぱちくりとさせていた。だけどすぐに、二人の顔に笑みが浮かんでくる。
「もちろんだよ弟くん! こっちも負けっぱなしじゃいられないからね! リベンジせねば!」
「ふふ。今度は負けませんよ。わたしたちも、何か作戦を用意しないとですね」
「は、はい! ぜひよろしくお願いします!」
僕は、二人に向かってぺこりと頭を下げた。しかしそれを見て、晴日さんが「むー」と唸り声を上げる。
「ねー、ずっと思ってたんだけどさぁ、弟くんなんで敬語なわけ? アタシら同い年じゃん」
「え……、い、いやでも知り合ったばっかりですし……。それにそれを言うなら、沙綾さんも敬語使ってますよね?」
僕は晴日さんの問い詰めるような視線から逃れるように、沙綾さんをちらりと見た。沙綾さんは僕に対してだけでなく千里や晴日さんにも一貫して敬語を使っているようだったので、そのことは特に問題ではないような気がするのだけれど。
「沙綾の敬語は癖なんだよ。小学生の頃からこーだもん。いくら言っても直んないから、とっくの昔に諦めたし。育ちがいいってことなんだろーよ」
「晴日も育ちはいいはずなんだけれどねえ。どうしてこうも違いが出るのかな」
そんな会話をする晴日さんと千里を、沙綾さんは苦笑いで見つめていた。僕もなんと反応していいのかわからず、とりあえず顔には笑みを作っておいた。
「まー敬語うんぬんはいいとしてもさー、その晴日さんってのはやめてよ! 君は先生か!」
晴日さんにそう言われてしまったので、僕は自己紹介の場面まで遡って彼女の名字を思い出した。
「え、えっとじゃあ……松岡さん……」
「がー! なんだそりゃー! 先生だってそんな風に呼ばねーよ! は、る、ひ! たった三文字でいーでしょ!」
「う、うん……」
晴日さんに喚き立てられてしまったので、僕はちょっと勇気がいりつつもリクエストに応えるべく口を開いた。
「は、晴日」
「よくできました。さーこっちも」
そうして恥ずかしがっている僕の様子をさておき、晴日さ……晴日は新たな課題を目の前に突き付けてきた。僕の目の前に、沙綾さんを引っ張って来たのだ。
「……さ、沙綾」
「は、はい。ありがとうございます、千尋君……」
沙綾が恥ずかしそうに俯くので、僕も照れくさいやら何やらでいっぱいいっぱいになってしまう。女子を名前で呼ぶのなんて、小学生のとき以来な気がするし。
「はい、オーケー! というわけで、これからよろしくなのだよ弟くん!」
そして晴日がパンパン! と手を叩いて場を締めくくろうとするのを見て、僕は今更ながら重大な事実に気が付いてしまった。人の呼び方には散々文句を言っておいて、晴日は結局僕の事を名前ですら呼んでいないのだ。しかし、僕にそれを指摘する勇気があるわけがない。いまいち釈然としない気持ちになりながらも、僕はその抗議をぐっと飲み込んだ。
「ふふ。だいぶ仲良くなったようだね。良かったよ」
千里はそんな僕達に、まるで保護者のようにあたたかい視線を送っていた。仲良く……なったのだろうか。そこらへんはいまいちわからなかったけれど、僕にとって今日がすごく充実した一日だったということは確かだった。まあ一日はまだだいぶ残っているから正確にはこれで終わりじゃあないのだけれど、そう思ってしまうくらいにこの数時間は密度の濃い時間だったのだ。
僕はさっきまで自分が中にいた巨大迷路の壁を見つめながら、ぺりっ、と左腕に巻いたベルトのマジックテープを剥がした。そこから外したスマートフォンを手に取ると若干熱を帯びていて、まるであの戦いの熱が今もそこに残留しているかのようだった。
それからサバゲー専用施設を後にした僕達は、駅ビルへと移動してしばしショッピングを楽しんだ。しかしショッピングと言ってもウインドーショッピングというやつで、そのうえ僕にとっては何の興味もない女性向けの服屋ばかりを延々と巡り続けた。三人は服をいくつも手に取ってはあれが似合うだのこれは似合わないだのと楽しそうに話していたけれど、僕からすればどれも同じようにしか見えなかった。買うわけでもないのによくそんなに熱心になれるよなあ、と僕はちょっと呆れてしまうくらいだった。
そして夕方になり、帰りの電車の時刻が近づいてきたところで僕達は駅構内へと移動した。晴日達の乗る電車のほうが若干時間が早かったので、僕と千里は改札へと向かう二人を見送ることができた。
「うえー。千里ー。またしばらく会えないんだねー。元気でいろよー。あ、弟くんもねー」
「ふふ、今日は楽しかったです。お二人とも、また近いうちに会いましょうね」
そんな言葉を残して、セーラー服姿の二人は改札の向こうへと吸い込まれていった。僕達は互いに手を振り合って別れを惜しむけれど、やがてその姿が人波に紛れて見えなくなる。ちょうど帰宅ラッシュの時間なのか、駅構内は人の往来で溢れていてがやがやと騒々しかった。
「……行こうか、あたし達も」
そう言って、千里が僕に笑いかけた。僕はその声に寂しさが混じっているように感じて、何か気の利いた言葉を掛けようとした。だけど上手い言葉が見つからなくて、結局ただ返事をすることしかできなかった。
「うん」
帰りの電車も行きと同じタイプの車両だったので、僕はもう慣れた様子で切符に記された番号の席に腰掛けた。夕食は家に帰ってからとる予定なので、特段車内ですることはない。しばらくすると発車のアナウンスが鳴り響いて、ゆっくりと電車が加速しはじめた。ちらりと窓の景色に目をやるけれど、今の時間だと薄暗くなってしまっていてあまりよく見えなかった。僕はぼんやりと前の座席の背もたれを見つめたまま、ガタン、ゴトン……と小刻みに起きる揺れに身を任せる。そうしていると今日一日の疲労もあるのか、だんだんと瞼が重くなってきてしまった。
「ヒロ、今日は疲れただろう。眠っていいよ。着いたら起こすし」
「ん……、大丈夫」
隣の座席に座る千里にそう声を掛けられ、僕は慌てて瞼に力を入れてぱちぱちと瞬きを繰り返した。疲れているのは千里も同じだろうし、僕だけ眠りこけるわけにはいかない。それに乗車時間は二時間弱とかなり長い時間だから、話し相手がいないと千里も退屈だろう。そう思っているのは嘘偽りのない本心なのに、僕の意思に反して瞼はどんどん重くなっていった。いけないと何度も瞼を持ち上げるけれど、しばらくすると再び睡魔に飲まれそうになる。車内の絶妙な空調と絶妙な揺れが、僕を夢の世界へと誘おうとしてくるのだ。抵抗むなしく、やがて僕の意識は途切れていった。その直前、くすりと隣で千里の笑い声が聞こえた気がした。
ガタン、ゴトン……と僕らを乗せて、列車は懐かしい街へと帰って行く。今日の出来事は思い出へと変わり、明日からは再びそれぞれの日常がはじまるのだ。