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学校

「うん! いいね! じゃあもうちょっとしたらいくよ! じゃあね!」

 そう言って、千里は受話器を置いた。僕はその様子を横目で見ながら、残り一口になった昼食のパンを平らげようと口を大きく開けた。僕がそんなちょっと間抜けな表情をしていたまさにそのとき、千里がくるりとこっちに振り返った。

「ヒロ、もうたべおわるね? たけやたちがこうえんでサッカーしようって。ヒロもいっしょにいこう!」

「う、うん」

 僕は変な顔を見られたことにちょっと照れつつも、千里にそう言葉を返す。数分で出かける準備をした 僕達は、母さんに「いってきまーす」と挨拶をして、歩いて五分くらいのところにある公園を目指した。

「なんか、うごいたらあつそうだね。あたし、もうはんそででもじゅーぶんかも」

「えー、そう? ぼくはまだながそででもいいかな」

 そんなおしゃべりをしながら、公園までの道を千里と並んで歩く。千里は楽しそうに笑っているけれど、僕の足はちょっと重かった。公園に着いてしまう前にと、僕は切り出した。

「……ねえ、やっぱりぼく、みててもいい? あ、そうだ。ぼくがしんぱんやるよ」

「うん? どうして? ぐあいでもわるい?」 

 急に不参加を表明した僕に、千里は心配そうな顔をした。僕はふるふると首を横に振って、否定の意を表す。

「ううん……。ただ、ぼくさ、あしもおそいし、ボールもうまくけれないから……。みんなのあし、ひっぱっちゃうからさ……」

「そんなのあたりまえじゃん。あのねーヒロ、あたしたちはサッカーせんしゅじゃないんだから、へたくそなのはあたりまえでしょ」

 やっとのことで絞り出した僕の言葉を、千里はなんてことのないようにあっさりと切り捨てた。それは理屈としては正しいかもしれないけれど、僕はそう簡単に納得できなかった。

「でも……。ぼくとおなじチームになるの、きっとみんないやがるよ。ぼく、よわいから」

「そんなことないよ」

「そんなことあるよ!」

 千里が口にした気休めに、僕はつい大きな声をあげてしまう。立ち止まって、俯いたまま両手でズボンの裾をぎゅっと握り締めた。

 実際、何度かそういう場面に遭遇したことがあるのだ。

『うっわー、ちひろがこっちチームかよ。まけるー』『げぇー、せんりだったらよかったのに』『ふたごなのに、ちひろはうんどうおんちだよね』

 僕の頭の中に、いつだったか飛び交った言葉たちが次々現れる。喉がぎゅっと詰まって、今にも泣き出してしまいそうだった。

 やっぱり、僕だけ家に帰ろうかな。そんなことを考え始めていた僕の肩に、そっと手が置かれた。顔を上げると、覗き込むようにして僕を見つめる千里と目が合った。

「いい? ヒロ、あたしはヒロとおなじチームになったら、やったーっておもうよ。すごいうれしくなる」

「……!」

 僕の表情がちょっと変わったのを見て、千里は微笑んだ。僕の肩を掴む手にぎゅっと力を込めながら、千里は続ける。

「みんないやがるなんてうそだよ。だって、あたしはいやがらないもん。ね? だからさ、ヒロもいっしょにやろう?」

 僕の心の中を覆っていた雲が、一気に晴れていく。我ながら単純だなあ、とも思うけれど、千里の言葉には不思議な力があるのだ。僕が悲しい気持ちでいるときに、いつも日向へと導いてくれるのは、千里だった。

「……うん。やっぱりやる」

「よし!」

 僕の返事を聞いて、千里は笑顔を弾けさせた。そして僕の手をぐいっと引っ張り、公園へ向かって走り出す。

「いそごう、ヒロ。もうみんなきてるかもしれないよ!」

「うん!」

 千里の背中を見て走りながら、僕は思う。

 僕の姉が千里で、本当によかったなあ、って。



「はぁ……」

 実に半年ぶりくらいに制服に袖を通して、僕は溜め息を吐く。鏡の中の自分の顔色は、お世辞にも良いとはいえない。朝だというのに、疲れ切った表情だ。

 机の脇にある本棚から教科書やノートを取り出して、スクールバッグへと詰める。時間割がわからないから、適当に選ぶしかない。そして最後に、昨日から机の上に置いたままだったシルバーに輝く銃を手に取る。これが、今日僕が学校に行く動機だ。何かのお守りのように銃をバッグのポケットに入れ、チャックをしっかりと閉める。バッグを肩に掛けると、ただでさえ重い気分にますます拍車がかかる気がした。それでも意を決して、僕は部屋を出る。嫌になったら、帰ればいい。その言葉を、呪文のように何度も頭の中で繰り返しながら。

 階段を降りると、リビングのほうからテレビの音が聞こえてきた。そっと様子を窺うと、ソファーに腰掛けて父さんが朝食をとっているところだった。千里の姿は、ない。もう、家を出た後のようだ。僕は父さんに見つからないようにこそこそと玄関へ向かおうとするけれど、運悪く足首の辺りの骨がコキッ、と鳴ってしまった。運動不足のせいだろうか。おそるおそる父さんのほうを見ると、うわ、ばっちり目が合った。僕が制服姿でいるのを見て、父さんは驚いているようだった。このまま無視して行くわけにもいかないので、僕はぼそぼそと声を発した。

「あ……その、いってき、ます……」

「あ、ああ……」

 互いに、そんなぎこちない挨拶を交わす。そのまま見つめ合っていてもしょうがないので、僕はくるりと背を向けた。下駄箱から上履きの入った袋を忘れずに取り出して、壁に手をついて体を支えながら通学靴であるスニーカーに足を入れる。

「……千尋。朝食はいいのか」

「えっ」

 背後から低い声がして、僕は驚いて少し肩を跳ねさせる。ワイシャツ姿の父さんが、リビングから出てきていた。

「あ……うん。時間ないから、いいよ」

「そうか」

 そうして短い会話が終わると、場には沈黙が落ちる。十三年間一緒に住んでいる実の親子だけれど、父さんと話すのは昔から微妙に気まずい。いや、もしかしたら実の親子だから、なのだろうか。

「気を付けて」

 そそくさと玄関から出て行こうとする僕の背中に、父さんの低い声が響いた。僕はそれを聞いて、『行きたくない』と言う気持ちで一杯になる。千里が作ってくれたきっかけで半年振りに学校に行くことを決意した僕だったけれど、やっぱり本当は行きたくないのだ。安全安心な家の中に、ずっと閉じこもっていたい。

「……うん」

 そんな思いを必死に断ち切り、僕はそう返事をして玄関のドアをくぐり抜けた。外に出ると、眩しい日差しが僕を待ち構えていた。天気は、快晴。鳥のさえずりが、どこからか聞こえてくる。一日のはじまりといった様子のその光景に、僕は吐き気がしてきた。だってこれから進む道は、僕にとっては茨の道。決して、明るく楽しいものではないのだから。


 家から学校までは、歩いて十五分くらいかかる。十分間に合うように家を出たつもりだったけれど、行きたくない気持ちが歩く速度に出てしまっていたこともあり、学校に着いたのはチャイムが鳴る三分前だった。遅刻ギリギリの時間なので、昇降口付近にはほとんど人がいなかった。とりあえずここでは知り合いに会わずに済むことにほっとしつつ、僕は自分の下駄箱を探した。担任の先生が家に届けてくれるプリント類を見て、僕が二年二組所属だということは把握していた。

「あった」

 『2ー2』と書かれた下駄箱の中から、自分の出席番号の場所を見つける。幸い中ががごみだらけということもなく、僕はスニーカーを脱いで四角い箱の中へと収めた。袋から上履きを取り出して足を入れ、ついに目指すは教室だった。ふうーっ、と僕は深く息を吐く。心臓がバクバクと鳴り出して、僕は左胸をぎゅっと押さえた。大丈夫。嫌になったら、どうしても無理だと思ったら、すぐ帰ればいいんだから。僕は二、三回深呼吸をして息を整えてから、教室へと向かう廊下を歩き始めた。僕の学校は一年生と二年生の教室が二階、三年生の教室が三階にある。僕は去年在籍していた一年生の教室があるほうとは反対側の階段を上って、二階へとやって来た。

「う……」

 見ると、廊下は制服姿の生徒たちで一杯だった。がやがやと賑やかなその声に、僕は思わず後ずさりそうになる。遅刻ギリギリにやって来た僕を物珍しそうに見る視線が、僕の体にいくつも刺さる。僕は誰とも目を合わせないように下を向いたまま二年一組の教室を通り過ぎ、なんとか二組の教室の後方のドアの前までやって来た。教室の中から聞こえてくる声も、廊下に負けず劣らず賑やかだ。

「……っ!」

 そして教室の中に入ろうと足を一歩踏み出した僕は、ここでやっとある問題に気が付いた。その問題のせいで、僕の足はそこから一歩も動かなくなってしまう。

 自分の席が、わからない。僕は目玉をぐるりと動かして、教室の中を見回す。机の数は、三十個前後。席に着いて勉強をしている人もいれば、友達の席や窓際にたむろしておしゃべりをしている人もいる。この人たち一人一人がどの席で、僕の席がどこなのか。それが、わからない。

 初っ端からぶち当たった難問に、さっそく僕の心は折れそうになる。どこかに、席順が書かれていないだろうか。年度初めは出席番号順に並んでいるはずだけれど、今はもう五月だ。席替えをしているに違いない。僕は目を忙しなく動かして教室の壁に貼られている掲示物をチェックするけれど、だめだ。遠すぎて詳細はわからないけれど、席順が書かれたものではないということは明白だった。

 キーン、コーン……カーン、コーン……。

「!」

 僕が為すすべもなく教室の入り口で立ち尽くしていると、チャイムが鳴った。廊下にいた人たちも一斉に教室の中に吸い込まれていって、みんなが各々の席に着く。僕の脇を何人もの生徒が通り過ぎて行くけれど、僕はどうしていいかわからずあたふたとするだけだ。

「あ……」

 しかしみんなが席に着いた教室内を見て、僕は気が付いた。僕が立っている教室のドアのすぐ近く、廊下側の一番後ろの席だけが空席だったのだ。僕は顔を上げて、教室の端から端までの席を慎重に見ていく。この席以外に、空席はなかった。ということは、ここが僕の席ということなのではないか。学校に来ない奴の席があっても邪魔だから、とかいう理由で僕の机が撤去されていない限り、それは確実だろうと思えた。しかし、万が一ということもある。僕は相当迷ったけれど、深く息を吸い込んでその空席の隣の席に座っていた女子に声を掛けた。

「すみません……あの、僕の席は、ここでしょうか……?」

 言ってしまってから、自分の名前を言ったほうが良かっただろうか、とちょっと後悔する。僕の席、と言われてもそもそもこの女子は僕の事を知らないだろう。何せ、二年生になってから一回もこの教室に来ていないのだ。しかし僕のそんな心配をよそに、声を掛けた眼鏡にミディアムヘアの女子はこくりと頷いた。肯定の意だ。やはり、ここが僕の席なのだ。

「あ、ありがとうございます……」

 もう教室内のおしゃべりも相当少なくなっていたので、僕は小声でその女子にお礼を言う。椅子を引いて席に着き、こそこそとバッグの中の荷物を机の中へと移した。周りの様子を窺うと、みんな静かに本を読んでいた。朝読書だ。僕の学校では朝の会が始まるまでの十五分間、毎日強制的に読書をさせられるのだ。僕も急いで教室の後ろにある本棚から適当な本を選び、みんなに倣って読書を始めた。一応目で文字を追ってはいるけれど、内容はまったく頭に入って来なかった。今、僕は教室の中にいる。それだけで、僕はガチガチに緊張していた。だけど、廊下側の一番後ろというこの席はありがたいと思った。嫌になったら、すぐに教室を出ていける。それ支えに、僕はしーんと静まり返った教室内に留まり続けた。やがてキーン、コーン、カーン、コーン……と再びチャイムが鳴り、朝読書の時間が終了した。みんなが本を片づけていると、ガラガラと教室のドアが開いてでっぷりとした男の人が入って来た。

「はーい、みんなおはよう!」

 教卓の前で快活に挨拶をするこの人は、僕の担任の武田(たけだ)先生だ。年齢は三十代後半ぐらいで、ちょっと太めの体型をしている。武田先生は定期的に僕の家に配布物を届けてくれているので、何度か話をしたことがある。印象としては、体型のように中身も丸っこい先生、といったところだった。

「えーっと今日は欠席は……いないな」

 教室内をぐるりと見回す武田先生と、目が合った。武田先生は僕が来ていることに気が付いて一瞬顔をはっとさせたけれど、すぐに手に持っている名簿に目を落とした。『欠席者はいない』という武田先生の言葉に後ろを振り向いてこっちを見てくる生徒が何人かいいて、僕は嫌な気持ちになる。うるさいな。ほっといてくれよ。だけどもちろんそんなことを言えるわけはなく、ただただ体を縮こまらせて椅子に座っているのが精一杯だった。

 今日の連絡事項を伝え終わると、武田先生は教室から出て行った。先生がいなくなった教室には、生徒たちのおしゃべりによる賑やかさが戻ってくる。周りを見ると、みんな一時間目の授業で使うものを机の上に出していた。その教科書の表紙を確認すると、英語だった。僕が適当に詰めて持ってきた教科書の中に英語の教科書も含まれていたので、僕はひとまずほっと胸を撫で下ろす。時間割を確認しておかないとなあ、と思い席を立とうとするも、そこで一時間目開始のチャイムが鳴ってしまった。仕方がない、またの機会を狙おう、と僕は上げかけた腰を再び椅子の上に下ろした。


「グッドモーニング! エブリワン!」

「グッドモーニング、ミズアラカワ」

 先生と生徒のそんな挨拶から始まった、英語の授業。ちょっと心配だったけれど、なんとか授業にはついていくことができそうだった。毎日コツコツ勉強を続けていた賜物だ。僕は英語の担当である荒川先生の板書を、真面目にノートに書きとっていく。

「オーケー! それじゃあ板書が終わった人から隣の席の人と、教科書二十三ページの会話の掛け合い、スタート!」

 パンパン! と荒川先生が手を叩くのを見て、僕の体がびくりとする。会話の掛け合い。そうだ。英語の授業にはこれがあるのだ。ただ黙々と板書をするのは苦じゃないけれど、こういう人と関わらなきゃいけないものが僕は何より苦手だった。周りでは生徒たちが次々と立ち上がって、隣の席同士英語の掛け合いを始めている。どうやら、終わった人から座っていくシステムみたいだ。僕は教科書を手に、先程お世話になったばかりの隣の席に座る眼鏡の女子をちらりと見る。向こうも、僕のことを見ていた。

「ん、あ、そっか。今日は三人でやらなくていいのか」

 そう声を発したのは眼鏡の女子ではなく、その前の席に座る女子だった。髪を耳の辺りで二つに結った、活発そうな雰囲気の女子だ。そうか。今まで僕が休んでいたから、こういうペアを作るときにはずっと三人でやっていたのだろう。僕と眼鏡の女子は示し合わせたように互いに苦笑いをして、席を立った。そして緊張しつつもなんとか掛け合いを済ませ、どっかりと再び椅子に腰を下ろす。まだ一時間目だというのに、僕は疲労感でいっぱいだった。こんな調子で、放課後までもつのだろうか。先行きに不安を感じつつも、なんとか英語の授業をやり過ごした僕であった。


「……やばい」

 僕は廊下の窓にへばりついて、一人そう呟いていた。半年振りに来た学校は、僕にとって困難だらけだった。僕はすーはーと呼吸を落ち着かせながら、これからとるべき行動について必死に頭を巡らせる。

 異変に気付いたのは一時間目の英語の授業が終わり、二時間目が始まるまでの十分間の休み時間のことだった。僕は先程確認できなかった時間割をメモしようと、シャープペンシルとノートを片手に教室の前方の黒板脇へとやって来ていた。壁に貼られた大きな模造紙に書かれた教科名を書きとっていると、視界の端でやたらと生徒たちが教室を出入りしていることに気が付いた。気になって目をやると、みんな手には袋のようなものを持っている。それで、ピンときた。みんなが手に持っているのは、運動着袋だ。つまり、次の授業は体育なのだ。

 そしてもう一つ、僕は重要な事実に気が付く。教室内から出て行っているのは男子で、逆に廊下から教室内に入ってきているのは女子だった。そう、つまり、この教室は女子の更衣室として使われているのだ。そのことに気が付いた僕は大慌ててシャープペンシルとノートを自分の机の中にしまうと、教室を飛び出した。案の定、隣のクラスである一組からは次々と女子が出てきて、二組の教室へと入って行った。それとは反対に、二組の男子は一組の教室へと吸い込まれていく。僕の学校の体育は、二クラス合同で行われる。つまり、一組が男子の更衣室なのだろう。

「運動着……」

 しかし僕は一組の教室に入ることなく、廊下で立ち尽くしてしまう。運動着を、持ってきていないのだ。僕は、唇をぎゅっと噛む。時間割がわからなかったとはいえ、運動着は持ってくるべきだった。そう後悔しても、もう遅い。なんとか、対処しないと。僕は、運動着を誰かから借りられないかと考える。真っ先に頭に浮かんだのは、去年同じクラスで同じグループに所属していた友達の顔だった。

「無理だろ……」

 しかし、僕はその選択肢を打ち消す。僕は、今誰がどのクラスなのかもわからない。それにもしわかったとしても、向こうは僕の事をもう友達だとは思っていないだろう。無理だ。絶対に借りられない。今現在の僕には忘れ物を借りられるような友達なんて、一人も、いない。

 コツン、と僕は廊下の窓に頭を打ち付けた。もう、嫌だ。なんで僕だけ、こんな目に遭わないといけないんだろう。そう落ち込んでいる間にも、時間は刻一刻と過ぎていく。どうにか、しないといけない。だけど僕には何か行動を起こす勇気もなく、ただ窓にへばりついているだけだった。

「……ん? ヒロ? ヒロじゃないか」

 ざわざわとした喧騒の中から聞こえたその声は、僕にとってはまるで救世主のように感じられた。顔を上げて振り向くと、教科書やノートを抱えた千里がそこにいた。移動教室から帰ってきたところ、といった感じで、隣には友達らしき女子の姿も見える。

「良かった! ヒロ、来たんだね?」

「あ……うん……」

 千里は嬉しそうに、僕へと駆け寄ってくる。僕も千里と会えたことで少しほっとした気持ちになるけれど、直面している問題は未だに現在進行形のままだ。そんなそわそわと落ち着かない僕の様子に気付いたのか、千里は更に距離を詰めると声を潜めて僕に問い掛けた。

「どうした、ヒロ? ……何か困りごと?」

「っ……!」

 一瞬、誤魔化そうかとも思った。だけど、僕一人ではもう解決策が出てきそうにない。僕は答えを待つ千里に流されるようにして、口を開いた。

「えっと……次の授業体育なんだけど……運動着、忘れちゃって……」

「……そっか。借りる当てはあるかい?」

 千里の問いかけに、僕はふるふると首を横に振った。自分が情けなくて、恥ずかしくて、涙が出そうだった。千里の顔を見ることもできず、僕はただ俯く。

「わかった、ちょっと待ってて」

 千里はそう言って僕の肩を優しくポンポンと叩くと、僕の教室の隣、二年三組の教室へと入って行った。僕の学校は自分のクラス以外の教室に入ってはいけないという決まりがあるから、千里は二年三組所属なのだろう。千里の隣で僕との会話を見守っていた女子も、後を追って三組へと入って行った。友達と談笑する賑やかな声が響く廊下に、僕は一人取り残される。そうして少し待っていると、三組の教室から千里が出てきた。その手には、青い塊、運動着が握られていた。

「はい、ヒロ」

 にっこり笑って、千里は僕に運動着を手渡す。

「え……っと、これ」

「あたしのクラスの、(かつら)(きょう)(すけ)って子に借りたんだ。えーっと、たしかサッカー部だったかな。知ってる? あ、六時間目こっち体育だから、それまでに返してくれればいいから」

 その名前を聞いて、僕は声を上げそうになった。桂恭介。小学校も違うし僕は同じクラスになったことがないけれど、有名だから知っている。女子がかっこいいと言ってキャーキャー騒いでいる、サッカー部の爽やかイケメンだ。そんな人の運動着を、僕なんかが借りていいのだろうか。僕の中に迷いが生じるけれど、いかんせん今は時間がない。

「あ、ありがと」

「うん」

 僕は千里にお礼を述べると、すぐさま一組の教室へと飛び込んだ。大慌てて桂君の運動着に着替え、ダッシュで一階へと降りる。途中で窓からグラウンドを確認したけれど誰の姿もなかったので、目的地を体育館に定めてひたすら走る。そしてなんとかチャイムギリギリで、僕は体育館に滑り込むことができた。

「はぁ……はぁ……」

 出席番号順に並んで腰を下ろして先生の話を聞いている間も、僕は荒い息を繰り返していた。やはり半年近くまともに運動していないこともあって、僕の体力は衰えまくっていた。元々運動神経が悪いのに、今のこれでは小学生にだって余裕で負けてしまうだろう。

「はい。えーっと、今回もバレーだな。じゃーいつも通り、合図するまで二人組でパス練な、開始!」

 そんなすでに体力を使い果たした僕にもお構いなしに、授業は進められる。先生の指示を受けると、みんな一斉に立ち上がってボールを取りに向かった。僕もその流れに乗って体育倉庫までやって来たはいいものの、再び嫌な予感がした。二人組。これは男子の人数が偶数じゃない限り、絶対に僕が余るじゃないか。予定外の運動で熱くなっていた僕の体から、血の気がさーっと引いていく。周りではボールを手にした人たちが次々と、「やろうぜー」と声を掛け合ってペアを作っていた。当然、僕に声を掛ける人などいない。余っている人がいないかきょろきょろと見回してみるけれど、一人でいる人は僕以外にいなかった。

「……」

 これは、あれなのだろうか。先生と組む流れなのだろうか。僕は観念して、ステージの前でバインダーに挟んだ紙に何かを書いている体育の先生のところへと向かった。この先生は三十代後半ぐらいの年齢で、すらりと伸びた長身にジャージが良く似合っている。体育会系といった感じのエネルギッシュな短髪で僕にはちょっと近寄り難く感じるけれど、勇気を出して声を掛けた。

「あの……その、パス練、余っちゃったんですけど……」

 僕の言葉に、先生は顔を上げた。先生は僕を見て一瞬『誰だこいつ?』みたいな表情をした気がしたけれど、それは僕の被害妄想……であって、ほしい。

「ああ……じゃあ、三人になってもいいから。どこかに混ぜてもらいなさい」

「あ……はい……」

 僕はそう返事をして先生の傍から離れるけれど、心の中は大パニックだった。目立つけれど、先生と組んだほうがマシだとさえ思った。体育館内はすでに、二人組で繰り出されるバレーボールのオーバーハンドパスやアンダーハンドパスが飛び交っている。僕が入る余地なんて、微塵も感じられない。だけど、このまま突っ立っていたらサボリとみなされて先生に怒られるかもしれない。誰かに、入れてもらわないと。僕の心臓が、バクバクと鳴り出す。こういうのがあるから、体育の授業は嫌なのだ。余るのがわかっていて二人組を作れという先生も、どうかしていると思う。心の中で悪態を吐きながらも、僕は体育館の一番端でパス練習をしている二人組の男子へとおそるそる近づいて行った。なんとなくこの二人は雰囲気が大人しそうだったので、一番話しかけやすい気がしたのだ。

「あの……すみません、僕も、入れてもらっていいでしょうか……」

 僕はできるだけ低姿勢を心がけて、顔にはぎこちない笑みを浮かべた。普段使わない筋肉を動かしたから、顔がつりそうになった。僕が話しかけたことでパス練習を中断した男子二人組も、こっちを見て苦笑いを浮かべた。

「あ、はい……。じゃあ、えっと……どうしよ……交代でやりましょうか」

 そう言って眼鏡を掛けたおかっぱ頭の男子は、『どうぞ』といった様子で僕にパス練習の参加を促してくれる。

「すみません……。ありがとうございます」

 とりあえず断られなかったことにほっとしつつ、僕は先程まで眼鏡の男子が立っていたポジションについた。僕と相対するのは短髪の男子で、眼鏡の男子は邪魔にならないように壁際へと下がった。

「えっと……、じゃあ、オーバーからいきます」

 短髪の男子は友達相手ではないパス練習に、明らかにやりにくそうな表情をしつつもそう宣言した。

「あ、はい……。お願いします……」

 もちろん、僕も見知らぬ相手とパス練習なんて地獄のようだった。だけど少なくともこの体育館内の生徒の中では、これがベストな選択だったと思う。クラスの中心にいるような人とやるよりは、はるかに気が楽だからだ。僕は短髪の男子が放ったパスを、両手で受け止めなんとか返す。

「す、すみません……」

「ああ、いえいえ……」

 しかし、運動音痴の僕だ。中々パスが続かない。短髪の男子もあんまり上手くない感じだけれど、僕のはもっとひどい。そもそもバレーボールの動きは、他の球技と比べても特殊なのだ。ボールを投げたり蹴ったりするのならまだしも、こんな動きバレーボール以外でする機会なんてない。僕たちは途中で相手を入れ替えながら、ぐだぐだなパス練習を繰り返す。互いに気まずさでいっぱいになり、頭の中はもう早く終わってくれとしか考えられない。僕が何度目になるかわからないパスを繰り出そうとしたとき、ピーッと甲高いホイッスルの音が鳴り響いた。

「はーい、集合!」

 体育の先生の声に、僕達三人は揃って安堵の息を吐く。

「すみません……。ありがとうございました」

「いえ……」

 僕はパス練習に入れてくれた二人の男子にそそくさとお礼を言いながら、再び先生の前に整列する生徒達の流れに加わるのだった。


「はあ……」

 給食の食器を片づけて、僕はとぼとぼと自分の席に戻ってきた。長かった午前中の授業が終わり、給食を食べ終え、ようやく昼休み。僕は机に覆い被さり、このまますべてをシャットアウトして眠ってしまいたくなる。だけど、僕にはまだやらなければならないことがあった。体育のときに借りた、桂君の運動着をまだ返していないのだ。千里のクラスは六時間目が体育だと言っていたから、昼休みのうちに返してしまったほうがいいだろう。僕は疲労でボロボロの体をなんとか動かし、桂君の運動着を手に隣のクラス、二年三組へと向かった。

「……」

 後ろのドアから三組の教室内を見るも、千里の姿は見当たらなかった。だけど、教室の前のほうに座って友達と談笑している桂君の姿は見つけた。さすが人気者なだけあって、桂君はたくさんの人に囲まれていた。こちらに背を向けているので、桂君は僕の存在に気がついていない。僕は運動着を握る手に、ぎゅっと力を込める。僕が借りたのだから、直接僕が返さないと。何から何まで、千里に頼るわけにはいかない。そう腹を括って、僕は教室のドア付近の席に座っていた男子に声を掛けた。

「すみません、桂君呼んでもらっていいですか」

 その癖毛の男子は僕を見て一瞬怪訝そうな顔をしたけれど、席を立って「恭介ー」と桂君を呼んでくれた。桂君はその声に振り向き、同時に僕に気付いたようだった。「ああ」と言って桂君は席を立ち、僕の方へと近づいてくる。桂君を取り巻いていた人達も一斉にこっちを見てくるので、僕はとても落ち着かなくなる。

「あ、あの、運動着、ありがとうございました。すごく助かりました」

 僕は桂君の顔もまともに見ずに、おずおずと運動着を差し出す。一刻も早く、この場から立ち去りたい気持ちで一杯だった。

「おー。てか、大丈夫だった? 俺毎日部活で着てるからさー、汗臭くなかった?」

 桂くんはそんな僕を気にする様子もなく、気さくに話しかけてきた。僕は、慌てて顔の前でぶんぶんと手を振って否定する。

「い、いえ。というかむしろ、いい匂いがしました……」

 そう言ってしまってから、中々に気持ち悪い発言をしてしまったのではないかと僕の顔は青ざめる。だけど、事実桂君の運動着はすごくいい匂いがしたのだ。香水というほどきつい匂いではなかったから、柔軟剤の匂いとかだったのかもしれない。

「あ、あの、別に変な意味じゃなくて……」

 僕はあわあわと弁明を図ろうとするけれど、中々上手い言葉が出てこない。そんな焦りまくっている僕の様子を見て、桂くんはぷっ、と吹き出した。

「あ、あの……」

「ああ、いや、ごめん。なんか双子なのに性格は全然違うんだなー、って思って。ええと、千里の兄だっけ? 弟だっけ?」

「あ、えっと、弟です……」

 僕はいっぱいいっぱいになりながらも、なんとか桂くんの質問に答えた。桂くんはそんな僕を見て、優しい笑みを浮かべる。それを見てなんとなく、桂君が女子に人気がある理由がわかった気がした。この人は顔がかっこいいだけじゃなくて、性格もいい人なのだ。たった数分顔を合わせただけでも、それがわかった。

「そっか、弟だっけか。や、千里は転校してきて数日しか経ってないのに、すでにこのクラスを掌握してるっていうか……」

「ん、なんだい? あたしの名前が聞こえたけど」 

 すらすらと淀みなく話す桂君の言葉に、突如割り込む声があった。驚いて声のしたほうに目を向けると、千里が教室のドアに手をかけて僕のすぐ脇に立っていた。

「! 千里!」

 いつからいたのだろうか。僕は思わず、一歩後ずさる。桂君との会話に精一杯で、全然気が付かなかった。

「えーっと、千里は転校早々クラスに馴染んでてすごいな、って言ってただけだよ」

「ふうん?」

 桂君は、先程とは少し言葉を変えて千里に説明をしていた。しかし千里はそのことに突っ込む様子を見せなかったので、どうやら本当に今来たばかりだったみたいだ。

「おーい、恭介! ちょっと来てー!」

 そして、教室の中から桂君を呼ぶ声が聞こえてくる。桂君は一旦後ろを向いて「おー」と返事をすると、「じゃ、俺はここで」と僕達に言って再び教室の輪の中へと戻って行った。桂君がいなくなったことで、僕と千里が二人で向き合う形になる。

「あ、そっか。恭介に運動着を返しに来たんだね」

 千里は、そこでようやく僕が桂君と話をしていた理由に思い至ったようだった。

「うん。その……ありがとう。千里が桂君に借りてきてくれたおかげで、ちゃんと授業に間に合ったよ」

 僕はさっきはバタバタしていてきちんと伝えられなかったお礼の言葉を、改めて千里に伝えた。

「それはよかった。困ったときはお互い様だからね」

 千里はそう言って、にこりと微笑む。それにつられて、僕の口元も緩みそうになってしまう。

「ねえ、あれ……」

 そのとき、廊下を歩いている女子のそんな声が耳に入った。その女子二人組はこっちをちらちらと見ながら、小声でぼそぼそと会話をしていた。

「うわ、双子ってマジだったんだ」

「でもたしかに、顔似てるよね」

 明らかに、僕達のことだった。その女子二人組は僕達の脇を通り過ぎると、二年二組の教室へと入って行った。僕と、同じクラスの女子だったようだ。その女子達の会話は廊下にいる他の人達にも聞こえていたみたいで、三組のドアの前で向かい合っている僕と千里にいくつもの視線が突き刺さった。

「あ……じゃあ僕、そろそろ行くから」

 双子が揃っていると、良くも悪くも目立つ。僕は人から注目されることが何よりも苦手なので、そう言ってその場から立ち去ることを決める。

「ヒロ!」

 くるりと背中を向けた僕だったけれど、千里に名前を呼ばれて立ち止まった。後ろを向くと、千里は余裕の表情だった。さっきの女子の言葉もたくさんの人からの視線も、まったく気にしていない様子が見て取れる。

「放課後、迎えに行くから。教室で待ってるんだよ」

「え?」

 放課後? 一緒に帰るとか、そういうことだろうか。きょとん、とした表情の僕に、千里は言葉を続ける。

「あの銃について知りたくて学校に来たんだろう? 約束は守るよ」

「あ……! うん」

 そうだった。学校生活をこなしていくのに精一杯ですっかり忘れてしまっていたけれど、そもそもそれが僕が今日学校に来た動機だった。

「じゃあ、放課後ね。楽しみにしてて」

 千里はそう言って片手をひらひらと振ると、三組の教室の中へと入っていった。僕も体を反転させて二組の教室に入り、廊下側一番後ろの自分の席に着いた。机の脇に掛けてあるスクールバッグのポケットのチャックを開けると、朝入れたシルバーの銃が姿を現した。それを見ていると、僕の中になんともいえない高揚感が湧き上がってくる。放課後。もうすぐ、この謎の銃について知ることができるのだ。そう思うと残り二時間ある午後からの授業も、なんとか頑張れそうな気がした。


「うーし、それじゃあお前ら部活頑張れよー。あ、宿題も忘れずにな。文武両道だぞー」

「ういーっす」

 担任の武田先生は僕達生徒にそんな言葉を残し、教室を出て行った。帰りの会を終えた生徒たちは各々部活動に行くため、スポーツバッグやラケットを抱えてあちこち動き回っている。僕はそんな生徒達を横目で見ながら、ひとまず今日一日の授業が終わったことに安堵と喜びを感じていた。

午後からの授業も、僕にとっては困難の連続だった。理科の授業では実験をしたのだけれど、自分が何をどこまで手出ししたらいいのかもよくわからないし、かといって何もしないのもサボっているみたいだし……と苦悩の時を過ごした。考えたあげく実験道具のビーカーを用意したりしてみたのだけれど、結局他の人も持ってきていて僕の行動は無駄になり、辺りには気まずい空気が流れた。あとは実験プリントが僕の分だけなかったりと、色々と踏んだり蹴ったりだった。ただ授業を受けるだけでも、僕の精神はどんどんすり減っていく。今日はもうこんな思いをしなくていいとわかるだけでも、僕にとっては最高の喜びだった。

「ヒロ!」

 そして人の出入りが慌ただしい教室のドアに、僕が待ち望んでいた人物の姿が現れる。茶色のスクールバッグを肩に掛けた、千里だ。僕もスクールバッグを手に持ち、席を立つ。昼休みのときのように、再びたくさんの視線が僕達に集まっている気がした。その視線から逃れるように、僕はちょっと早足で教室を出た。

「ふふ、待たせたね。じゃあ、行こうか!」

 僕と並んで廊下を歩く千里は、どことなく機嫌が良さそうだった。僕はそこにちょっと嬉しさを感じつつも、一つの疑問が浮かんできた。

「えっと……行くって、どこに?」

「ふふふ。まーついてきたまえ」

 僕の質問に答えることなく、千里は廊下を歩き続ける。僕は腑に落ちないながらも、千里の脇に並んでついて行く。そして二年生の教室前を通り過ぎると、千里は三階へ続く階段へと足を踏み出した。

「えっ……三階に行くの?」

「ん? そうだよ」

 僕は思わず怖気づいた声を出してしまうけれど、千里はまったく動じる様子もない。三階は、三年生の教室がある階だ。正直、僕達下級生にとってはたとえ用事があってもあまり近づきたくはない所だ。千里はそのことを知っているのか知らないのか、軽快に階段を上っていく。どうしようかとその場に立ち止まっていると、千里と僕との高低差はどんどん開いていった。

「!」

 そして千里を下から見上げる形になってしまった僕は、慌てて目を逸らす。一瞬、千里のスカートの中が見えそうになったのだ。変な誤解を受けたくもないので、僕は意を決して階段を駆け上がった。

 階段を上りきると、正面には水道、左側はすぐに突き当たりで一つ部屋があり、右側には三年生の教室が並ぶ廊下が続いていた。千里は迷うことなく、突き当たりにある部屋のドアをガラリと開けた。ドアの上に掲げられているプレートを見ると、『資料室B』と書いてある。

「ここだよ」

 千里は目的地に到着したことを告げ、僕に中に入るように促す。少しためらいつつも、僕は言われるがままにドアをくぐり抜けた。部屋の広さは教室の三分の二くらいで、壁には本棚がずらりと並んでいる。白い長机やパイプ椅子もいくつか置かれていて、図書室の小さいバージョンのような空間だった。千里に続いて部屋の奥へ進むと、教室にあるものの半分くらいの大きさの黒板もあった。千里は黒板前のパイプ椅子を引っ張り出すと、そこに腰掛けた。

「ヒロも座りなよ」

 そう言って、千里は自分のすぐ隣のパイプ椅子を引いてくれる。

「あ……うん。……ていうか、ここ勝手に入ってもいいのかな……」

 僕はパイプ椅子に腰を下ろしつつも、そんな不安を口にした。千里は、ちゃんとこの部屋を使う許可をとっているのだろうか。

「まあ、よくはないだろうね。だけど、ここほとんど人が寄り付かないらしいじゃないか。(あさ)()に教えてもらったんだ。バド部で時々階段ダッシュをやるそうなんだけど、疲れたらよくこの部屋でサボっているらしいよ」

「あー……」

 朝未、という名前に僕は体育の前の休み時間、千里の隣にいた女子の顔を思い出した。健康的に引き締まった体に、髪を頭の後ろで緩くまとめた女の子。まったく話したことはないけれど、そういえばそんな名前の子だった気がする。どうやら千里は、その朝未さんと仲良くなったみたいだ。そして話を聞くに、千里はやはり無断でこの部屋を使っているようだ。だけど今僕たちがいるところは入り口のドアに付いているガラス窓からはちょうど見えない位置なので、ドアを開けて奥まで入って来られたりしない限りは大丈夫そうだった。

「ところで、ヒロ。無理矢理引っ張って来てしまったけど、今日は部活のほうには行かなくてよかったのかい?」

「え?」

 思わぬ問い掛けに、僕は一瞬きょとん、としてしまう。

「この学校は部活動入部が強制なんだろう? ヒロの入っている部活も、今日活動があったんじゃないのかい?」

「え、あー……。でも、いいんじゃないかな。だって昨日まで、学校すら来てなかったわけだし……」

 僕は、苦笑いを浮かべる。部活のことなんて、すっかり失念していた。だけど、じゃあ今から行こう、という気にもなれない。だって僕は今日活動があるのかどうかすら、明確に知らないのだ。

「そもそも、ヒロは何部なんだい?」

「えっと、文芸部……」

「ふうん? 小説家志望かい?」

「いやいや……入りたい部活がなくて、適当に入っただけだよ」

 僕は運動もできないし、かといって音楽や絵もちんぷんかんぷんだ。そうやって選択肢を絞った中から、ただひたすら読書をしていればいいという文芸部を選んだというだけのことだった。まあ、そんな一番楽だと言われている部活にも、僕は半年以上顔を出してないわけだけれど。

「そっか。じゃあ提案なんだけれど、もしその部活にそんなに思い入れがないなら、あたしと一緒に新しい部活をやらないか? もちろん、強制はしないけれど」

「え……?」

 予想もしなかった言葉に、僕は驚いて顔を上げてすぐ隣に座る千里の顔を見つめた。千里は僕を見て微笑むと、目の前の白い長机に片手で頬杖を突きながら言葉を続けた。

「調べたら、この学校は二人以上部員がいれば部活を立ち上げられるそうじゃないか。すごく良心的だよね。自分と、あともう一人いればいいんだから。まあ、その割には部活が乱立していないみたいだけれど」

「ぶ、部活って、何の……」

 そう言いかけて、僕の頭にピン、とくるものがあった。僕は床の上に置いていたスクールバッグから、シルバーの銃を取り出した。

「……その部活って、この銃と関係あるの?」

「その通り」

 千里はにこりと笑みを浮かべると、椅子に腰掛けたまま後ろにある黒板のほうを向いた。白いチョークを手に取り、カツカツと音を響かせながら黒板に文字を書いていく。

「……ライトトイガン部?」

 千里がチョークを置くと同時に、僕は黒板に書かれた文字を読み上げた。

「そう。あたしが前の学校で所属していた部活だよ」

 千里はそう言うと、自分のスクールバッグをごそごそと漁り始めた。千里が再び顔を上げたときには、その手にメタリックレッドに輝く銃が握られていた。僕の手にあるシルバーの銃の、色違いバージョンだ。どうやら千里は、銃を二つ所持していたみたいだ。

「ヒロは、サバゲーを知っているかい?」

 千里は銃を手元で遊ばせながら、僕に問いかける。その仕草がなんだかとても様になっていたので、僕は思わず見とれてしまいそうになった。

「あ……えっと、確かおもちゃの銃で撃ち合って、勝ち負けを決める、みたいな遊びだよね?」

 僕の頭の中に、以前テレビか何かで見た映像が浮かぶ。詳しくはないけれど、大体そんな感じのルールだったはずだ。

「そうそう。つまりこの銃は、サバゲーをするための銃なんだよ」

「え……」

 千里はそう言って、銃を構えてみせる。その姿はとても絵になっていてかっこいいのだけれど、僕には釈然としない思いが湧き上がる。なんというか、僕が見た映像ではみんなもっと本物みたいな銃を使っていたはずだ。千里が握っている銃は色もそうだし、形もどことなく玩具感がある。僕の中の『サバゲー』のイメージと、若干のずれがあった。

「ところでヒロ、サバゲーをする部活なら、『サバゲー部』でいいと思わないかい?」

「え? ああ……うん」

 そこで急に部活の名前の話を出され、僕はちょっと戸惑いつつも返事をする。たしかに、『サバゲー部』の名称のほうがわかりやすいと思う。『ライトトイガン部』と言われても、正直何をする部活なのかわからないだろう。

「だけど、『サバゲー部』にしない理由がちゃんとあるんだ。一般的にサバゲーというと、BB弾を発射する『エアガン』と呼ばれる銃を使うことが多い。だけど、あたし達が使うのはこれだ」

 千里は、顔の前で赤く輝く銃をゆらゆらと揺らす。僕は千里の言いたいことがよくわからなくて、首を傾げた。

「この銃は、赤外線銃。弾が出ない銃なんだ。ほら、テレビのリモコンなんかは、赤外線を使って操作するだろう? それと同じ仕組みだよ。この銃のことを、あたし達はライトトイガン、lightな玩具の銃、って呼んでる」

「弾が、出ない……」

 その言葉を聞いて、僕は昨日のことを思い出した。すべての始まり、千里が僕を銃で撃ったときのことを。たしかにあのとき銃声はしたけれど、弾は出なかった。それは千里があらかじめ弾を抜いておいたのではなく、元々そういう性質の銃だった、ということみたいだ。

「……えっと。その、赤外線銃? でやるサバゲーと、弾が出る銃でやるサバゲーは、何か違うの?」

 僕は、そんな初心者丸出しな質問を千里にぶつける。サバゲーをするための銃に、いくつか種類があるらしいことはわかった。『ライトトイガン部』という名称にするのは、弾が出る銃を使ったサバゲーと混同されないようにするためだということも。だけど千里が赤外線銃にこだわる理由が、いまいちわからなかった。単純に考えて、弾が出ないよりも出るほうが楽しいのではないだろうか。

「そうだね。色々あるけれど、赤外線銃の大きなメリットは弾が出ないことかな。ヒロは、エアガンで弾を撃ったことはある?」

 千里の問い掛けに、僕は首を横に振った。水鉄砲なら小さい頃に遊んだことがあるけれど、エアガンなんて触ったこともない。

「そっか。それじゃあわからないかもしれないけれど、エアガンで撃った弾は玩具といえど、結構な威力があるんだよ。至近距離で撃たれたりすると、かなり痛いんだ。痣になったり、歯が折れたなんて話もあるくらいだ」

「え……そうなんだ」

 なかなかに衝撃的な話を聞かされ、僕は思わず口元を押さえた。そんな怪我をするリスクがあるなんて、遊びといえど参加するのにちょっと覚悟がいりそうだ。

「もちろん、至近距離の場合はフリーズコールといって、撃たないで決着をつける方法もあるんだけど。でもやっぱり、そういうところが理由でサバゲーに手が出しづらくなってしまっているのも事実なんだ。その点、誰でも気軽に始められるのが赤外線銃によるサバゲーだ。特別な装備がなくても、銃さえあればすぐに始められる。服装も場所も、特別なものを用意する必要はないんだ。これが、lightと呼ばれる所以だね」

「なるほど……」

 千里の説明を聞いて、僕にもなんとなく赤外線銃の魅力がわかってきた。つまり、エアガンを使ったサバゲーよりもお手軽なのだろう。

「他にも体力ゲージがあったり、弾倉(マガジン)を入れ替えることによって銃の性能を変えられたりと、まだまだ特徴はあるけどね。まあこういうのは、実際にやってみたほうがいいだろう」

 千里はそう言うと、ちら、と窓の外を見た。

「ちょうど晴れているし、ヒロ、外に出ようか」

「え?」

 千里は立ち上がり、僕の腕を引いた。千里に引っ張られるままに、僕は部屋を後にする。その手には、きちんとシルバーの銃を握り締めながら。


 千里は僕の手からシルバーの銃を取ると、何やら液晶画面を指で操作した。そして何らかの作業を終えたのか、再び僕に銃を手渡した。

「はい。一分後にスタートコールが鳴るから。えーっと、行っていい範囲は学校の敷地内。校舎内はダメだよ。外だけ。あと、駐車場とかも禁止。夢中になって、車に轢かれでもしたら大変だからね。まあ、注意事項はそんなとこかな。ふふ、じゃあねヒロ。次に会ったときには敵同士だ」

「え……あ、うん」

 千里は慣れた様子ですらすらと説明すると、くるりと僕に背を向けて走り去って行った。僕は他に生徒の姿のない昇降口前に、ぽつんと取り残される。手の中にある銃の液晶画面を見ると、52、51……と徐々に数字が減っているのがわかった。スタートするまでの、カウントダウンだ。僕は辺りをきょろきょろと見回しつつ、とりあえず千里が走って行ったほうとは反対のほうへと行ってみることにした。小走りで職員玄関前を通り過ぎ、体育館の玄関前も通過する。角を曲がればグラウンドというところに来て、僕は足を止めた。グラウンドの方からは、野球部のものと思われる掛け声が次から次へと飛んでくる。僕は校舎の白いコンクリートの壁に背中を預け、すでにちょっと上がってしまっている息を整えた。ここはちょうど日陰になっているので、何もせずにじっとしていたらちょっと肌寒いくらいかもしれない。だけど僕はグラウンドの方へ飛び出す勇気が出ず、その場で立ち止まって銃の画面にカウントされる数字が減って行くのを見つめていた。頭の中では、外に出るまでの移動中に千里がしてくれた説明を繰り返し思い出していた。


 階段を降りながら、千里はピロリ、と手元の銃のスイッチを入れた。見ると、千里の持つ銃の上部は青く発光し、側面の液晶画面には何やら数字やアルファベットが浮かび上がっていた。

「この部分が体力ゲージ。これがなくなったら負けだよ。ヒロ、そっちも電源入れてみて」

 千里は上部の青く光っている部分を指しながら、銃について説明を始めた。

「あ、うん」

 僕も言われるままに、手にしているシルバーの銃のスイッチを入れた。ピロリ、と音がして、僕の銃の上部も青く発光する。これが、体力ゲージ。なんだかゲームのモンスターとかのHP表示みたいだな、なんて思いながらまじまじと見つめていると、突如「ドン!」と銃声が響き、僕の手元に振動が走った。

「う、うわ!」

 ビイィィィーン……、と震えているのは、僕が持つシルバーの銃だった。スマートフォンをマナーモードにしたときのような振動に、僕は思わず声を上げてしまう。

「な、なに、これ……」

「それが撃たれたときの合図だよ。見てごらん、ヒロの銃の体力ゲージが、ちょっと減っているだろう?」

「え……あ、本当だ」

 銃の上部の青く発光する部分を覗き込むと、たしかにさっきよりも少し減っていた。こうやって撃たれると少しずつ減っていって、完全になくなったら負け、ということか。

「今度はヒロが撃ってごらん。赤外線受光部がここだから、ここを狙ってね。ちなみに、ゲーム中に受光部を手で覆って隠すのは禁止だよ。体や障害物で隠すのはオッケーだけど」

 千里は銃口の上の部分にくっついている、オレンジ色の四角い部分を指差した。自転車や自動車の反射板みたいなそこを狙うことで、相手の銃の体力ゲージを減らすことができるようだ。僕は至近距離で千里の銃を狙い、トリガーを引く。……が、あれ? 銃声がしない。僕は何度も人差し指を動かすけれど、さっきのような銃声は一向に鳴らなかった。

「銃が使えなくなっただろう? それが撃たれたことによるペナルティだ。銃を復活させるためには、ある動作が必要なんだ」

 そう言うと千里は、自分の銃のグリップの底から何かを引き出した。薄くて四角い箱みたいなそれは、千里の銃の色よりも濃い赤色に輝いている。

「これが弾倉だよ。ヒロの銃にも入っているから、取り出してごらん」

「ん……」

 僕も千里の動作を真似して、グリップの底のほうに触れてみた。細い溝に指を掛けると、カチッ、と音がして四角い箱が取り出せた。弾倉というらしいそれは、僕の銃の色と同じくシルバーに輝いていた。

「これを数回出し入れさせることで、銃を復活させることができるんだ。こんな感じでね」

 千里は濃い赤色の弾倉を再び自分の銃に差し込むと、カシャカシャカシャ、と高速で出し入れし始めた。何度かそれを繰り返すと、ギュイン、という音が千里の銃から上がった。

「この音が、銃が復活した合図。これで再び、銃が使えるようになったわけだ」

 千里が目で促すので、僕も見よう見まねで弾倉を出し入れしてみる。やがてギュイン、という音が鳴ったので、僕は再び銃を構えてトリガーを引いてみた。「ドォン!」という銃声と同時に、ビイィィィーン……という振動音が鳴り響く。しかし今回震えているのは僕の銃ではなく、赤く輝く千里の銃だった。千里はカシャカシャと弾倉を出し入れして、銃を復活させる。

「基本的にはこれの繰り返しだよ。相手を撃って、撃たれたら銃を復活させて、また撃つ。あ、そうそう。弾倉ごとに決まった装弾数ってものもあって、弾切れになったら撃てなくなるんだ。ほら、画面に銃弾のマークが並んでいるだろう?」

「ん……ああ、これ?」

 手首を捻って銃の側面を見ると、BLというアルファベットの脇に黒い銃弾のマークがいくつも並んでいた。

「そのマーク、二段になっているだろう? 上の段はマーク一個で十弾分、下の段はマーク一個で一弾分を示しているんだ。そのマークがなくなって弾切れになったら、さっきのように弾倉をカシャカシャやればいい。すると、再装填された状態になるんだ。ふふ、どうだい? そんなに難しくないだろう?」

「うん、たしかに……。あ、でも、このマークはなんなの? PWとかGRとか」

 僕は頷きつつも、画面に表示されている他のマークが気になって尋ねてみる。画面には装弾数を表すBLの他に、PW、GR、AFというアルファベットも表示されていたのだ。

「PWは攻撃力、GRは発射距離、AFは連射能力を示しているんだ。PWが大きいほど相手のゲージを一気に減らすことができて、GRが大きいほどより遠くまで弾を届かせることができる。そしてAFが大きいほど連続して弾を撃つことができて、BLが多いほど再装填の手間が省ける。この数値は、弾倉の種類によって決まっているんだ。見てごらん。ヒロとあたしの銃の表示、まったく違うだろう?」

 千里が赤い銃をすっと差し出すので、僕はそれを受け取って画面を覗き込んでみる。

「わ、本当だ……」

 僕の銃の画面と比べてみると、たしかにどの項目にも違いがあった。具体的には、PW、AF、BLのマークは僕の銃のほうが多く、GRのマークだけが千里の銃のほうが多かった。

「あたしの銃の弾倉は、いわゆる狙撃タイプだね。発射距離が長いのが最大の特徴だ。対するヒロの弾倉は、レアリティと呼ばれる特別なものだよ。すべての能力が高く、大会なんかでは禁止されることもある弾倉だ。だけど、ヒロは初心者だからね。互角に勝負をするとなれば、このくらいのハンデはつけないと」

「ん……そう、なのかな……?」

 自分だけ強力な銃を使うということに、僕はちょっと抵抗を覚える。だけど僕は初心者だし、千里がそう言うならそうしたほうがいいのだろう、と納得することにした。

 そんな話をしながら僕たちは廊下を進み、昇降口へとやって来た。みんな部活動をしている時間なので生徒の姿は一斉なく、聞こえる音といえば吹奏楽部がどこかで練習をしている楽器の音色だけだった。僕は下駄箱の前で上履きを脱ぎ、通学靴のスニーカーへと履き変える。

「あ、それともう一つ」

 茶色のローファーへと履き変えた千里が、銃を持っていない左手の人差し指をぴんと立てた。

「撃たれたら大きな声で、『ヒット』と言うこと。至近距離だとヒットコールがなくてもわかるんだけど、遠く離れていると自分が撃った弾が当たったのかどうかわからないからね。それを聞いて、相手の体力ゲージがあとどのくらいなのかを推測するんだ」

「なるほど……了解」

 僕は、手元のシルバーの銃をぎゅっと握り締めた。いよいよこれから、僕の人生初のサバゲーが始まるのだ。ちょっと緊張するような、だけどわくわくするような。こんな気持ちになったのは、ずいぶん久しぶりだった。

 僕は眩しい光が差し込む外の世界へと、足を踏み出した。これから触れるであろう未知の世界に、胸を高鳴らせながら。


 画面の数字が0になると、『スタート』とやけに発音のいい音声が銃から流れた。いよいよ、始まりだ。僕は緊張の面持ちで、銃を両手で握った。しばらく校舎の陰で息を潜めてじっとしていたけれど、千里がやって来る気配はない。千里は今、敷地内のどの辺りにいるのだろう。僕は千里と反対方向に走って来たわけだから、きっと真逆の位置にいるのかもしれない。ふと銃の画面を見ると、再びカウントダンのように数字が減っていっていることに気が付いた。

「?」

 スタートはしたはずなのに、と僕はまじまじとその数字を見つめる。それで、わかった。一秒一秒減っていっているその数字は、おそらくゲーム終了までの残り時間だ。現在の数字は、二十八分四十二秒。スタートしてから経過した時間を考えると、どうやらこの戦いは三十分に設定されているようだった。たしかに、このまま二人がじっと隠れていても何も始まらない。そういうことを避けるために、時間制限を設けているのだろう。

「……よし」

 僕は、その場を動くことを決意する。だけどまずグラウンド側にそうっと顔を覗かせて、辺りをきちんと確認した。グラウンドでは野球部とサッカー部が、汗を流して練習を続けている。グラウンド脇に建っている校舎のほうにも目をやるけれど、特段変わりはない。無機質なコンクリートの白い建物が鎮座しているだけだ。

「!」

 と、僕の視界の端で何かが動いた。見ると僕とは正反対の位置にある校舎の陰から、髪の長い女の子の顔が覗いている。千里だ。僕はそれを確認するとすぐに、校舎の陰から躍り出た。銃を真っ直ぐに体の前で構えて、千里のもとへと足を進める。千里も、僕に気付いたようだった。千里は校舎の陰に体を半分隠したまま、左手を伸ばしてこちらに銃を向けた。

 ビイィィィーン……。

「え……あ、ヒット」

 手元に振動を感じ、僕は思わず立ち止まる。撃たれた? 慌てて銃の体力ゲージを確認すると、わずかに減少していた。試しに銃のトリガーを何度も引いてみるけれど、銃声は一斉しない。やはり、撃たれたのだ。でも、と僕は疑問に思う。さっき千里が放ったであろう弾は、銃声がしなかった。はて、と首を傾げていると、再び手元に大きな振動が走った。

 ビイィィィーン、ビイィィィーン、ビイィィィーン、ビイィィィーン……。

「え、えっ? ヒ、ヒット、ヒット、ヒット、ヒットぉ!」

 立て続けに起こる振動に、僕は目を丸くした。め、めちゃくちゃ撃たれてる! 体力ゲージを確認すると全体の半分くらいが削られて、青かった光が緑色に変化していた。じ、銃を復活させるまで、待ってくれたりはしないのか。僕はこのままだといい的になってしまうことにようやく気付き、急いで体を翻して再び校舎の陰に隠れる。そうしたことで、とりあえず被弾は収まった。安全地帯である校舎の陰で、僕は弾倉をカシャカシャ動かして銃を復活させる。ギュイン、という音がして、銃が使えるようになったことがわかった。僕は、そうっと校舎の陰から顔を覗かせる。千里も、さっきと同じ位置から顔を覗かせていた。僕は再び千里の元へと足を踏み出す……ということはしない。さっきので、少しは学習した。あんな風に銃の赤外線受光部を丸出しで歩いていては、すぐに撃たれてしまうだけだ。だからここは、千里の真似をさせてもらうことにする。僕は、銃を握る手に力を込めた。銃を撃つ時だけ手を校舎の陰から出し、すぐに引っ込める。この方法なら、さっきのようにバカスカ撃たれることはないはずだ。僕は向こうの様子に目を光らせ、千里が銃を校舎の陰から出すのを待った。

「!」

 そして、その時は唐突に訪れた。ずっと隠れたままでいる僕に痺れを切らしたのか、千里は銃だけでなく体ごと校舎の陰から現れたのだ。そのままこちらに向かって歩いてくる姿は、さながらさっきの僕みたいだ。これはチャンス、と僕は手を突き出し、千里に向かってトリガーを何度も引く。

 ビイィィィーン……。

「え……? ヒ、ヒット……」

 しかし、またもやヒットコールを言う羽目になったのは僕の方だった。戸惑いつつも、連続で被弾しないよう僕は素早く腕を引っ込める。体力ゲージはさらに減り、緑色だった光は黄色になっていた。

「……タイミングが、悪かったのかな……」

 カシャカシャと弾倉を動かしながら、僕はそんな推測をする。僕がトリガーを引くよりも、千里がトリガーを引くのがわずかに早かった。今のこれは、きっとそんな不運から起きたものだろう。ギュイン、と銃が復活する音を聞いた僕は、再び顔を出して様子を窺う。千里はもう校舎の陰に隠れてはおらず、校舎の脇に堂々と立っていた。銃を人差し指でくるくると回すその仕草は、余裕、の一言だった。

「……今度こそ!」

 千里がトリガーに指を掛けていないこの状況なら、確実に僕の方が早く撃てる。そう思った僕は腕を伸ばし、トリガーを素早く何度も引いた。

 ビイィィィーン……。

「え……。ヒ、ヒット……。なんで」

 しかし撃たれたのはまたしても、僕だ。僕は腕を引っ込めて、校舎にもたれかかる。何故だ? 僕の頭の中を、クエスチョンマークが支配する。今のは確実に、僕の方が早くトリガーを引いたはずだ。僕は、銃の画面のBLのマークを確かめる。上の段のマークが二個減っているから、確実に十発は撃っている。たしかに僕は初心者だから下手糞かもしれないけれど、一発くらいは当たってもいいはずだ。なんだ? 何が起きている? 僕は、必死に考える。このまま再び腕を伸ばしても、きっと同じ展開になるだけだ。どうして僕の弾は千里に届かなくて、千里の弾は僕に届く?

「ん……」

 そこで僕はもう一つ、疑問があったことを思い出した。そう。今まで千里が撃った弾は、銃声が一斉しなかったのだ。そしてそのことが、点と点が繋がるように僕にすべての答えを教えてくれる。

「……そうか」

 僕は、ちらりと校舎の陰から顔を出す。千里は、さっきの位置から動いていない。校舎の脇で、仁王立ちをしている。僕との距離は、およそ十メートルくらい。……千里は、あの位置から距離を詰めるわけにはいかないのだ。

 僕は、千里の銃と僕の銃との表示の違いを思い出す。千里の銃が僕の銃に勝っていたところはただ一つ、GR、発射距離だけだ。僕の銃に入っている弾倉は能力が高いものらしいので、そんな銃に勝つためには利点を最大に生かすことは必要不可欠だろう。つまり千里は、遠くまで弾を届かせることのできる点を生かした作戦を実行している。おそらく今の僕と千里の距離は、僕の弾は届かないけれど千里の弾は届くという距離なのだろう。僕がいくら撃っても千里にダメージを与えられなかったのは、僕の銃の発射距離が足りていなかったからなのだ。そしてもう一つの疑問だった、千里の銃から銃声がしなかったことも簡単に説明がつく。それは銃声がしなかったのではなく、距離が開きすぎていて僕に聞こえなかっただけなのだ。

「うーん……」

 ひとまず謎は解決したけれど、問題はここからだ。僕が千里にダメージを与えるには、距離を詰めることが求められる。銃の攻撃力、連射能力、装弾数は僕の方が勝っているわけだから、距離の問題さえ解決できれば力押しできるのではないだろうか。しかし距離を詰めるといっても、さっきみたいに堂々と歩いて出て行ったら撃たれまくって試合終了になる気がする。銃を体の後ろに隠しながら行けばちょっとは耐えられるかもしれないけれど、僕の銃の残り体力からしてなんとなく心許ない。何か、急激に距離を詰められる方法を探さないと。頭の中でそう作戦会議を繰り返す僕は、一旦この場を離れることにした。千里にとっては距離を保つことが重要なわけだからこれ以上僕に近づいてくることはないんだろうけれど、なんとなくすぐ角を曲がった先に敵がいるというのは落ち着かない。僕は駆け足で体育館玄関前、職員玄関前を通り過ぎ、昇降口前に来たところで立ち止まった。はあ、はあと息を吐いて昇降口の階段の手すりにもたれ掛かりながら、何かいい方法はないかと頭を巡らせる。時折周りを確認して、千里の姿がないか警戒することも怠らない。

 急激に距離を詰める、といっても残念ながら僕の走る速度には限界がある。それに僕は、運動不足の不登校児だ。情けないけれど千里のほうが足が速いだろうから、単純に考えれば追いかけっこになったら距離はますます開くだけだろう。となると追いかけるのではなく、反対に追いかけてもらう形をとればいいのか。いや、距離をとることを良しとしている千里が僕を追いかけるなんて、そんなバカな話あるわけがない。うーん、じゃあ、どうすればいいんだろう。なんというか、千里が知らず知らずのうちに距離が近づいてしまっていた、みたいな感じにできればいいんだけれど。

「難しいな……」

 そこで煮詰まってしまった僕は、頭上の青空を見上げる。風によって流れる白い雲を見ていると、少し気分がすっきりした。

「広い場所よりは、狭い場所のほうがいいのか……」

 再び思考の世界に戻った僕は、何気なくそう呟く。そして、はっとした。狭い場所。追いかけてもらうのではなく……おびき寄せる。

 僕は必死に、頭の中で学校の敷地内の全体図を思い浮かべる。不登校とはいっても、半年くらいはちゃんと毎日学校に通っていたのだ。転校してきたばかりの千里よりは、地の利がある。もし上手くいけば、一発逆転の可能性もあるかもしれない。僕はそんな期待を込めて銃をぎゅっと握ると、再び歩き出した。


 僕は辺りを警戒しながら、こそこそと移動を繰り返した。昇降口を後にして部室棟の校舎を通り過ぎると、先程千里が立っていた辺りにやって来た。未だに千里の姿がそこにあればアウトだったけれど、幸いにも千里はいなくなっていた。どうやら千里も、僕を探すために移動したみたいだ。僕はそこからまた少し歩くと、校舎の中央部のへこんだ空間の奥で足を止めた。そこは日当たりも悪く、他のどの場所よりも影が濃かった。校舎の壁に貼りつくようにして銃を構え、僕はじっと息を潜める。

 僕の立てた作戦は、単純なものだった。出っ張ったりへこんだりしている校舎の形によってできた狭いスペースに隠れて、そこを覗き込んできた千里を一気に撃つ、というものだ。もちろん、この作戦は千里が僕のいる場所までやって来てくれることを前提としたものだ。だけど僕には、必ず千里が来るという確信があった。僕は、ちらりと銃の側面の液晶画面を見る。残り時間は、九分二十六秒。もしこのままゲームが終了したら、残り体力の差とかで勝敗が決まるのかもしれない。僕の体力ゲージはもう三割ほどしか残っていないのに対し、千里は満タンだ。このままいけば、確実に千里の勝利だ。

 だけど千里は相手の体力を削って後は隠れているだけという選択を、果たしてするだろうか。僕が出した答えは『しない』だった。千里はたとえ勝利が揺らぐ可能性があっても、最後の一秒まで戦うはずだ。それが僕が幼い頃一緒に過ごした千里の姿であり、ここ数日の様子を見てもそれは間違いないだろうと思えた。だから僕はじめじめした大きな校舎の陰で、じっとひたすら待ち続ける。頭の中では、僕の姿に驚く千里に向かってトリガーを引くイメージを何度も繰り返す。

 ビイィィィーン……。

「!」

 今日何度目になるかわからない振動を手元に感じ、僕は目を見開いた。思わずヒットコールも忘れて、銃を急いで背中に隠して辺りを見渡す。どこだ? どこから撃たれたんだ? 目をぐるぐると巡らせて千里の姿を探す僕の頭に、嫌な答えがぼんやりと浮かんだ。今僕のいるこの場所に撃ち込むには、何も近づいて覗き込む必要なんてなかったんじゃないか。僕は野球部とサッカー部で溢れかえっている、グラウンドへと目をやった。野球部はみんなユニフォーム姿だし、サッカー部は運動着の上にゼッケンをつけている。そんなグラウンドの中で、一人だけ運動に似つかわしくない制服姿の女の子がいた。サッカーゴールの裏手でこっちに向かって銃を構えている、千里だ。

「……!」

 僕は、ぎりっと唇を噛んだ。僕の中で、野球部とサッカー部で埋め尽くされているグラウンドは完全に意識の外にあった。グラウンドは遮蔽物も少なく見通しもいいから、いざとなったときに隠れることができない。先程の千里の撃ち方を見ても、絶対に校舎の壁に沿って移動していると思っていた。だけど、千里は今グラウンドにいる。僕が待ち伏せをしていることに気付いてそうしたのかはわからない。ただ一つ明らかなのは、今追い詰められているのは僕だということだ。どうする。僕と千里の間には、またしても十メートル程の距離がある。この距離では、僕の弾は千里に届かない。僕はじっと、千里が構える銃の先を睨み付ける。とりあえず銃を体の後ろに隠したまま、弾倉を出し入れして銃を復活させた。その間も千里は僕の銃を射線に捉えるべく、わずかに横に移動して撃ち込んでいた。僕もそれに合わせて体を移動させることでなんとか被弾を防いでいたけれど、このままでは状況は変わらないままだ。そうしているうちに時間切れになって、僕の負けが確定してしまうだろう。

「……っ」

 作戦なんて、もう何もなかった。だけどこのまま時間切れになってしまうのは嫌で、僕は校舎の陰から飛び出した。

「!」

 一目散に自分のほうへと走ってくる僕を見て、千里は一瞬驚いた顔をした。だけど千里は小走りで後ずさりながらも、銃を僕に向けたままだった。僕の残り体力がわずかなことを、千里も予測ができているのだ。それほどの脅威は感じていない様子で、銃を撃ち続けている。僕は背中に銃を隠して被弾を回避しながら走り、銃の射程に入ったであろう距離まで近づいたところで勢いよく右手を前に突き出した。

 ビイィィィーン……。

「っ……ヒット」

 しかしタイミングが悪かったようで、被弾したのは僕の方だった。急いで背中側に引っ込めた銃の体力ゲージは、まるで血の色のように真っ赤だった。僕は体の後ろで弾倉を出し入れしながらも、走る足は止めない。グラウンドで妙な物を手に追いかけっこを始めた僕らに、サッカー部の生徒たちの怪訝な視線が向けられる。だけど、外野なんて気にしていられない。これは、僕と千里の戦いだ。ギュイン、と銃が復活する音が響いて、僕は尚トリガーを引き続ける千里の指に目を凝らした。千里の銃は、そこまで連射能力が高くない。弾を撃ってから再びトリガーを引くまでの間には、必ず隙が生じる。千里がトリガーを引いた直後、そこが僕の攻撃のチャンスだ。

 ドォン! という銃声が響き、ビイィィィーン……、という御馴染みの振動音も同時に発生した。しかし今回震えているのは、僕の銃ではない。

「……ヒット」

 そうぼそりと声を発したのは、千里だ。ついに、僕の攻撃が当たったのだ。よし! と僕は心の中でガッツポーズを決める。そして千里はこれを機に後ろ向きに走るのを止め、しっかりと前を見据えてダッシュで僕から距離を取り始めた。銃を体で隠して走りながら、弾倉を動かして銃を復活させている。距離を取られてしまってはおしまいなので、僕はなんとか射程圏内にいるうちにとトリガーを引きまくった。

「……っ、ヒット」

 そしてそのうちの一つが、再び千里の銃に届いた。千里の声の調子にも、焦りが表れているのがわかる。いける。僕の口元が、自然と緩み出す。作戦も何もない力技だったけれど、このまま距離が離れる前に体力を削り取ってしまえば……。

 ドン、という銃声は、あまりにも小さく聞こえた。しかしその一発は残りわずかだった僕の銃の体力ゲージを、あっけなく吹き飛ばした。

 ピピー、ピピー、ピピー……。

 聞いたこともないファンファーレのような音が、僕と千里の銃から上がる。側面の液晶画面を見ると、『GAME SET YOU LOOSE』の文字が躍っていた。

「……負けた……か」

 僕は立ち止まると画面を見つめたまま、ぼそりと呟いた。頭の中には、つい先程の戦いの後悔が浮かんでいた。

 千里の体力ゲージを削ることができた僕は、距離を離される前にと弾をがむしゃらに撃ち続けていた。銃を一斉隠すことなく、体の前で構えながら。そして僕がトリガーを引いた直後、千里の腕が素早く伸びた。攻撃と攻撃の間は、最大の隙になる。そうして僕も千里にダメージを与えたというのに、自分がやられる側になるとすっかり頭から抜け落ちてしまっていた。結果見事に千里の弾は僕の銃を捉え、ゲームセット。僕は、負けた。

「お疲れー、ナイスファイトだったよ」

 千里がそう言いながら、グラウンドで立ち尽くす僕に近づいてきた。

「いやー、やっぱりレアの威力はすごいね。見てよこれ、真っ赤っ赤だよ。あと一発撃たれたら終わりだった」

 千里は手に持ったメタリックレッドの銃を傾けて、体力ゲージを僕に見せた。真っ赤に染まったそれは全体の一割程度しかなく、確かにあと一発でも攻撃が当たれば吹き飛んでしまう量だった。僕が千里に当てた弾はたしか二発だったから、三発当てていれば僕の勝ちだったのだ。そこで僕は、千里が僕に当てた弾は何発だったのだろうとふと考えた。数えていないから正確ではないだろうけれど、たぶん十発くらいはもらったのではないだろうか。そう考えると、僕の銃の弾倉と千里の銃の弾倉の威力の差に驚かされる。そしてそんな差がありながらも、僕は負けたのだ。

「まあ、これで大体ゲームの感じはわかったんじゃないかな。今回は一対一だったけれど、基本的には複数対複数の対戦が主流だよ。そのほうが戦略や戦術も幅広くできるしね。まあそれで、もしヒロがやってみようかなと思ったら、そのときはあたしに声掛けてもらえれば……」

「やるよ」

 僕は千里が言葉を言い終わる前に、そう口を開いていた。千里は驚いたように目を見開いて、僕に視線を向けた。

「や、ヒロ。別に返事は今すぐじゃなくていいよ。焦らずじっくり考えて、それから決めたほうが……」

「やるよ。もう決めたんだ」

 僕を気遣う千里の言葉にも、はっきりとそう言い返す。僕の気迫に、千里が息を呑むのがわかった。

 僕は今まで、スポーツというものが嫌いだった。体育の授業や休み時間に色々なスポーツを経験してきたけれど、どれをやっても楽しいと思うことはなかった。上手くなれば楽しくなるのかな、とも思ったけれど、そもそも上手くなりたいという熱量に達するまでに至らなかったのだ。

 だけど、今のサバゲーは違った。活躍できたわけでもないし結局負けてしまったけれど、銃を持って走り回るのは最高に楽しかった。ただただ運動能力が物を言うわけでもなく、戦略や戦術も重要であるというところも僕の心を掴んだ。もっと、やってみたい。もっと、上手くなりたい。そんな気持ちになったのは、いつ以来だろうか。もしかしたら、初めてだったかもしれない。こんな高揚感を、手放したくない。僕の中には、『やる』という選択肢以外、まったく存在していなかった。

「……じゃあ、どっちが部長やる?」

「えっ」

 僕の気持ちの強さを感じ取ったのか、しばらくして千里がそう口にした。

「いや、千里でいいよ……。というか僕は、そういうのは向いてないし……」

 僕は顔の前で手を振って、自分に部長は無理だという旨を伝える。部長なんて人前に立つ機会もあるだろうし、僕に務まるわけがない。

「そんなことないと思うけどね。まあでも言いだしっぺだし、あたしがやらせてもらおうかな。じゃあヒロは、副部長頼むよ」

「う、うん」

 本当は副部長ですら荷が重いと感じていたけれど、部員が二人しかいないのだからそれは仕方がない。僕は自分を鼓舞するように、銃を持つ右手に力を込めた。僕と千里が佇むグラウンドには、相変わらず野球部とサッカー部の賑やかな声が響いている。ふと空を見上げると、青空の中に夕暮れを告げるオレンジ色がかすかに混じっていた。


 それから僕達は再び三階にある資料室Bへと戻り、千里があらかじめ用意しておいたという部活設立申請書を記入した。といっても僕が書いたのは副部長の名前の欄くらいで、活動内容とか活動理念とかの欄は千里がさらさらと書いてくれた。そしてさっそく一階にある職員室にその用紙を提出して、今日はそのまま下校することにした。活動するにしても部室がないと色々と不便だし、僕達がさっき使っていた資料室Bはそもそも無断使用だ。申請許可が下りるのを、大人しく待つしかない。

 そして帰宅した僕は着替えや手洗いを済ませると、真っ先に台所にある冷蔵庫を確認しに行った。今までは僕が昼間買い物に行って食材を揃えていたけれど、今日は学校に行っていたためそれができていない。久しぶりに活動した僕は肉体的にも精神的にも疲れていたので、今から買い物に行くのも正直面倒くさかった。今日はある物で夕食を済ませてしまおう、と冷蔵庫の中の食材をチェックする。色々と検討した結果、簡単にカレーでいいかな、という結論に達した。にんじん、じゃがいも、玉ねぎをテーブルの上に取り出して、さっそく調理に取り掛かる。ピーラーを片手に流し台の前に立ち、にんじんの皮をむき始めた。

「手伝うよ」

 そうしていると、背後から声が掛けられた。顔を向けると、白い長袖パーカーにジャージの半ズボンという部屋着スタイルに着替えた千里がそこにいた。千里はパーカーの袖をぐっと捲り、長い髪を後ろで一つに纏めていた。エプロンこそつけていないけれど、料理する気満々といった様子だ。

「あ……じゃあ、えっと、じゃがいもお願いしていい? あ、でも待った、ピーラー一つしかないや」

 僕はテーブルの上のじゃがいもに目をやるけれど、ピーラーの数が足りないことに気付く。じゃあ玉ねぎのほうをお願いしようかな、とも思ったけれど、目に染みるからやりたくないかなあ、なんてことを考えて結局言葉に出せないでしまう。

「ん、大丈夫。包丁でいける」

 そんな密かに苦悩の中にあった僕に、千里はさらっとそう言い放った。千里は流しの下の扉を開けて包丁を一本取り出すと、僕の横に並んでじゃがいもの皮を剥き始めた。その手際の良さに、僕は思わずピーラーも動かす手を止めて見入ってしまう。学校に行かなくなってから家事全般をこなしていた僕もそこそこ料理はできるようになったと自負していたけれど、千里の見事な包丁使いを見るとまだまだなのだと思い知らされてしまう。そしてそんな僕の視線を感じたのか、千里が顔を上げてちらりとこっちを見た。

「あ……えっと、上手いな、と思って」

 僕は言い訳をするように、もごもごと口を動かす。

「まあ、毎日やってたからね。嫌でも慣れるよ」

 千里は再び目線を手元に落とすと、さらさらと皮を剥いていく。その言葉を聞いて、僕の頭に今は亡き母さんの姿が浮かんだ。あんまり憶えていないけれど、たしか母さんは料理が大得意というようなタイプではなかった気がする。そんな感じの母さんだから、千里が料理担当だったのかな。

「あ、でも。向こうのおばあちゃんも、料理とかしない人だったの?」

 僕はふと、そんな素朴な疑問を口にする。千里は母さんの実家で、おじいちゃんとおばあちゃんと同居していたはずだ。僕も両親が離婚する前に何度か遊びに行ったことがあるらしいけれど、残念ながら向こうのおじいちゃんとおばあちゃんのことはほとんど記憶になかった。特に深く考えもせずに言い放った僕の言葉だったけれど、千里は「あー……」と言ってちょっと苦い顔をした。千里の反応の意味がわからず、僕は「?」と首を傾げる。

「ヒロは知らないんだっけ。えーっと、ほら、ヒロはあんまり憶えていないかもしれないけれど、母さんはなんというか、自由な人だったからさ。おばーちゃん達とあんまり上手くいかなくて、結構早い段階で追い出されちゃったんだよね、あの家。それからはあたしと母さんで、アパートで二人暮らししてたんだ」

「え……そうだった、んだ」

 初めて聞いた事実に、僕は衝撃を受けた。千里たちにそんなことが起きていたなんて、全然知らなかった。

「あ……、もしかして、連絡が途絶えたのもそのせい?」

 そしてそれを聞いて、僕の中で繋がるものがあった。千里とはいつからか連絡をとらなくなってしまっていたのだけれど、それは実家を追い出されて住所や電話番号が変わってしまったことによるものだったのかもしれない。

「あー……いや、それはまた別件」

 しかしこの僕の考えは違っていたのか、千里はまたしても苦い顔をした。そして僕をちらりと見ると、不安げに瞳を揺らめかせた。

「……怒っているかい、連絡を絶ったこと」

「え……? いや、全然」

 僕は慌てて首をぶんぶん振って否定の意を表すけれど、頭の中には大量のクエスチョンマークが浮かんでいた。連絡を、絶った? 千里との連絡がなくなっていったのは、月日の流れで自然とフェードアウトしていったのではなく、明確な千里サイドの意思によるものだったということなのだろうか。かなり昔のことなので、どんな感じで連絡がなくなっていったのか、今となっては僕も正確には思い出せない。……だけど。

「……怒ったりなんか、しないよ。そ、そりゃあ、今頃千里どうしてるかなあとか、思うことはあったけど。でも、その……なんていうか、今は一緒に暮らしてるわけだしさ、何も問題ないよ」

 僕は、そう正直に自分の気持ちを千里に伝える。今ちょっと話を聞いただけでも、千里が向こうで色々あったであろうことはなんとなく想像がついた。たとえ連絡を絶ったのが千里の意思だったとしても、僕にそれを責める権利も資格もない。

「ん……、ありがと、ヒロ」

 千里はそう言うと、儚げに微笑んだ。その表情を見て、千里は名古屋にいたときどんな生活を送っていたんだろう、とぼんやりと思った。千里だったらどんな場所でもそれなりに上手くやっていそうだけれど、だからといって辛さをまったく感じないわけではないだろう。……千里にとって僕と父さんと暮らす今のこの生活が、悪いものとなっていなければいいんだけれど。隣でせっせと手を動かし続ける千里を見ながら、僕はそんなことを思った。



 次の日も、僕は学校に行った。相変わらず僕にとって学校という場所は、楽しいなんて言葉とは程遠い場所だった。ただ教室で座っているだけでも緊張するし、授業でペアやグループで話し合えなんて場面になったときには逃げ出したくなってしまう。そんな次々とやって来る困難をなんとか精神力を振り絞って耐え続け、僕はようやく昼休みを迎えることができた。

「ふーっ……」

 机にぐったりと覆い被さって、大きく溜め息を吐く。教室内には十数人の生徒がいるけれど、誰も僕を気に留めてはいない。昨日は不登校生が初めてクラスにやって来たことで若干注目を浴びていたけれど、二日目となるとこんなものだった。僕はそのことに心の中で感謝しながら、午後からの授業を乗り切るエネルギーを確保するべくぼんやりと席に座り続けていた。そしてそんな僕の方に、ゆっくりと近づいてくる影があった。はじめは後ろのドアから廊下に出て行くのだろうと思って気にしていなかったのだけれど、その影、三人の男子生徒は僕の席の前でぴたりと足を止めた。

「おーっす、上北(かみきた)ー」

「……!」

 僕の名字が呼ばれたことで、思わず背筋がぴんと伸びた。どうやらこの三人組は、僕に用事があるみたいだ。一体、僕なんかに何の用があるというんだ。まさか、いじめられる? 僕はひきつった笑みを浮かべながら、僕の席を囲むように立つクラスメイトの男子三人を観察した。三人とも僕と出身小学校も違うし、一年の時も違うクラスだった生徒だ。だけど、なんとなくその顔は見たことがあった。揃って坊主頭で、たしか野球部に所属していたはずだ。三人のうち二人はガタイも大きく、いかにも体育会系といった感じで僕は恐怖を感じてしまう。言い方は悪いかもしれないけれど、まるでゴリラだ。一方もう一人の男子はかなり小柄で、ブレザーの袖から伸びる手は半分ほどが隠れてしまっている。人懐っこそうなくりくりとした大きな目をした童顔で、さながら子猿といったところだ。三人ともクラスの中心にいるような活発そうな雰囲気を纏っていて、僕はかなり苦手意識を抱いてしまう。

「あのさー、三組に来た転校生いるじゃん? あの子さー、上北と双子ってマジ?」

「マ、マジです……」

 初めに僕に声を掛けてきたゴリラ1が再び口を開き、僕はこいつらの意図を理解した。この野球部三人組は僕に用事があるというよりも、千里の話を聞きたがっているのだ。

「ほら、やっぱりそうだろ! 名字も一緒だし、顔だって似てるしさー!」

「へェ……。あ、でも双子なら、なんで今までは学校別だったんだ? うちの地域私立とかないのに」

「バカ! お前そりゃあ、色々事情があるんだろ! そこ突っ込むな!」

「ん……そか、サーセンー」

 子猿とゴリラ2も、わいわいとそんなやり取りをしている。僕は苦笑いを浮かべたまま、それをただ見ていることしかできない。

「あー、それでさー。その、千里ちゃんって、家でどんな格好してんの?」

「え? えっと、いや、普通にパーカーとか……」

 ゴリラ1が若干声を潜めて発した質問に、僕はいいのだろうかと迷いつつも正直に答えてしまう。

「寝るときは? フリフリのキャミソールとか着てたり?」

「い、いや、普通の部屋着みたいな……」

 そっかー……、と坊主三人組は揃って肩を落とす。その様子を見て僕は、男ってどうしようもないな、と思ってしまった。自分も男だけれど。

「えーっと、じゃあさ、その……千里ちゃんってさ、彼氏いんのかな」

「え」

 ゴリラ1がショックから立ち直り、再び質問を繰り出してきた。しかし僕は、この質問に即答できない。千里に、彼氏? いるのだろうか。そんなこと、僕にもわからない。そんな話、したこともないし。……ただまあ、いてもおかしくはないよなあ、とは思う。千里は美人だし、こうして今野球部の坊主たちが僕に質問攻めをしていることからもわかるように、かなりモテるのだろう。

「ちょっと、そういうのはよくわからないかな……」

「ん、そっか……。あー、家でそういう話とかしねぇの? もしかして、あんま仲良くなかったり?」

「い、いや、仲、悪くはないと思うけど……その、なんていうか、僕が一方的に面倒を見てもらってる感じっていうか……」

 後半の僕の発言に、ゴリラ1は怪訝な顔をした。僕も言わなくてもいいことを言ってしまったと後悔するけれど、今更口を押さえてももう遅い。幸いゴリラ1はそれ以上気にした様子はなく、自分の用件に戻ってくれた。

「まあ、なんだ……それでその、本題ってゆーか、その……もし彼氏いないんだったらさ、その、千里ちゃんのアドレスとか番号知りたいなってゆーか……。 あ、もし彼氏持ちだったら、そこに割って入ろうとかいう気は全然ねーから! ただもしフリーだったらさ、その、聞いてみてもらえねーかなと思って……」

 ゴリラ1は体の大きさに似合わないくらいもじもじとしていて、ちょっと気持ちが悪いくらいだった。だけどここで断れる勇気を僕は持ち合わせていないので、承諾するしかない。

「わ、わかった。聞いてみるよ」

「マジ? よっしゃ、サンキュー! あ、俺、長谷川(はせがわ)雄司(ゆうじ)。よろしく頼むな!」

 ゴリラ1こと長谷川君は、にかっと歯を剥いて笑いながら僕の肩をバシバシと叩く。やはり図体がデカい分力も強く、叩かれた肩がちょっと痛い。

「ハイハーイ、俺も! 丸山(まるやま)(こう)(へい)も知りたがってたって、伝えといてー!」

「あ、オレもオレも! 館林(たてばやし)(りょう)()もよろしく!」

 そう言ってゴリラ2こと丸山君と子猿こと舘林君も、僕の肩を次々と掴んでくる。なんだよこれ、なんの儀式だよ。辟易してしまう僕だったけれど当然それを表には出せず、顔には笑みを貼り付ける他ない。やっぱり、人と話すのって疲れる。三人組が席を離れると、僕はようやく一息吐くことができた。そしてさっきの、千里の彼氏がどうという話を思い出す。……あの三人には悪いけれど、千里がゴリラや子猿と付き合うという画はどうにも想像がしにくかった。僕としても桂君みたいなスマートなイケメンならまだしも、あんな汗と脂にまみれていて下心丸出しな奴らに千里は渡したくない。……いや別に、千里は僕の物でもなんでもないんだけれど、なんというか、弟として。そこで僕は、今更だけど思った。……千里、彼氏いるのかなあ。


「ヒロ!」

 放課後。千里が昨日と同じように僕のクラス、二年二組の教室にやって来た。千里は存在自体が華やかだから、教室内にいる生徒の視線も一斉にドア付近に集まる。昼休みに話した長谷川君達も、ちらりと横目で千里を見ているのがわかった。

「ふふふ、見て、これ」

 千里は自分が注目を浴びていることなど気付いてもいない様子で、僕に向かって一枚の紙を突き出した。見るとそれは、僕と千里が昨日書いた部活設立申請書だった。だけど昨日見たときとは違って、ところどころに朱色の判子が押してある。……ということは。

「え、認可、もう下りたの?」

「そうなんだよ! どうやら審査といっても、形式的な物だったみたいだね。というわけで、今日からさっそく活動ができるよ! えーっとそれで、部室は部室棟と呼ばれるところにあるみたいなんだけど、ヒロ、わかる?」

「あ、うん。一階の昇降口を過ぎた辺りの廊下から行けるよ」

 僕が所属していた文芸部は図書室が活動場所兼部室だったから、本来なら部室棟には縁がないはずだった。だけど一年生の時に、仲が良かった友達に連れられて剣道部やバドミントン部の部室に遊びに行ったことがあった。だから少しではあるけれど、部室棟には覚えがある。

「そっか。じゃあちょうどいいね、職員室も一階だし。先に鍵を借りないといけないから、職員室経由で部室に行こう」

「うん」

 僕は机の中の教科書類をバッグに詰め終えると、教室を出た。階段を降りて、一階の職員室で千里が部室の鍵を借りてくるのをしばし待つ。無事に『ライトトイガン部』と書かれたプレートの付けられた鍵を借りてきた千里と共に昇降口を通り過ぎると、L字型をした細い廊下が現れた。ここが部室棟へと繋がる廊下であり、狭いスペースにもかかわらず運動着や制服姿の生徒が頻繁に行き交っている。

「えっと……何階?」

 僕は、千里に向かって尋ねる。部室棟は本校舎と同じく、三階建てなのだ。

「三階の、302号室だって」

 千里が、手に持っていた用紙を見ながらそう答える。それを聞いて、僕は思わず苦笑する。

「あは、はずれだね」

「はずれ?」

「運動部の友達が前言ってたんだ。部室は下の階であるほどいい、って。練習が終わって疲れてるのに、階段を上るのは酷だからって」

「はは、なるほどね。まあでも、こればかりはしょうがないね。頑張って上るしかないさ」

 そんなことを話しながら、僕達は部室棟へと足を踏み入れた。途中で何人もの生徒とすれ違いながら階段を上り、三階へと到達する。一本の廊下にずらりと狭い間隔でドアが並ぶ光景は、いかにも部室という感じだった。そして手前から二番目のドアの上に、『302号室』と書かれたプレートが掛けられていた。

「ここだね」

 千里はドアノブに鍵を差し込み、ぐるりと右に回した。ガチャリ、という金属音がしてドアが開錠される。

「おお……」

「うん、思ったより悪くないね」

 千里はぱちり、とドア脇にあった電気のスイッチを押した。照明により辺りが若干明るくなって、部屋の様子がよく見えるようになる。広さは教室の四分の一といったところで、昨日僕たちが無断使用した資料室Bよりも小さい。部屋の中にあるのは茶色の長机が一つと、パイプ椅子が五つ程、空っぽの戸棚が壁際に一つ。片側にしかない窓からは、練習を始めようとグラウンドに集まってきている野球部のユニフォーム姿がちらほらと見えた。

「しかもそこそこ綺麗じゃないか。これならいきなりがっつり掃除とはいかなくて大丈夫そうだね」

「本当だ。誰か、定期的に掃除してくれていたのかもね」

 僕は長机の上にスクールバッグを下ろしながら、辺りの床に目をやる。ところどころに埃は散見されたけれど、箒でさっと掃いてしまえば済む程度だ。僕らはさっそく窓を開けて、廊下にあったロッカーから箒とちりとりを持ってきて簡単に掃除を済ませた。籠もっていた空気も入れ替えることができて、なんとなく部室に活力がみなぎった感じがした。

「さてと、いよいよ今日から、ライトトイガン部の活動が始まるわけだね、副部長君」

「そ、そうですね。部長さん……」

 千里と僕は並んでパイプ椅子に腰掛け、そんな妙な会話を交わす。部室棟とはいってもほとんどの部活は着替えや荷物置き場として使っているようで、実際に部室で活動をしている部活は少ないようだった。だから辺りは静かで、聞こえてくる音といえばグラウンドからの野球部とサッカー部の声くらいだった。

「昨日の対戦でゲームの感じはわかっただろう? そこでこれからは、どうしたらゲームに勝てるか、そのために必要なことを覚えてもらうよ。とりあえず、これを見たまえ」

「?」

 そう言って千里は、バッグの中から一枚の紙を取り出した。受け取って見てみると、その紙には何やら表のような物が書かれていて、○や×といった記号がその表のマス目の中にたくさん記されていた。

「それが、属性ごとの相性表だよ。弾倉にはそれぞれ属性というものも設定されていて、相性がいい時と悪い時ではダメージ量が変わるんだ。ほら、炎は草に強いけれど、水には弱い、といった具合で」

「なんか、テレビゲームみたいだね……」

 僕は、率直にそんな感想を述べる。表に書かれていた属性とやらは、炎、水、草、雷、地、風、氷の七種類で、その文字を見ただけで僕の頭にはRPGのゲーム音楽が流れ出してしまう。

「はは、そうだね。まあでも、これは今はいいや」

「え?」

 まじまじと表を見つめていた僕の手から、突如紙が消えた。千里は僕の手から紙を奪い取ると、それを長机の上にぽいっと投げた。

「当分ヒロにはレアを使わせるからね。レアはどの属性に対しても強いから、相性を気にする必要はないよ。それよりもヒロが覚えるべきは、こっちだ」

 じゃあなんでその表を見せたの……と言いたいところだったけれど、僕の興味は千里がバッグから取り出したものへと吸い寄せられた。千里は百円ショップで売っているような取っ手付きの透明なプラスチックのケースを、どさりと長机の上に置いた。ケースの中には、色とりどりの薄くて四角い箱のようなものがたくさん入っている。

「え、これ全部、千里の弾倉?」

 僕は驚いて、ケースに顔を近づけて中に入っている弾倉を見つめる。色は紫や黄色、緑、ゴールドなどさまざまで、数は少なくとも十個以上はあるように見えた。

「そうだよ。自分で買ったり、友達にもらったり、あとは大会の賞品なんかで集めた物だね。数は少ないけれど、一応基本的な物は揃えてあるはずだよ」

「へえ……」

 千里は数が少ないと言ったけれど、僕には十分多いだろうと思えた。だけど本当にこれでも少ないと言うのなら、一体弾倉は全部で何種類あるのだろうか。なんとなく聞くのが怖い気がして、僕はその質問を飲み込んだ。

「ところでヒロ、銃は持って来たかい?」

「あ、うん」

 僕はバッグのチャックを開けて、シルバーの銃を取り出した。そういえばまるで自分の物のように持ち続けているけれど、実際には千里の銃を借りっぱなしにしているんだよなあ。そこらへん、千里はどう思っているんだろう。今更ながら、そんな心配がよぎった。

「ヒロにはまず、弾倉による威力の違い、射程の違い、装弾数の違いを覚えてもらうよ。これを知らないことには、戦略の立てようがないからね」

 千里はそう言うと、自分のバッグからメタリックレッドの銃を取り出した。そしてピロリ、と電源を入れると、僕の方にも電源を入れるように目で促した。僕が電源スイッチをオンにすると、いきなりドン! と銃声がして僕の手元が細かく震えた。

「な、な!」

 何度か経験したはずなのに、やはりいきなりだとこの振動には驚いてしまう。そんな僕の様子は気にも留めず、千里は淡々と言った。

「今の一発で、体力はどのくらい削られた?」

「え? あー、えっと。す、少し……。あ、これ、もしかして昨日と同じ弾倉じゃないかな……」

 僕は体力ゲージを確認して、ぽろっとそんな感想を漏らした。なんとなく、体力ゲージの減り方が昨日サバゲーをしたときと似ている気がしたのだ。

「おお、その通りだよ。よくわかったね」

 千里は、銃を持ったまま小さく拍手をした。

「ヒロにはそうやって、弾倉ごとの性能の違いを覚えてもらいたいんだ。弾倉っていうのはレアを除いて、すべてに長所と短所が備わっている。攻撃力が強いものは発射距離が短かったり、連射能力に優れているものは攻撃力がいまいちだったり、そんな感じでバランスをとっているんだ。そしてそれをふまえて考えると、たった一度の攻撃だけでも相手の使っている銃をなんとなく予想することができる。たとえば今の一発は、攻撃力としては低い。つまり連射能力に優れたタイプか、発射距離に優れたタイプだと予想ができる。相手が中~長距離の位置から撃ってくると考えて、作戦を立てればいいわけだ」

「なるほど……」

 やっぱりサバゲーは、体力だけでなく頭を使うことも多そうだ。僕は千里の説明をしっかりと聞いて、頭の中にインプットしていく。

「他にも自分の銃の弾倉の攻撃力を知ることで、相手に与えたダメージ量をある程度予想することもできるね。幸い銃は二つあるから、色んな弾倉を差し替えて撃ってみて体力ゲージの減りを確認してみるといいよ」

 千里はそう言うと、メタリックレッドの銃と弾倉がたくさん入ったプラスチックケースを僕に差し出してくれた。僕は試しに自分の銃に入っていたシルバーの弾倉を取り出して、ケースの中から緑色の弾倉を取り出して差し込んでみた。メタリックレッドの銃の赤外線受光部に向かって至近距離でトリガーを引くと、ドドドドド……と一気に銃声がしたので僕は驚いてしまう。

「こ、これは……」

「連射能力に優れたタイプだね。一回トリガーを引いただけでも何発も出るよ。ただ、攻撃力はそんなでもないね」

 確認してみると体力ゲージは黄色になっていて、削れていたのは半分くらいだった。僕が昨日使っていたレアの弾倉は二発で相手の体力ゲージを真っ赤にしたので、それと比べれば攻撃力はかなり低い。ただ、千里が使っていた狙撃タイプの弾倉とはどっこいどっこいの威力だと感じた。

「攻撃力と連射能力、あとはおまけで装弾数もかな? はそうやって撃ちまくって比較するとして。発射距離に関しては、これを使って感覚を掴んでもらうよ」

「?」

 千里はたくさん弾倉が入ったケースの中から、二、三個何かを取り出した。僕はそのときにようやく、ケースの中に弾倉とは別の何かも一緒に入っていたことに気が付いた。千里は手元でカチャリと何かを組み立てるような仕草をすると、出来上がったものを長机の上に置いた。それはスタンドの形になった、自転車や自動車の反射板のようなもの。銃の赤外線受光部と同じ色をしていて、大きさは僕の手のひらと同じぐらいだった。

「これを的にして、どのくらいの距離まで弾が届くのかを感覚で覚えていくんだ。三つあるから、有効活用してくれ」

 千里はそう言って、残り二つの的を僕に手渡してくれる。僕はそれを受け取りながらも、頭の中に浮かんだ疑問をぶつけてみる。

「あれ、でも、銃が二つあるんだから、わざわざ的を使わなくてもいいんじゃないかな」

 僕は長机の上に置いてある、シルバーとメタリックレッドの銃を見つめる。現に今までは二つの銃で撃ち合って攻撃力を確認していたわけだし、的を使わなくても問題ない気がする。

「さっき二つの銃を使っていたのは、体力ゲージの減りを確認したかったからだ。発射距離の感覚を掴むだけなら、銃の赤外線受光部を的にするのはむしろナンセンスなんだ。というのも、この銃は電源を入れると自動的に時間無制限のバトルモードになっている。つまり一方の銃の体力ゲージがなくなると、そこでゲーム終了。再び新しいゲームを始めるには、いちいち銃を操作しなくてはならないんだ。トレーニングとして何百発も撃つ必要があるのに、そんなことをしていたら面倒くさいだろう? というわけで、こういう場合には的を使うのがベストなんだ」

「あー……、そうなんだ」

 やっぱり、何事にも理由というものはあるようだ。トレーニングの目的に合わせて、銃と的を使い分ける必要があるみたいだ。

「ちなみにバトルのときには被弾すると銃が振動したと思うけれど、的を撃った場合は逆で、弾が的に当たると銃が振動するんだ。的は人間じゃないから、ヒットコールを言えないからね。的を撃った直後に銃が振動したら、その弾は当たった、つまりその的の位置している距離は射程圏内と判断ができる」

「なるほど、それはわかりやすいね」

 僕は感心しながら、シルバーの銃を握ってみる。見た目は玩具感が強いけれど、機能はそこそこちゃんとしているみたいだ。

「ただ、的にはちょっと欠点もあってね。少しくらいなら大丈夫なんだけれど、強い風が吹くと倒れてしまうことがあるから屋外向きじゃないんだ。というわけで校内で、できるだけ長い直線の廊下なんかでやりたいんだけど……どこかいい場所はあるかい?」

「えーっと……」

 千里に問われ、僕は頭の中に校内の廊下を思い浮かべた。長い廊下……三階はほとんど行ったことがないから一階か二階で考えるとして、うーん、職員室前の廊下は結構長いと思うけれど、あそこは結構人通りがあるしなあ。通行人にせっかく設置した的が倒されてしまう、なんてことが起きてしまいそうだ。人があまりいなくて、長い廊下となると……。

「二階の理科室前とかいいんじゃないかな。放課後なら、人もほとんど通らないだろうし」

 僕がそう提案すると、千里はにこりと微笑んで立ち上がった。

「よし、じゃあそこにしよう。荷物を持って、さっそく移動しようか」

「うん」

 僕も立ち上がり、銃やらプラスチックケースやらを両手に抱える。千里は両手がふさがっている僕のために、部室のドアを開けて押さえてくれていた。

「まあまた何か質問があったら、その都度聞いてくれていいから」

「うん、ありがと……ん?」

 部室のドアをくぐりながらそう答えた僕の頭の隅に、何かがひっかかった。質問。あれ、何か、千里に聞くことがあったような……?

「あ、あーっ!」

「ん? どうした?」

 部室の電気のスイッチを切りドアをぱたんと閉めた千里が、僕の声に驚いてこっちを見る。その大きな瞳を見て、僕の顔は思わず赤くなってしまいそうだった。な、なんで基本的には僕と同じ顔なのに、性別が違うだけでこんなにも魅力的になるんだろう。

「あー、えーっと……」

 僕は千里の顔を見ないようにしながら、口をもごもごと動かす。昼休みに野球部トリオから頼まれたことを、聞かないと。しかし内容が内容なだけに、めちゃくちゃ聞きづらい。僕はしばし部室前の廊下で唸り続けていたけれど、別に僕の意思で聞くわけじゃない、と腹を括ってその質問を繰り出した。

「あの、千里って、彼氏いるのかなー……って」

「へ?」

 千里はきょとん、として目を瞬かせた。何の脈略もなく突然そんなことを聞かれ、困惑しているようだった。僕は慌てて、言葉を付け足した。

「いや、えっと、僕のクラスの、長谷川君と、丸山君と、館林君っていう野球部の子達が、知りたがってて。聞いといてくれ、って言われたから……」

「ふうん?」

 なんだか僕が言い訳をしているみたいで、ものすごく居心地が悪かった。ていうか、なんで僕が聞かなきゃいけなかったんだろう。自分で聞けよゴリラ共。そんな悪態を心の中で吐きながらも、僕は千里の言葉を待った。なんというか、その。知りたいという気持ちが、僕にもまったくないわけじゃなかったからだ。

「いないよ」

「え、あ、そうなんだ……」

「前の学校は女子校だったからね。そもそも、男子との接点がなかったんだよ」

 ぼそりと呟かれた千里の言葉に、僕はほっと胸を撫で下ろした。……あれ、なんで僕は安心しているんだろう。別に千里に彼氏がいたところで、僕には何の関係もないはずなのに。

「あ、それで、その野球部トリオが、彼氏がいないんだったら千里のアドレスと番号が知りたいって言ってたんだけど……」

「うん?」

 千里の表情に、少し不機嫌の色が浮かんだ気がした。

「だったらヒロのを教えてあげればいいじゃないか。ヒロに連絡がつけば、自動的にあたしとも連絡がつくだろう?」

「い、いや……あっちはたぶん、そういうのは望んでないかと……」

 僕は顔を引きつらせながら、そう答える。あの三人に僕のアドレスを差し出したら、一体どんな顔をするか。嫌でも想像がつく。そしてそんな僕の様子を見て、千里はしばし考え込む仕草を見せた。しん、と静まり返った部室棟の廊下には、僕と千里の息遣いだけが響く。

「む……じゃあ、わかった。顔も知らない人に個人情報を教えるのは気が引けるから、知りたいなら直接聞きにおいでと伝えてくれ。それならいいだろう?」

 それは理屈としてはごもっともな内容だったので、僕はこくりと頷く。

「う、うん。じゃあ、そう伝えときます……」

 こうして、なんとか僕は野球部トリオに頼まれたミッションを達成することができた。……いや、まだ報告義務があるから完全には終わっていないのか。あのゴリラたちとまた話さないといけないと考えると、今からすでに気が重かった。

「それより」

 千里はようやくこのくだらない話の決着がついたとばかりにすたすたと僕に近づいてくると、ぐいっと左腕を引っ張った。

「今は部活の時間だよ。ほら早く行こう、ヒロ」

「あ、う、うん」

 千里に手を引かれるまま、僕は廊下を歩き出す。そうだ。今は余計なことを考えないで、部活に集中しないと。カシャカシャとケースの中の弾倉同士がこすれる音を聞きながら、僕達は本校舎二階の理科室前の廊下を目指すのだった。



 僕の学校には『ゆとりの日』と呼ばれるものが設定されていて、それは月曜日と木曜日にあたる。そしてこの『ゆとりの日』には、部活動が一斉禁止されている。週に二日は部活をせずに、勉学に励みましょう、ということらしい。授業が終わったらすぐに下校できるから喜ぶ人が多いのだけれど、今の僕にとってはあまり嬉しいものではなかった。だってなぜ僕が辛く苦しいだけの学校に来ているかというと、その理由はただ一つ、部活をするために他ならない。その部活がないとなると、もはや僕には学校に来る意味がないのだ。だけどまさか『部活がない日は学校に来ません』なんてことができるわけはなく、僕はしぶしぶ木曜日も学校に通った。そして金曜日の放課後、僕は一日ぶりに部室を訪れた。

「お、ヒロ、来たね」

 ガチャリとドアを開けると、中にはすでに千里の姿があった。窓際に佇んで、グラウンドの様子を眺めていたようだった。

「うん」

 僕はそう返事をして、スクールバッグと運動着の入った袋を床に下ろす。その仕草を見て、千里が「あ」と声を上げた。

「ヒロも今日体育あったんだね」

 千里の目線は、床に置かれた僕の黒い手提げ袋に向いていた。袋の口からは、中に入っている青を基調とした運動着がちらりと覗いている。

「あー、うん」

 僕は今日の体育の授業を思い出して、思わず苦笑いをする。今日も当然のごとくペアを作る時点で僕は余り、近くにいた子になんとか入れてもらった。その後の試合でも僕はいいとこなしで、みんなの足を引っ張るばかり。僕が学校生活で何が嫌かと問われれば、間違いなくこの体育の授業だった。

「よーし、運動着があるなら、今日は基礎体力作りといこうか!」

 千里はそう言って、どさりと長机の上に白い手提げ袋を置いた。きっと、中には運動着が入っているのだろう。千里のクラスも、今日は体育の授業があったみたいだ。

「えっと、じゃあ今日は、銃は使わないの?」

「うーん、そうだね。体力強化だけじゃつまらないから、最後に一回ゲームしようか」

 千里はそう言って、にこりと微笑む。僕も、つられて頬を緩ませた。初めてのゲームでは敗北してしまったけれど、あれから少しは僕も勝手がわかってきたはずだ。次は、勝てるかもしれない。僕の中で、闘志がメラメラと燃えていく。

「でもね、ヒロ。たしかにゲームは楽しいけれど、体力作りもとても重要なんだよ。うちはれっきとした体育会系だからね。腹筋、背筋、腕立て伏せ、ジョギングに階段ダッシュに踏み台昇降、前の学校では色んなメニューをやっていたよ」

「が、がんばります……」

 運動が苦手な僕にとっては、聞いただけで倒れてしまいそうになる単語ばかりだった。だけどサバゲー上達のためには、もちろん体力があったほうがいいに決まっている。頑張らないと、と僕は改めて気合いを入れる。

「せっかく天気もいいことだし、学校の周りでも走ろうか」

 千里は、ちら、と後方の窓の外に目を向ける。グラウンドの上には青空が広がっていて、春の匂いのする暖かな風が時折部室に吹き込んできていた。

「うん。あ、じゃあ、着替え……僕廊下でするから」

 まさか千里を廊下に出すわけにもいかないので、僕は運動着の入った手提げ袋を抱えて部室を出ようとした。しかしそんな僕に、千里はきょとん、とした顔であっさりと言った。

「え、いいよわざわざ。家族だし」

「え? い、いや、でも……」

 千里の言葉はつまり、ここで一緒に着替えよう、ということだろうか。いや、たしかに家族といえばそうなんだけれど、いくらなんでもそれはちょっとまずいのでは。そんな風に手提げ袋を抱えたまま僕がまごまごしていると、千里はおもむろにパチン、と胸元に着けている赤いリボンを外しはじめた。

「!」

 僕は慌てて体を反転させて、千里に背中を向ける。その後も衣擦れの音が聞こえてきて、僕はそのまま動けなくなってしまう。一刻も早く部屋を出るべきだとわかっているのに、体が固まってしまって動かない。なんていうか、タイミングを逃してしまった感じだ。

「……あのさー、なんで今更そんなに恥ずかしがるかなー。ヒロいつも、あたしの洗濯物の下着とか普通に干してるじゃん」

 そんな僕の様子に、呆れたような千里の声が背後から飛ぶ。

「い、いやそれは、家事の一環だし……」

 僕は振り向かずに、もごもごとそう答える。たしかに僕は洗濯の過程で千里の下着を見たり、はたまた触れたりしてしまっているのだけれど、それはあくまで家事としてやっていることだ。それに着ていない状態と着用状態では、また話が違う。だけど千里は僕と一緒の部屋で着替えることを、まったく気にしていないみたいだった。

「……」

 僕はふーっと長く息を吐いて、覚悟を決めた。手提げ袋を床に下ろして、中から運動着を取り出す。ジャケットを脱いで、ネクタイも外した。僕達は姉弟なんだから、変に意識しすぎる方がかえって気持ち悪がられてしまうだろう、と結論を出した末の行動だった。しかしやっぱり、すぐ後ろで千里が着替えていると思うとどうにも落ち着かない。ワイシャツのボタンを外す手は何度も空振り、ただ運動着に着替えるだけなのにやけに時間がかかってしまった。……これからは、やっぱり僕が廊下に出よう。やっとの思いで着替えを終えた僕は、長い髪の毛を頭の後ろでひとつにまとめている千里を横目で見ながら、密かにそう決意するのだった。


「はぁ……はぁ……っ……、ご、ごめ……ちょっと歩く……」

「ん、オッケー」

 僕はついに、足を動かす速度を緩めて歩き出してしまった。それに合わせて千里もスピードを落とすけれど、僕とは違って千里の息はほとんど乱れていない。学校の周りを一周して再び校門のところに戻ってきたというのに、千里はまだまだ余裕綽々といった様子だった。一方の僕は汗だくで、ぜーはーと肩を大きく動かしながら荒い呼吸を繰り返している。なんとか一周は走り続けたけれど、ここらへんでちょっと休憩しないと体がもたなかった。

「ごめん……僕、すごい遅くて……。千里、自分のペースで走っていいよ」

 僕に合わせて隣を歩いてくれている千里に、そう言葉を掛ける。ずっと引きこもっていた僕の走る速度は、早歩きと大差ないくらいだっただろう。僕に併走してくれていた千里にとって、この一周は物足りないものだったに違いない。

「いや、いいよ。なんていうか、自分のペース以外で走るっていうのも、それはそれでいいトレーニングになるから」

 しかし千里はそう言って、僕から離れようとしない。僕はそれが嬉しいやら申し訳ないやら、色んな感情が混じったままアスファルトの道路を歩き続けた。学校の周りは車があまり通らないため、二人で並んで歩いていても特に迷惑になることはなさそうだった。時折さーっと吹く風が、汗をかいた体を冷やしてくれる。ふと空を見上げると、絵の具で描いたような濃い水色の空に、白い雲が行列を作るように浮かんでいた。ずっと家の中にいた僕にとっては、青空の下なんて一番不釣り合いな場所に思えた。でも今、僕はここにいる。……千里が、僕を連れ出してくれたから。

「……よし。ちょっとまた走る」

「ん、大丈夫? 無理しなくてもいいんだよ」

「ううん、いける」

 僕を気遣う千里にそう言葉を返し、両足にぐっと力を込める。束の間クールダウンされていた体が再び熱くなり、呼吸は一気に荒くなる。周りの景色が速い速度で流れ出し、隣を走る千里のこともまともに見られない。体中が苦しさでいっぱいなはずなのに、なぜだか僕は『楽しい』と感じていた。足を踏み出して地面を蹴るたびに少しずつ自分が強くなっていくような、そんな不思議な感覚がする。もちろんそれは錯覚なんだろうけれど、僕はその錯覚に支えられながら走ったり歩いたりを繰り返して、最終的に学校の周りを四周することができた。

「ヒロ、お疲れ! いやー、頑張ったね。 はい、冷たい麦茶!」

「あ、ありがと……」

 校門にもたれかかってひーひー言っていた僕に、千里が白い紙コップを手渡してくれた。口を付けて一気に液体を流し込むと、まさに生き返るような心地だった。

「どうする? おかわりいる?」

 そう僕に尋ねる千里からは、疲労の色など欠片も感じられなかった。千里にとって今の運動は、ジョギングというよりもウォーキングという感覚に近かったのかもしれない。

「うん、もらおうかな……って、あれ。そういえばこの麦茶、どうしたの」

 僕は頷きかけるも、今更ながらそんな疑問が頭に浮かぶ。僕の学校の水道はごく普通のものなので、麦茶が出るなんてことはありえない。それとも、僕が学校に来ていない間にそういう特殊な水道ができたのだろうか。

「ああ、ちょうどサッカー部が休憩してたから、分けてもらえないか頼んでみたんだ。ヒロもおかわりがてら、お礼を言っておくといいよ」

「えっ……」

 僕の目はぎん、とグラウンドの片隅に集まるゼッケン姿のサッカー部員達に寄せられる。たしかにその輪の中心には、小さなテーブルの上に載った麦茶ポッドがあった。分けてもらったのだから、当然お礼を言わなくてはいけない。その理屈はわかる。しかし、サッカー部なんてイケてる奴らの代名詞みたいな部活だ。その集団に近づくなんて、僕にとっては罰ゲーム並に過酷なことだった。

「あ、あのさ、千里……」

 一人ではとてもできそうになかったので、千里に一緒に行ってもらおうと僕は声を掛ける……が、あれ、いない! いつの間にか千里の姿はなく、校門付近に立っているのは僕一人だけだった。麦茶のおかわりに行ったのかとサッカー部のほうを見てみるけれど、どこを見ても男ばかりで千里の姿は一向に見つけられない。……どうしよう、と僕は一人考え込む。どこかに行ってしまった千里を待つという手段もあるけれど、その間にサッカー部の休憩が終わってしまうかもしれない。練習が始まってしまったら、ただでさえ近寄り難いのにますます声を掛けづらくなってしまうだろう。この際おかわりはもういいとしても、お礼だけはきちんと伝えないと。

「あ、そうだ」

 と、ここで僕は名案を思い付く。何も、同級生や先輩に声を掛ける必要はない。一年生らしき子を見つけて、その子に一言お礼を言えばいいのだ。一応僕の方が先輩だから、それだったらそんなに委縮せずに話しかけることができる気がする。僕はよし、と気合いを入れると、空になった紙コップを手にサッカー部の集団へと近づいて行った。ゼッケン姿の部員たちの中から一年生らしき子に目星を付け、声を掛けるべく深く息を吸い込んだ。

「あれ。千里の弟くんじゃん」

「は、はいっ!」

 急に背後から声を掛けられて、僕はあやうく紙コップを放り投げそうになってしまった。慌てて振り向くと、そこにはすらりとした長身でゼッケンを着こなす爽やかなイケメン、桂君の姿があった。桂君は数日前、僕に運動着を貸してくれたことがあった。それで、僕のことを覚えてくれていたのだろう。

「えーっと、千尋君だっけ。どしたの? うちの部に何か用事?」

「あ……その、む、麦茶を分けていただいたので、そのお礼を言おうと思って……」

 予定とはちょっと違うけれど、これを機にと僕は桂君にお礼を伝えることにした。むしろ、声を掛けてもらえてラッキーだったかもしれない。

「あー、そうだったんだ? 全然構わないよ。てかせっかくだし、もう一杯飲んでいきなよ」

 桂君はそう言うと麦茶ポッドの載ったテーブルのほうへと歩いて行き、ちょいちょいと僕を手招きした。僕は遠慮しようとも思ったけれど、水滴のついたポッドを見た瞬間喉がごくりと鳴った。結局僕は吸い寄せられるように、桂君の隣へと進み出ていた。

「よっと」

「あ、ありがとうございます……」

 麦茶を注いでくれた桂君にお礼を言って、僕は紙コップに口をつける。体に染みわたるように冷たい麦茶は、やっぱり運動の後に持ってこいだった。

「そういえば千尋君って、何部なの? 運動着着てるってことは、運動部?」

「あ……えっと、前は文芸部だったんですけど、今はライトトイガン部っていう、新しく作った部活をやってます」

 学校の人気者である桂君に話しかけられ、僕は若干緊張しつつもそう答える。

「へえ、部活新設したんだ? それはすごいね。どんな部活なの?」

「えっと、主にサバゲーをする部活で……」

 僕が説明しようとすると、桂君は「ああ」と呟いて何かに思い当たったような顔をした。僕が言葉を止めて首を傾げると、桂君はにこりと爽やかに微笑んだ。

「いや、ちょっと前にさ、千里と千尋君が玩具の銃みたいなの持ってグラウンド走り回ってたことあったろ? あれ、なんだったのかなーってちょっと疑問に思ってたんだけど、部活だったんだね」

「あ……はい。そうなんです」

 僕は、数日前の放課後に初めてサバゲーを体験したときのことをを思い出す。あのとき、確かにグラウンドには部活をしている生徒がたくさんいた。サッカー部である桂君にも、その姿はばっちり目撃されていたみたいだ。

 桂君とそんな会話をしていると、ピーッ、と遠くからホイッスルの音が聞こえてきた。その音を合図にゼッケン姿のサッカー部員たちが次々と紙コップをテーブル脇の袋に捨てていき、グラウンドの中心付近へと駆け出して行った。

「あー、休憩終わっちまった。じゃあ俺、行くから。そっちも部活頑張って」

「あ……はい。僕ももう行きます。麦茶、ありがとうございました」

 僕は改めてお礼を告げ、ぺこりと頭を下げる。僕に向かって軽く手を上げてグラウンドへと駆けて行く桂君の後ろ姿を見送ってから、サッカー部員たちに倣って空になった紙コップをテーブル脇の袋の中へと捨てた。

「おまたせ、ヒロ」

 そうしてグラウンドを離れたところで、後ろから僕の肩がポン、と叩かれた。

「! 千里、どこ行ってたの?」

「ふふ、これを取りに部室に行ってきたんだ」

 そう言って微笑む千里の手には、シルバーとメタリックレッドの銃が握られていた。そこで僕は、あることを思い出す。そうだ。そういえば千里は、『最後に一回ゲームをしよう』と言っていたはずだ。

「まさか、忘れたわけじゃないだろうね? はい、ヒロ、一分後にスタートするから。じゃあ、散開!」

「え、あ、ちょっと!」

 千里は僕にシルバーの銃を押し付けると、たたーっと軽快な走りで僕から遠ざかって行った。千里との再会も束の間、僕は再び一人ぽつんと取り残される。たしかに、僕はリベンジに燃えていた。前回は負けてしまったけれど、今日こそは勝てるのではないかと。

「でも、今はちょっと……体力がゼロなんだけど……」

 もちろんこの体力というのは銃の体力ゲージではなく、僕自身のことである。運動不足の体で、四周も走ったのだ。水分補給をしてちょっと落ち着いたとはいえ、疲労感は未だに強く体に残っている。こんなヘロヘロの状態で、果たしてリベンジはできるのだろうか。しかしすでに千里の姿は視界になく、銃の液晶画面は淡々とゲームスタートまでのカウントを刻み続けている。僕は重い足に力を入れて、とりあえず遮蔽物の多い校舎側へと移動するのだった。


「ま、また負けた……」

「はは、でも今回もあたしの体力ゲージは真っ赤だからね。いい勝負だったよ」

 僕はぜーはーと肩で息をしながら、昇降口で上履きに履き変えて部室棟へと繋がる廊下を歩いていた。今回のゲームも基本的に、前回と似たような展開だった。レアの弾倉を使っている僕は距離を詰めようと、狙撃タイプの弾倉を使っている千里は距離をとろうとする。知識や経験は前回より上乗せされていたけれど、いかんせん今回は僕自身の体力がゲーム開始時からゼロだった。それが災いして結局、今回のゲームも僕の敗北で幕を閉じた。それでも千里の銃の体力ゲージを赤まで削ったのだから、レアの弾倉の威力はすごい。

「うっ……」

 そして学校の周囲を走ったあげく千里とのゲームでも走り回って疲労困憊の僕に、三階まで続く部室棟の階段が立ちはだかる。今になってようやく、三階の部室がはずれだと言った人の気持ちが実感を持って理解できた。だけど、文句を言っても仕方がない。僕は手すりに大いに助けられながら、震える足で階段を一段一段なんとか上っていく。

「つ、着いた……」

「はい、お疲れ」

 僕は階段を上りきると千里が開けてくれたドアから部室に滑り込み、床に倒れ込んだ。ビジュアル的にはあまりいいものではないかもしれないけれど、冷たい床が肌に触れて気持ちがいい。その姿勢のまま、僕は千里のほうをちらりと見る。千里は床から長机の上にスクールバッグを引っ張り上げて、中から背面が赤いスマートフォンを取り出しているところだった。

「ん」

 千里はスマートフォンの画面を見ると、小さくそう声を発した。そして何やら操作をしてから、僕のほうに顔を向けた。

「ヒロ。ヒロは今度の日曜、何か予定があるかい?」

「え? 予定? 特にないけど……」

 僕はむくりと体を起こしながら、そう答える。今の僕には休日に遊びに行くような友達もいないし、予定なんて入りようがない。

「ん、そうか。じゃあ日曜は、あたしに付き合ってもらおうかな」

 千里はそう言うと、再びスマートフォンを操作し始めた。その動きを見るに、何か文字を打ち込んでいるようだった。

「え……付き合う、って、何するの?」 

 僕は、単純に疑問に思ってそう尋ねる。どうせ暇だから千里の用事に付き合うのは別にいいのだけれど、まったく内容が掴めないというのはちょっと不安である。

「ん、そうだね」

 千里は操作が終わったのかスマートフォンをバッグの中に入れると、キュッと音を立ててチャックを閉めた。

「ライトトイガン部、初の対外試合といったところかな」

「!」

 千里はそう言って、にやりと不敵に微笑んだ。窓から差し込む夕日が僕達の体を照らし、反対側には濃い影を作っていた。

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