一章 第3話 星合流成は語り始める
俺は今まで自分から居場所を獲得してきたことは全くと言っていいほど無かった。居場所がない訳ではない。家は俺のホームグラウンドだ。しかしそれは生まれて、元から与えられていた居場所なので自分で獲得はしていない。
原因は多分、俺にある。誰かが俺を嫌おうとしたのではなく、俺が嫌われる要因を持っていた。ただそれだけだ。これはもうどうにもならない。まず自覚がなく、それにに加え、面倒くさがりな性格のせいで要因を探そうともしなかったのだから。
それでも俺は安心できる居場所を、誰の手も借りず欲しかった。
だからこのカフェ「三ツ星」は俺の新しい居場所になりえると思った。
しかし一筋縄ではいかない。どうして俺の人間関係には難ばかりなのだ。そう恨んだ。
だがこれは試練なのだ。これを受け入れることが出来たならば、俺は本当に居場所を獲得することになるのだろう。
流成さんは俺の決意を聞いて静かに語り始める。
「まず君に知って欲しいことは、俺の元嫁で、夜空の母親である星合月子。いや、この名前より扇町月子の方が有名か」
その名前には聞き覚えがあった。確かAIとかを開発している会社のCEOだった気がする。
「そんな有名な人が……」
「まあそうだね。今、思うと高嶺の花だった。気品もあるし、容姿は美しいし、全てが完璧だった。でも高嶺の花っていうのは高い場所にあって、俺たちを見下ろしている。その俺たちの劣等感が花を見せているんだ。だからあの時は本当に何も分かっていなかった」
そう言う流成さんには後悔の色が強く感じられる。若気の至りってやつだろう。
「それでなんとか口説き落として、結婚して子供も生まれた。順風満帆を絵に描いたようだった」
そこで一瞬、言葉を打ち切る。もしかしたらその時のことを思い出しているのかもしれない。
「でも月子は子供が出来てから変わってしまった。夜空の天才性に気付いてしまったんだ。あの子は昔から何でも出来る子だった。だからそれに希望を見いだしたんだろう」
希望というのは重い言葉だ。簡単に口に出来る相手を尊敬する言葉だが、それは相手に努力することを強要し、行動を縛り、最終的には思考を画一化させる。
神童が凡人に成り下がるのは、こういうところにあるのだろう。せっかくの生まれ持った自由な才能が、凡人の言葉で規定される。それはあまりにも可哀想に思う。
それは流成さんもよくわかっているようで、
「だがその希望は普通なら重石になる。だが夜空はその希望をかけられて尚、天才的な力を発揮する。それにいつしか月子は魅了され、自分の後継者として考えるようになった」
それを言った後、少し悲しそうな顔で、
「そして俺には、だんだん興味を失っていった。まあ当然だろう。口説いたのは俺で、元々そんなに興味はなかった。それに来て娘のこと。当然だよな……」
吹っ切れているようで、吹っ切れていない。まるで梅雨のような湿っぽさがそこにはあった。
「程なくして離婚を持ち掛けられた。俺は別に構わなかったよ。感情のない関係なんて薄気味悪いだけだからね」
流成さんは自嘲気味に笑う。あまりに痛々しい光景で見ていられない。
「離婚調停は案外スムーズに進んだ。だけどここで大きな問題が起こった。夜空の親権のことだ」
今のところ、話の中に大きな問題は発生していない。起きたことは気分のいいものではないが、まだありえそうな話だ。だからこれからが本題というところだろう。
「夜空はその時、小学二年生だったからね。普通ならしっかり養えるよう、経済力のある方に親権が与えられる。それに母親に親権が与えられるケースも多いらしい。だからまあ、当然月子に親権は移る。それは決定事項のように話が進んでいた。俺もそれでいいと思ってたよ。夜空が幸せになってくれるなら、悔いはないだろうしね。でもそれではいけないと思ったことがあったんだ」
そこですっと息を吸い、そして息を吐く。心を整えているようだ。
「ある晩のことだ。夜空が泣きながら、家へ来たんだよ」
「その頃、既に僕と月子は別居していてね。それで夜空は月子のもとにいたんだ。俺の家なんて教えてもいなかったのに……。きっと自分で必死に調べてきたんだろうなあ」
そう言う流成さんは昔のことを回想しているみたいだ。心なしか目は遠くを見ている。
「それで家に入れて、話を聞いた。そうしたら辛くなってこっちに来たと言ったんだ。体を見る限り傷とか痣はなかったから、虐待ではなかったんだろうが俺にしてみれば同じことだよ。殴るのも罵倒するのも」
夜空は常に美しく、そんな過去があるのは想像がつかない。だからこそ夜空の言う覚悟というのが並大抵なものではないと想像できる。
そして夜空を美しい感じる理由がわかる気がした。夜空は不安定なのだ。あれだけ周りには毅然としているが、本当はそんなことはない。まやかしだ。
しかし不安定だからこそ、魅せられる。その危うさに。いつ崩れるかわからない均衡に、目が離せない。
「人は情があるから厄介だ、なんていうのは有名な言葉だけど、人には情があるからこそ思考と行動にセーブがかかると思わないか?
ヒトのクローンが禁止されているのはこういう理由だろう。ヒトのクローンが出来ても困ることはほとんどない。なのに禁止されてる。しかもその理由は非人道的だからだ。全てを解明しようと思っている科学者が、情で実験をやめるのはちゃんちゃらおかしい。だけど彼らは一線が分かっている。
しかし月子には一線もついでに情も分からない。可哀想な人間なんだ。だから自分の娘でも平気で追い込むことが出来る」
一瞬憐れみの表情浮かべるが、すぐさま今まで以上に苦しそうな顔をして、
「僕は憤ったね。あいつが厳しい英才教育を施そうとしていた夜空はあいつの娘でもあるが、僕の娘でもあるんだ。娘が泣いて助けを乞うんだ。ほっとける訳がないだろう。だから僕は裁判で徹底抗戦した。養育費も慰謝料も何もいらかった。ただ僕は親権だけは譲ることはできなかった。
幸い親権は手に入れることができた。実は一番そういうので尊重されるのは、子供の意志だったりするんだ。だからそれを盾に裁判には勝った。しかし残ったのは多額の借金。腕のいい弁護士に頼み直した時、やっぱり実績があるだけあって依頼料も凄まじい額になった。しかも月子に養育費は全く要求しなかったから、そのお金も工面しなければならない。
そうして困っていた時に、僕の伯父夫婦から譲られたのがこの店だ。伯父夫婦は別の店をこの場所で経営していたんだがね、年も年だからということで土地を譲ってくれた。そして始めはうまく経営が立ち行かなかったが、周りのおかげでなんとか軌道に乗って今に至るんだ」
そして流成さんはふっと息を吐いて、いつも通りの穏やかな表情になった。それを見て俺はこの長く憂鬱な話が終わったことを悟った。
しかし流成さんはこれこそが本題というように言葉を継ぐ。
「でも月子は夜空のことを諦めていない。親権は奪われたけど、接近禁止命令が出たわけでもない。元々、月子は情はないからどんな手を使っても取り返してくるだろう」
「そんなことあり得るんですか?」
親権も奪われ、離婚も成立している。その月子さんという人が親ではないのは間違いないが、力づくでどうにか出来るほど関係性が親密なこともなさそうなので、つい言ってしまった。
再び流成さんは深刻そうな顔をして、
「あり得るよ。言っただろう。あいつには情がないと。夜空に嫌われいることにも気付いていないだろうよ」
そう言うと僅かに沈黙が降りる。多分色んな事を考えてしまったんだろう。流成さんも。俺も。
その沈黙に耐えかねたのか流成さんは「コーヒー淹れようか?」と言ってくる。その声音はとても優しいものだった。特に断る理由もないので黙って頷く。
コーヒーを淹れている途中、流成さんは独り言のようにぽつりと呟く。
「……いざとなったら夜空を守ってくれよ」
それは全く自信がない。だから俺も独り言のように答える
「いや、出来るっすかね……」
ちょうどコーヒーが淹れ終わる。心地いい匂いが店内に行き渡っていく。今までの緊迫した空気感が一気に緩んだような気がした。
そして、流成さんはその言葉をじっくり噛み締めるように言った。
「それなら守らなくていいよ。見守っていてくれ。夜空は俺が守るから」
その言葉はとても重かった。多分、決意なのだろうが、それはあの夜空が泣いて流成さんの元に来た日からずっと続いており、風化もしていないのだろう。
そして俺は夜空はファザコンになる理由がわかる気もした。最近では虐待などを行い、自分たちの子供でも不幸な目に遭わせることが多い。
そんな中でこれだ。娘は自分が守るとまで言った、この愛情。これに応えない息子、娘はいないだろう。
そして俺もそれに応えようと思った。俺は流成さんの息子ではないし、彼が必死になって守ろうとしたものを俺は同じように守れないだろうが、助けになりたいと思わせるには十分な言葉だった。
「分かりました」
すると流成さんはとても驚いたような顔をした。その表情に俺も驚く。
「えっ……。俺なんかミスりました?」
ついそう訊いてしまう。すると流成さんは驚いた表情に軽く笑みを浮かべて、
「いや、悪い。君を少し見くびっていた。というより私と夜空以外は既に見くびっていたから」
意味がわからずその意味を尋ねる。すると流成さんは、
「私は色んな人にこの話をしてきたんだが、誰もが聞いたあとは引いてしまったり、気を使ったりしてたから。理解者はいないと思っていたんだ。だから君がこんだけ自信たっぷりに『分かりました』なんて言うのはね……。正直言って驚いたよ」
確かにと思った。俺はこの話を聞いたあとはこんなことあり得るんだなあという思いと俺はもうこの店で、やっていけないかもという不安が渦巻いていた。多分、今までこの店に入った人は同じような思いをしたのだろう。そして不安が強くなった。
俺もそうなりかけていた。この話を免罪符に店を辞めることも考えた。
だが流成さんと今のやりとりをしている内にその考えはいつしか消滅していた。決していい話ではない。だが許容できない程ではない。そう考えてしまうのは自分にとっても不思議なことではあったが。
流成さんは何か言おうと口をモゴモゴと動かした。しかし、肝心な言葉が出てこないのだろう。その代わり全く関係のないことを話す。
「コーヒー冷めてしまうよ」
「それもそうっすね」
そうしてコーヒーに口をつけた時、ちょうど店の入り口にある鈴が鳴った。
入って来たのは他でもない。星合夜空だった。
白いYシャツの上に黒いカーディガン。下はジーパンという飾り気など微塵もない地味な格好ではあったが、いつもと違う一点、いつもは一つにまとめている銀色の髪をほどいている。ただそれだけで美しく見える。
そんな夜空に流成さんは声を掛ける。
「いらっしゃい」
ただ夜空は手だけ軽く上げて、挨拶代わりにした。
それに続いて俺も声を掛ける。
「よお。何、勉強の間の休憩?」
すると夜空は間髪入れず、
「あら、一応私は客なのよ。客にはいらっしゃいませって言うの忘れたの? もう一度研修やり直す?」
「いや、いいです……」
この1ヶ月間は研修期間ということで、接客や仕入れを教えてもらった。夜空に……。こいつ厳しいんだよなあ。ちょっと間違えただけで容赦ない言葉飛んでくるし……。
あの話を聞いた後だ。少し優しくしてやろうも思ったが、必要ないようだ。というかこいつが弱音吐くのマジで想像つかない。見守るって言われてもなあ。こいつのことジロジロ見ると、嫌味言われるし。
夜空はテーブル席に座り、注文をする。
「お父さん、いつもの」
「はいはい」
いつもってどこの居酒屋だよ……。そう思っていたら、あることを思い出す。俺はそれを口にしようとする。
「そういえばなんで高等学校卒業程度認定試験、受けてんの?」
そう言って俺は夜空の目の前の席に座る。すると珍しく夜空は動揺し、周りをキョロキョロと見回す。なんとなく理由を言ってくれそうだと根拠もなく思っていたが、
「なんであなたに教えないといけないの? あと目の前に座らないでくれる? あなたを見てると疲れるから」
「見てると疲れるってなんだよ……。いや、まあそういう試験って大人が受けるもんじゃないのかと思ったんだよ。あと勉強するのだって金がかかる。授業料はないにしても、教材費はかかるだろ?」
「まあそうね。お金も確かにかかってるわよ。高校と同じくらいかかってるわけではないけれど」
そうして夜空は話を中断して窓の外を見る。時間にすると1秒ほどだとは思うが、その間は長く感じられた。
「でも、私だってまだ16歳なのよ。人生を早くに諦めたくもないし、後悔だってしたくない。だからこうして勉強してる。ただそれだけ」
なんとも夜空らしい理由だと思った。境遇や現状に絶望もしない。絶対に言い訳をしない強さがそこにはあった。
そう考えると今から俺が言おうとしたことはちっぽけなことで何の足しにもならない。なのに俺は言わずにいられなかった。
「そのコーヒー奢るよ」
これは女性が男性に言われたら、かっこいいと思う言葉だろう。さすがの夜空もこれには……。ってええ!? なんか汚物を見るような目で俺を見てますけど!
「なんであなたに施しを受けないといけないのよ。私も稼いでるし、そんな生ぬるいくて矮小な優しさいらないわ」
ここまで言われるとカチンと来る。ここで引いたら男が廃る。
「なんでそんなきつい言い方で断んだよ。遠慮すんなよ。俺も稼いでるし、このくらい出してやっても問題ねぇだろ」
途中から優しさが脅迫のようになっていたが、まあいい。
「そのお金は家から出してるのよ。本当に私に優しくしたいなら無給で働きなさいよ」
「なんでお前は1か0なんだよ。コンピューターか」
そうして俺たちは何度か言葉、いや罵詈雑言を交わして結局俺が折れた。なんでこんなにこいつは強情なんだよ……。奢るだけだろうが……。
あまり気持ちのいい時間ではない。夜空と喋っていると、俺の人間としての価値が真っ向から否定されるから。
だがそこまでオブラートに包まないであれこれ言うやつは他にいなかった。ネチネチと言葉を言い連ねるよりもよっぽどいい。
それはとても新鮮だった。俺の人生で直接的に何かを言うやつはほとんどいなかったから。
俺があの話を聞いて尚、ここにいようとする理由。それはこんな他愛もないやりとりが好きなのだろう。
だから、この店に居続けるため俺は流成さんの依頼を遂行しようと思う。まだ十分には出来ないがそれでも、
この居場所を守るために――。
流成さんは自分の中では、かっこいいおじ様イメージで書いています。しかし、なんでフィクションでのおじさんキャラはかっこいいんですかね。不思議です。