二章 第8話 朝比奈尾道は自室に籠る
皆さんには自分のお気に入りの場所というのがあるだろうか? これは断言できる。確実にある。しかし肝心の場所となると大きくバラけるのが当たり前だ。
学校とか職場の所属する建物をお気に入りと答える者もいるし、トイレや庭といったどこにでもある、しかし特定の場所がお気に入りの人もいる。他にも山や海などの自然、神社仏閣の建造物。
こればかりは一つには絞れないし、そもそも絞る必要もない。まさに十人十色、個性の発揮のしどころと言っていい。
だからここで一般論を話すのはやめておく。どうせ答えなどバラバラに決まっているのだから。なので俺のお気に入りの場所を教えようと思う。
それはずばり自室だ。英語で言うとMy Room。ちなみに英語にした意味は特にない。
この世界の土地にはだいたい所有者がいるなかで、唯一個人固有の領土、それが自室。不可侵領域と言ってもいい。サンクチュアリならもっといい。
誰にも侵入されないこの絶対的な空間。それが俺は好きだ。この中なら結構何でもできる。漫画やアニメ、ゲームもし放題だし、何時間寝ていてもいい。部屋を自分流に飾ってパッションを上げるのもアリだ。
このことから自室は個人情報の塊、いや、個人情報そのものだ。だからこそ自分以外の人間がここに入るととんでもないことになる。一種の修羅場だ。
隠していた物は見つかり、大事にしていた物は捨てられ、勝手に掃除された挙げ句、使いたいものが見当たらなくなる。これはもうちょっとした災害レベル。
しかし俺はむしろ個人情報そのものだから安心するのかもしれない。自分と自分を構成するものだけで形作られた空間。こんなにもホームな場所はサッカー以外にないだろう。
ちなみに俺は家が好きなのではない。自室が好きなのだ。家だと母の「どうしてこんなところにいるんですか? (超他人感)」の言外の主張が半端じゃないからだ。
そんな心地よい空間で何をするか。基本的に遊ぶことが主だが今日、いやこの一週間はいつもとは全然違う生活を送っている。
ゲームや漫画を読んでも何も頭に入ってこず、気づけば無味な部屋の天井を眺めている。こんなことをしても何にもならないと思いながらも何もする気が起きない。
こんなことは異常だった。暇な時間は確かに多い。だがやることが無くなることなど一度もなかった。人間は目的が果てない生き物であるというのがよくわかる。
しかしこの一週間はもう何をしても力が入らない。どうしてくれるんだと思いながら二つの原因を恨む。
そうなのだ。原因ははっきりしている。
夜空とのすれ違いと春野の涙だ。それが俺の生活を完全に邪魔している。
人の感情ほどあやふやで不確かなものもないと思っている。そのため心の問題を解消するのは容易ではない。むしろ解消することなど稀で、基本的に時間の流れでどうにかなってしまう。
もしかしたら今回もそうなのかもしれない。時間の共に問題も流れ去り、やがてそんなことなんて無かったように日々の生活を取り戻せるのかもしれない。
けれどこれには誤解しがちな落とし穴がある。それは時間経過を待つ解決法は後にしこりを残すということだ。どこか心の中でああして欲しかっただの、こうしたほうが良かっただの思い、やがて離れていく。こんなことだってあるのだ。
だからといって積極的に問題解決に乗り出しても駄目だ。問題が一気に表面化し、意識していなかった部分まで浮き彫りになる可能性があるからだ。
考えているうちに思わず笑ってしまう。問題と制約ばかりで八方塞がりじゃないか。こんなんじゃ前に進めないのは当然のこと、後ろに引くことさえできない。
一度、考えてみる。こういう時はどちらがいい云々よりも自分がどうしたいかを考える方が簡単だ。
夜空は学校に行きたいのに行けない。しかし俺は行けるのに行かない。俺たちさそんなジレンマに苦しみ、関係性に亀裂がはしっている。それがすれ違いの原因となった。
春野は俺を学校に行かせたい。しかし俺は絶対に行きたくない。俺たちの譲れないことにプライドを持ちすぎるが故、どちらも引けなくなってしまった。それが春野が涙を流した原因だ。
その関係性のねじれをほどく方法は思い付く。だけどそれでいいのかと思う。
今まで天井を見ていた俺だったが、ここでがばっとベットから起き上がる。
俺は問題の本質を間違えていたことに気づく。これは俺と人の関わりが重要ではない。本当に重要なのは自己矛盾の解消だ。
自分はいつだったか夜空にもう一度やり直したいと言った。それは俺の本心だったはずなのだ。だとすれば。俺は学校に行きたく理由を他人のせいにして行かなかっただけなのでは? そんな考えが思い浮かぶ。
元はといえばこの問題は俺が学校に行かないことに起因している。なら話は簡単だ。俺が学校に行けばいいだけだ。
近くのスマホを取る。一瞬で腹が決まった。電話帳を開き、かけることはないと思っていた番号に電話をかける。数回のコールの後、電話に出た。
『はい、もしもし、カフェ三ツ星ですが』
「流成さんですか? 俺です。尾道です。」
『ああ、俺って言うから詐欺かと思っちゃったよ……』
流成さんらしい抜けた冗談だと思う。しかし生憎、今日の俺にはそれを返す余裕はなく、すぐに本題に入る。
「すいません、今日は言うことがあって電話かけました」
『言うこと……?』
流成さんは訝しげに訊く。俺は思わず電話を握る手の力が入り、ギシッと音を立てる。
「バイトやめさせてもらっていいですか」
『……』
流れる沈黙。顔など見えなくても流成さんが悩んでいることがよく分かる。
「急にでしかも電話で言うのは悪いと思ってます……」
沈黙に耐えられず自分からどんどん喋っていってしまう。
『本当に急だね。でも、そうか……残念だよ』
言葉の通り本当に残念そうに言う。俺はこうやって惜しまれることは多くない。惜しまれる前に辞めるのも多いし、惜しまれるほど何かすることもない。
こんな俺に流成さんは本気で惜しんでくれている。それが本当に申し訳思う。
『何かやりたいことでもできたのか?』
「まあ、そんなところです」
俺は濁して話しているが流成さんは俺が何をしたいかは既に分かっているだろう。その上で何も訊かないでいる。
『君が電話で辞める旨を伝える理由もわかった。つまりそういうことなんだろう? それなら俺は何も言うことがない。自分の人生だ。頑張りなさい』
「はい」
そう返事して電話を切ろうとする。耳を離した瞬間、
『本当の自分を見つけておいで』
流成さんの落ち着いた声が聞こえる。何か反応をしようともう一度、スマホを耳に当てた時には既に電話は切れていた。
ひどく後味が悪かった。思わず天井を見上げる。
流成さんが何か言い残したこともその後、電話が切れてしまったこともその原因だが、何より流成さんの最後の言葉が後味を悪くした。
本当の自分を見つけておいで。これにはまだ俺が迷っていることが見透かされたようだ。その上で応援してくれる。頭が下がる思いだ。
人が何か成し遂げるには犠牲を払わなければならない。俺はこの有名な言葉に全面的に同意している。
だからカフェ「三ツ星」という大切な居場所を犠牲にしたのだが、一番犠牲にしてはいけないものを犠牲にしている。そんな感覚に襲われた。
今は書きためしてるのですが、そうすると投稿する時、「あれ? 俺、これを投稿するのか。どんな話だったかな……?」ってなります。これで困るのは後書きで書いた内容が思い出せないことです……。




