終章 未来の話〈後編〉
「あなたのことが好きだから」
夜空からの告白に、はあ、とため息にもつかない何かを吐き出す。
今年に入って告白されるのは二回目だ。はあ、という言葉はモテるな、俺とかそういう思い上がりを表したのではない。こういうものは嬉しいは嬉しい。
けど今日に限っては、夜空が報われるような言葉を俺は持ち合わせていない。むしろその言葉はずっと俺を待ってくれた、ある人にかけられるものだ。
だから俺はため息ともつかないものを吐いた。この言葉は決心を鈍らせ、どうも悩ましいと思ってしまう。
でもここでどっちつかずの言葉を吐く方が不誠実だ。もう答えは決まっているのだ。期待させるのは酷だ。
ゆっくりとその感情を言葉にしようと口を開く。
「あの夜空……」
「返事は要らないわ」
俺の決意を遮るように早口で夜空は言う。
「だってあなたは春野さんを選ぶのでしょう?」
俺は黙りこむ。それが何よりの肯定だった。代わりに違う言葉が出る。
「……どうして知ってる」
「春野さんのあなたへの恋心は元々知っていたのよ。ほら覚えてない? 旅行に行って、温泉で春野さんがのぼせたの」
「あったな、そんなことも」
春野がのぼせたばかりに、俺の部屋への立ち入り禁止を突きつけられたことがあったな。あの時は本当にいじめかと思った。
「一緒にお風呂入ってる時に聞いたのよ。尾道くんのことが好きだって。それに近々告白しようとしてることも」
「そんなことが……」
俺の知らないことはいくらでも出てくるものだ。
言われてみれば確かにあの時の夜空はおかしかったように見えた。いつもの切れ味がないというか。
「だからもう告白してると思ったのよ。春野さん、結局は不安も迷いも乗り越えて行って」
そう言う目はどこか誇らしげで、どこか悲しげだ。おそらく夜空の中にあるのは単純な感情ではない。俺なんか推し量れるものじゃない。それでも。
「お前はそれでいいのか?」
ただ一言そう訊く。偉そうに言える口ではないが、夜空は自分の気持ちを諦めているように見える。それは本当に正しいのか、ふとそんなことを思ったのだ。
「それでいいわ。知ってると思うけど、春野さんは私の友達よ。その幸せを奪うなんて私にはできない」
口元は笑っている。けど目の端に涙が溜まっている。本心はその涙だけだった。それがどうもやりきれない。でもここで優しさは見せられない。春野への冒涜になってしまう。
「なんであなたが泣いてるのよ……」
「は?」
夜空に指摘され、思わず目を袖でゴシゴシと拭く。確かに頬を伝っていたのは涙だった。だがそれをいくら拭いても、頬を伝う感覚は消えてくれない。
くっそ。どうして。俺は春野が大切だ。だから俺は春野を選ぶ。
だけど夜空だって大切で、欠けてはいけなかったのだ。そんな当たり前のことをやっと思い知らされた。そして知らなかった俺は大馬鹿野郎だったのだ。
「私はもう十分助けてもらった。だからもう幸せ。次はあなたが幸せになりなさい」
夜空も涙を溜めているのに、とうとうそんな言葉をかけられてしまう。何か言い返さないといけないのに、鼻すすりに混じるうんうんという噛み締める声しか出なかった。
ふとそんな十年前のことを思い出していた。今にしてみればちょっとほろ苦い甘美な思い出だ。
「あなたもやっと幸せになるのね」
どうやら同じことを思い出していたらしい。ポツリと夜空が呟く。
確かにここまでは苦難の連続、失敗の連続だった。大変だったことを挙げればキリがないし、ずっと仄かな倦怠感を背負っていたように思える。
しかしやっと幸せになれそうだ。春野という大切な人を見つけ、夜空という理解者も得た。こんなに分かり合える人がいる俺は結果的には恵まれたいたのだろう。
そんな意味も込めて、力強く言う。
「まあな」
「春野さん愚痴ってたわよ。全然プロポーズしてくれないんだーって」
ポリポリと頬を掻く。ホントなんでも筒抜けなんだな。
「さすがに待たせすぎた。店も軌道に乗ってきたし、そろそろするよ」
ていうか今日しようとしている訳だが、秋穂が邪魔なので口にはしない。
「本当に春野さんを幸せにしなさいよ。泣かせたりしたら殴るから」
「ちなみに訊くが何で?」
「私の言葉で」
ブルッと震え上がる。こいつの言葉は下手なパンチよりも痛くて、治りにくい。もちろん精神的に。
だがそんなことは言われなくても分かっている。俺は十年前、激しく悩んだ末に春野を選んだのだから。
理由は忘れるはずもない。単純な話、俺は春野のようになりたかったのだ。
明るくて、社交性があって、最近はリーダーシップも取れるようになって、料理も上手いし、何より優しい。あ、あと可愛いしな。
本当にいい所を挙げたらキリがない。俺には勿体ない存在だと思う。そんなことを口にしたら、「私の方が尾道くんに惚れてるのに」と言って機嫌が悪くなるので決して言わないが。
俺がまだ十七歳の頃、そんな素敵な彼女に心から憧れを抱いて、そうなりたかったのだ。しかし今は違うと言える。
春野が持ってるモノは全部俺が持っていないモノで、もしかしたら努力しても手に入れられるモノではないのかもしれない。
つまりそこが春野が俺にとって唯一無二の存在である所以で、もしそんな彼女が自分の隣にいつまでもいてくれたら、俺はどんなに幸せか、そんなことを思ったのだ。
言葉にすると恥ずかしいが今、春野と結婚したいと思ったのはそれが第一の理由だ。
だから夜空の言うとおり、幸せにしないとな。彼女は幸せになるべき人間だから。
「結婚式は呼びなさいよ。遠慮は要らないから」
「分かってる。なんなら披露宴で友人代表のスピーチでもするか?」
夜空は自然にそんな一言を口にする。
おそらく俺が昔、告白を断ったことへの罪悪感を抱かないようにするための配慮だろう。
だが俺ももう子供じゃない。罪悪感なんてチンケなもので、夜空を仲間外れになんてしない。だって俺と夜空は――。
口を動かしながら作業をしていたが、その間にもコーヒーは出来上がる。
「はいよ、ブラック一杯」
「ありがと」
夜空はコーヒーカップを手に取り、早速口をつける。こくっと一度、喉が鳴る。
ふぅ、と夜空は余韻を味わっている。その吐息は嘆息であればいいなと思う。
「上手くなったわね。とても美味しいわ」
「そりゃどーも」
初めて夜空にここまで褒めてもらった気がする。
だがこの言葉は俺の中で不思議ではなかった。今日なら褒められる気がしたのだ。夜空も丸くなり、俺の実力も上がった今ではこうなるのは必然とも言えた。
「本当に美味しいわ。私が十七歳だった時くらいの味ね」
「……それって褒めてる?」
丸くなったはやっぱ撤回。俺を散々苦しめたあの舌鋒はまだ健在だ。
しかし夜空は意外とけろっとしている。
「あら、褒めてるのに。この私の足元におよんでいるなんて凄いわ」
「端から聞くと、傲慢な一言なんですが。それは」
実際、秋穂の目が険しくなる。そうだろうな。高校生くらいじゃこれだけ自信家なのは珍しいに違いない。
だが俺がその言葉を受け取ると、また違った意味に解釈できる。というか俺の考えが正解だろう。
つまり悪意など微塵もなく、単純に褒めているのだ。けど。
「褒めるならもっと直接的なのが良かったな……」
さすがにそれはツンデレが行き過ぎている。俺じゃなきゃ絶対に分からんだろ。
「あなただからこういう言い方をするのよ」
「それも色々語弊があるぞ。その言い方だと俺がマゾみたいだ」
「ほら、これも分かってるじゃない」
夜空はしってやったりという風に笑い、もう一度コーヒーカップに口をつける。ちゃんと飲むのだから、味は悪くなかったのだろう。
「ま、似てるからな。俺とお前は。そういうことも分かっちまうんだよ」
呆気らかんとして俺は言い放つ。
俺と夜空はおそらく、真正面から分かり合ってはいないのだろう。
だがお互い同じ結果を辿った。それにより意図しなくても、似てしまったことは十分ありえるし、そのおかげで言葉以上に分かり合えるのだ、俺たちは。
「そうね」
ただ一言、息を吐き出すように夜空は返答する。どうやら分かる部分はあるらしい。
夜空は海の景色を見ながら、ちびちびとコーヒーを飲む。その間は俺は何も言わない。この景色をただ楽しんでほしかったからだ。
やがてコーヒーカップの中が空になり、夜空は立ち上がる。
「もうそろそろ行くわ」
「早くね?」
夜空が店にいた時間はだいたい三十分ほど。社会人が作業したり、学生が勉強したりするカフェだと短めだ。
「悪いわね。これから本社に帰って仕事なのよ」
「ああ、そういうことね」
時間ができたのはどうやらほんの少しだったらしい。やはりバリバリのキャリアウーマンは忙しいみたいだ。それを引き留める理由は俺にはない。
会計を済ませた夜空が出ていく直前、こんなことを口にした。
「……この店、成功するといいわね」
俺は目を見開く。夜空とは何回も会ってきたが、こうしてエールを受けるのは凄く久しぶりな気がする。
「ま、成功するといいな」
その一言に夜空は微笑みを返し、店を辞する。本当に嵐みたいだった。
最後の夜空の一言。確かに成功するといいのは間違いない。けど俺は失敗したとしてもそれを不幸には思わないだろう。
なぜなら俺には夜空がいる。春野がいる。多くの理解者がいる。それだけで俺は十分だ。きっと新しい道を選んでも、尊重してくれるはずだ。
いつも俺は外れ者だったな。誰とも関わろうとせず、何も知らず、ただ一人で生きてきた。
それが悪いとは思わない。現に今も一人で行動することは多々あるし、それを楽と思う人もいるだろう。だから一人でいることを否定しない。
けどもしも孤独からの寂しさや渇きを感じるならば、やはり近くに誰かいないといけないのだ。本当に助けが欲しい時に周りがいないのは虚しいから。
俗に人はそんな感情から手に入れたモノを"居場所"という。
俺に足りていなかったのは自分ではない、そんな存在だったのかもしれない。
そして今はその"居場所"がある。だから寂しくない。だから仕事ができる。だから。
俺は生きていける。
本作品最終回です。詳しいことは後々投稿する活動報告に書くので割愛しますが、今は長く続けたなあと感慨深い気持ちでいっぱいです。
本当にここまで読んでくださった方、ありがとうございます! 投稿開始当初はこんなに読んでくださるとは思わなかったので、今とても幸せです。
感想等は今も受付中なので、よろしくお願いします! めちゃくちゃ喜びます。
それではまたの機会に。