終章 未来の話〈前編〉
夢を見ていた。うつらうつらしていて、詳しい内容は忘れてしまったが、一度見たことある風景にただ俺が立っている夢だった。それも二つ。
一つはすっかりピンク色の花びらが落ちてしまったが、それでも見事な葉桜が穏やかに風に吹かれ揺れる風景。
もう一つは黒ペンキで塗り潰したように真っ黒な夜空に星が数個散らばり、煌めいている風景。
どちらも日本の原風景とも言えるもの。だが遺伝子的に懐かしいとかそういうものではなく、ただ実体験としての懐かしさ。つまりところ、俺は知ってるのだ、この風景を。それは確か……。
「……。……くん! 尾道くん!」
「んあ?」
「もう朝だよー!」
朝っぱらから、活気に満ち溢れた声がかかる。俺の耳の至近距離で……。鼓膜が激しく震える感覚に襲われる。
しかも俺のベッドに入り、肩をガシガシと揺らしてくる。いやが応にも、目が覚めてしまう。本当に、最悪の目覚めだ。
「うるさい……。春野。もっと静かにならんのか」
「だって遠慮して起こしたら、尾道くん、仕事休もうとするじゃん」
ニカッと環春野は笑う。してやったりという風に。その感じは癪に触るが、朝はいつもこんな感じなので、もう慣れてしまった。むしろこうじゃなかったら春野はどこか悪いのか心配ないくらいに。
「仕事はズル休みしたりしねぇよ。社会人失格だし。するのは遅刻だけだ」
「それも社会人失格でしょ……。自営業だからって自分を甘やかさないの。ほらほら、早く朝ごはん食べて」
「はいはい」
重い体にむち打ち、立ち上がる。本当ならもっと瞼も垂れているはずだが、今日は春野のモーニングコールがうるさかったおかげで目だけは覚めてしまっている。
一つあくびをして、椅子に座る。既にテーブルには朝食が準備されている。
バターロール、味噌汁、目玉焼き、納豆。朝にこんだけ品数があるのは精がつくし、何より寝ていても勝手に食べ物が出てくるのは非常にありがたい限りなのだが……。
「どっちかにしてくんねぇかな〜」
「え? どゆこと?」
春野は向かいに座り、もう早速味噌汁をすすりながら、そんなことを言ってくる。どうやら自覚なしらしい。
「この朝食のコンセプトは和食か洋食のどっちなんだ?」
春野の手料理は旨いのだが、こう……まとまりがない。
前にカレーと共に肉じゃがを添えてきたのには驚いた。成功作と失敗作を同時に食べ比べるのは非常に面白い試みなのだが……カレーには普通サラダでしょ。
うーんと春野は悩んだような素振りを見せて言う。
「どっちの食文化をミックスしてもいいのが日本のいい所だよ。……えい!」
春野はふらふらさせていた箸で、俺の目玉焼きの黄身をぷすっと刺す。中から半熟の黄身が流れ出してくる。
「あ、綺麗に食べたいのに」
「私の手料理に不満を言うからだ。有り難く頂きなさい」
「そうだな。お前にはホント助けられてるよ。ありがと」
素直にお礼を言い、黄身が流れ出た目玉焼きを口に運ぶ。うん、やっぱり旨い。黄身も俺好みのとろとろの半熟だ。
もぐもぐしている俺をよそに、春野は食べる手が止まっている。あまりにも硬直して動かないので、さっきの意趣返しに春野の目玉焼きを箸で割ってやる。
「ああっ! それはないよ!」
「あまりにもポカンとして隙を見せてたから、つい」
「それは尾道くんが意外に素直だから……」
もじもじとそんなことを言う。まあ、分からんでもない。
昔はお礼を簡単に出さないくらいにはひねくれてたしな。俺も丸くなったということで勘弁してもらおう。
「こうもお礼言わないと、生活が長く続かないだろう?」
「それはそうだね。私もお礼の言葉は嬉しいし」
そう言う春野は上機嫌で朝食を口に運ぶ。やっぱり同棲の長続きの秘訣は機嫌取りを上手くやることだな。
「そういえば今日、春野休みだよな?」
「休み〜。ホント久しぶりだよ。最近は営業アンド営業で」
春野は肩をさする。ちなみに春野は大手出版社勤務で、若手として色んな所へ営業で駆け回ってるらしい。愛想が悪い俺からすれば、こうして社会性を持って、コミュニケーションをする春野が羨ましいと思うし、今でも憧れだ。
「でさ今日、レストラン予約した。俺の仕事終わったら行かないか?」
「ほ〜。尾道くんが予約するなんて珍しい。どういう風の吹き回し?」
「別に何もねぇよ。ただ伝えたいことがあって」
言ってから気づいた。自分の今の発言は矛盾していると。ダメだな、どうも今日はテンパっている。
春野も矛盾に気づいたらしく、ふふっと笑う。多分、その奥の本心も見抜いてしまっているのだろう。
「分かった。楽しみにしてるよ」
朝食を食べながら、そのレストランの場所を教える。仕事が終わって待ち合わせするためだ。何回か一緒に食事は行ったが、今回の店は初めてだし。
朝食を食べると、仕事に行くため準備をする。いつも通り歯を磨き、髭を剃って、洗顔して……まあ、そんな感じ。何も変わらない。
だがいつもと一つだけ違う行動をとった。自室の机の引き出しから、ある箱を取り出す。パカッとそれを開く。うん、いい指輪だな。
つまる所、今日伝えたいことはプロポーズという訳だ。もう付き合ってちょうど十年になるか。
俺が自立して、家族を養えるまで結婚を申し込まないと決心はしたし、それも春野に伝えて納得はしてもらったのだが、流石に待たせ過ぎたか。悪いな、と思う。
あと父子関係がすっきりしてからという俺の都合もなかった訳ではない。
自分で自分を認められるようになって、父子関係も解決に向かいつつある今、やっとプロポーズができる。待たせた分、指輪はちょっと奮発して給料四ヶ月分。おかげでお小遣いを削る羽目になったが、いつもの恩を考えれば大したことはない。
指輪を鞄に入れ、玄関へ向かう。もうそろそろ出勤の時間だ。
「もう行く?」
「ああ」
「いってらっしゃい」
春野はそう言って俺に近づくと、抱きつきながら頬にキスをする。とても唐突で一瞬固まってしまう。
「……なんで」
「キスするのに理由が要る?」
春野は俺から離れながら、自信満々にウィンクする。なんだその言葉。アメリカのB級映画のセリフ? まあ端的に言うと。
「……ウザ」
「あー! それ絶対っ、言っちゃだめなやつ!」
「ついでに欲求不満だな」
「怒るよ?」
目がマジだ。そろそろ茶化すのは止めておこう。これは同棲してから気づいたことだが、一度怒ると春野は長いのだ。しかも根に持つ。
そうなると機嫌を直すのが大変なので、春野いじりはそこそこで止めるのが丁度いいのだ。
「ま、嬉しいよ。サンキュ」
「だから急に、素直になるの止めて……。ホントずるい、そのツンデレ。こっちがなんか恥ずかしいし」
春野はもじもじとしている。朝っぱらからこんなことするからだ。仕事に集中できないだろうが。
「じゃあ行ってくるから」
「うん、夕方の五時に待ち合わせ場所で」
「おう」
俺はそう言ってアパートの玄関を出ていく。出た瞬間、日差しが強く俺は目を細める。
時期は八月下旬。朝にも関わらず、既に太陽が照り、ジリジリと肌が焼かれる感覚がする。夏も終わりに差し掛かっているというのに、この暑さを感じると一生夏が終わらないように思う。
……いや、そんなことはないか。季節は絶対に巡るのだ。十年前のあの大変な中でも、時は呆気なく過ぎていったのだ。きっとこの夏もいずれ秋に変わっていくはずだ。
仕事場には電車に乗って駅まで行き、そこからは徒歩だ。電車はほぼ満員で暑苦しさを感じるが、仕事場の最寄り駅は海の近くにある。潮風が火照った頬を撫でるように吹き、いくらか涼しい。
その風を感じながら、歩くとやがて一階建てのコテージ風の店に着く。
カフェ「BLOSSOM」。ここが俺の今の仕事場だ。
エピローグ開始です。もうすぐ終わりですが、どうぞ良しなに。
ちなみになんか「夢を見ていた」から始まってますが、夢オチではありません! ついでに言うと四章最終回から話がめっちゃ飛んでますけど投稿し忘れじゃありません! ややこしい!