007 図書館の文学少女
その日はたのしみすぎて寝れないかもと思っていたが案外ぐっすり眠れた。
風邪で体も弱っていたし、慣れない異世界での体験で心も疲れきっていたのだ。
しかし翌朝、天気は鉛色の曇り空だったが気分はすこぶるよくなっていった。
蒲団のなかでおれは改めてこの仕事のことを考えてみた。
実働1日30分勤務。ちゃんと信者さえ集まってくれれば美味しい美味しすぎるバイトである。
ボロアパートの家賃に汲々とし、食費や光熱費など日々の生活を切り詰めている貧乏大学生にとってはまさに天佑だ。
それに在宅の内職なのに、かわいい女の子とも出逢えた。おまけで天使のような幼女も。
医者や弁護士など先生と尊敬される職業以上に神として崇められる仕事内容も魅力的だ。それにおれを信仰してくれるのはあのときの乙女なのだ。
そんなふうに感慨に浸りながら掌にある《1》の痣を愛おしくめでようと――
「あれ? 増えてる!?」
数字の痣は《3》になっていた。
つまり寝ているうちにおれの信者は3名となったらしい。
「ちょろいぞ、これは!」
おれは思わず全身全霊で快哉を叫んでしまった。
これで月収は1円から3円と微々たる増額だが、これが一夜にして寝ているうちに増えているというのがヤバい。
この調子で増えていけば倍々ゲームで大金持ちだ。毎食激安パスタ、しかもソース不要のペペロンチーノばかりの生活から白い飯のごはんが食べられる食充ライフがはじまるかもしれないと思うとわくわくしてきた。これぞ夢が広がりングってやつだ!
おれは俄然やる気が出てきた。
先週まで努めていたブラックバイトの居酒屋とはちがう。
あそこはひどかった。常に人手不足で無理なシフトを入れられ、体調が悪くても休ませてもらえず、結局は体調不良のバイトから食中毒が蔓延して営業停止。
おれまで感染した挙句に前々から経営状態のよくなかった店は夜逃で1ヶ月間身を粉にして働いたバイト料は未払いのまま。
1か月分のバイト料がもらえない以上、どうやって今月を切り抜け、できるだけ単位も落とさないようにすることがおれの課題だった。
まだ3円だが目標としては10万円、最低でも5万円。ということは今月中に5万人もの信者を獲得しなければならないわけだ。
いくら自然に増えるといっても短期的には並大抵のことじゃなさそうではある。
「おれはもっともっと信仰されるにふさわしい神にならないといけないな」
昨日も朧気ながら感じていたことだが、ここに至って確信できた。
病みあがりではあったが、さっそく図書館に行くことにした。
朝食抜きなのはつらいところだが貧乏なのでしかたがない。
大学図書館は都電に乗れば早いのだが、定期券はもちろんなく電車賃もこと欠くありさまなので歩くしかない。
そういえば入学して以来ほとんど活用したことがないことに気付いた。
なので使い勝手がよくわからず、さらに普段は気にすることもなかった宗教関連の書架に辿りつくのにも一苦労だ。こういうとき規模の大きな図書館は大変なのだ。
無駄に30分ほど図書館という迷宮を彷徨った挙句、ようやく目当てのの棚の前に着いたときには軽く疲れていた。
『しっかし、おそろしい数だなぁ』
おれは軽く眩暈がした。
なにしろいくつもの書架に仏教、キリスト教をはじめとして神道、イスラム教、昨今の新興宗教まで、さらにはギリシア・ローマ神話からギルガメッシュ叙事詩といった古代の神話まで色とりどりに並んでいた。
何もわからないおれはとりあえず宗教全般について書かれた入門書を探した。
「きゃっ……」
短い悲鳴。
あまりに熱中しすぎたのだろう。
気がついたときには、気付かないうちに隣にいた人の肩にぶつかってしまっていた。
そんなに強い力でぶつかったわけではなかったけれど、彼女は両手にたくさんの本を抱えながらくずおれるようにへなへなと尻もちをついてしまった。
「あ……すみません! 大丈夫ですか?」
女慣れしていないので戸惑いがちに手を差し伸べた。
「え……あ、はい……」
彼女もまた一瞬、手をとるのを躊躇ったものの思い直したようにおれの手をとると、ゆっくりと立ち上がった。
彼女は羽のように軽かった。女の子の体というのはふわふわの何かが詰まっているのだろうか?
「いえいえ、わたしも悪かったんです」
彼女も本探しに夢中になっていて周りが見えていなかったと見えて、大仰にぺこりと頭をさげてきた。
同じ大学なのだろうが見かけたことのない女子だった。
身長は小柄で長いストレートの黒髪に眼鏡をかけた彼女はいかにも図書館通いか司書でもしてそうな文学少女を地でいく雰囲気をしていた。正直、かわいい。
「ずいぶんと本がお好きなんですね」
おれは彼女が両手に抱えた本に目をやった。ぱっと見どれも宗教関連の本のようだった。自分のことを棚に上げるわけではないが、かなりマニアックな趣味らしい。
「え、ええ……」
彼女は視線を逸し躊躇いがちに肯いた。
無理もない。見ず知らずの男に話しかけられたら男慣れしていない女子としてはまともな反応だろう。
「あ、あのぅ、ちょっといいですか?」
そして、そそくさとこの場を立ち去りかけようとする彼女の後ろ姿におれは勇気をだして呼びとめた。
今までのコミュ障なおれなら絶対にしないことだった。しかし異世界の神だという根拠のない自信がおれの背中を押してくれたのかもしれない。こんな機会はめったにないのだから。
「……はい?」
彼女のレンズ越しの目ははちきれんばかりに瞠いていた。完全に怯える小動物の目だ。
「えっと、おれ本を探していて……ちょっとわからなくて……よかったらお薦めの本とか、あったら……その、教えてもらえませんか?」
変な男だと思われたらどうしようという不安を抱えながら、意を決しておれはしどろもどろながらも話しかけてみたのだった。
聖痕【stigmata,stigma】
イエス・キリストが磔刑となった際についたとされる傷、また何らかの科学的に説明できない力によって信者らの身体に現れるとされる類似の傷をいう。
これらはスティグマータとも呼ばれ、カトリック教会では奇跡の顕現と見なされている。
スティグマの原義は奴隷や犯罪者の徴、烙印、刻印のこと。(wikipediaより)