006 真紅の帰依
彼女のところに駆けよろうとした刹那、いきなり眩暈に襲われたかと思うと、目の前が真っ暗になった――
何も見えないまま最初に聞こえてきたのは聞き慣れた都電の小気味いい音。
そして視界が戻ってきたときに見えてきたのは、あの大自然の景色ではなく積みあげられた本やコミック、雑誌、それにゲームでちらかった見慣れすぎた部屋。
おれは四畳半の部屋にまた戻ってきていたのだ。
しかしおれの脳裡には頭から返り血を浴びてぺっとりと真紅に染まり、はだけた蒼白い胸もあらわな半裸の乙女の姿がしっかりと焼きついていた。
その顔は恐怖というより何が起きたのか理解しきれないないらしい。憔悴しきって焦点の定まらぬ瞳は瞳孔が開ききっていた。
夢ではない。おれはあの姿を生涯忘れない。
死と恐怖の中にもある一種の残酷なまでの美しさをおれは忘れはしない。
だからおれは彼女の安否が気になってしかたなかった。
おれは怪物が血を流して倒れるところまでしか見届けていないのだ。もしかしたら予想以上にタフでまたむくりと起きあがって乙女にまた襲いかかったかもしれない。
おれは今すぐにでも彼女の安全を確かめたかった。
そしてまた危機に陥っているようであれば、どんなことがあっても彼女を助けたい思いでいっぱいだった。
だから、すぐさま例の指輪をこすって、異世界のことを一心に念じた。
――何も起きない。
何度もこすり、意識を懸命に異世界へと集中させる。
しかし何度試そうとも異世界に戻れなかった。
「なんでだよっ! どうして戻れないんだよ!」
おれは八つ当たりで手近にあった文庫を壁に投げつけた。
それで事態が変わるはずもなく、おれは絶望感に苛まれた。
だが戻りたいという焦りの気持ちが戻れないとわかって少し冷静になってきたとき、おれはロマのことを思い出していた。
そうだ。神使であるロマならどうにかなるんじゃないかと思い当たった。
「ロマ! ロマ、いるのか? 出てきてくれ、ロマ!」
さっそく指輪をこすった。
「お呼びですか、アドナイ」
ロマはあっさり召喚できた。
背中の翼こそなかったが、やはりメイド服を着たあどけない幼い少女の姿をしている。
「戻りたいんだ。でも戻れないんだ」
「どうしたんですか、そんな取り乱して」
「だから、どうすれば戻れるんだよ?」
「もしかして、またミッドガルトに行ったんですか?」
ロマの問いにおれは戸惑いがちに頷いた。
おれはロマにさっきまでのいきさつを正直に話した。
「なるほど。そういうことでしたか」
話を聞き終えたロマは得心したとばかりに肯く。
「落ち着いてる場合じゃないんだ! 大変なんだって。だから言われたとおりにやったのに異世界に戻れないんだ……なにが間違っているんだ?」
ロマのそんな余裕に苛立ちを感じつつも必死にロマに訴えかけた。
「無理ですね」
ロマの返答はあっけないものだった。
「なんで?」
おれはロマを掴みかからんばかりに突っかかった。
「そう言われましても、そういう決まりなのです。神はアースガルト24時間につきミッドガルトには最大30分間しか地上に留まれないのです。それが決まりなのです」
「なんだよ、そんなに聞いてないぞ……」
「そういう決まりなのですからしかたありません。わたしと最初にミッドガルトに降臨したときと、つぎにひとりで降臨したときとで合計30分に達してしまったので強制的にアースガルトに戻されたのです」
「じゃあ、異世界には明日にならないと戻れないっていうのか?」
「正確には約24時間後ですね」
ロマは感情をださずに淡々と語る。
「どうにかならないのか?」
「こればかりはどうにもなりません。これは神であるアドナイより高次の存在である方のお決めになったことですから」
そうは言われても、気になってしかたない。
24時間も待たなければならないと余計に戻りたくなってくるのが人情だ。
居ても立ってもいられない。気持ちばかりが逸ってしまう。
「落ち着いてください、アドナイ。こればかりはどうにもならないのですから、次回の降臨に備えて準備するというのはいかがですか?」
「準備?」
「そうですね。神としてやってゆくための知識を得るのも大切なのではないでしょうか? 不躾ながらアドナイには宗教や信仰に関する知識が決定的に不足していると思われます」
「たしかに」
至極ごもっともな意見だ。
そうなのだ。神になったはいいが、神が何をするものかイマイチわかっていない。だから何をしていいのかさっぱりわからない。
熱が下がったすぐにでも図書館に行って、宗教に関しての本を探して読んでみようと思った。
「他には?」
「あとは健康ですかね。神に健全な心身あってこそ帰依する万民を安寧に導けるというものですよ」
「そうだな……」
まずは早く風邪を治すことに専念しようと思った途端に咳き込んでしまった。
早く風邪を治そう。神が病気とは情けないばかりではないか。
咳をしたとき、とっさに手で口を覆ったのだが、おれはあることに気付いた。
さっきまで掌に浮かびあがっていた丸い痣のようなものが、いまは短い縦棒にかたちが変わっていたのだ。
「これって、やはり数字……?」
おれはじっと掌を見つめた。
「言い忘れていましたが、掌のスティグマはアドナイの信徒の数を表していますので、今後の活動の参考にしてください」
痣は数字の《0》から《1》になったというこか。
「ということは、おれにも初めての信者が――」
おれはまだ神になった実感なんてまるでなかったのに自然と笑みがこぼれていた。
自分を認めてくれる、信じてくれる人が現れただけで、こんなにうれしいことはない。
「初信徒ゲット、おめでとうございます!」
ロマが祝福の言葉をかけてくれたが、おれはもうその声は耳に届いていなかった。
この掌の《1》とは、あの乙女だ。総に違いない。それしか心当たりがない。
「そうか、無事でいてくれたんだな――」
この《1》は信者になってくれたという以上に彼女が生きてくれているという証でもあるのだ。
おれは心から安堵の溜息をついた。
明日にもさっそくおれを信じてくれた彼女に会いに行こう。
おれはかたく心に誓った。
彼女にまた会える。明日が待ち遠しくてしかたなかった。
帰依【きえ】
仏や神などすぐれたものを頼みとして、その力にすがること。