005 エピファニー Epiphania Domini
おれの嘆きなど関係なく半獣半人の怪物は彼女に忍び寄ってゆく。
体毛がほとんどなく粘土のような膚がかえって不気味だった。
「来るなっ! あっちに行けっ!」
むだとわかっていても声をださずにはいられなかった。
その間にもどうにかして指の先でもいいから彼女に触れることができたらという思いから手を伸ばすも虚しく空を切るだけだった。
彼女を守りたい。この差し迫った危険を知らせたい、その一念だった。
しかし確実に危機は差し迫ってゆく。
ついにおれの体を貫通して黒い鉤爪が彼女の首筋に触れる――
刹那、乙女は目を瞠くと状況を把握するよりも前に身をこわばらせて後ずさった。
逃すまいと鉤爪が彼女の肩をがっちりと押さえつける。
魔の手から逃れんと彼女も必死に抵抗して振り払おうとしたが、その力の差は歴然としていた。
怪物は成人男性よりも小柄で少女ともあまり体格差がなかったが筋肉の量が違う。あっという間に引きつけると、彼女を完全に組み伏せて馬乗りになってしまった。
乙女は悲鳴をあげなかった。
こういうときホラー映画では必ず女は金切り声の悲鳴をあげるものだが、目を閉じたり悲鳴をあげたりすることで現実から逃避することなく歯を食いしばって現実と立ち向かっていたのだ。
はっとさせられた。
彼女はこんな絶体絶命の窮地に陥っているというのに、少しも諦めずに闘っているというのに男のおれが黙って座視していていいわけがないではないか。
おれはどうにかして彼女を救う手立てを考えて探そうとした。
この期に及んで時間はない。一刻も早く手を打たなければ……
とはいえ彼女どころかこの世界の何物にも指一本触ることができないし、声さえも届かない。おれは完全に”いない”も同然なのだ。
そんなおれができることは――
『いいか、落ち着け。考えるんだ……考えるんだ。冷静に。何かあるはずなんだ――』
おれは内なる自分に言いきかせた、その瞬間だった。
「――落ち着け?」
不意に乙女が覆いかぶさってくる怪物に抵抗しながらも、周囲に目線を泳がせて呟いたのだ。
「……誰かいるの?」
さらに苦しそうに喘ぐ彼女の口から言葉が漏れる。
「もしかしておれの声が聞こえたのか?」
しかし今おれは一言も声を発してはいない。ただ一心に心のなかで念じただけなのだ。
それなのに彼女はおれの言葉を聞いたように見えた。それは錯覚ではない。
「――そうか!」
一瞬のうちに脳裡に閃きがあった。そしてすべて合点がいった。
そうなのだ。たしかに肉体がないから空気を振動させる音波である声は消えないのは当然だ。
しかし肉体がなくとも精神はある。そしておれは神。神の意志を思念として直接、伝えることができるのだ。
神と人とのコンタクトは音声ではなく思念だ。神の言葉は直接、テレパシーのようにして届けられる。それがわかっただけでも一筋の光明を見た思いがいした。
「しかし思いを伝えられると言っても、それだけでどうすれば……」
おれはまたそこで考えあぐねてしまった。
すでに怪物は怒張した下半身を露出して昂奮しきりで、乙女の衣服を剝ぎとりにかかっていた。
鋭い鉤爪は布をやすやすと切り裂いてゆく。身をよじらせ、両手で胸元を隠そうとする彼女の華奢な腕もまた鉤爪によって血まみれになっていた。
しかし乙女の非力な腕力ではもう時間の問題だ。並の女子ならもう諦めてしまっているかもしれない。それでも彼女はまだ諦めていなかった。
おれはどうにかして彼女が身を守るため、反撃の緒になるものを探した。
そして見つけた。それは男の拳よりも大きな石だった。彼女が昼寝をしていた岩陰に転がっていたいくつかの石のうち手にするには手頃な大きさなものはそれきりだった。
その石が押し倒された彼女の頭の右横に転がっているのを見つけたのだ。
これなら怪物さえ撃退しうる武器になる。そう確信できるものだった。
『右だ! 頭の右にある石を拾って、そいつの頭に叩きつけるんだ! 右にある石だ』
一心不乱に念じた。
すると乙女ははっとしたような表情を浮かべたかと思うと、やや戸惑い気味に胸元を押さえていた手を緩め、自らの頭の横のあたりを手でまさぐりはじめたではないか。
通じている。彼女におれの念が通じている。
『そこだ。石はもう少し上にある。がんばれ! 諦めるな! そこだ!』
さらに念をこめて彼女に訴えかけた。
醜い怪物が左側頭部に強烈な打撃を受けて昏倒したのは、その直後のことであった。
公現祭【Epiphany】
西方教会(カトリック教会・聖公会・プロテスタント諸派)において、異邦への救い主イエス・キリストの顕現を記念する祝日。(wikipediaより)
「エピファニー」は、キリスト教に限らず汎宗教的には広義に「宗教的な神秘体験」を意味することもある。