001 異世界に降臨したはいいけれど……
太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。
In principio erat Verbum et Verbum erat apud Deum et Deus erat Verbum.
ヨハネによる福音書1章1節より
不養生から風邪をこじらせ高熱にうかされて三日目の白昼、ぼくは枕元に幼女の顔を間近に見た。
「はじめまして、アドナイ!」
メイド服を着た幼女は満面の笑みを浮かべてくる。
「うわっ!」
おれはびっくりして飛び起きようとしたが病に冒された我が身は意に反して動いてくれなかった。
身動きできないとなると、かえって冷静になってくるものらしい。
ついに幻覚が見えるようになってしまったのだと落ち着いて考えられるようになってきたのだった。なぜなら彼女もいない独り暮らしのむさ苦しい四畳半下宿にロリメイドがいるはずがないではないか。
「おめでとうございます、鳳桐悟様! このたび厳正なる審査の結果、鳳様は神に選ばれました!」
「……神? えっ!?」
高熱で思考力が落ちているらしい。さっぱりロリメイドの言葉が理解できなかった。
「三日前にネットで当方の在宅ワークに応募されましたよね?」
「応募……?」
応募した憶えは皆目ない。そもそも神様というのはネットで募集しているものなのか?
「そうですよ。応募しなければ選ばれるわけありませんから」
「いや、おれは応募なんて――」
言いかけて思い当たったのはバイトの応募だった。
たしか風邪のひきはじめの頃、まだ元気があったこともあり、万年金欠の苦学生から脱するべく意を決してアルバイトに募集した記憶はある。どうもコミュ障のため、いきなり電話するのは気が引けて『ネット応募可・在宅可』というバイトというか内職に応募したのだった。
「思い出してくれました?」
「ま、まあ……心当たりのかけらようなものは……」
「というわけで、さっそくですが働きはじめてもらいたく参上しました」
「いくら仕事だって自宅にいきなりはないだろ。しかもなんできみみたいな子供が?」
「アドナイにはわたしはそのような姿に見えてるのですね」
ロリメイドは心を見透かしたとでも言いたげに、うふふと笑った。
「なんだよ、その不敵な笑いは?」
おれは不満を漏らした。幻覚とはいえ十歳以上年下の子にバカにされたくはない。
「わたしはアストラル体としてのみ存在しているのです。なので物質としての肉体はないのです」
「はぁ?」
「アドナイの認識しているわたしの姿は全てアドナイの願望あるいは性癖に依存したものなのです。具体的には潜在意識的にもっとも親しみを感じつつ劣情を催さないギリギリのラインとしての姿が今のわたしなのですよ」
「……なんだよ、劣情って!」
憤懣やるかたない思いをいだきつつも妙に納得してしまう自分がいた。
たしかに俺の性欲の範疇ではない。しかしもう一、二歳ほど成長したらわからない絶妙ラインだ。
自覚していたよりロリコンであったという現実の前に風邪のせいでなく顔が紅潮してゆくのがわかった。
「あくまでこの姿はアドナイがイメージしやすいためだけの記号なのです。もちろんアドナイの性癖に興味はありませんし」
「記号ね……そう言われてしまうのも複雑だなぁ。それにしても、さっきからその『アドナイ』って呼び方はなんなんだ?」
「ヘブライ語で『我が主』というような意味の単語ですね。日本語では的確な訳語がなかったので借用させてもらいました」
ヘブライ語……幻覚というのは自分の知らない知識や外国語のことまで見たり聞いたりしてしまうものなのだろうか。それともおれが無意識のうちにどこかで知り得た情報なのだろうか。目の前の女児が幻覚なのかよくわからなくなってきた。
「いきなり神になってもらうと言っても実感がないですよね? 百聞は一見にしかずということで、さっそくアドナイが知らしめす世界へご案内いたしますよ」
「待ってくれ、俺はいま風邪で具合が……」
「問題ありません。神の仕事に肉体は不要です。精神であるアストラル体だけでいいので」
言うが早いかロリメイドがおれの額に手を触れた。
刹那、おれはゾッとする悪寒と同時にまるで肉体から自分の魂が抜けたような感覚に陥るやいなや目の前は見慣れたボロ下宿屋の板天井の木目ではなく、どこまでも続く蒼く澄み渡った天空とその眼下に続く広大な海と陸地、そうまるで――
「グーグルアースみたいじゃないか!」
昂奮しきったおれは身も蓋もないことをつぶやいていた。
そんなおれをよそにいつの間にかおれの手をとって横に並んでロリメイドは真顔で空を飛んでいる。その背中には一対の純白の翼があった。
つまりおれが神なら、このロリメイドは天使ということになるのかもしれない。
そんな悠長なことを考えている間もなく、高度はぐんぐん低くなる。急降下だ。
雲の切れ間から見える海洋と大陸の織りなす海岸線のかたちは見覚えのある地球のそれではない。日本列島はおろか、アメリカ大陸もユーラシア大陸もなかった。
「そろそろアドナイの知らしめすエリアに入りますよ。あのあたりになります」
ロリメイドな天使は指で一点を示した。
ひときわ大きな大陸の内陸部であった。山岳地帯に囲まれたまばらな森林と草原、そしてはずれには砂漠なのだろうか。不毛な地帯が続いていた。
地上の木々の一本一本の見分けがつく高度に達すると急降下から一転、ロリメイド天使の翼が風をはらみ、ふわりと大地に足がつく。
「この一帯がアドナイの知ろしめすエリアです。人間たちはルミニア国と呼んでいるようです」
高台の丘に立って見える眺望は彼方に聳える山脈、そして黒黒とした針葉樹の目立つ森林、あとはひたすら草原や荒れ地ばかりだ。
「ここでおれが神様を?」
「はい」
屈託のない返事が即座に返ってきた。
「それはいいんだけど人が住んでいる気配がまったくないんだが……」
「そうですね。この土地は寒冷かつ肥沃な土地ではないので現時点では人口は極めて少ないです」
「ああ、そうなんだ……」
おれはちょっと期待していたところもあった。どうせ幻覚ならおれを神として祀る壮麗な神殿や天を衝く教会が並び建ち、多くの信者たちがおれを讃える祈りを一心に捧げているのを想像していただけに、こんな大自然以外に何もないところで、はい今から神様ですよと言われてもまるで実感がわかない。
「で、ここでおれに何をしろと?」
「神なのですからお好きにどうぞ。したいことをしてかまいません。それが神の御業なのです」
「そんなこと言われてもなぁ……」
おれは困惑してしまった。
「いちおう神もお仕事ですから、お給金は出来高しだいですけどね」
「出来高って?」
「基本的に信者1人につき月1円の支給です。つまり信者が100万人いれば月100万円です。文字通り『信者』と書いて『儲け』ってわけですね。支払いは末日締めで翌月15日に銀行振込で入金されます」
「銀行振込って……神様もせちがらいなぁ……」
ずいぶんと生臭い神様もあったものだ。
「ところでさ、おれの信者の数ってどのくらいいるのさ?」
「初降臨なのですからアドナイの存在を知るものは誰もいませんよ」
さも当然だという具合に微笑みやがったではないか。これが天使の微笑みなのかよ。
「……ってことは、もしかしてゼロ?」
「はい。これからの神として君臨することで信者をじゃんじゃん獲得していってくださいね!」
「そんなこと言われても、こんなところでどうやって信者を増やせって言うんだよぉっ!」
おれの叫びは大自然に虚しくこだまするだけだった。
アドナイ 【Adonay】
ヘブライ語アドン〈主〉の強意的複数で、原意は〈わが主〉。ユダヤ教徒はヤハウェ(エホバ)を直接呼ぶのを恐れて「アドナイ」と呼んだ。そして、やがてヤハウェ名を忘れてしまった。(weblioより)