しくみ
人は魔術という言葉を聞くとその言葉の意味するものを思い描くことになるが、その思い描くものは人によりまったく同じというわけではない。
まったく同じではないが同じような状態を似ているという。それはつまり大きくは同じで小さくは異なる状態のこと。言葉を変えるとこの状態は大体と呼ばれる。
大きな体に小さな心というのも対なる極を知ればそこにあるのは二択としかなり得ない事実を知るからに他ならない。
迷いも惑いもそれが生まれる必然は多にある。迷いや惑いは悩みとなる。悩みのもとはなにかといえば凶にある。凶があるから吉もある。
極まると凶は大凶に吉は大吉になる。ということは極まるということは大きくなるということ。大きくなると数が減る。つまり最も大きなものは最も少なくないと困るし最も小さなものは最も多くないと困る。大きくなっても小さくなっても同じ形であるものを探せばその形には数の領域を超える力があることに感づけるだろうか。
つまりその形は最も大きくても最も小さくても同じであるということにおいて最も確信を得られる形ということ確信とは固く信じて疑わないこと。信じることが王冠で、知ることが知恵で疑うことが理解という領域の力であることを知るなら疑わないことが理解を妨げていることに感づけるだろう。
では大きくなっても小さくなっても変わらない形とはどんな形になのか、その答は理解の前にある形になる。
理解とは解くこと、だから解きようのない形が知恵の形その形には直がない。なぜなら直で形を描こうとすれば三を必要とする。最も少ない直線の数で描ける辺は三辺。
理解は三からはじまる。であれば二の数の領域の力である知恵の形に三という数を求めることは出来ない。つまり二の数の領域の力は二という数で完結しなければその力がその領域で働くことは不可能なこと。
そうなると必然的にその形は直ではなく曲でしかありえない、ならすべてが曲で完結する形こそが二の領域の数の形となる。そんな形は一つしかありえない。
つまり二の数の領域である知恵の力の働く形とは球となる。つまり球という形こそが知恵の力が描いた形であり球の形には理解の領域に通じる力が描かれている。
つまり理解とは三であり、知恵とは三の次元で知恵の形である球を二次元である平面に戻すとその形は円となる。ということは二の領域で働く力としての音の、波形の響きは二であるからその数は音としてにでありそのにの音に波形としての輪郭としての象りを意味を満たして描くとその音は内容を満たして異なる意味となることになりその二という器の中身を飲み干せば、その中身の味を知ることが出来るようになる。
二は似として、荷として味蕾に味を写すことになる。それが二の領域が杯として語られる意味だと僕は考えている。
この世界には感じなくてもよい、思わなくてもよい、考えなくてもよい領域がある。その領域が知る領域でその領域の形は円である。ならどうすれば円を描けるのかを知れば良い。
それは円に必要な条件を知ることからはじまる。必要な条件を要件という。つまり円となる要件を満たせばその領域に働く力が円を描くことになる。どこに円を描くのか、それは心象に。
つまり心に輪郭として円を象る。その円が限りの円として不可能と可能を分ける円となり、円の内側が可能な領域であり、円の外側が不可能な領域となる。
つまり限りがあるから不可能だと感じられるがその実は限りがあるから可能性が生まれていることに感じなければ知恵の働きは出て来ない。
とここまで書いたが考えなくても、思わなくても、感じなくても描ける円を描く音がある。その音に気づかないとその音の調べを知ることは出来ない。
その音は中心から発して響き、その音は声となり、言となりその中心の周りを描くことで不可能を可能性に変えていく。その領域の力はどこにあるか、形の通りに言にある。
そしてその言は形を変えて辞となり書かれている。だから僕は辞書が大切だと伝える。なぜならその辞ということばは共通の認識であり、その正体は大体だから。
ではここまで書けばその大体である辞ということばにその正体が書かれていることに気づいただろうから、あとはその沈黙の調べをきけば良い。
知恵とは饒舌つまり多弁であり理解とは沈黙である。だから理解である三は沈黙する。
大体という共通の認識の基盤である辞書に魔術とはこうかかれている。魔術とは不思議なことを行う術。では不思議とはなにか、こう書かれている。
どうしてなのか、普通では考えも想像もできないこと。説明のつかないこと。
では普通とはなにか、普通とは特に変わっていないこと。ごくありふれたものであること。それがあたりまえであること。
では考えるとはなにか、知識や経験などに基づいて、筋道を立てて頭を働かせる。 判断する。結論を導き出す。
では想像とはなにか、実際には経験していない事柄などを推し量ること。また、現実には存在しない事柄を心の中に思い描くこと。
では説明とはなにか、ある事柄が、よくわかるように述べること。ということは魔術とはなにかということを詳しく調べると、魔術とは特に変わっていないこと。ごくありふれたものであること。それがあたりまえであることを、知識や経験などに基づいて、筋道を立てて頭を働かせる。 判断する。結論を導き出すことも、実際には経験していない事柄などを推し量ること。また、現実には存在しない事柄を心の中に思い描くこともできなくて、よくわかるように述べることもできないことを行う術。つまりこれが魔術の大体の正体ということになる。
では出来ないことが、つまり出て来ないことが行えるのはどうしてか。ということを考えるのに用いる魔術が対の魔術つまり極というもの。
極とは二つ、それははじめとおわり。普通とは三から生まれる。三がないと理解は生まれない。三がないと過程は生まれない。
過程とは続きのこと。どうして魔術が理解出来ないのか、その答は至極簡単なこと。魔術とは理解ではないから。
魔とは二の領域にあるつまり知る恵みが魔の正体。その形は球、球とは王を求める。一の領域つまりはじめの領域は王冠。王冠とは王にならないと冠れないもの。つまり王を求めていても、王冠は冠れない。
王を求める者は民。民に王となり王を与えるものが王冠を冠る者となり王国を支配する。
はじめは与えるつまり一は与える。では十は求める。
なにを求めるのか。それは縱。糸に従うこと。その糸とはなにか、縱つまり立て。立って王となり、王冠を冠れと求めるのが王国である現実の心が響かせる沈黙の音。
出口は限られてそれより多くなることは全てを指す数が十だからそこから退けば口は九になる。
そのことに感づけば入る数が十で出て来る数が一だと知るはずで、なら出口はどこになるかも悟るはず、そうはじめから出る、なら次の入り口はおわる。
はじめが信じるでおわるが知る。つづくが疑う。
魔術は感嘆な真実を指す。それは入り口は与えるもので出口は求めるものだけどそれを阻止するものが本能という大きな仕組み。
では、現実を見ていく。あなたはどこから出て来たのか。答を性別で答えるならそれは女性となる。なら入るのは男性となる。なぜなら極性とは対でしか有り得ないから。
終わりは男、なら始まりは女でしか有り得ない。象りは大きいものを表すなら形は力より大きいから形という輪郭を表せる。
対を操れるようになることは魔術を使うこと。対は終になり力となる。その力を知恵、知る恵みという。
何を知る恵みか、それは火の力、その力は形無き熱の溶かし、燃やす力、その力の色は明度の領域で灰となり彩度の領域で赤となる。
その数は明度の領域で二になり、彩度の領域で五になる。過程無き領域では全ては決定されている。終わりが冬の糸ならはじまりは夏の石それは音に戻して変換するなら可の意志となる、なら何が可とするのかはわかるだろう、それは奥になり姿を現す、億として、人の意として、音を心にする、中心の響き、あたったなら太鼓のように鳴る閃きの音を聞くことになる。
ただし、魔術をかけるには知恵を超え、隠れた知恵に辿り着かなくてはならない、それが道化である魔術師の能力。
真の魔術を違うには、真の愚者でなければならない。
自らが愚者の数である零にならなければ対なる相手を天才には出来ない。
魔術は自らがかける術ではない、相手にかけられる術だから真の魔術師は…