遊美の話
娘が死んで、気が狂った芸術家がいた。
彼の名は座木周一郎。七十二歳。絵画と造形の分野で、昭和の時代に大いに活躍し、富と名声を築きあげた高名な芸術家である。狂気を感じるほどの精密さで作られる彼の絵画や造形作品は、見るものの魂を引きずりこむかのような迫力に満ちていた。裏社会を仕切る財閥系の人間たちが、皆、周一郎の作品の愛好家となった。
長い間、彼は孤独の身の上であった。気難しい性格が災いして、家族はひとりもいなかった。
若い頃は、作品製作に夢中になっていたので、そのことを苦に感じることはなかったのだが、齢六十を過ぎる頃になると、広い屋敷での老人の一人暮らしがだんだんとさみしくなってきた。
そして十年前、周一郎は孤児院から、ひとりの少女を養子としてひきとった。
少女の名前は、遊美。
ひきとった当時は、まだ七歳であった。
素直で活発な女の子だった。
周一郎の肩書きや、厳格な雰囲気に気圧されず、初めて会ったときから、堂々と甘えてきてくれた。周一郎は、そんな遊美を大事にかわいがって育ててきた。ずっと誰の前でもしかめっ面ばかりしていた周一郎だが、遊美といっしょにいるときだけは、温厚な笑顔を見せていた。
十年後、六月の梅雨時に、その遊美が死んでしまった。
バスの交通事故に巻きこまれてしまったのだ。
周一郎は絶望した。
一週間、泣いて泣いて泣き続けた。
屋敷の中で何をしていても、遊美との思い出が頭の中を駆けめぐった。食堂で食事をしていては、遊美はオムライスが好きだったが、卵の中のチキンライスに入ったグリーンピースが苦手だったことを思い出す。広い庭を散歩していては、小さい頃に、近所の男の子といっしょに、虫取り網を持って、蝶々を追いかけまわしていた、日焼けした遊美の姿を思い出す。十年という歳月は、あっという間だったが、長かった。玄関にいても、屋根裏部屋にいても、そこで笑っていた遊美の笑顔が頭に浮かぶ。
そして、その思い出のひとつひとつが、周一郎の胸を深くえぐる。涙がまた、とめどなくあふれだす。
しかしその後、あることを思いつき、急に強い興奮を感じてきた。
私はいま、物凄い悲しみに襲われている。脳髄がねじきれそうなくらいの喪失感に蝕まれている。感情が、ごうごうと暴れまわっている。これほどまでに激しい、心の乱れは初めてだ。
この感情を、創作にぶつければ、作品に魂を・・・・・・死んでしまった者の魂を注ぎ込むこともできるのではないだろうか。
そう考えた途端に、笑いがこみあげてきた。
そうだ。私ならできる。私の才能と、この強い感情の乱れがあれば、・・・・・・作れるはずだ。そうだ。作るのだ・・・・・・遊美を。
周一郎は、体を震わせ、泣きながら大声で笑った。
周一郎は、人形を作ることにした。
遊美の人形である。いままでに造形美術の分野で培ってきた技術の全てを使い、本物の人間に近い精巧な人形を作るのだ。遊美の呼吸や体温を感じるような、骨や内蔵の気配も伝わるような、限りなく人間に近い、凄まじい人形を。
翌日から、すぐに製作にとりかかった。
まずアトリエにしまっていた作品を全て売り払い、今回のための資金を調達した。そして材料として、床屋から、大量の髪を買い取った。他にも莫大な金額を投入して、公にはできない非合法な素材もたくさん取り寄せた。
材料がそろうと、すぐに作業を開始した。
作業は、遊美の部屋に道具を持ちこんで行った。
部屋にはまだ、遊美の生活の匂いが染みついていた。ベッドや絨毯には、遊美の髪がいくつか落ちているし、机や窓には、遊美の指紋があちこちについている。それを見ると、楽しかった遊美との思い出がまた次々とわいてきて、周一郎はまた泣き出す。泣きながら、人形を作り始める。大声で泣き叫び、うめく。苦しい。胸が苦しい。その苦しみを人形を作る手にこめる。ほとんど残っていない歯を食いしばりながら、涙と鼻水を流しながら、それでも両手だけは、冷静に、慎重な手つきでゆっくりと動かす。
決して急いではいけない。少しずつ、精密に、確実に作らなければいけない。娘を作っているのだ。子宮の中の胎児を扱うくらいの心積もりでいなければならない。少しでも、手に余分な力が入ると、すべてが崩れてしまう。
周一郎は、全神経に気をはりめぐらせながら、作業を続けた。
涙が邪魔だった。瞳孔をおおう涙が、周一郎の視界をゆがませる。しかし、感情の発露をおさえてはいけない。血を吐きそうなくらいのこの悲しみが、人形作りに必要なのだ。涙を止めてはいけない。泣きわめきながら、製作する。涙や鼻水を、何度も手ぬぐいで拭き取らないといけない。もどかしいが、あせる必要はない。仕事で作る人形とは違い、定められた期間があるわけではない。どれだけの時間をかけてもいい。納得のいくものを生み出すのだ。ひとつの部品ができると、それを抱きしめてみる。そして、くちづけをしてみる。そして、その感触を、遊美を抱きしめた時の記憶、キスした時の記憶とくらべてみる。共通するものを感じなければ、その部品は壊す。そしてまた作り直す。遊美の感触を再現できるまで、何度でも作り直す。食事をとるのが、わずらわしかった。しかし栄養をとらないと、手は思いどおりに動いてくれない。作業を止めたくはないが、我慢して、最低限の食事はとる。遊美の部屋から出るのは、食事と用便のときだけだった。それ以外の時間はずっと、部屋にこもっていた。風呂には入らない。髭は剃らない。髪は切らない。着替えない。電話が鳴っても出ない。そうした生活を続けるうちに、体質が変わり、やたらと喉が乾くようになった。毎日毎日涙を振り絞り続けたため、たくさんの水分を涙腺に奪われていた。
そして、三年がたった。
遊美の人形は、完成した。
その人形は、作られたと同時に付喪になっていた。
周一郎の強い悲しみをこめられた遊美の人形は、はっきりとした意志を持つようになった。それは他の付喪とは違う、限りなく人間に近い形のものであった。
人形は、まず自分が人形であることを自覚した。そして周りにちらばった、道具や様々な部品から、自分が、いま目の前にいる老人に作られたこと。この老人が、自分の持ち主であるけとを理解した。
朝日がさしこむ部屋の中で、周一郎は、完成した遊美の人形にまず服を着せた。白いブラウスに、黒いスカートだ。そして人形を椅子に座らせると、その前に立った。
肩が震えた。
無意識に、祈るようにして両手をあわせていた。
「できた」
その人形は、特別に美しいものではなかった。腰までのびた長い黒髪に、長い前髪。整った顔つきをしてはいるが、あくまで普通の人間の少女を再現しているものである。マネキン人形や彫像のように、無機質に均整のとれた形をしていない。ニキビやホクロがあるし、産毛もある。爪も少しのびているように作られている。目をひくような美しさはない。本当に、普通の少女が椅子に座っているだけのように見える。
しかし、それがすごい。
作りものの気配が全くないのだ。
睫毛や、わずかにささくれた唇の皮といった、想像を絶するほどの緻密な細工により、そこに人間がいるかのような存在感を見事にかもしだしている。
「・・・・・・遊美」
完成した喜びと安心で、体から一気に力が抜けた。老体に蓄積された重い疲れのそいで、周一郎の意識はゆらぎ、体が前のめりにかたむいた。
その時、
人形が動いた。
椅子から立ち上がり、倒れそうになった周一郎の体を支えたのだ。
「ああ、すまない」
と、状況もよくわからずに、寝ぼけて思わず口にしてしまった。
そのあと、周一郎はゆっくりと目を見開いた。
朦朧としていた意識がいっきにさめてゆく。
「え?」
顔をあげる。
人形は、周一郎から手をはなすと、まっすぐに立ち、そのまま動かなくなった。
「・・・・・・動いた?」
周一郎は、ぼうぜんとつぶやいた。
そのまま、遊美の人形と、しばらくの間、無言で向かいあった。
窓の外から、鴉の鳴き声が聞こえた。風が、カーテンをゆらす。
沈黙の中、自分の鼓動が早まってゆくのを感じる。
「・・・・・・なぜ?」
周一郎は考えた。しかし、わからない。どうして人形がひとりでに動きだしたのか、理解ができない。
・・・・・・そう、いわゆる常識の範囲内では。
常識の外で考えるのなら、ひとつの想像が浮かぶ。そしてそれは自分が、心の底から望み、願っていた奇跡だ。
「遊美か?」
周一郎は、かすれた声で聞いた。
人形は答えない。いや、答えられるはずがない。人間のように、声帯などついていないのだから。
それでも、周一郎は聞かずにはいられなかった。
「おまえ、遊美なのか?遊美の魂が、人形にのりうつったのか?」
人形は、考えた。
どうやらこの老人は、自分に遊美という役割をあたえたがっているようだ。そういう強い期待感が、皺だらけの表情にはっきりと浮かんでいる。
人形は、うなずいた。
自分はこの老人の持ち物なのだから、持ち主の希望に従うのだ。だから、何の躊躇いもなく、無表情のまま、はっきりとうなずいてみせた。
すると、老人はその場にうずくまって泣きだした。
「・・・・・・おお」
涙など、とうに枯れ果ててしまったと思っていた。人形を作っている間に、あれだけ絶望の涙を流したのだから。
しかし、いま両目から溢れだしている涙は種類が違う。あたたかい、喜びの涙だ。希望の涙だ。
周一郎は、絨毯に額をこすりつけ、大きく嗚咽をもらした。そして強く両手をあわせ、天に向かって感謝の意を示した。
これが神の采配なのか、それとも、人智を超えた宇宙の仕組みなのか、周一郎にはわからない。
ただ、この奇跡を起こしてくれた、なんらかの超常的な力に対して、周一郎は、深く頭をさげた。
遊美の人形は、そんな周一郎を無表情で見下ろしていた。
そうして、人形は、その日から遊美として、周一郎と共に生活をすることになった。
生活とはいっても、人形は食事はしないし、睡眠もとらない。基本的には、遊美の部屋の中で、ずっと立ち続ける毎日であった。
時折、周一郎に呼び出されて、食事につきあったり、屋敷の中を歩きまわったりした。
周一郎は、遊美との思い出をいろいろと人形に語った。
幼い頃、遊美が一千万円以上する彫像の顔にマジックでヒゲの落書きを描いたこと。
魔女が登場する映画を見て、自分も魔法が使えると信じ、箒を股にはさんで階段の上から飛び降りてケガをしたこと。
中学生になった頃には、自立心がめばえて、周一郎のことを避けるようになり、部屋に閉じこもることが多くなったこと。
夜遅くまで学校の友達と遊んでいたことを叱りつけ、激しい喧嘩になったこと。そのとき初めて遊美の頬をたたいてしまったことを、いまでも後悔しているということ。
高校生になる頃には、周一郎と会話をすることがめっきり少なくなったこと。
それでも、毎年周一郎の誕生日には、ケーキを作ってくれたこと。
人形は、その話のひとつひとつにうなずいてみせた。
そうするだけで、周一郎は、目に涙を浮かべて喜んだ。
人形と一緒に、外出してみたかったが、それは我慢した。もし、知人に見られたりしたら、余計な騒ぎになる。そういう慌ただしいことは嫌いだった。周一郎は静かに遊美と暮らしたかった。
時々、雑誌の取材や美術商が訪れたときには、人形を物置に隠した。
人形は、周一郎の言うことには、素直に従った。周一郎は、それが少し気になった。娘の遊美は、もっとわがままな子供だったはずだ。しかし一度死んで人形としてよみがえると、いろいろと変わってしまうのかもしれないと考え、納得した。
周一郎は、幸せだった。
遊美の人形が、廊下を歩く。階段を下りる。ドアを開ける。椅子に座る。しゃがむ。寝転がる。そんな何気ない動きを眺めるだけでもうれしかった。
自分の最高傑作が、遊美の魂をのせて動いているということが、親としても、芸術家としても、うれしくてしょうがなかった。
遊美の人形も幸せだった。
いつも大事に扱われ、人形として、物としてのの幸せを感じた。
周一郎が外出しているときは、人形は屋敷の書斎で本を読んでいた。少しでも遊美という役割に近づけるよう、人間について学ぼうと思ったのだ。
本を読んでいる間、屋敷にある様々な物の声が聞こえた。
「になああああ、になああああ」
「つきつつつつ、つきつつ、つきつつつつつ、つきつき」
「ひいころころころ、ひいひいころろろろろ」
「ばぐんとっ、ばぐんとっ、ばぐんとっ」
「ないいいいいむ」
「とこぼぼぼぼぼぼぼ」
窓ガラス、テーブル、カーテン、壺、電灯、換気扇、様々な物が、屋敷のあちらこちらでそれぞれの声をあげていた。
この声は、周一郎には聞こえていないようだった。
人形も、物の声を発することはできた。
いくつもの本を読み、周一郎の話を聞くことで、物の声で人間の言葉を話せるようにはなったが、話しかけてみても、周一郎は反応してくれないので、さみしかった。
時々、洗面台の前に立って、鏡に映る自分にむかって、言い聞かせるようにつぶやいた。
「わたしは遊美。わたしは遊美。わたしは遊美。わたしは遊美。わたしは遊美。わたしは遊美。わたしは遊美。わたしは遊美。わたしは遊美。わたしは遊美。わたしは遊美。わたしは遊美。わたしは遊美。わたしは遊美。わたしは遊美。わたしは遊美。わたしは遊美。わたしは遊美。わたしは遊美。わたしは遊美。わたしは遊美。わたしは遊美。わたしは遊美。わたしは遊美」
周一郎のためにも、本物の遊美に少しでも、近づきたかった。遊美の部屋にある、学校の卒業アルバムや日記に目を通して、少しでも本物の遊美らしくふるまえるよう、努力した。周一郎を傷つけたくなかった。だから、嘘がばれないよう、細心の注意をはらった。
その成果のおかげか、周一郎は人形が本物の遊美ではないと疑うことはなかった。
それから一ヵ月後、付喪と化した自転車による殺人事件が起きた。
その後、様々な場所で、付喪による、傷害、殺人が起きた。
そのことを周一郎が知ることはなかった。屋敷には、テレビもラジオもない。パソコンも置いていない。新聞もとっていない。俗世間の無駄な情報は、創作の感性をにぶらせるからだ。もし付喪のことを知っていたら、人形の嘘に気付いたかもしれない。
遊美の人形は、なんとなく、その付喪の事件の気配のようなものを感じていた。
屋敷の様々な物の声が、不安そうにざわついているのだ。それぞれの物同士が、それぞれの物の言葉で、何か緊迫した声色で囁いていた。
遊美はいま屋敷にあるただ一体の人形なので、他の物の言葉の意味はわからなかった。
物は、同じ物同士でないと、言葉の意味はわからない。ナイフはナイフとしか、ポットはポットとしか会話ができないのだ。
だから遊美も、付喪の殺人事件について知ることはなかった。
それは、ある日突然起きた。
夜の一時頃。いつものように遊美の人形が部屋の真ん中でたたずんでいると、いきなりけたたましい物の声が聞こえてきた。
「みじぇねえねえみ。みじぇみみみみみねぇみ。みじぇねえねえねえねえ」
その物の声は何かおかしかった。いつも聞いている、屋敷の家具や道具の声とは、感触があきらかにちがう。
なんというか、声の中に、どろりとした、黒くて焼けるほど熱い何かがまざっているかのような、そんな感じだった。
遊美の人形は顔をあげた。
すると、周一郎のアトリエのほうから、激しい物音がした。何か液体を壁にたたきつけたような音、壁をたたく音、何かを倒す音、ガラスの割れる音。
そして、周一郎のくぐもった悲鳴。
アトリエで、周一郎の身に何かが起きている。
遊美の人形は走り出した。
顔面からぶつかってドアを押し開け、廊下に出る。すごい速さで周一郎のアトリエに向かう。
奇妙な物の声は、だんだんと大きくなっていった。まるで何かに興奮しているかのようだった。
「みじぇねみじぇねみじぇねねねねねみみみみねみねみねみじぇじぇじぇじぇみ」
声が急に止まった。
同時に、騒音も聞こえなくなった。
遊美の人形は、アトリエに飛びこんだ。
アトリエの部屋の中は、極彩色に染められていた。
赤。
青。
黄。
緑。
紫。
黒。
白。
桃。
茶。
他にも様々な原色の粘液が、壁や天井、床や棚にたくさんぶちまけられ、飛び散っていた。
まるで、巨大なステンドグラス。もしくは立体的な抽象画の中に迷いこんだかのような、人間だとめまいを起こしそうな、強烈な光景であった。
それは、絵の具だった。
水彩、油性、アクリル、ポスターカラー。
周一郎が絵画を描くときに使っていた、大量の種類の絵の具だ。
その中身、全ての色彩が、部屋中を隙間なく埋め尽くすようにしてこびりついていた。部屋に入った遊美の人形は、床についた灰色の絵の具をぬめりと踏んだ。
例の声は、その絵の具から聞こえてきた。その声は、さっきとくらべて、だいぶ弱々しくなっていた。
「みじぇじぇねえねえ。みねねね。みじぇみ」
「みじぇねねねね」
「みじぇねみ」
「み」
「みじぇねね」
「ね」
「み」
絵の具の声が途切れた。
死んだ。
ゴミになったのだ。
部屋中に、飛び散った絵の具は、付喪になっていた。
しかし、壁や天井、床にこびりつき、乾燥した絵の具は、もう絵の具としては、使えない。だから、物として、死んだ。付喪としても死んだ。その瞬間、ただのゴミになったのだ。
それを無視して、遊美の人形は、周一郎の姿を探した。
周一郎は、窓際に、胸をおさえてうつぶせになって倒れていた。頭から足にまで、全身に絵の具がこびりついていた。
遊美の人形は、それに駆け寄り、周一郎の肩を抱きあげた。
周一郎の顔が上を向いた。
死んでいた。
目から、鼻から、そして口から、だらりと絵の具を垂らして死んでいた。
付喪になった絵の具が、周一郎の体内にもぐりこんだのだ。そして肺が絵の具でいっぱいになり、周一郎は窒息して死んでしまった。
遊美の人形は、動かなかった。いや、動けなかった。
持ち主が、死んでしまった。
こういうとき、人形として、自分はどうすればいいのか、わからなかった。無言で、無表情で、腕の中の周一郎の死体を見つめ続けた。
一時間がたった。
遊美の人形は、まだ微動だにせずに、腕の中の周一郎の死体を見つめ続けていた。周一郎の顔についた絵の具は、乾燥して固くなっていた。部屋中にこびりついていた絵の具も、ほとんど乾いて固まっている。
遊美の人形は、少しも動かなかった。
そのとき、部屋の真ん中で、何かが倒れる音がした。
遊美の人形は、ゆっくりと振り返った。
そこには、一台のキャンパスが倒れていた。周一郎が絵を描くときに、使っていたものだ。隙間風に吹かれたのか、自然に倒れたらしい。
キャンパスにのせられていた、一枚の絵が、床に落ちていた。
それを見下ろした瞬間、遊美の人形の肩が一瞬震えた。
それは、遊美の絵だった。晴れた青空の下、庭にたたずむ遊美の姿が描かれていた。
まだ色を塗られていない。鉛筆による下書きの段階の作品であった。
絵に描かれた遊美は、人形と同じ無表情であった。それでも、その絵の中の遊美は、とても美しかった。線のひとつひとつに、周一郎の温かい目線が宿っているかのようであった。
絵の隅には、小さく、照れくさそうな字体でこう書かれていた。
『誕生日おめでとう』
遊美の人形は思い出した。
もうすぐ、周一郎の本当の娘である、死んでしまった遊美の誕生日であることに。
周一郎は、遊美の誕生日プレゼントとして、夜遅くにこっそりとこの絵を描いていたのだ。
そこを、絵の具の付喪に襲われてしまったのだ。
どごぅっ
気がつけば、遊美の人形はアトリエの壁を殴って破壊していた。
壁に穴が開いた。
大きなコンクリート片がいくつも庭に落ち、闇の中に土煙をあげる。
付喪である遊美の人形は、凄まじい力を持っていた。
熱い感情が急に胸にこみあげてきて、気がつけば、壁を殴っていたのだ。
自分の行動が理解できなかった。なんでこんなことをしたのか。胸にこみあげるこの熱いものは何なのか?
遊美の人形は、アトリエにある物を次々と破壊していった。
棚を片手で粉々に砕いた。
机を蹴りで割った。
キャンパスを下に叩きつけて、床の板を砕いた。
遊美の人形は、部屋中のあらゆる物を、いや、正確には、部屋中の絵の具がこびりついた物を全て破壊しようとした。
なぜだかわからないが、そうしないと、この熱い感情がおさまらないような気がした。
しかし、部屋中を破壊しても、熱い感情はおさまらなかった。むしろどんどん高まってゆくような気がした。埃がたくさん舞う中で、遊美の人形は無表情で拳を握りしめ、震えた。この感情を、どうすればいいのか、わからなかった。
その時、屋敷の外、遠くの方から、かすかに声が聞こえてきた。
それは、物の声だった。
「てえ」
「てえて」
「てえてえてえ」
その声を聞いた途端、遊美の人形はかたっと顔をあげた。
さっきの絵の具の付喪と同じ、どろりとした、黒くて焼けるほど熱い何かが、その声の中にまざっていたのだ。
壊したい。
反射的に、そう思っていた。
とにかく自分の体を動かした、わけのわからない熱い感情を、何かにぶつけなければ、おさまらなかった。根拠はないが、あの声を発した物は、何かよくない存在のような気がした。
あれを壊そう。
深く考えずに、決めた。
壁に開いた穴から、庭に飛び降りた。
三階の高さを、無傷で着地する。
月のない暗闇だった。風が、強く吹いている。
「てえてえてえ」
「てえて」
「てててえ」
声のしたほうを向くと、遊美の人形は高く跳躍した。
民家の屋根の上に飛びのると、闇の中、音をたてずに素早く走る。
間もなくして、遊美の人形は、一軒の古いアパートの前に立った。
あの声は、アパートの二階の一室から聞こえてきた。
遊美の人形は、アパートの二階にあがると、声のする部屋の前に立った。
玄関のドアが、壊されてずれていた。
その隙間から、中をのぞいてみる。
六畳一間の部屋だ。
入り口近くのシンクには、割れた食器が転がっている。部屋の隅には布団が敷いてあって、本やCDがそこにちらばっていた。
その上に、ひとりの男が倒れていた。全身が小さな穴だらけになって、血を流して死んでいた。
シンクの側に、ひとりの少年が立っていた。
細い目をした、十七歳くらいの少年だ。呆然とした表情で、宙を見上げている。
その視線の先には、奇妙なものが浮かんでいた。
それは、たくさんの割り箸だった。
赤い血にまみれた、おそらく五十本近くの割り箸が、びっしりと部屋中に浮かんでいたのだ。
どろりとした、黒くて焼けるほど熱い何かがまざった例の声は、その割り箸たちが発していた。
「てえてえてえてえ」
「てえ」
「て」
「てえてえ」
割り箸の、付喪だ。
布団の上に倒れていた、全身が穴だらけの死体は、あの割り箸がやったのだろうと予想がついた。たくさんの割り箸に体中を突き刺されて殺されたのだ。
割り箸は、もうひとりの少年も狙っているらしく、箸の先をいっせいに少年のほうに向けていた。
「ててえてえててて」
「てえてえてえ」
「てててててえてえ」
割り箸の声が高ぶった。どろりとした、黒くて焼けるほど熱い何かがまざった声。周一郎を殺した絵の具と、同じ声。
遊美の人形は動いた。
ドアをもぎとるようにして開けて、部屋に入った。そして宙に浮かぶ五十本近くの割り箸を全て捕まえた。
風が巻き起こった。
全ての割り箸を両手に握ると、遊美の人形は少年の前に背を向けて立った。
たった一秒の間に、それだけ動いた。
あまりにも速かったため、少年には、それがよく見えなかったようだ。何が起きたのかわからないといった表情で、人形の背中を見つめている。
割り箸たちは、手の中から逃げだそうともがいた。軽い木材のこすれあう音が、ぎち、びき、びき、と響く。
遊美の人形は、指に力をこめた。すると、割り箸のひとつひとつが悲鳴をあげた。
「てててててててててててててててててててててててててててっ」
「ててててててててててててててててててててててててててっ」
「ててててててててててててててててててててててててててててててっ」
「てててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててて・・・て・・・・・・・・・てえ・・・て・・・・・・て・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
遊美の人形は、全ての割り箸を握りしめて砕いた。へし折れた割り箸は、ぼろぼろと床に落ちた。
声がやんだ。
同じ物である遊美の人形にだけわかる、突然の沈黙。
砕かれ、ただの木片と化したことで、割り箸は死んだ。ゴミになったのだ。
しかし、遊美の人形の心は、晴れなかった。周一郎が死んだ瞬間にわきあがった、熱い感情がまだおさまらない。いったいどうすればいいのか?このままだとまた暴れだして、いま後ろにいる少年も殺してしまいそうだ。
「君は、誰だ?」
そのとき、背後から声をかけられた。
ふりかえると、さっきの少年が立ち上がって、眉間にしわをよせながらこちらを見つめていた。周一郎以外の人間を見るのは、これが初めてだったので、遊美の人形は、少し緊張した。
「君は、誰なんだ?」
もう一度聞かれた。
遊美の人形は、物の声で答えた。
「わたしの名前は、遊美」
答えてから、心の中で苦笑した。
わたしは何を言っているのだろう?自分の声は、人間には聞こえないのだ。名乗ったところで、何の意味もない。
ところが、少年は細い目を見開くと、何かを考えるかのようにうつむき、少し間を置いてからこう言った。
「君はなんで、物の声でしゃべっているの?」
「・・・・・・え?」
「遊美ちゃん・・・・・・、だっけ?君は、いったい何者なの?付喪をあんな簡単に壊せるなんて」
「聞こえるの?」遊美の人形は、少年にせまった。「あなた、わたしの声、聞こえるの?」
少年は、とまどいながらもうなずいた。
遊美の人形は驚いた。
信じられない。一体どうなっているのか?人間が、どうして物の声を聞き取ることができるのか?
遊美の人形が混乱している間に、少年はまた何かを考えるかのようにしばらくうつむき、そして、ゆっくりと聞いた。
「君は、もしかして、人形、なのかい?人形の、付喪?」
遊美の人形は、うなずくと、恐る恐る、ゆっくりと答えた。
「え、ええ。ツクモというものが、な、何か、わからない。けど、私は人形。遊美と名づけられた、人形」
返事をするなんて体験は、生まれて初めて、いや、作られて初めてだ。
奇妙な快感を感じた。自分の言葉が相手に伝わるということは、こんなにも気持ちいいものなのか。
少年は、驚きの声をあげた。
「・・・・・・すごいな。まるで本物の人間じゃないか。どうやって作ったんだろう?君を作ったひとは、天才だな」
周一郎の笑顔が脳裏に浮かんだ。
また熱い感情がこみあげてきた。
暴れそうになる自分をおさえるために、遊美の人形は、本で読んだことのある、「質問」というものをしてみることにした。
「聞きたいこと、ある。」
「何だい?」
「あなたは、どうして、わたしの声、聞こえるの?人間には、聞こえないはず、なのに」
すると、少年は静かに笑みを浮かべ、ゆっくりと答えた。
「ぼくは、少し普通じゃないんだ」
それが、物の声を聞くことができる少年、枕陸との出会いであった。