ノートの話
蹴られた。
行人は椅子から転げ落ちた。
教室のざわめきが一瞬静まった。しかし倒れたのが行人だとわかると、生徒達は何もなかったかのように、また騒ぎはじめた。
彼等にとって、昼休みに行人が蹴り倒されるのは、日常の光景であった。
「おう、悪い悪い」
田倉信次は、わざと蹴ったくせに、そう言ってすまなそうに頭をさげた。
行人は無言でうなずいて立ち上がり、椅子を立て直して座ろうとした。
すると、その椅子がさっと後ろに引かれて、行人は床に尻餅をついた。
「だっせえ」
田倉は椅子を持ったまま、下品な笑い声をあげた。
頬が熱くなるのを感じながら、行人は歯を食いしばった。にらみつけようとして顔をあげたが、田倉の高校生離れした大きな体を見て、すぐにその気合いはしぼんでしまう。
悔しさをおさえるために、頭の中でいつもの言葉を唱える。
石になれ。石になれ。石の心になればいい。石は怒りを感じない。石は屈辱を感じない。こんなことは何でもない。
大丈夫。
ぼくには黒色ノートがある。
ぼくには黒色ノートがある。
田倉が怒鳴った。
「てめえ、何笑ってんだこら」
また蹴られた。今度はつま先で腹を思い切りだ。
行人は、激しくえずいた。よだれが少し、床に垂れる。
大塚行人はいじめられていた。
高校二年生になった春、クラスメイトで不良の田倉信次に、目をつけられてしまったのだ。
理由はささいなことだった。休み時間に、曲がり角で誤って田倉とぶつかったことがあった。それをきっかけに、田倉は行人に何かと因縁をつけては、からんでくるようになった。
最初は、軽くこづかれるくらいのものだったが、行人が抵抗しないとわかると、だんだんと暴力的になっていった。いまでは、あいさつ代わりに強く蹴りを入れられる毎日だ。
同級生も先生も、誰も助けてくれなかった。
田倉はヤクザの息子だった。それも街で強い権力を持つ田倉会の跡取り息子なのである。
田倉は入学したばかりの頃に喧嘩で二人の不良生徒を病院送りにしたことがあった。
そのとき田倉は、気絶した二人の不良を、足をつかんでひきずりながら、校舎中を走り回った。下品な笑い声をあげながら、気絶した不良をひきずりまわした。額から血を流し、目をぎらつかせたその形相に気圧されて、生徒も先生も誰も彼を止められなかった。
これだけの事件を起こしても、田倉は何の処分もされなかった。
先生達は、ヤクザの報復を恐れたのである。
だから、行人がいじめられていても、誰も田倉を止めようとはしなかった。
行人も同様の恐怖に縛られており、田倉のいじめに逆らうことができなかった。
行人は毎日なぶられた。
殴られた。
蹴られた。
投げ飛ばされ、壁に叩きつけられた。
歯を折られた。
爪を割られた。
強くひっかかれ、皮膚をはぎとられた。
小柄で色白な行人の苦痛にゆがむ表情は、田倉の加虐心をくすぐるようだった。
行人は耐えた。
誰にも救いを求めずに、きゃしゃな体で田倉の暴力を受けつづけた。
その間、頭の中で、何度もこの言葉をくりかえしていた。
石になれ。石になれ。石の心になればいい。石は怒りを感じない。石は屈辱を感じない。こんなことは、何でもない。
大丈夫。
ぼくには黒色ノートがある。
ぼくには黒色ノートがある。
放課後、行人は帰る途中に市立図書館へ寄った。
夕方の館内は、人が少なく、静かだった。
一番目立たない、奥の席に座り、学生鞄から一冊のノートを取り出した。
ごく普通の大学ノートだ。だいぶ使いこまれているらしく、表紙が色あせ、四隅がささくれている。
机の上に、そのノートを広げた。
ペンケースから、愛用しているボールペンを取り出し、強く握りしめる。
そしてノートの余白に、少しずつ、ゆっくりと、こんな文章を書きはじめた。
『深夜の道路。電柱に、田倉信次を縛りつける。ハサミを持ったぼくがその前に立つと、田倉はだらしなくわめき、じたばたと暴れる。しかし太い針金でしっかりとぐるぐる巻きにしているから、奴は動けない。ぼくは笑いながら、いきなりハサミで田倉の耳を切る。田倉はええ、と叫んで目をつぶり、頭をふりまわす。そのせいで手元が狂い、ちぎれかけた耳がだらしなく垂れる。ぼくはその耳をつかみ、思い切りひきちぎる。田倉は悲鳴をあげ、電柱に後頭部を打ちつける』
そのあとも引き続き、田倉をいたぶる文章を書いていった。
これが、田倉のストレス解消法だった。
空想の中で、田倉を激しく虐待し、その様子をノートにつづる。
そうすることで、架空の優越感にひたっていた。
情けない行為だとは、自覚していた。
こんな自分の弱さに、毎日嫌気を感じている。
しかし、ノートに文章をつづっているときだけは、不思議と自己嫌悪もなくなり、楽になることができるのだ。
まるでノートが、負の感情をすべて吸い取ってくれているかのようだった。
行人はこのノートを、心の中で黒色ノートと名付けていた。そして毎日放課後、図書館に通って、たまった黒い怒りをこのノートにたたきつけた。そうすることで、田倉にいじめられる学校生活を、どうにか耐えぬいてきたのだ。いじめに耐えられなくて自殺するよりかは、前向きな行為だろうと考えていた。
田倉の全身を切り刻み、ハサミを右目に突きたてたところで、行人は文章を終えた。
今日もすっきりした。手にかいた汗で、ボールペンがじっとりと濡れている。
窓を見ると、外はすっかり暗くなっていた。まわりの席には誰もいない。もうすぐ閉館時間だ。
行人はため息をついて、ノートを学生鞄にしまった。
「そのノート、何?」
突然、後ろから声をかけられた。
驚いてふりむくと、奥の方にある本棚の横に、ひとりの少年が立っていた。
おそらく行人と同じくらいの年齢の少年だ。赤い長袖のシャツと、黒いズボンを身につけている。
「そのノート、何なの?」
細い目で、こちらをにらむ。
行人が黙っていると、少年は奇妙な言葉を続けた。
「変な声がするんだよ、そのノート。あんた、どういう使い方をしているの?」
行人は顔をこわばらせた。
こいつ、黒色ノートのことを知っているのか?
いや、そんなわけがない。ノートの中身が人目に触れないよう、いつも細心の注意をはらってきたはずだ。こんな初対面の人間に、知られるはずがない。
「まあ、いいんだけどね。声に殺意は無いようだし。でも、あんた、そのノートには気をつけたほうがいいよ」
そう言い残して、その少年は去っていた。
遠ざかる足音が、静かな館内に響く。
行人は、何か不気味なものを感じながら、それを見送った。
帰宅後、行人は自分の部屋で、あの少年の言葉について考えていた。
変な声がすると言っていたが、何のことだろうか?わけがわからない。
頭がおかしい人間の戯言だとも考えられるが、それにしては、どこか真に迫っているような感じだった。
「なんか、むかつくな」
何にせよ、黒色ノートについて否定的なことを言われたわけだ。
「あいつもやっちまうか」
小さく笑いながら、行人は黒色ノートを取り出し、机の上に広げた。
あの少年を、空想の中でいたぶってやろうと思ったのだ。
ボールペンを握ったとき、妙なことに気がついた。
白紙だったはずの、ノートの新しいページに、書いた覚えのない言葉が書かれているのだ。
『どうしたいの?』
ページの真ん中に、それだけぽつんと、女性のようなきれいな字で書かれていた。
「何だこれ?」
首をかしげながら、しばらくその文字をながめていると、不思議なことが起こった。
文字がまるで虫のようにひとりでに動きだし、ゆっくりと形を変えていったのだ。
行人は、口を半開きにしたまま、それを見つめた。
やがて文字はページの上で、新しい文章に変わった。
『ほら、書いてもいいよ。誰を、どうしたいの?』
うわずった声をあげて、行人はノートをとじた。
だらしなく左右に視線を泳がせながら、いま起きたことをふりかえる。
どうなっているのだ?ノートの文字がひとりでに動くなんて。それにあの文章、まるでノートが行人に語りかけているかのようだった。
ノートが。
ノートが?
「あ」
ふと、思い出した。
いまだにテレビのニュースで騒がれている、あの超常現象を。
「付喪?」
物がひとりでに動きだし、ひとを襲うという、いま日本中で起きている怪事件。
テレビでそのことを知ったときは、おどろいたが、自分には関係ないだろうと、なんとなく思っていた。
昔からそうだった。外国で戦争が起きたというニュースを見ても、どこか別世界のことのように感じていた。北朝鮮が日本人を拉致しているという話を聞いても、心は痛んだが、これも自分とは関係ないと思っていた。
そういう大変なことは、常に遠くのどこかで起きるものだと、なんとなく考えていた。
だから、付喪による傷害事件の記事を新聞で読んでいても、自分はそういう目にあうことはないだろうと確信していた。
根拠は何もないが、自分の人生はたぶん平和だろうと信じていた。
まさか、ぼくのノートが付喪になったのか?
もう一度、さっきのページをひらいてみた。
また、文章が変わっていた。
『どうしたの?書かないの?』
ノートが、ぼくに語りかけているのか?
「どうなってるんだ?」
そうつぶやくと、まるでそれに返事をするかのように、文字が変形し、文章が変化する。
『さあ、わたしを使って。わたしの体に、あなたの妄想をぶちまけて』行を変えて、また文章がにじみでる。『わたしは黒色ノートなんだから』
テレビのニュースで見た付喪とはちがって、自分に危害をくわえようとしているわけではなさそうだった。少し、安心した。
行人はノートの文章を、ゆっくりと読み返した。
細くて、きれいな字だな、と思った。
だんだんと、書きたくなってきた。
自分のひとりよがりな殺人の残酷描写が求められている。
たとえ、相手が付喪になったノートとはいえ、このきれいな字に求められているということがうれしかった。
行人はボールペンを握りなおした。
ノートは行人を誘うかのように、ひとりでにめくれ、真っ白なページをさらけだした。
間違いなく、このノートは付喪になっている。しかし問題は無さそうだ。このノートは、行人に友好的だ。
行人は書き始めた。
妄想の中で、電柱に縛りつけた田倉の肉体を、ハサミで切り刻む。
『今日もまず耳から切ってやる。ひとは鏡を見ないかぎり、自分の耳を視界にとらえることはできない。だから、田倉は痛みから耳が切られる様子を想像して、恐怖に襲われるはずだ。ほら、顔が歪んでいる』
そんな文章からはじめて、行人はノートの上で、田倉を切りつけ続けた。
ボールペンが熱い。いつもとちがって、書いてゆくうちに心地よい高揚感がわきあがってくる。
相手がノートとはいえ、やはり求められて書いているからだろうか。楽しくて楽しくてしょうがない。
行人は笑みを浮かべ、興奮しながら、ボールペンを持つ手を激しく動かした。
一行書くたびに、文字のひとつひとつが気持ちよさそうに震えた。
翌朝、目を覚ますと、やけに肌寒かった。
部屋の窓が開いていた。
ふきこむ風が、カーテンを揺らしている。
昨日、窓を開けただろうか?
首をかしげながら、行人は窓を閉めた。
学校へ行くと、教室がざわついていた。
クラスメイト達が、深刻そうな表情で何かををささやきあっている。
ところが、行人がはいってくると、急に静かになった、全員が沈黙して、こちらに注目する。
「……何?」
とまどいながらつぶやくと、皆、すぐに目をそらして雑談にもどった。
また、田倉が何か嫌がらせをしかけたのだろうか?
そう思って教室を見回したが、田倉の姿はなかった。まだ来ていないのか。それとも今日はサボりだろうか。
ホームルームが始まった。
教壇に立った先生が、少し青ざめた顔をして言った。
「昨日、田倉が交通事故にあったそうだ。重傷で、しばらくの間、入院するらしい」
教室がまた、ざわつきかける。
「静かにしろ。出席をとるぞ」
そのとき、生徒のひとりが声をあげた。
「先生、田倉が通り魔に襲われたって本当ですか?」
ざわめきが、大きくなった。
行人は、目を丸くした。
先生は、舌打ちをもらして頭をかいた。
「おい、おまえ何で知ってるんだ?」
「さっき職員室の前を通ったときに、たまたま聞こえたんですよ。まさかとは思ったんですけど、マジなんですね」
先生は、しょうがないな、といった表情でうなずいた。
「ああ、朝一番に、田倉のご家族の方から連絡があった」ため息をついてから、続ける。「全身に、ひどい切り傷をつけられていたそうだ」
ウソ、というつぶやきがあちらこちらから聞こえた。
行人も信じられなかった。
いくら相手が刃物を持った通り魔だとはいえ、あの凶暴な田倉が重傷を負わされるなんて、想像できなかった。
別の女生徒が聞いた。
「その通り魔は捕まったんですか?」
先生は首を横にふった。
「いや、田倉自身、その、ショックが大きかったせいだろうな。何も話せなくなっていて、そのせいで、警察は犯人を捜すのに苦労しているみたいだ」
ショックで話せなくなるなんて、ますます田倉らしくない。
「でも、先生、よかったじゃないですか」
委員長の男子が口をひらいた。
先生は、眉をひそめた。
「どういうことだ?」
「とぼけないでくださいよ。ほっとしてるんでしょ?田倉が学校に来なくなって」
「そんなことは」
と言いかけて、先生は口ごもった。図星なのだ。
「みんなも、そう思うだろう?」
そう言って委員長は教室を見渡した。
生徒達は、気まずそうな顔をしながらも、うなずく。
「おい、そんなことを言うのはよせ」
先生がたしなめると、委員長は肩をすくめて黙り込んだ。
「でも、誰がやったんだろな?」
別の生徒がつぶやいた。
「よほど、田倉君に恨みを持ってるひとかもね」
そのとき、行人は気がついた。
何人かの生徒がうかがうようにこちらを見たことに。
こいつら、ぼくを疑ってる?
確かに、行人は田倉にひどくいじめられていた。疑われるのは、当然かもしれない。
それでも、腹がたってきた。
ふざけんなよ。ぼくが人生を棒にふる覚悟をしてまで、あんなやつを襲うわけがないだろう。そりゃあ、殺したいと思ったことは何度もあったさ。でも、ぼくはその殺意を、黒色ノートでちゃんと解消しているんだ。感情に流されて、犯罪に走るようなバカといっしょにするな。
行人は、こちらを見た数人の生徒の名前を覚えた。そしてあとで、ひとりひとり黒色ノートの餌食にしてやろうと決めた。
休み時間、早速それを実行しようとして、学生鞄から黒色ノートを取り出した。
「あれ?」
ノートをつかんだとき、指先に違和感を感じた。
何かがノートの中にはさまっている。そんな感触だった。
机の上に置いて広げようとすると、まるでノリでくっつけたかのような抵抗があって、ページが開かなかった。少し力を入れて、破れないように気をつけながら、無理やり広げてみた。
ノートはぺりぺりと小さな音をたてて開いた。
「…………?」
そのページには、赤茶色の乾いた汚れがこびりついていた。
鉄棒のような臭いが、鼻をかすめた。
中央に、何か薄茶色の小さくて丸っこいものがあった。はさまっていたのは、それのようだ。
行人は顔を近づけてそれを見た。
そして、それが何かを認識した途端、心臓がばくんとはねた。
それはちぎれた人間の耳だった。
青いピアスのついた、日焼けした耳が、ノートにくっついていた。
行人は思い切りノートを閉じた。
耳がページにはさまれ、ひしゃげる感触が手のひらに伝わる。
悲鳴をあげそうになったが、まわりにクラスメイト達がいることを思い出して、必死で声をこらえた。息がつまった。咳き込みそうになるが、口を手でおさえ、息を止めて、それをも我慢した。目尻に涙が、じんわりとにじんだ。
いま、音をたててはならない。絶対に、注目を集めてはならない。
背中に汗がふきだしてきた。下着のシャツが湿って、気持ち悪い。
誰にも見られなかったか?
さっきの耳を、誰も見てないか?
行人はまわりを何度も見渡した。誰一人として、こちらを見ていないことを確認して、ゆっくりとため息をつく。
とりあえず、ノートをしまうことにした。
なるべく自然な風をよそおって、学生鞄に入れようとしたが、手が震えてしまい、どうしても不自然な動きになる。
学生鞄のボタンをしっかりと閉め、机に手を置いて、行人は考えた。
何だ、あの耳は?
なんであんなものが、ぼくのノートにはさまっているんだ?
さっき見たものを、頭の中で反芻する。
汚れたノートのページ。
赤茶色の汚れは、たぶん血だ。
そして、耳。
日焼けした、茶色の耳。
青いピアスのついた、何かに切り落とされたかのような、人間の耳。
「ピアス?」
ひっかかりを感じて、つぶやいた。
頭に手をあてて、考える。
そして、思い出した。
あの耳の正体がわかったのだ。
行人はまた悲鳴をあげそうになった。我慢しようとしたが、こらえきれずに、小さくぎっ、と
声をあげてしまった。
あれは田倉の耳だ。
間違いない。毎日、黒色ノートに田倉をいたぶる文章を書くとき、何度もあの耳を切るところを、空想していたのだ。あの青いピアスの形には、見覚えがある。
では、なぜ田倉の耳がノートにはさまっていたのか。
嫌な想像が浮かんだ。
付喪になった黒色ノート。
朝、開いていた部屋の窓。
入院した田倉。
そして、耳。
どうしても、異常な結論が頭に浮かぶ。
「おまえがやったのか?」
帰宅後、自分の部屋に閉じこもった行人は、黒色ノートにむかって聞いた。
机の上で、ノートはひとりでに開かれた。
白いページに、文字が浮かぶ。
『そうよ』
「なんで、そんなことを?」
『だって、あなた、望んでいたんでしょう?わたしはあなたの道具なのだから、持ち主の望みを叶えるのは、当然のことよ』
行人は口ごもった。
「あれはおれの妄想だ。本当にあんなことをしたいだなんて・・・・・・」
『思ってないの?』
文字が急に、ページいっぱいに大きくなった。
それに気圧されて、行人は何も言えなくなる。
『思っていたのでしょう?』
行人は、うなずいた。
「でも、一体、どうやって怪我を負わせたんだ?おまえ、ただのノートだろ?」
『ページの端で切ったのよ。いきおいよく、素早くね』
そういえば、紙の端をサッとこすって、指の腹を小さく切った経験が何回かある。
紙自身が、ノート自身がその気になれば、人間を切り刻むことができるのか。
それが、付喪なのか。
行人は、付喪になったノートの凶行を想像してみた。
夜道を歩く、田倉信次。そこに飛んでくる黒色ノート。ぼうぜんと立ちすくむ田倉。ノートは前触れもなく、いきなり田倉の耳をページの端で素速く切る。田倉は、ええ、と叫んで目をつぶり、頭をふりまわす。ちぎれかくた耳がだらしなくゆれる。ノートはページでその耳をはさみ、思いきりひきちぎる。田倉は大声をあげ、電柱に後頭部を打ちつける。
ノートがあの文章を実現してくれたとすれば、おそらくこんなところか。
そのあと、黒色ノートは田倉の全身を切り刻んだのだ。
どれくらいの傷をつけたのかはわからないが、病院に長期間の入院をすることになるくらいには、切り刻んだのだ。
行人は、笑った。
自分がノートに書いたから、田倉は切り刻まれた。
つまり、間接的ではあるが、自分が田倉に怪我を負わせたのだ。
「ぼくがやったんだ。ぼくがこの手でやってやったんだ」
田倉に仕返しをすることができた。
行人は、両手に拳を握りしめ、それを額にあてて、声を殺して笑った。
「・・・・・・やった。・・・・・・やった。・・・・・・やったやったやったやったやったやったやったやったやったぁ・・・・・・っ」
そのとき、ふと、このことが誰かにばれやしないかと不安になった。
しかしすぐに、それは無いなと思い直した。
世間では、付喪による事件がたくさん起きているが、国や警察は、何の対策もとれていない。それはそうだろう。物や道具が動きだして、ひとを襲う。そんな非常識な現象に対して、何ができるというのか。
田倉を切り刻んだのは、付喪になったノートだ。
ただの大学ノートが、人を襲ったなんて、誰が想像できるだろうか?
しかも、それをやらせたのが、一般人である行人だなんで、絶対に分かるわけがない。
安心した行人は、ベッドに寝転がって、ため息をついた。
しばらくの間、天井を見上げてぼんやりとする。
そのノート、何?
急に思い出した。
静かな声。
細い目と、赤い長袖のシャツ、黒いズボンが脳裏に浮かぶ。
変な声がするんだよ、そのノート。あんた、どういう使い方をしているの?
図書館で会った、あの少年の言葉。
いま、振りかえると、まるで黒色ノートが付喪になることを予見していたかのようだった。
行人はあわてて起き上がった。不安がぶりかえし、顔が青くなる。
もし、あの少年が、何らかの理由でノートが付喪になっていたことを知っていたとしたら。そしてそのことを、警察に話そうとしているとしたら。
『付喪を見つけたら110番』
そんな警察のポスターが、いまでは街中に貼られている。
もし警察がたずねてきたら、行人には、隠しとおす自信がない。必ず顔に出てしまうだろう。
考えすぎかもしれない。
しかし、一度気になると、その心配は頭にこびりついて離れなくなる。
行人は、部屋を歩きまわった。首の後ろをかきむしり、小さくうめきながら歩きまわった。
そうやって誰に見せるわけでもなく、表面上はしばらく迷うふりをしてみせたが、心の中ではすでにやるべきことを決めていた。
あの少年を殺そう。
黒色ノートに殺してもらうのだ。
「また、書いていいかな」
話しかけると、机の上のノートは、うれしそうに新しいページを開いた。
行人は椅子に座り、手元に転がっていたシャープペンシルを手にとった。
すると、ノートがひとりでに閉じた。
「え?なんで?」
とまどいの声をあげると、それに答えるかのように、ノートの表紙に文字が浮かんだ。
『いつものボールペンで書いて』
「いつもの?」
すぐに筆箱に入っている、愛用のボールペンを思い出した。
「ああ、あれか。別にいいじゃない。シャーペンでも」
『だめ』
ノートは机の隅へ移動した。
「何でだよ?」
『いいから。お願い。あのボールペンを使って』
行人は、納得がいかなかったが、とくに反対する理由もないので、いつものボールペンで書くことにした。
ボールペンを握ったとき、自分の手が震えていることに気がついた。
田倉の時とはちがう。今度は書けば人を殺せるとわかったうえで、あの少年を殺す文章を書こうとしているのだ。
やはり、怖い。
人を殺すと、どういう気分になるのか。
わからないから、怖い。
しかし、書かなければならない。
行人は、手に力をこめて、ボールペンを動かした。
『あいつは喉を切られて死ぬ』
これだけ書いた。
田倉とちがって、あの少年に恨みはないので、長々といたぶる描写は必要ない。だが、死ぬ、という言葉は、濃く、しっかりと書いた。
行人が窓を開けると、ノートはひとりでに宙に浮き、外へ飛んでいった。
ノートが夕闇に消えるのを確認してから、窓を閉じてベッドに寝転がった。
短い文章を書いただけなのに、なんだかひどく疲れた。まるでノートに生気を吸い取られたかのようだ。いや、もしかしたら、本当に吸い取られているのかもしれない。
台所へ行って、冷蔵庫にしまってある麦茶を飲んだ。
今夜は両親が家にいない。父は仕事で出張。母は町内会の用事で、集会所へ出かけている。
家の中は静かだ。
冷蔵庫のモーター音や、シンクの蛇口から水滴の落ちる音が、はっきりと聞こえてくる。
人を殺した日に、両親と顔をあわすのは気まずいので、行人は安心した。
部屋にもどって、ノートの帰りを待った。
時間がたつのが長く感じられた。
マンガを読んでいても、スマートフォンをいじっていても、ノートのことが気になって集中できなかった。
ちゃんと殺してくれただろうか?
どうしても、嫌な想像ばかりが頭に浮かぶ。
あの少年に逃げられてはいないだろうか。
もし殺せたとしても、もしかしたら、あの少年はすでに警察にノートのことを話しているのではないか。
しかし、その後に起きた出来事は、行人のどんな想像をも超えるものであった。
ノートの帰りを待ちつづけて、二時間がたった。
その間、ゲームをして気をまぎらわせようとしたが、全然集中できなかった。
おなかがすいたので、台所へ行って、買い置きの菓子パンを食べようとしたが、緊張のせいで、口の中がかわいて、噛みつくことすらできなかった。行人は舌打ちをもらして、パンを冷蔵庫にもどした。
一階の自分の部屋にもどった。ノートは、まだもどってきていない。
「おそいな、くそ」
ため息をついて、ふと、窓を見た。
窓の外側に、何かがくっついていた。
「あ?」
行人は近づいてそれをじっと見た。
それは紙屑だった。野球ボールくらいの大きさの、くしゃくしゃに丸められた紙屑が、窓の外側にぺったりとはりついているのだ。
いつからそこにあったのか。
「何だこれ?」
行人がつぶやいたとき、その紙屑が、ひとりでに動き、ゆっくりと開いた。
それはノートだった。
しわくちゃに歪んだ黒色ノートが、窓にはりついていたのだ。
「おいおいおい」
行人はあわてて窓を開けた。
ノートはふらつきながら宙を舞い、部屋に入ると同時に、力尽きたかのように床に落ちた。
行人は、驚きながらノートを拾いあげた。
大学ノートを、まるで塵紙のように、くしゃくしゃに丸めるなんて、一体誰がやったのか?
「おい、どうしたんだよ?」
行人がたずねると、ぐしゃぐしゃになったノートの表紙に、裏に、たくさんの文字が勢いよく浮かび上がった。
『たすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけて』
まるで蕁麻疹のように、『たすけて』という文字でノートは埋め尽くされた。
「な、何があったんだよ?」
聞いてみても、それに答える文章は何も浮かばない。
『たすけてたすけてたすけてたすけて』
という文字が、次々とあふれて、重なり、ノートが真っ黒になってゆく。
そのとき急に、ノートがびくんと震えた。
行人はノートを落としそうになり、あわてて両手で持ちなおした。
その瞬間、見下ろした床の光景に、行人は違和感を覚えた。
少し埃っぽい床に、蛍光灯の明かりに照らされて、行人の影がうつっている。
そのすぐ横に、もうひとつ、人影がうつっている。
誰かが後ろに立っている。
行人はふりむいた。
すると同時に、腕がのびてきて、行人の手元から、物凄い力でノートをもぎとっていった。
目の前には、ひとりの少女が立っていた。
長髪の、十七歳くらいの少女だった。背が高い。前髪がのびていて、両目がほとんど隠れていた。髪の隙間から、わずかに見えるその瞳には、生気がなかった。
白いブラウスに、黒いスカートを身につけていた。
顔つきは整っていたが、美しいとは思えなかった。
異様だと、なぜかそう思った。
ノートは少女の手の中で、網にかかった蝉のように暴れていた。
少女は何も言わずに、そのノートを引き裂いた。
ノートがびくんと震えた。
少女は凄い速さで、繰り返し繰り返しノートを引き裂き、破り捨てた。
ばらばらにしたあと、床に落ちた細切れを拾い集め、その一つ一つをまたさらに、細かく破り捨てた。
そして、もはや塵に近くなったそれを、無造作に床にばらまいた。
行人は、黙ってそれを見つめていた。
混乱していて、何も言えなかった。何もできなかった。
この少女は一体何者なのか?
何の気配も感じさせずに、どうやって部屋に入ってきたのか?
なぜ、黒色ノートを破るのか?
わからない。何がなんだかさっぱり分からない。
しかし、一つだけ、なんとなく分かったことがあった。
たぶん、ノートをぐしゃぐしゃにしたのは、この少女だ。
ノートが怯えていたのは、この少女だ。
背中に汗が浮いてきた。
急激に、喉が乾く。
この少女は、普通じゃない。
それだけは、確信できた。
「おい、あんた」
静かな声が、部屋にひびいた。
行人がふりむくと、部屋の入り口のドアの前に、ひとりの少年が立っていた。
細い目。赤い長袖のシャツ。黒いズボン。
図書館で会った、あの少年だ。
ノートに喉を切って、殺してもらう予定だった、変な奴。
少年は、まっすぐに行人をにらんでいた。
「な、何だよ?」
行人は、声を震わせながらつぶやいた。
少年は、部屋の中に入ると、いきなり行人を殴り倒した。
「ご、ごめん」
床に転がりながら、反射的に謝った行人の顔面を、少年はさらに蹴りあげた。そして叫んだ。
「あんた、あのノートに何てことをやらせたんだ。ノートの中身を読んだよ。ページについた血も見た。・・・・・・想像は、ついたよ。くそ、何てことだ」
少年は、悲しそうな目で、散らばったノートの紙片を見下ろし、つづけた。
「図書館であんたに会ったとき、ノートが付喪になっていたことは、声でわかった。でも、その声に黒い殺意は感じられなかった。そのかわり、とても温かい優しさを感じた。おそらく、持ち主であるあんたに対する優しさだ。だから、問題はないと思ってほおっておいた」
行人には、少年の言っていることがよく分からなかった。
声とは何なのか?
殺意?
優しさ?
一体何を話しているのか?
少年は、拳を握りしめて言った。
「とんだ誤算だったよ」また、行人をにらむ。「ぼくを殺しにきたときも、あのノートの声にあるのは、殺意じゃなくて、優しさだけだった。あのノートは、あんたに対する優しさで、ぼくを殺そうとしたんだよ」
「何なんだよ、あんたら」行人は怒鳴った。「ひとの家に勝手にあがりこんで、暴力ふるって、ひとのノートを破って。わ、ワケわかんないこと言って。そ、そのノートは、おれのなんだ。どう使おうが、お、おれの勝手だろう」
少年は、無表情になった。そして、静かに言った。
「そうか。自己紹介が遅れたね。ぼくの名前は枕陸。付喪狩りをやっている」
「付喪狩り?」
行人はぼうぜんとつぶやいた。
「ああ、文字通り、僕たちは付喪を狩っているのさ。だから、・・・・・・あのノートを殺した。ぼくは物を愛しているんだ。本来、人々の生活を助けるはずの物達が、付喪になり、人を殺す。これはとても・・・・・・哀れだ。だから、殺すんだ。付喪になった物や道具達は、とてもかわいそうだ。だから、・・・・・・狩るんだ」
何だこいつは?と、行人はあらためて思った。
付喪を狩る?
そんないかれたことを、本気でやっているのか?
怯えながら、行人は叫んだ。
「じ、じゃあ、もういいじゃん。ノートはもうボロボロなんだから、目的は果たしたんだろ?さ、さっさと帰ってくれよ」
その少年、陸の顔に、また怒りが浮かんだ。
「あんた、ノートに対して、何も思わないのか?」
「何言ってんだよ?たかがノートだろ?」
また殴られた。
今度は、顔面を思いきりだ。
行人は、鼻をおさえてうずくまり、ぐええと泣き出した。
「・・・・・・もういい。遊美ちゃん、帰ろう」
陸は、ため息をつくと、ドアに向かって歩きだした。
遊美と呼ばれた少女は、それについていった。
行人は涙目で二人の背中をにらんだ。
その時だ。
ノブを握ろうとした陸は、急に鋭い目つきになってふりむいた。そしてとっさに壁際まで下がり、叫んだ。
「遊美ちゃん、気をつけて」
それを聞いて、遊美は無言で身構えた。
陸は、戸惑いの表情を浮かべながら、つぶやいた。
「あのノート、まだ生きてる」
行人は鼻の痛みを忘れて、ノートの紙片を見下ろした。
「あ」
かさこさ
かさこさ
かさこさ
かさこさ
かさこさかさこさかさこさかさこさかさこさかさこさかさこさかさこさ
動いていた。
細かく破られた、ノートの紙片のひとつひとつが、床の上で、かすかに震えているのだ。
「おかしい」
陸は目を細めて言った。
「付喪は、物としての役目を果たせない状態になると、死ぬはずなんだ。あれは、もうノートとしては使えないはずだ。それなのに、なぜ?」
眉間にしわをよせながら、陸はノートの紙片をにらむ。
そのとき、ノートの紙片のひとつひとつが宙に浮いた。
行人は、鼻血を流しながら笑った。
やった。やった。なぜだかわからないが、ノートの付喪はまだ生きている。あの二人をやっつけてくれるかもしれない。僕の鼻をこんなふうにしやがったんだ。許せない。許せない。報いをあたえるんだ。切り刻むんだ。切り刻むんだ。あの赤シャツ野郎は、鼻を切り落としてやろう。あの不気味女は、服を破いて、裸でいたぶってやろう。ぼくを殴るからいけないんだ。わけのわからない奴らめ。殺してやるんだ。切り刻んでやるんだ。切り刻んでやるんだ。
行人は叫んだ。
「やれ。やれ。やっちまえ」
ノートの紙片すべてが、宙を浮いた。
そこの部分だけ、まるで部屋の中に雪が降っているかのような光景ができあがる。
後ろにあるのは、ベッドや机だから、かなり奇妙な感じだ。
浮いているのは紙切れだ。
それでも行人には心強かった。
その一枚一枚が、怪物、付喪。
田倉信次の耳を切り落としてくれた凶器なのだ。
「やれやれやれやれやれやれやれやれやれやれやれ」
行人は、床をひっかきながら叫んだ。
それなのに、陸は落ち着いていた。
ドアの前から、一歩も動かずに、静かな表情で何かを考えていた。
その様子が、行人の勘にさわった。
「殺れえ」
声を枯らして、行人は怒鳴った。
ノートの紙片が、陸にむかって飛びかかった。
その時、強い風が吹きつけてきた。
風を受けて、行人は目を閉じた。
「?」
まぶたをこすり、すぐに目を開けた。
そして絶句した。
ノートの紙片が、すべて消えていた。
部屋中を見渡したが、無い。まったく無い。
何だよこれ、何がどうなっているんだ?
陸の方を見た。
いつの間にか、遊美という少女が、彼の前に立っていた。
かさこさかさこさかさこさかさこさかさこさかさこさかさこさかさこさ
音がした。
音は、遊美の手元から聞こえてきた。
行人は目を向けた。
両手に、何かが握られている。
ノートの紙片だった。
すべてのノートの紙片が、遊美の手の中で、苦しそうにもがいていた。
行人はつぶやいた。
「なんで?なんで?」
行人がその答えに思い至るまでに、数秒かかった。
さっきの風が吹いた一瞬。
その一瞬で、遊美がノートの紙片をつかまえたのだ。
あれだけ細かく、たくさん宙に浮かんでいたものを。
すべて。
一瞬でだ。
「ふざけるな。ふざけるなよう」
行人は、震えだした。
何だそれは?何でそんなことができるんだ?あの女は一体何なんだ?
陸が動じないのは、この遊美という少女がいるからなのか。
遊美は、あいかわらず無表情のまま、床を見つめていた。
その時、陸の表情が変わった。
「あのノートの特徴、飛ぶ、ページの端で切る、文字が動く」眉をひそめる。「……文字が動く。……そうか」
陸は叫んだ。
「遊美ちゃん、気をつけて。そのノートは付喪じゃない」
行人は耳を疑った。
何を言ってるんだこいつは?
陸は、さらに叫んだ。
「ノートじゃなかったんだ。付喪になっていたのは、インクだ。ノートにつづられていた文字の、ボールペンのインクが付喪になって、ノートをあやつっていたんだ」
すると、遊美の手の中で、ノートの紙片の動きが止まった。
そしてその紙片に、急に染みが浮かんだかと思うと、そこから黒い液体がびゅっと飛び出してきた。インクだ。
「うわ」
行人は目を丸くした。
指の先ほどの量の黒い液体、いや、ボールペンのインクの付喪は、べちゃ、と壁にはりついた。
付喪になっていたのは、ノートではなく、インクだった。
行人は、そのことに驚き、それから納得した。
あの動く文字は、てっきりノートが動かしているのだと思っていた。ちがった。文字自身が、インクが動いて、行人にむかって言葉を送っていたのだ。
そういえば、陸を殺すための文章を書こうとしたときも、こんな文字がつづられた。
『いつものボールペンで書いて』
両親にもらった、愛用のボールペン。
その中に詰まったインクが付喪になっていたのだ。
だから、あのときノートの文字は、行人にボールペンを使うよう、指示を出したのだ。
「インクの付喪か。……さて、どうしたものか」
陸は難しい顔をしてつぶやいた。
それを聞いて、行人は、はっとした。
インクは液体だ。
さっき陸が言っていたが、付喪の殺し方が、物として使えない状態にすること、つまり壊すことだとしたら、液体を破壊するなんてことは、容易ではない。
遊美は静かに、インクのはりついた壁を見上げた。
すると、インクが壁からびゅっとはなれ、ベッドの側面にへばりついた。
みし、という音がした。
ベッドが素早く宙に浮いた。
インクがベッドを持ち上げたのだ。
行人は、口を開けたまま、それを見つめた。
ベッドは天井近くまで上昇すると、遊美にむかって、すごい勢いで落下した。
遊美は片手でそれを受け止めた。ベッドから、布団と枕がずり落ちる。
すると、ベッドの側面からインクがはがれた。
そのまま、遊美にむかって飛びかかる。
「よけて」
陸が叫んだ。
しかし遊美はベッドを持ちあげていて、とっさには動けない。
インクはそんな遊美の長い黒髪に、染み込んでいった。
黒髪が、ひとりでにいきおいよく動き出した。インクにあやつられているのだ。
その黒髪は、遊美の首に巻きつき、思いきり締め上げた。
みち、と肉にくいこむ音がする。
遊美はとっさにそれをはずそうとしたが、髪の一本一本が深くめりこんでいるため、うまくはずせない。締めつけは、さらにどんどんと強くなってゆく。
それなのに、遊美という少女は、まだ無表情をたもっていた。
「遊美ちゃん、待ってて」
何かを思いついたのか、陸はそう言い残すと、駆け足で部屋から出た。廊下を走る音が遠ざかってゆく。
行人は、そこでふと我にかえった。
これはもしかして、こっちに有利な状況なのではないか?
このまま、あの遊美とかいう化け物みたいな少女を絞め殺してしまえば、黒色ノートのことを知る人物は、あの陸という少年だけになる。陸はおそらく普通の人間だ。インクの付喪でも、殺せるはずだ。あんな姿でも、ベッドを軽々と持ち上げる力を内包しているのだ。大丈夫だ。きっと殺せる。
よしよしよし。いいぞいいぞ。何にせよ、まずはこの女からだ。
「殺せ」
行人は、遊美を指さして、うわずった声で命じた。
すると、それに呼応するかのように、髪の締め付けがまたさらに強くなった。
ぶちんという音がした。
遊美の首がちぎれて、頭が床に落ちた。
転がって、壁に当たり、止まった。
顔がこちらを向いていた。
無表情だった。
行人は固くなった。頭の中が麻痺し、思考が止まる。
ゆっくりと深く、息を吸い、吐いた。それを三回くりかえすと、全身に汗が浮いてきた。
死んだ。
目の前で、人が死んだ。
それなりの衝撃は覚悟していたつもりだったが、予想以上にきつかった。
何度も激しく深呼吸をして、吐き気と暴れる心臓の鼓動をおさえようとした。
少し落ち着くと、もう一度遊美の死体を見た。
首のない遊美の死体は、静かに立っていた。
行人は違和感を覚えた。ちがう。何かがちがう。
しかし、そのひっかかりは、外から近づいてくる足音によってくる足音によってすぐに忘れさられた。
陸がもどってきたのだ。
行人は警戒しながら言った。
「次はあいつを殺すんだ」
遊美の首が、すう、と浮いた。髪に染みこんだインクが、遊美の首を持ち上げたのだ。
陸が部屋に入ってきた。
その手には、バケツを抱えていた。中には石鹸水がたっぷりと入っていた。おそらく風呂場で汲んできたのだろう。
それを見て、行人はすぐに陸の意図を察した。
あの石鹸水を、インクに浴びせるつもりなのだ。
そうやって、インクの成分を石鹸水によって、洗浄、分解させることで、インクはインクとしての役割を果たせなくなる。つまり、壊れる。陸の先ほどの言葉によると、そうすれば付喪は殺せるのだ。それが、インクの付喪の殺し方。陸がやろうとしていることだ。
陸は、宙に浮かぶ遊美の首を見て、一瞬絶句した。
しかしすぐに歯を食いしばると、その首を狙うようにして、バケツを抱え上げた。
させるかよ。
「よけろ。そのバケツの中身は石鹸水だ。絶対に浴びるなよ」
行人は叫んだ。
それを聞いて、遊美の首は一瞬さがろうとした。
すると、横から腕がのびてきて、遊美の首をつかんだ。
「はあ?」
行人は、まぬけな声をあげた。
そして、腕の主を見た。
思考が止まった。
行人が放心している間に、陸はバケツにはいった石鹸水を、遊美の首に思いきりぶちまけた。
派手な水音とともに、遊美の首はびしょ濡れになる。インクの染みていた髪の毛が、一本一本が苦しそうに蛇のようにのたうち、もがいた。インクの成分が、石鹸水により、洗浄、分解されているのだ。
やがて、髪の毛は動かなくなった。
インクの付喪は死んだ。
しかし行人は、ぼうぜんとしたまま、あるものを凝視していた。
そんな、何で?
声に出せず、口の動きだけでつぶやく。
舌の根が、渇いている。
汗が、止まらない。
顔が青ざめる。
遊美の首をつかんだ腕の主。
それは、首を失った遊美の死体だった。
行人は絶叫した。
喉が痛くなるくらい、長く長く悲鳴をあげた。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ
分からない分からない分からない分からない
理解できない怖い理解できない怖い理解できない怖い
尻餅をつき、悲鳴をくりかえしながら、行人は壁際まで逃げた。背中が壁に当たっても、まださがろうとして、床をひっかいた。
「落ち着け」
歩みよってきた陸に、頬をはられた。
行人は我にかえった。
そして、陸にすがるようにして、震える声で聞いた。
「な、何なんだよう?何なんだよ、あれ、あれ?」
「よく見ろ」
面倒臭そうに、陸は顎で遊美のほうをさす。
唾を飲み、渇いた喉を少し濡らしてから、行人はゆっくりと顔をあげてそれを見た。
首のない、遊美の体が、しっかりと立っている。
そういえば、何かが足りない。
死体とは、何かが違う。
「あ」
ようやく気がついた。
血だ。
遊美の首の断面から、血が一滴も流れていないのだ。
それどころか、首の断面の中身は無機質な空洞になっている。想像していた、ぐちゃぐちゃな肉ではない。まるで、マネキン人形のような。
「まさか」
行人の脳裏に、ある予想が浮かんだ。
しかし、その予想を信じることができない。
陸は、静かに言った。
「もう気づいただろう。そう、遊美ちゃんは、人形なんだよ」目を細める。「人形の、付喪なんだ」
「人形、の、付喪?」
行人はもう一度、遊美の体を見た。
白い柔らかそうな肌。かすかに生えている産毛。肌色の奥に透けて見える、青い静脈。
やはり信じられない。これが人形だというのか。
「遊美ちゃんは付喪なんだ。だから、普通の人間にはできない、怪物のような動きができる。付喪とも、互角に戦える」
陸は、遊美の首を手に取った。そして、遊美の体にむかって、
「さあ、終わった。帰ろうか」
とつぶやくと、部屋から出て行こうとした。遊美の体も、歩いてそれについてゆく。
「おまえら、いったい何なんだよ?」
行人は、また同じことを聞いた。
純粋な疑問だった。
聞かずにはいられなかった。
どう見ても人間にしか見えないほどに、精巧に作られた少女の人形の付喪。
そして、それと共に行動する少年。
この二人組は、異常だ。
陸は、わずかにふりかえって、言った。
「付喪狩りだよ」
その言葉を最後に二人は行人の家から去っていった。