枕陸の話
枕陸は、小さい頃から、物を見ることが好きだった。
スプーンや鍵、茶碗や靴下、ハンガーやガムテープ。そういった何でもない、普段使っている道具のひとつひとつの形に、強い魅力を感じる変わった子供だった。
幼少の頃からずっと、陸は物を尊敬していた。
たとえば、自宅の炊飯器のことをすごいと思っていた。朝昼晩、毎日毎日欠かさずに米を炊く姿を見て、かっこいいと感じていた。
なぜなら、それは自分にはできないことだからだ。
自分ひとりの肉体だけでは、米を炊くことはできない。水を溜められないし、高度の熱を発することもできない。しかし、炊飯器は、毎日平然とそれを行っていた。それをすごいと思った。
幼い陸のこの感動は、家族には理解してもらえなかった。炊飯器だから、米を炊くのは当たり前だろうと、あきれた口調で言われた。その当たり前という感覚が、陸にはわからなかった。
その後、生きてゆくうえで触れてきた様々な物に、陸は尊敬の念を抱いていった。
ブルドーザーが、大量の土砂を押し出す姿をすごいと思った。計算機が、一瞬で算数の答えを表示する姿をすごいと思った。電話機が、遠くに住んでいるおばあちゃんの声を届けてくれることをすごいと思った。自動車が、あんなに重いのに、走るのが速いということがすごいと思った。石鹸が、汚れを落としてくれることがすごいと思った。電灯をつけると、夜でも明るくなることが、すごいと思った。鉄が固いことがすごいと思った。綿がやわらかいことがすごいと思った。
自分達は物に守られている。
成長するにつれて、陸は強くそう考えるようになった。
物があるから、ひとは生活していける。もし、すべての物が無くなったら、建物も衣服もふくめて、何もかも突然消えてしまったら、ほとんどの人間がまともに生きていけなくなるはずだ。
ひとはもっと物に感謝するべきだと思った。だから、当たり前のように、物を粗末に消費してゆくひとを見ると、不快感を覚えた。
中学生になり、ある程度の常識を身につけても、その考え方は変わらなかった。むしろ、ますます強くなっていった。
ある時は、難しい顔つきで、1日中ずっと爪切りを見つめていた。またある時は、台所にある冷蔵庫をじっと見て、急に泣き出したりした。おかげで友達はひとりもできなかった。
そんな陸が、ある能力に目覚めたのは、中学を卒業する前のことだった。
最初は気配からだった。
物を見続けていくうちに、いつの間にか、陸は物の気配を感じとれるようになっていた。
たとえば、道を歩いているときに、見ていないのに、曲がり角の向こうに三輪車があると、なぜかわかった。そして、実際に曲がってみると、そこに三輪車が置かれていた。
他にも、後ろから車の近づく音が聞こえたときに、振り向かないのに、あの車にはテレビが積まれているとなぜかわかった。実際、通り過ぎた軽トラックの荷台には、古いテレビが載せられていた。
まるで、閉じられた箱の中身を当てるかのように、見えないはずの場所にある物の種類を知ることができた。
どこにどんな物があるのか、気配でなんとなく分かるのだ。
そのときはまだ、目覚めつつある力に気がつかなかった。
その後も何度か、物の気配を感じとることはあったが、それが不思議なことだという自覚はなかった。自分はやけに勘がいいんだな、というくらいにしか思わなかった。
自覚したのは、卒業して一年たった頃のことだ。
中学を卒業してから、陸は進学せずに、叔父が経営する雑貨店で働きはじめた。小学生の頃から、休みの日にはいつも通って、叔父の仕事を手伝っていたので、二つ返事で雇ってもらえた。
陸はこの雑貨店が大好きだった。いろんな道具や骨董品、工芸品がいっぱいある、よだれが出そうな職場だった。陸はまじめに働いた。
実家から通うには、少し遠い店だったので、家賃の安いアパートを借りて、一人暮らしをすることにした。
ある日の夕方、陸は、仕事帰りに、公園の便所で、洗面台の鏡をじっと見つめていた。
十六歳になっても、陸は鏡というものが不思議でしょうがなかった。
自分の姿が映るということが、おもしろくてたまらなかった。光の反射による作用という理屈は知っていたが、それでも、自分の髪型や表情、服装をながめることができるという状況はいつも新鮮だった。
一時間くらい、鏡を見ていた。
あたりは暗くなり、公園は薄闇に包まれた。カラスの鳴き声が、かすかに聞こえてくる。それをぼんやりと耳に入れながら、陸はいろいろと角度を変えて、鏡に映る便所の景色を楽しんでいた。
そのとき、突然、声が聞こえてきた。
「かしゅう、かしゅ、かしゅ、かしゅう」
人のものではないし、何かの動物が鳴いているわけでもない。まわりには、何もいない。なのに、それは音ではなく、何かの声だとわかった。
「かしゅ、かしゅかしゅかしゅ、かしゅう」
いままでに聞いたことのない声だ。
陸は周りを見渡した。
声は、目の前の鏡から聞こえていた。
「鏡が、しゃべってる?」
つぶやいてから、自分が口にしたことのバカバカしさに苦笑した。
そんなことがあるわけない。
あるわけないのに、心の中では、その声は鏡のものであると確信していた。
わかるのだ。なぜだかはっきりとわかるのだ。
陸は鏡を叩いてみた。
「かしゅしゅっ」
反応があった。
やはりそうだ。これは鏡の声だ。
陸はあまり驚きを感じなかった。
前から、なんとなく感じていたのだ。
物は、実は生きているんじゃないかと。
物をながめているとき、時々物が何かを語っているような気がしたことが何度もあった。
鏡に耳を近づけてみた。
「かしゅかしゅかしゅ、かしゅう」
声が近くなった。
空気を震わせる音とは、ちがう。耳から入ってくるというよりは、頭の中に直接響いてくるような感じだった。
幻聴ではなかった。
間違いない。これは鏡の声だ。
どうやら自分は、物の声を聞くことができるようになったらしい。
この不気味な状況を、陸はすごくおもしろいと思った。
その日から、物を見るという趣味に、物の声を聞くという楽しみが加わった。
いろんな物に耳をあてて、声を聞いてまわった。
物はどれも、いままでに聞いたことのない、変わった声を持っていた。
茶碗の声は、「ば、ば」。
CDの声は「ぐきょん、ぐきょん」。
消火器の声は「ぱきゃららら」。
画鋲の声は「かとうぽ、かとぽぽぽ」。
フライパンの声は「にににににに」。
不思議な体験だった。
物の声は、普通の音のように、耳をすませて聞こえてくるものではない。物をじっと集中して見ることで、じんわりと染み込むように、頭の中にひびいてくるのだ。
陸は一日中、物の声を聞いた。食事をしているときも、働いているときも、風呂に入っているときも、あきずに物の声を楽しんでいた。そんな日々をくりかえしてゆくうちに、聞く力は鋭敏になり、五十メートル四方の物の声も聞き分けられるようになっていた。
そして八月。
付喪と化した自転車による殺人事件が起きた。
夜、銭湯の帰りに寄った、うどん屋のテレビで、陸はそのニュースを見た。
人を殺した、自転車のニュースだ。
テレビ画面には、檻に閉じこめられた自転車の暴れる姿が映っていた。
アナウンサーの語り、自転車が檻にぶつかる金属音、ざわめき、カメラのフラッシュの音。それにまじって、陸はその自転車の声を聞いた。
その瞬間、陸は手に持っていた水入りのコップを落とした。
ガラスの割れる音が店内にひびき、まわりの客がこちらを向く。
大丈夫ですかと言って、店員のおばさんが駆け寄ってきた。
それに何の反応もしめさずに、陸は無言でテレビ画面に見入っていた。
その顔は、青ざめていた。
「お客さん」
店員のおばさんに肩をゆすられて、陸は我にかえった。そこでようやく、割れたコップに気がついた。
「ああ、すみません」
陸はあやまりながら、ガラス破片の片付けを手伝った。そのあと、うどんの料金を払ってすぐに店を出た。外に出る前に、もう一度テレビを見てみたが、ニュース番組は終わっていた。
帰り道、湯上がりのものとは違う種類の汗を肌に感じながら、先ほど聞いた自転車の声を思い出した。
「なんだあの声は?」
つぶやいた声がふるえる。
いままでにまったく聞いたことがなかった種類の物の声。いや、声というよりは、うめきか雄叫びといったほうが近かった。思い出すだけで、心臓の高鳴りが激しくなる。
いままで物の声を聞いて、不快に感じたことは何度かあった。しかし、それはそれでおもしろいと思っていた。だから、今回のようなことは初めてだった。物の声を聞いて、恐怖を覚えるなんて。
あの自転車の声は、いままでに聞いた、他の自転車と同じものだった。しかしその声の中に、どろりとした、黒くて焼けるほど熱い何かがまざっていた。その何かに気付いた途端、激しい恐怖に支配されたのだ。
あの自転車が動きだしたということに関しては、一応驚きはしたが、衝撃は感じなかった。物は声を発しているのだ。動きだすこともあるだろうと納得していた。
そんなことよりも、あの自転車の声に対する恐怖のほうが大きかった。声を聞いただけなのに、どうして舌の根が渇くほど怖いのか。
アパートに帰ると、すぐに布団にはいった。だが、あの声が頭にこびりついていて、なかなか眠れなかった。
深夜二時を過ぎた頃に、寝るのを一旦あきらめて立ち上がった。水でも飲もうかと考えて、流し場に近づいた。
そのとき、聞こえた。
あの声だ。いきなりすぐ側から聞こえてきた。
陸は、あわてて周囲を見回した。が、部屋にその声を発している物はない。
声は、壁の向こう、隣の部屋からひびいていた。
テレビで見た自転車のものとはちがう。何かはわからないが、とにかく物の声だ。この声にも、どろりとした、黒くて焼けるほど熱い何かがまざっていた。
何が起きているのかはわからないが、隣の住人の部屋にある、どれかの物が、あの自転車と同じ状態になっているということは理解した。
陸は、激しくなる動悸を静めようと、ゆっくりと呼吸をした。
そのとき、また、聞こえた。
今度はあの声ではない。ひとの悲鳴だ。
隣に住む、林律男という大学生の、泣き声に近い叫びが、薄い壁越しに聞こえてくる。
自転車のニュースを思い出した。ひとが殺されたのだった。
もし、隣の物も動きだして、林を襲っているとすれば。
「大変だ」
つぶやくと同時に、陸はわかった。隣の物の声にふくまれる、どろりとした黒くて焼けるほど熱い何かの正体に思いいたったのだ。
これは殺意だ。
純粋な殺意が、物の声色を、胸がむかつくほど、おぞましいものに変えているのだ。
隣から、食器の割れる派手な音がひびいた。
「林さん」
陸は、壁越しに呼びかけてから、部屋を飛び出し、廊下に駆け出た。すぐに林の部屋の前に立ち、ドアノブをにぎる。しかし、鍵がかかっている。
「林さん、大丈夫ですか?林さん」
ドアをたたきながら叫んだが、返事はなかった。代わりに、重いものを落としたような、ごとっという音がした。それから床を殴りつける音と、何かをひっかくような音がしたあと、急に何も聞こえなくなった。
陸は少しさがると、歯を食いしばって、ドアに思い切り体当たりをした。
古い木のドアは簡単にこわれた。ずれて開いたドアの隙間に体をねじこんで、むりやり部屋の中にはいった。
陸の住居と同じ、六畳一間の間取り。入り口近くの流し場には、割れた食器が転がっている。部屋の真ん中には、布団が敷いてあって、本やCDがまわりにちらばっていた。
その上に、林律男がたおれていた。
陸は、口をおさえて、小さくうめいた。
死んでいる。
一目でわかった。
林の全身のあらゆる所に、たくさんの小さな穴が開いていた。まるで、キリで何度も何度もめった刺しにされたかのようだった。その穴のひとつひとつから血がたれており、その多数の血の線は複雑に交差していて、林の死体は赤茶色の網におおわれているかのように見えた。
「うう」
陸はその場にうずくまって片膝をついた。
生まれて初めて、死体を見てしまった。
誰が、いや、いったい「何」が、林を殺したのか?
陸は、室内の様子を慎重に確認した。
一人暮らしの質素な部屋でも、様々な物が置かれている。
炊飯器、ガスコンロ、壁に立てかけた折り畳み式テーブル、ボストンバッグ、ビニール傘、靴、他にもいろいろと。
どれが、あの声を発した物なのか。
どれが、林を殺した物なのか。
集中して、物の声を聞きとろうとした。
そのとき、林の死体が小さく震えだした。
陸は驚き、息を吸いすぎて咳き込んだ。数回咳き込み、息を整えてから、もう一度目をやった。
一瞬、林が生きているのではないかと思ったが、違った。
よく見ると、震えているのではない。
死体の肌が、少しうごめいているのだ。
どうやら、皮膚の下で、何かが動いているようだった。
異様な光景だった。
うごめきで肌が盛りあがるたびに、肉をこするような、濡れた音がかすかに聞こえた。
陸は、口をおさえたまま、じっとそれを見つめた。
うごめきが、急に大きくなった。すると、全身に開いた穴のひとつから、みめりという音と共に、血に染まった棒状のものが、ゆっくりと出てきた。手のひらくらいの長さの、小さな棒だ。それは穴から出ると、まるで蚊のような不規則な動きで宙に浮かんだ。
つづいて他の穴からも、みめりみめりという音と共に、たくさんの同じような棒がゆっくりと出てきた。体中の穴からそれがはみだしている姿は、まるで林の全身に赤い棘が生えているかのようだった。
棒は止まることなく、次々と出てきては宙に浮かんだ。
その数は、十、二十、三十を超え、それが止まった頃には、部屋中におそらく五十を超える量の棒が、ぎっしりと空間を埋めつくしていた。
これだ、と思った。
この棒が林を殺したのだ。
五十本以上の棒に、あらゆる角度から体中を突き刺され、体内をかきまわされたのだ。
棒のいくつかには、肉片のようなものがこびりついていた。
何なんだ、これは。
陸は、その棒の声を聞こうと、神経を集中させた。
棒の一本一本から、あの声が聞こえてきた。
「てえ」
「てえて」
「てえてえてえ」
思い出した。
これは聞いたことがある。
この声は、割り箸だ。
予想外の物の声に、陸はとまどった。
割り箸。
そんなものが、人間を殺したというのか。
数からして、おそらく五十本以上で袋詰めにされた割り箸セットのようなものを、林は持っていたのだろう。それが、突然襲いかかってきたのだ。そして五十本の割り箸に全身のあらゆるところを突き刺され、体内をかきまわされたのだ。
その痛みを想像して、陸は顔をしかめた。
ふと、宙に浮かぶ割り箸の中の三本が、先をこちらに向けていることに気がついた。
嫌な予感がして、とっさに横に飛びのいた。
同時に、激しく鈍い音が、三度。
ふりかえると、さっきまで自分がいた場所の後にある、ステンレスの流し場に、三本の割り箸が深々と刺さっていた。
危険を感じて、あわてて立ち上がった。しかし、そのまま動けなくなった。
さっきまで目の前に浮かんでいたはずの割り箸の群れが、いつの間にか周囲を取り囲んでいた。
「何なんだ、こいつら」
割り箸のひとつひとつが、すっと陸の方を向いた。
たくさんの血の雫が、畳にぽたぽたと滴り落ちる。
「てえ」
「てえてえてえ」
「ててて」
「てててえてえてえ」
「てえて」
「てえてえて」
あの声が、重複して聞こえてくる。
殺意のこもった、割り箸の叫び声。
陸は思わず耳をふさいだ。しかし無駄だった。物の声は、直に頭の中に響いてくるのだ。殺意が、陸の脳内をかきみだす。
激しい吐き気をもよおして、陸は小さくうめいた。
そのとき、急に割り箸の声が高まった。
来る。
陸は目をつぶって、体をこわばらせた。
しかし、覚悟していた痛みは襲ってこなかった。
代わりに、少し風が吹いたかと思うと、かすかに木のきしむ音が前から聞こえた。
何か、気配があった。
陸はそっと目を開いた。そして、ゆっくりと眉をよせた。
目の前に、ひとりの少女が背を向けて立っていた。
長い黒髪の、背が高い少女だった。白いブラウスに、黒いスカートを身につけている。
彼女がいつ部屋に入ってきたのか、まったくわからなかった。
玄関を見ると、ドアが壊されていた。もげかけたドアノブが、だらりと垂れ下がっている。
陸は、少女に目を戻し、そして気がついた。
さっきまで宙に浮かんでいたはずの割り箸の群れが、すべて消えてなくなっている。
陸はぼうぜんとしながら部屋を見渡した。
また、木のきしむ音がした。
それは、少女の手元から聞こえてきた。
少女は両方の手に、血に染まったたくさんの割り箸を、束にしてにぎりしめていた。割り箸は、白く細い指に強く締めつけられ、一本一本が苦しそうにうごめき、こすれあい、木のきしむ音をあげていた。
この少女が、割り箸をすべて捕らえたというのか。
信じられなかった。
陸はさっき数秒くらいしか、目をつぶっていなかった。
その間に少女は音もなくドアを壊して部屋に入り、一瞬で割り箸を捕まえたということになる。
何なんだこの娘は?
陸は少女に警戒の目を向けた。
そのときだ。
「てててててっ」
「ててっ」
「ててててててっ」
割り箸が悲鳴をあげた。
それにまじって、ぎち、びき、びき、という音がした。
少女が、割り箸を握りつぶそうとしていた。
いくら割り箸とはいえ、片手に二十本以上は、つかんでいるのだ。
それを、まったく力む様子を見せずに、握りつぶしているのである。
「てててててててててててててててててててててててててててっ」
「ててててててててててててててててててててててててててっ」
「ててててててててててててててててててててててててててててててっ」
「てててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててて・・・て・・・・・・・・・てえ・・・て・・・・・・て・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
割り箸がすべて砕かれた。少女はゆっくりと指を開いた。
木のくずと化したそれらは、畳の上にぱらぱらと舞い落ちた。
割り箸の声がぴたりと止んだ。
ああ、死んだのだと陸にはすぐにわかった。
わずかな時間の間に、とんでもないことがたくさん起きた。
陸は、深く呼吸をくりかえし、胸をむりやり落ち着かせてから、少女にむかって、ゆっくりと聞いた。
「君は、誰だ?」
すると、少女はふりかえった。
色の白い少女だった。長い前髪に隠れて見えにくかったが、活発そうな顔つきをしていた。笑うと愛嬌がありそうだ。年齢は、おそらく陸より少し年上といったところか。しかし明るそうな顔つきに反して、その表情はまったくの無表情だった。本当に、何もない表情なのである。まばたきもせず、口も頬すらも微動だにせずに、少女は陸をまっすぐに見つめていた。
異様だと思った。先ほどの動きといい、この少女はどう考えても普通じゃない。
「君は、誰なんだ?」
もう一度、聞いてみた。
すると、少女は無表情のまま答えた。
「わたしの名前は、遊美」
その声を聞いた瞬間、陸の目は大きく見開かれた。