箪笥の話
箪笥の引き出しから、手がはみだしていた。
窓から射す夕日に照らされて、それは赤黒い影を床の上に落としていた。
娘の部屋にはいった母親は、それを見て、抱えていた掃除機を落とした。
「何よ、これ」
部屋には、たくさんの服がちらばっていた。箪笥にはいっていた、娘の服だ。
誰かが、引き出しの中にはいっている。その人物が、肘から上だけを外に出している。
母親は、眉をひそめて、そっと聞いた。
「誰?」
すると手がわずかにふるえ、聞きおぼえのある声がかえってきた。
「お母さん?」
「道子?」
引き出しの中から聞こえてきたのは、娘の声だった。そういえば、はみだした手の肌色は娘のものだ。十七歳になる娘の道子が、箪笥の引き出しの中にはいっている。
「あんた、そんなところで何やってんのよ?」
母親が近寄ろうとすると、道子は大声をあげた。
「だめ。来ちゃだめ」
箪笥の引き出しが、ひとりでに勢いよく閉まった。
娘の手がはさまれた。にぶい音をたてて、手首が一瞬変な方向にまがる。
何が起きたのかよくわからずに、母親はぼうぜんとして立ち止まった。しかし娘のくぐもった悲鳴を聞いて、すぐに我にかえった。
あわてて引き出しに飛びつき、思いきりひっぱったが、引き出しはびくともしなかった。それどころか、さらにひとりでに閉まろうとし、道子の手首を強くはさみこんだ。はさまれた部分が、紫色に染まってきた。
「何なのよ、もう」
混乱しながら、母親は箪笥をたたいた。
そのとき、急に視線を感じた。
まわりには誰もいないはずなのに、憎しみのこもった視線を頬に感じる。
正面からだ。母親は、視線の正体に気がついた。
箪笥に、にらまれている。
まさかと思ったが、間違いない。目などないのに、その視線は確かに箪笥から発せられていた。
ひとりでに動き、視線を向ける箪笥。
母親は、いま起こっている状況を理解した。
「付喪だわ」
娘の部屋の箪笥が、付喪になってしまった。
それ以外に、この状況を解釈することができない。
付喪とは、物がひとりでに動き出し、ひとを襲うという怪現象のことである。
いま日本では、あらゆる場所でこの現象が起きており、人々を混乱させている。
テレビや新聞では知っていたが、まさか自分の家で起こるとは思わなかった。
とにかく道子を助けなきゃ。
母親はもう一度、娘が詰まった引き出しひ飛びつこうとした。
固いものが腹にめりこんだ。
別の引き出しがひとりでに強く飛び出し、下腹部にぶつかってきたのだ。
母親はうずくまった。胃の中のものがこみあげそうになり、あわてて口をおさえた。
相手が物だから油断していた。あれはもう普通ではないのだ。
脳裏に、何気なく見ていた、付喪のニュースの画像が浮かぶ。付喪によって死亡した、被害者達の顔写真。
箪笥に殺されるかもしれない。
母親は動けなくなった。
胃のあたりが深く痛んだ。
道子がまた悲鳴をあげた。甲高い泣き声だ。
箪笥の引き出しが、はみだした手首をさらに強くしめつけていた。娘の手は、指を蜘蛛の足のようにばたつかせていた。
このままでは、手首がちぎれてしまう。
だが、母親は動けなかった。また引き出しをぶつけられたら、今度は当たり所が悪くて死んでしまうかもしれない。想像すると、腹の痛みが増してきた。
ああ、でも、このままじゃ、道子の手首が。
母親は、唇を噛んでうつむいた。
そのとき、ドアが開いて、見知らぬ少年がはいってきた。
十七歳くらいの、細い目をした色の白い少年だ。赤い長袖のシャツに、黒いズボンを身につけている。
「ああ、やっぱりいた。付喪だ」
静かにつぶやくと、少年は母親に聞いた。
「おばさん、あの引き出しに閉じこめられているひとは、おばさんの家族?」
とまどいながらうなずくと、少年は箪笥をにらんだ。
「そうか。じゃあ、早く助けないとね」
「ちょ、ちょっと待ってよ。あんたいったい誰なのよ。ひとの家に勝手にあがりこんで」
「ああ、そうでしたね、すみません」
少年は、おじぎをしてから、ゆっくりとこう言った。
「ぼくの名前は、枕陸。付喪狩りをやっています」
「つくも、がり?」
「文字通り、付喪を狩りにきました。あの箪笥は、危険なので、殺します」
言葉に違和感をおぼえた。
「殺すって?」
「付喪は生き物ですよ。自分の意思を持ち、自分で行動している。だから、中には悪いやつもいる」
ぼうぜんとする母親の背後にむかって、陸と名乗る少年は声をかけた。
「それじゃあ、遊美ちゃん。始めようか」
「え?」
母親は、ふりむいて目を丸くした。
いつのまにいたのだろうか。後ろにひとりの少女が立っていた。
長髪の、十七歳くらいの少女だった。背が高い。前髪がのびていて、両目がほとんど隠れていた。髪の隙間から、わずかに見えるその瞳には、生気がなかった。
白いブラウスに、黒いスカートを身につけていた。
顔つきは整っていたが、美しいとは思えなかった。
異様だと、なぜかそう思った。
何より目をひいたのは、その少女が持っている長い棒だった。
丸太のような太さの黒い鉄の棒、いや、鉄柱と呼んだほうがしっくりとくる。その重そうな鉄柱を、少女は軽々と肩にかかえていた。
鉄柱の表面には、細かい傷がたくさんついていて、何の道具なのかはわからないが、よほど荒っぽい使いかたをしているようだった。
何なの、この娘?
母親は手に汗がにじむのを感じた。
「だめだよ、遊美ちゃん。そんなこっそりとはいってきたら。おばさん、おどろいているじゃないか」
陸がやんわりと注意すると、遊美と呼ばれたその少女は、無言で頭をさげた。どうやらあやまっているようだ。陸もすまなそうに頭をさげた。
「すみません、事が終わったら、すぐに出ていきますから」顔をあげて言った。「じゃあ、遊美ちゃん。始めようか」
そのあと、何が起こったのかわからなかった。
いきなり轟音がひびいたかと思うと、たくさんの木の破片が飛び散ってきた。あわてて母親は目をつむり、両腕で顔をおおった。木の破片が、全身に強く当たった。どうなっているのかと考える間もなく、また轟音がひびいた。今度は三度だ。音のたびに、木の破片も三度飛び散った。
音がやんだ。
しかしまた破片が飛んでくるのではないかと思い、母親は顔をおおったまま、しばらくの間じっとしていた。混乱していた。箪笥に対する恐怖と、娘の心配と、謎の二人組への不安が入り混じって、足が震えていた。
一分程たっても、何も起きないとわかると、母親はそっと目を開けた。
大量の木の破片が部屋中にちらばっていた。母親の服にも、細かいそれがこびりついている。
そのくすんだ茶色は間違いない。箪笥の破片だ。
「お母さん」
娘の声がした。
我にかえって顔をあげると、壁にもたれて座る娘の姿が目にはいった。
母親は駆け寄った。
「道子、大丈夫なの?」
「うん、手首がまだ痛いけど、思ったよりひどくはないみたい」
「そう、よかった」
母親はため息をついた。
「お母さん、あのひと達、何だったの?」
「あ」
はっとして、部屋の中を見回した。あの二人の姿がない。いつ出ていったのだろうか。入り口のドアが静かにゆれている。
「あの女のひと、何者なの?」
娘はそうつぶやいて黙り込み、そして震えだした。
四度の轟音。
部屋中に散らばった箪笥の破片。
遊美という少女が抱えていた、傷だらけの鉄柱。
何が起きたのかは、なんとなく想像がつく。しかし、それはとても常識では考えられない光景だ。娘はそれを見たのだ。
「付喪狩り」
彼等は、そう名乗っていた。