指令
今日の指令は「自販機を見つめよ」だった。これで指令は五回目になる。
いったい、どこの自販機の何を見ればいいのかはわからなかったので、とりあえず、一番近い所にある自販機に目をやった。
何か、ヒントが隠されているのか? 縦三列、横に十四本のペットボトルや缶の飲料が並んでいる。上下のペットボトル、缶は短めのやつ。真ん中のは長めのやつ。コーヒー、ジュース系、お茶系、スポーツ飲料系、ミルクティー、甘そうな炭酸飲料、昔からよく見かけるやつ、初めてみるやつ。いったい何を見ればいいのだろう。
私はしばらく自販機の前に立って、何かヒントを探した。
同じものが二本ならんでいるのは、よく売れるものだからだろう。それをどうやって決めているのかな。その自販機ごとの売れ筋、この飲料を作っている会社で取った統計、同じ会社の自販機だったとしても、必ずしも全部同じ並びとは限らないしな。
ふと気が付くと十分経っていた。
「すみません」と中年の男性が悪そうに私の横から来て、「いいですか?」と言うので、「あ、どうぞ」と場所を譲った。この男が買う飲料がヒントかもしれない。
ガシャガシャと音がして、スポーツ飲料のうす白い、ナントカスエットって、汗かよ! という名前のペットボトルを買って、男は去って行った。
けっきょく、何もわからなかった。
駅から家に帰るまでの道で見つけた自販機という自販機を全部見て行った。しばらくその前でヒントを探すのでえらく時間がかかり、徒歩十五分のところ、一時間半もかかってしまった。すっかり暗くなり、人通りもまばらになっていた。
ちょうどひと月ほど前、私は初めての「指令」を受けた。それはやはり勤め先からの帰り道で、いつも乗り換える新宿駅のホームでのことだった。
「足元に気を配れ」と、いきなり耳元で野太い男の声がしたので、身がすくんだ。周りには乗り降りする人がたくさんいるけれど、だれも私のことなんか気にしていない。それに人から話しかけられたという気はしなかった。ただ耳元、というか耳の中で声が鳴り響いたのだ。これってちょっとヤバイんじゃないかな、と思った。でも、「足元」というのだから、と、とりあえず自分の足元を見た。そうしたら、私ったらさっき寄ったトイレでトイレットペーペーを踏んづけていたらしく、ペーパーの切れ端が、靴底にくっついたまま歩いていたらしかった。ペーパーが靴の後ろからなびいているのに気が付かなかったのだ。
ひょえ~、と思った。やっぱり何かわからない何かがメッセージを送って来たのかな?
それから数日に一回くらい、その野太い男の声がすることがあった。全部が全部会社の帰り道のことで、それは、なんだか安堵できることだった。だって、会社で指令が来たら仕事中だったり、会議中だったりすると挙動が不審になるかもしれない。てか、きっと会社では集中することがあるから大丈夫なのかもね。うすぼんやりしているから、指令が入り込んでくるのだよ、きっと。
「白い草を見張れ」というのが2回目の指令。だけど白い草というもの自体、まったく見当もつかなかった。だって、草って、緑でしょ? 困惑して歩いていると、公園の生け垣に枯れた草があって、薄茶だけれど、これって他と比べると白って言える? とか勝手に思ってしばらく見ていた。わからなかった。
短い笹のような群生があって、その縁取りが白と言えば言えるかもしれない。これだろうか? でも、笹って草? わからない。だいいち、見張れってどういうことなのか。
その日はラーメン屋に寄り、豚骨ラーメンを食べた。全然関係ないけど、「白」の連想から豚骨スープを思い出し、ラーメンなんて滅多に食べたいと思わないのに、無性に食べたくなったのだ。
ラーメン屋から出たら、電柱のところに白いペンキでいたずら描きがしてあって、意味もないような、ただの線だったのだけれど、草って思おうと思えば思えなくもないかな、ということで、何かヒントかもしれないと思って、じっと見つめた。そこに、十円玉が落ちていた。それが答えであるとは確信が持てなかったけれど、でも、答えもなかったので、それでいいことにした。とにかく、私は十円玉を拾って財布にしまった。何かこじつけることができて、結論が出たような気がしてすっきりした。
そんなことすっかり忘れていたのだけれど、次の日の帰り道、百均に寄って、あかすりと布巾を買い、216円。レジで財布を開けると、小銭は220円しか入っておらず、そのうちの10円は前日拾ったやつだよ! それがかなりがうれしかった。拾えて良かったなと思った。
それで、前日の「見張れ」という指令をまた思い出して、昨日のラーメン屋に行き、白いペンキのいたずら描きを探した。なんと、誰かがきれいに洗い落としたらしい。どこにもいたずら描きは見つけられなかった。
なんてことはないけど、こんな所にも気を配り、きれいにしている人がいるのかと思うと胸が熱くなった。
3回目の指令は休日の真昼間で、「空を見上げよ」だった。すぐに上を見上げたら、飛行機雲があった。まあいいや。これで、と思った。だから何なのかはわからないけれど…。「これか」と思えることが大切。そんな気がした。
飛行機雲ははっきり、まっすぐ空に描かれていて、この間のペンキのいたずら描きを思い出した。
「落ちてますよ」優しそうなおばあさんがにっこり笑って、私の足元を指さした。手袋を片方落としていた。
「ありがとうございます」と拾った。
ただそれだけなんだけれど…。ここで立ち止まらなかったら、手袋を落としたまま気づかずに行っていたかもしれない。でも、それが指令の目的だとしたらずいぶんと遠回りな指令だけれど、まあ、チャーミング? とも言える? 言えないような気もするけど…、1回目の「足元に気を配れ」の方がわかりやすかったのにな。まあいいや。とにかくそれで良しとすることにした。
4回目は「ノブドウを踏みつけろ」。「ノブドウ」って何? 「野葡萄?」それって、普通に売っているブドウとは何が違うのか。とりあえずスマホで検索してみた。「ブドウ科ノブドウ属に属するつる性落葉低木」だと。そんなもの、この辺にあるのか?
そう思っていると、「ヨウシュヤマゴボウ」が目に入った。これって実がブドウっぽいよね。かなりヨボヨボになっていたけど、少し実が残っていた。なんでこんな植物にゴボウって名前つけるのか、どこから名前が来てるのか知らないけど。すごいムラサキ色だし。ブドウ色って言っちゃってもいいかな? いいとも!
変に思われそうだけど…、周りを確認して、ちょこっと実を取って踏みつけてみた。
実がぶちゅーっとつぶされ、石畳に紫色が残った。だからなんなのだろう。でも、これにて任務完了としよう。と私は決めた。それっきり良いことも悪いことも起らなかったけど完了したってことが大事なんだよ。と自己満足。
さて、5回目の新しい指令「自販機を見つめよ」にはヒントが多すぎて、どれをどうこじつけていいのか、わからなかった。何かすごくむなしい気がした。
声は確かに耳の中で聞こえ、それは、私が意図したものではないことは確かだ。これまでの4回の指令に、答えはなかった。それが正しいのか違うのかの答えはなった。ただ言葉が聞こえ、それに私が何かをこじつけただけだ。
わかっている。これは「幻聴」だ。
だけど、そんなこと人には言えない。幻聴を幻聴として受け止め、野太い声を聞き分け現実と区別すればいいのだ。人から白い目で見られるよりは、その方が何ぼかマシだよ。
私って友達がいないし、人と話すのは大の苦手。短大の頃には少し積極的になろうと決意して友達作りに頑張ったこともあった。でもできなかった。1人でいるのが性に合っているのだ。無理に友達なんか探すことはない。ある日そう割り切ったら気持ちがすっきりした。寂しいってこと自体、感じたことはなかったけれど、でも、ちょうどいいじゃん、指令を出す野太い声の男を友達と思えば。
なんて考えていたその時、横を大きなトラックが通り過ぎた。その荷台に自販機が2台もくくりつけられて乗せられていた。すげ~、あんなふうに自販機って運ばれるんだ。私の目は点となりトラックに釘付けになった。そのトラックがすぐ先の交差点の赤信号で止まった。私は全力で走ってそのトラックに追いつこうとした。
でも追いつけそうもないよ。あとちょっとだけどもう信号が変わりそうになっている。あああ、トラックは行っちゃうんだ。行かないで~! いい年して泣きたくなってくる。
信号は青になってしまった。と、走り出そうしているトラックの窓から手が出て、男がこっちを振り返りニッコリ笑った。私は呆然となってその男を見つめた。
誰?
もちろん見ず知らずのトラックのナビ席に座っているただの男。
でも、心がポッと熱くなった。やだ。これって恋かしら(そんなわけないじゃん)。
ふと気が付くとお腹がかなり減っていた。だけど夕飯を用意するなどという気は失せていたので、レトルトパックの白飯とカレーを食べることにした。それでもいいわ。今日は得したわ。
なんだかスキップしたいような気になり、人目を気にしながらも、気持ち浮かれて家に向かった。