森崎深子のお見舞い
「体調管理できない、かっこわるいよ」
「…知ってる」
「高校生にもなってさ、かぜひいて」
「なんだよ。病人にかける言葉かそれ」
「ふふ」
笑ってしまったから、章太郎が不審そうに眉をひそめた。ぶっきらぼうな口調が嬉しくて、つい。
憎まれ口を叩いている章太郎だけど、身体は布団に沈み込んだまま動かない。しんどくはないと言っているしそれは本当だろう。章太郎は昔から、風邪を引くとぱったり倒れて、高熱をどっと出してそしてすぐ治ってしまうのだ。しかししんどくないというのはむしろ麻痺してしまっているんじゃないかと私は前々から危惧している。
冷えピタを取り出すと、章太郎は素直に額にそれを貼らせて、「ああ冷たい」と言った。その様子に満足して、私は立ち上がる。
「じゃあ、ご飯作るから」
「いらないってば」
そんなわけにはいかない。私は章太郎のお世話をするために定時で退社して駆けつけたのだ。私にだって料理くらいできる。
「そりゃ、しょーたよりは下手だけどさ」
呟きながら章太郎の部屋を出た。扉を閉める間際、彼は目を瞑っていた。
料理くらいできる、と意気込んでみたものの、つくるものはただのおかゆで誰にでも作れるものだ。何か工夫した方がいいのかな、と少し悩んだけど、病人のための食事だ、下手に凝って消化が悪くなったりしたら嫌だし。
結局普通のおかゆと、りんごのすりおろしたものを持って、彼の部屋に上がる。
「いいって言ったのに」
寝ているかなと思ったけれど、私が扉を開けると章太郎はすぐに目を開けた。
「でもせっかく作ったんだから、食べてくれるでしょ?」
身体を起こすのも大変そうだったから、手伝う。彼は不機嫌そうな顔になっていた。
「食べれる?」
「食べれるよ」
拗ねた言い方だった。でも匙を口に運ぶと、律儀に「うまい」と言ってくれる。
「味わかってんの?」
ちょっといじわるな気持ちになって言うと、苦笑が返ってきた。どういう意味だ?
「……あのさ」
「うん?」
私は手持ち無沙汰なので座布団を勝手に引っ張りだして床に座った。章太郎の視線はそれを追って私を見る。
「何?」
「…なんで来たんだよ?」
「へ、なんでって、お見舞い」
当たり前のことを聞かれて思わず素っ頓狂な声を上げると、章太郎はため息をついた。
「お前にとっては俺はなんともなくてもさ、世間的には男の部屋だろ。一人で入ってくるのが、意味わかんねえ」
章太郎の表情は怒っているというより、本当に不思議に思っている感じだった。こっちこそ、意味が分からない。
反駁しようとしたところで、チャイムが鳴った。
「あれ、ヨウくんかな?」
「…今日は来んなって言ってある。居留守使うから出なくていい」
そりゃ、章太郎一人しかいなきゃそれでもいいけど、せっかく私がいるんだから、私が出ますよ。
黙って立ち上がって、章太郎の制止も聞かないふりをして階下へ降りた、もう一度チャイムが鳴る。
「はいはーい」
解錠して扉を開けると、目をまんまるにした洋司くんが立っていた。
「え、ヨウくん?」
「深子姉!どうして?今日金曜日じゃないよね?」
「ヨウくんこそ、どうしたの?今日はお兄ちゃん風邪だから、来ちゃダメって言われなかった?」
「ん。兄ちゃんち、誰もいないかと思ったから」
「誰もいないって?」
「兄ちゃん、一人で寝てたら寂しいと思ったから」
きゅーん。
洋司くんのあまりの可愛らしさに思わず抱きしめたいのをぐっとこらえて、私は心を鬼にして険しい顔を作る。
「あのね、ヨウくん。私がいたからいいけど、今日はお兄ちゃんは一人で寝てたんだよ?家に入れなかったかもしれないし、まっすぐ家に帰ると思ってるお母さんたちを心配させたかもしれないよ?」
私はあまり洋司くんを叱ることはなかったから、洋司くんは驚いて、次いで泣きそうな顔になった。心が痛むが、泣きそうな顔も可愛い。
「ほら、今日は私が送ってあげるから」
「でも、兄ちゃんが」
「…まあ、せっかく来たから、ちょっとだけ会ってく?」
そうは言ったものの、言いつけを破って来た洋司くんを、章太郎は怒るかもしれない。本当素直じゃないからなあ、しょーたは。
洋司くんを連れて二階に上がってみたものの、ノックしてドアを開けると、章太郎は眠っているみたいだった。
「寝ちゃってるから、帰ろっか」
書き置きをして、空いた器を持った。起きたときに誰もいなかったら、章太郎は寂しがるだろうか。…でも、洋司くんを一人で帰したなんてことになったら、章太郎はもっと怒るだろう。それに、それにそれに、最近男の子と接する機会があまりに少なくて、たまには二人できゃっきゃしたいなと思ってしまうのだ。
軽自動車に乗り込んで、でも洋司くんはまだ小学生だから後部座席。横で反応を見られないのはちょっと寂しいけど、仕方ない。
最近のテレビゲームのこととか、授業のことを聞くと、洋司くんは嬉々として話し始める。その端々に「兄ちゃんが」が入るのが微笑ましい。でも、うーん、やっぱり最近遊んでないからかなあ。深子姉のことももっと話題に出してほしいなあ。
「それでさ、兄ちゃんが今度…」
笑顔で言いかけた洋司くんの言葉がふいに止まった。
バックミラー越しに、心配そうにこちらを見つめる洋司くんと目が合う。一人で置いてきた章太郎のことが心配なんだろうか。
「ん?どうした?お兄ちゃんは強いから、風邪なんて大丈夫だよ」
「…深子姉、」
そのあと、洋司くんはもぞもぞと何かを言ったけれど、うまく聞き取れない。
「ん、ごめん、もう一回言って?」
それでもしばらく洋司くんはためらっていたが、黙って待っているとぽつりとこぼした。
「姉ちゃんは兄ちゃんと仲直りしたの?」
「ん……」
そこを突っ込まれるとは思っていなかった。以前にも、急に「いじめられてるならぼくに言ってよ」なんて言い出したことがあったけれど、まだ気にしていたなんて。
「…というより、察されるようなら、大人失格だよ…」
洋司くんに聞こえないように呟いて、ため息をついた。ため息だけが彼に聞こえてしまったようだ。
「やっぱりまだなんだ。じゃあ今日なんでお見舞いに行ったの?」
『…なんで来たんだよ?』
「……だめだったかな?」
洋司くん相手に何を言ってるんだか。弱々しい声なんて、「お姉ちゃん」には似つかわしくないのに。
洋司くんはそれでも、一所懸命考えてくれたみたいだった。
「んと、だめじゃないよ。だって、兄ちゃんはぜったいに深子姉好きだよ。深子姉が来て嬉しいに決まってるよ」
「…そっか」
一心に訴える洋司くんの姿に微笑んだのか、その内容に微笑んだのか、自分でも分からなかったけれど、久々に良い気分になった気がする。
「じゃあ、お休み、ヨウくん」
「ぼくまだ寝ないよ、深子姉」
生意気に胸を張る洋司くんに、ふふっと笑いが零れる。
「再来週、運動会観に行くね」
「絶対だよ」
あーかわいい。ぎゅってしたい。彼のお母さんが苦笑しているのを感じるからしない。何より最近、洋司くんは恥ずかしがって抱きしめさせてくれないのだ。寂しすぎる。
再び車に乗り込んで発進させる。洋司くんとお母さんは、見えなくなるまで手を振ってくれていた。