柏木章太郎の異変
しょーたが最近おかしい。
私がいかに鈍感だからと言って、さすがに分かる。私がどれだけの時間、章太郎と一緒にいると思っているんだ。
その日、最初に違和感を感じた日、私はいつものように章太郎にメールをしていた。
もう澄江もいないから、私が章太郎の家に行くのはおかしい。世間的には、あまり褒められたことではないのかもしれない。章太郎がもう高校生だからといっても、その歳の差は十分に「ショタコン」と言われてもおかしくないのだ。
でも、会いたいし。
洋司くんはとてもかわいい。会社勤めになったことで子どもと触れあう機会がなくなって、今の私にとって洋司くんは唯一、一緒に遊べる男の子だ。洋司くんに会うことが、大きな目的になってしまっていることは否めないけれど。
彼に会える限り、私は柏木家を訪れるだろう。
『今日、会える?』
章太郎の家に行くのは大体金曜日。毎週行けることがわかっていればいいんだけど、仕事が長引くことが結構あるから、いつも連絡が直前になってしまうのが申し訳ない。
すぐに返信が来て、私の訪問が受け入れられたことを知る。
ここで小さな違和感を感じた。
どうしてだろう、何か違う。
『いいよ。今日はハンバーグ』
文面は変わらない。いつもと同じ。ハンバーグってことは、洋司くんもいる。「いつもハンバーグ食ってるわけじゃねえよ」なんて言いながら、私が来る日は洋司くんの好きなハンバーグを作っている。私も大好きだから、全然構わない。
携帯電話をしまいながら、違和感の正体に気がついた。
返信メールが、ほとんど間をあけず返ってきたのだ。彼はいつも必ず、返信に十分程度かかるのに。
たまたま着信メールにすぐ気がついたのだろうと思った。誰にでもよくあることだ。もともと章太郎は結構まめな性格だし、メールに気がつきさえすればすぐに返信するんだろう。
メールの返信が早かったことには納得したものの、その小さな違和感は柏木家に着いた途端膨れ上がることになる。
いつも私を出迎えるのは洋司くんだ。インターフォンを押すと、「はい」と少し緊張した声が聞こえて、私が名乗るとそれが喜びに弾むのが楽しみなのだ。
やがて開けられたドアの向こうに私は洋司くんの笑顔を想像していた、否、それは実際間違っていなかった。ただ洋司くんの隣に、予想もしていなかったものを見てしまったことで、私は洋司くんの輝かんばかりの笑顔を見そびれてしまったのだ。
「深子姉、おかえり」
章太郎が笑っていた。にっこりと、笑っていたのだ!
別に章太郎は笑わないわけじゃない。ばかにしたり呆れたりしたときのいやな笑みだけじゃなくて、腹を抱えて大笑いすることもあるし、洋司くんや家族に向けて慈しむような笑みを見せることだってある。
でも私相手に限っては、彼はまったく笑いかけてくれない。小さい頃に見せてくれた、私を慕ってくれているような笑顔を、ここ数年久しく見ていなかった。
それがどうだろう。そのとき、彼が玄関口で私に向けたのは、彼の幼少期を思い出させる素直な笑顔だった。
「どうしたんだよ、深子姉。早く入れば」
その笑顔を苦笑に変えて章太郎は私を招き入れた。そこでさらに、彼が私を「深子姉」と呼んだことにも気がついたのだった。
いつからか彼は私を「深子」と呼び捨てにするようになっていた。今では別になんとも思わないけれど、当時は少し寂しく思っていたものだ。いつの頃だろう、深子姉なんて呼んでいたのは、彼が小学生くらいの歳じゃないだろうか。
『どーしたの、今さらおねーさん扱い?照れるからやめてよー』
なんて、ふざけて言うことが出来れば良かったのかもしれない。
でも私は彼の変化に怖じ気づいて、何も言うことが出来なかった。
夕食はハンバーグ。洋司くんの好きなハンバーグ。章太郎は、料理がうまい。女子の私よりうまいなんて、女泣かせなやつ。
「手伝うよ」
と、私は食器を手に取る。
「いいのに」
章太郎は申し訳なさそうに言う。いつもは迷惑そうに断るか、あるいはにやりと笑ってこき使おうとするのに。
「私としょーたの仲でしょ」
「…そーだな」
また、にっこり笑った。
調子狂うなあ、もう。
そんな調子で、章太郎は私への態度だけを変えていった。傍目には、それは友好的な変化だと見られるかもしれない。思春期を終えて、年上のおんなのひとに素直になっただけと思われるかもしれない。
違う。
しょーたは、壁を作ってしまったのだ。
私との間に、薄いけれど明確な壁を。
もう私たちはそれ以上、近づけないんだろうか。
今までの、どこかふてくされたような表情が、ちょっと恋しいなんて、言っちゃいけないのかな。
そんな想いは、彼の変化から一ヶ月程度で暴発寸前になっていた。
「章太郎、変わったよね」
「え?」
その日も私は柏木家にお邪魔していた。洋司くんはお迎えがきて帰っていったばかり。私との別れを惜しんでくれるのがとても嬉しかった。やっぱり洋司くんはかわいいなあ。
それで、私たちはソファに座ってテレビを見ていた。
「変わったか?」
「もー、ゆるゆる。中年太りみたいにゆるゆる」
「は、俺が太ったって言うのか?」
「違うよ」
うらやましいくらいの引き締まった細身で何を言う。言いたいのは、体型じゃなくて、彼自身のことだ。彼は最近緩みきっている。私への壁は保持したまま、表面だけは笑顔を取り繕って。何の張り合いもないみたいに、ふぬけた顔をしている。
「ゆるゆるだよ。どうしちゃったの」
「だから何がゆるゆるなんだよ」
ちょっといらついた声を、嬉しいと思ってしまった。こんなことで喜ばないといけないなんて。
「…私、何かした?」
「は?」
「……私、さ」
「ごめん」
言いかけた私を遮って、章太郎は立ち上がる。
「ごめん、聞きたくない」
「え」
部屋の灯りが彼の頭の後ろにあるから、逆光になって表情が見えない。
「もう遅いし、帰れよ」
「や、やだなあ、私もう社会人だよ。しょーたにそんなこと言われなくても、一人で帰れるよ」
「俺だって、もう高校生なんだ」
それ、どういう意味?
「『まだ』高校生なのかもしれないけどさ」
いや、やっぱり『もう』か、お前にとっては。
章太郎は自嘲気味に笑った。私は怖くなって、そのまま逃げ帰ってしまったのだ。彼にまともに相対すると私は、常に逃げてしまう。それがいけないってことはわかっているのに。