柿田則子の冷や汗
愛想良く相づちをうちながら、しかし私、柿田 則子の内心は冷や汗をかいていた。
「えっとお、それって、恋人ってことですか?」
「そうだけど」
画面の向こうの彼女は平然としたふうを装いつつも少し照れているのを隠せていない。それは微笑ましい図のはずだ、私の背後の存在がなければ。
「え、誰ですか、それ?」
「うーん、則ちゃんの知らない人だからなぁ」
「えええ」
背後から小さなうなり声が聞こえて、私は恐怖に怯えながら決してそちらを見ないように努める。
しかし不審な挙動はすぐに見破られ、彼女は眉をひそめて私を質す。
「どうしたの?」
「あ、えっと、なんか弟が呼んでて」とっさに嘘を吐く。ある意味間違ってはいない。
「本当仲いいねえ、則ちゃんちは」
もう一度断った上で通話を保留にし、私はようやく振り向いた。
大学時代の先輩である森崎深子、パソコンの画面を通しても死角になる位置に、彼女を想う少年がそこにいた。
「…どうする?」
「どうしようもないですよ」
彼は弟の友達だった。高校からの知り合いらしいがかなり馬が合うらしく何度も我が家に遊びにきている。顔を合わす度にちょこちょこ話しかけてはいたのだが、ひょんなことから森崎深子という共通の知り合いがいることがわかって、たまたま彼女と今日テレビ電話で話をする予定だったので無理やり誘ったのだ。突然の誘いに彼は戸惑った様子だったが、他の人と接する彼女の姿を見たくないのかと言って同席させることに成功した。もちろん私としては突然彼が現れたときの深子先輩の反応こそを見たかったのだけど、まさかこんなことになるなんて。
内心冷や汗を流す私に構わず、彼は荷物を持って立ち上がった。
「帰りますね」当然引き止める言葉を私は持たない。柏木くんの横に座っていた弟も一緒に立ち上がった。
「う、うん…なんか、ごめん」
「いいですから。深子をあんまり待たせないでやってください」
テレビ電話をずっと保留にしていることを彼は気にしていた。なんて出来た奴。こんなときでも想い人を気にかけるなんて。
「あ、うん」
私はと言えばそんなあいまいな返事を返すことしか出来ない…。
通話終了後弟にはこっぴどく叱られた。
いろいろと後悔の残る一日ではあったが収穫と言うかなんというか、思わぬ新事実が発覚したのは大きい。
まさか、あの森崎深子に恋人がいるなんて。
一体誰なんだろう。こういうゴシップが結構好きな私は早速心当たりはないかと考える。
とはいえ私の知らない人物というのだから、考えたってわかるはずがない。学生時代ならおもしろ半分に尾行しようなんて考えたかもしれないが、お互い社会人でそれは余りにばかげている。となれば、
「聞き込みでしょう」
彼女とはサークルの繋がりだ。今度のテレビ電話もそのOB会の打ち合わせだった。
縦のつながりが大きいサークルで、しかも私は幹事をすることが多いから大体のOBたちとはみんな知り合いだ。だから彼らではないのは当然として、けれど私の知らない情報を知っている可能性は十分ある。
アドレス帳を総動員して私の聞き込みが始まった。
結果としては、有用な情報はなし。
彼女の恋人の話をした途端みんな食いついてくるものの誰もその人物のことを、というより彼女に恋人がいることすら知らなかったのだ。さもありなんといった感じ。耳の早さを自負している私が知らなかったのだから、そうそう多くの人が知っていたらちょっとショックだ。
彼女はなかなか美人な上に気だても良いので大学時代は結構人気だった。しかしある特殊な性癖のせいで彼女に迫った勇者は一人しかいない。アタックした彼は見事彼女とつき合うことに成功したが、すぐに振られてしまった。理由は一言、
「ごめんね、私やっぱり、男の子の方が好きなの」
彼女の魅力と戦わせてなお皆が後込みする原因はまさしくこれに尽きる。
彼女は世に言うショタコンなのだ。
柏木章太郎は彼女の哀れな犠牲者と言える。
幼少の頃に見目の良い彼女に一心に愛情を受けて、その気にならない方がおかしい。しかし彼女に釣り合う男になりたい、なれたと思った頃にはすでに彼女は彼に興味を失っている。彼女が興味を持つのは幼い少年に対してのみなのだ。
そんなことを弟はしたり顔で語った。仮にも友人のそんなデリケートな話を私に話してもいいのかと思ったが、前述の通りゴシップ好きの私はいささか身を乗り出して聞いている。
「で?」
「…いや、そんだけ」
「そんだけってことはないでしょお!柏木くんは先輩に告白したの、はっきり振られちゃったの?」
幼い想いを高校生まで引きずっているのもどうかと私の冷めた部分が突っ込みを入れるけれど、一途な彼の初恋がこのまま展開なく終わっていくのもつまらない、否、可哀想だ。
「…したけど、はぐらかされたってさ」
「まあ、そうだよねえ」
「お前は章太郎を応援したいのかしたくないのかどっちなんだよ!」
弟は苛立たしげに私を見る。彼としては確かに、友人の恋路を応援したいのだろうが…
「だって、実際彼氏がいるんじゃ、しょうがないじゃん」
途端、弟はうなだれる。
「そうなんだよなあ」
結局本人の気持ちが伴わなければどうしようもなく、そして彼女は、森崎深子は柏木章太郎以外の男を選んだのだから。
後日無事行われたOB会では、彼女は密かに注目の種だった。
もちろん原因は私にある。彼女に恋人ができたということを広めてしまったのは私だ。
「よう、みこちゃん、いまだにショタコンなの?」
「もー、先輩、ショタコンはひどいですよ。私はただ小さい子が好きなだけで」
それをショタコンというのでは。
「でも森崎、お前最近彼氏できたらしいじゃんか」
ついに先輩の一人が核心を突いた。まだそのことを知らないOBがいろめきたち「えっ誰々」と詰め寄る。
「えー、どこから聞いたんですかぁ」
「いいから」
「…できましたよ」
「どんなやつ?」
彼女は私に言ったように「みなさんの知らない人ですよ」と言った。
「それはそうとしても、どんなやつかぐらい言えるだろ」
さすが先輩、パワーで押してくれる。彼女は困ったように、照れたように、視線をさまよわせた。
「…やさしい人です」
「優しいだけじゃ、だめだろー」
「だけじゃないです!私を…分かってくれる人?ていうか…」
顔を赤くして言う彼女はとても可愛らしい。
「とにかく、私にはもったいないくらいいい人です。これでいいでしょ」
彼女の姿はまるきり恋する乙女で、その姿に面々は驚き半分、冷やかし半分の反応を見せた。
私は今どこで何をしてるかも知れない柏木青年に心中で話しかける。
…これはだめだよ、柏木くん。
彼の失恋は決定的と言っても良かった。
少なくとも私にはそう観察されてしまっていた。