森崎深子の裏切り
俺が許せないのは、あの女だ。
あの女は俺を誘惑し、まどわせ、もてあそび、そしてどん底へ突き落とした。
あの女は人生で二番目に聞きたくない言葉を、言い放った。俺が聞いているとも知らずに。否、知っていても構わなかっただろう。なんて憎たらしい。俺を絶望させたかと思えば、思わせぶりな態度を取るのだ。
ほら、今日だって。
『今日、会える?』
喜んでしまう。この女の目的は俺ではない、俺に会うことではない。なのに、喜んでしまう。あの女に会えることに!
「ヨウ」
携帯電話から目を上げて呼びかけると、甥の洋司が振り返った。こいつは両親に携帯ゲーム機を買ってもらってからそれにかかりきりで、俺の手伝いなんて少しもしない。ただし、あの女が目の前にいるときだけは別だ。
「今日、飯食ってくか」
甥は心得たもので、俺の誘いの意味を悟って目を輝かせる。
「今日ねーちゃんくるの?」
「かーちゃんたちにメールしとけ。今日はばあばも帰ってこないから、それも言っとけ」
「はあい」
洋司の両親は毎日帰りが遅く、俺の家は学童保育と化している。洋司の『ばあば』、つまり俺の母親は看護師をしていて、今日は夜勤で帰ってこないと聞いていた。
本来なら二人きりなんだ、あの女と。ありえないけど。こいつがいる限り。
「飯、何がいい」
「ハンバーグ!」
いっつもそれだな。あの女が飽きていないか、引いては俺がそれしか作れないと思われていないかわりと本気で心配している。スコッチエッグとかにしておくか、ハンバーグの仲間みたいなもんだし。考えながらも指は携帯電話で操ってメールを作成する。
『いいよ。洋司もいる。今晩はミンチの何かの予定』
あの女は喜ぶだろう。そして俺は不覚にも、あの女の喜ぶ顔を見て嬉しいと思ってしまうのだ。
チャイムが鳴った。あの女に間違いない。俺はミンチを捏ねていた。
「ヨウ、出て」
手が放せないのは事実だが、洋司が出迎えればあの女は喜ぶ。無邪気さを装って、溢れんばかりの笑みを見せて、あの女は本当に卑怯だ。両親の教育があってか、洋司はきちんとインターフォンで確認をしてから、玄関へ彼女を出迎えに行った。
「おかえり、深子姉!」
「ただいま!ヨウくん!!」
二人の歓声が廊下とドアを隔てた台所まで聞こえてきて思わず苦笑した。
両親と兄、姉、そして俺の五人がもともとの柏木家の家族構成だ。深子は俺の姉、澄江の高校時代からの友人で、よく家に遊びにきていたからか今では「準家族」のような扱いを受けていた。俺や兄とも仲が良く、兄が結婚した時も結婚式に参加して、もらい泣きしながら紙吹雪をあたり一面にばら撒いていたことを覚えている。
共働きしている俺の兄夫婦は毎日忙しく、夜にならないと帰ってこない。息子の洋司を学童保育代わりに兄の実家、つまり俺が今住んでいる家に寄らせるようになってから、三年くらいが経つ。今や洋司は友達を連れてきてテレビゲームをしたりするようになり、俺も時々参加させられる。洋司の友達はこの家が洋司の家で、俺が洋司の実の兄だと思っているに違いない。俺の家も共働きなので、俺は高校では部活には入らず、洋司のためにすぐ家に帰っている。甥っ子はそのありがたみに今いち気がついていないようではある。
そしてあの女もいまだしょっちゅう我が家にやってくる。もう直接の友人である澄江は家を出ているにもかかわらず。
なぜか。簡単だ。
あの変態ショタコン女は今、甥の洋司にめろめろなのだ。かつて俺に向けていた目を洋司に向けている。
このままでは、いやもしかしたらもうすでに、洋司の初恋の相手は深子になるだろう。
(ばかだな、洋司)
深子は『男の子』にしか興味がないのだ。お前が成長してしまえば深子はお前に見向きもしなくなるだろうよ。せいぜい叶わない恋をするが良い、と勝ち誇った顔で見る俺は、同時に深い絶望をも感じていた。それはブーメランになって己に返ってくるからだった。
あの頃、あの女は俺だけを見ていた、はずだ。あの女のショタ趣味を目覚めさせたのは他でもない、この俺なのに。
俺が成長するにつれて、あの女は俺をまっすぐ見つめなくなった。俺に触れなくなった。さんざんあの女に誘惑され、その気になっていた俺は、彼女をつなぎ止めようと、さらに間違った行動に出た。
「おれ、もっともっと男らしくなるから、深子姉を守れるくらい強くなるから、そしたら、おれの彼女になってくれる?」
間違ったアプローチではあったものの、まだぎりぎり少年(当時小学五年生)だった俺の「お願い」に、あの女は一時的にではあるが心奪われた。
感涙に瞳を滲ませ、頬を紅潮させ、溢れんばかりの笑顔で、こう言った。
「もちろんだよ!」
「約束だよ。おれが高校生になったら、おれの彼女になってよ」
大人=高校生だった当時の俺はそう言って喜んだ。それにあの女がうん、うんと頷くのを、思いが通じたものと思い込んでいた俺は本当にばかだった。
「本当にかわいかったんだよ!!私のこと一心に見上げてね、顔真っ赤にしてね」
あの女の声が聞こえて、まだ小学生の俺は身を隠した。本当に嬉しそうな声だったからだ。そんな声を出させるなんてなんの話題だろうと耳を澄ませた。
「なんて答えたの?」
「それはもう、もちろんいいよって答えたよ!」
はー、とため息が聞こえた。姉のものだった。
「どうすんのさ、本気にしちゃったら。章太郎はばか正直なんだから」
俺のこと?急に名前が出てきてびっくりする。姉達は俺のことを話していたらしい。いや、この流れは間違いなく…。
「だって、かわいいんだもん。付き合ってって言われて、無理なんて言えないじゃん」
ああ、大人ってなんて残酷なんだろう。
「大丈夫だって。ほんとに高校生になったら、小学生の時のことなんて恥ずかしくて忘れちゃいたくなるよ」
そのときから俺は「深子姉」と呼ぶのをやめた。あんな女、呼び捨てで十分だ。がき扱いされるのも我慢ならないので、剣道道場に通い、体を鍛えた。わざとあの女の家の近くの道場を選び、見せつけてやるのも忘れない。中学校に上がると、それに平行してバレー部に入った。成長期の訪れが早かった俺はぐんぐん背を伸ばし、あっというまにあの女を追い越した。なのにあの女はこう言う。親戚の子どもに言うみたいに言う。
「わー、しょーた大きくなったねえ。私なんて追い越しちゃったねえ」
そして、あの女はとうとう俺を裏切り始める。大学でどこの馬の骨とも知れない男と付き合い始めたのだ。俺の知らないうちに、男と付き合って、別れた。そして俺への態度は全く変わらない。なんでだ。俺と付き合うんじゃなかったのか。やっぱりあのとき聞いた会話は聞き違いや早とちりなんかじゃなくて、やっぱりその場しのぎの…
「ただいま、しょーた」
いつの間にか、俺の隣にあの女が立ってにっこりと微笑んでいた。しかし俺はもうその笑顔には騙されない。
「ここはお前の家じゃねーだろ、深子」
「ひどいな、私としょーたの仲じゃない」
「大学時代酔いつぶれたお前と澄姉を介抱したくらいの仲か?男と別れたときに一晩中慰めてやったくらいの仲か?」
「悪いと思ってるよ、それは」苦笑した。
いいや、思っていない。県外の大学に行っていたこの女が急に戻ってきて、泣きながら「別れた」と言われたときの俺のショックなんてわかってない。俺はつき合ってたことすら知らなかったんだから。
でも、それはまだましだ。確かに一時の裏切りではあったが、もう終わったことだったからだ。
「洋司の面倒見てやれよ。もう飯できるから」
俺の素っ気ない一言にこの女はわざとらしく頬を膨らませる。あざとい女だ。
「もう、かわいげがない」
かわいげがあってたまるか。俺はお前の「可愛い男の子」でいるつもりはもうないんだ。もういい。俺は、もうお前なんか、いい。
俺はこの女を許さない。あの一言があった限り。
一週間前、この女は言ったんだ。
人生で二番目に聞きたくない言葉を、言ったんだ。
「彼氏?いるよ。付き合ってる」