章太郎コンプレックス
「…私たち、付き合ってるんだよね?」
「………は?」
俺はそんな声しか出せなかった。
目の前の女は涙を流して、俺を睨みつけている。
「な、なんで、そうなる」
「約束、守ったんでしょ」
「お前が最初にうやむやにしたんだろ」
「してない。付き合おうって言った」
そう言われて俺は少し考える。あのときの会話はほとんど正確に俺の記憶に刻まれていて、思い返すのは容易だ。
『付き合おっか?』
(無理すんな。忘れていいから)
(無理してない)
『わかった』
『会いに行っていい?』
(もうどうにでもなれ)
『いいよ』
この女は、行間とか声色とか、空気とか読めないんだろうか。
「お前、いかにも嫌そうに言ったじゃねえか。小学生とした約束持ち出されて」
「だってしょーた、きっと後悔してるって思って」
「何をだよ?」
「小学生のときした約束真に受けて、今も待ってる女がいるんじゃあ、なかったことなんて出来ないでしょ」
「誰の話してる?」
誰がなかったことにしたいって?
いや、その前にどの女が今も待ってたって?
「私と、しょーたの話でしょ。しょーた、私に遠慮して、今まで彼女も作れなかったんでしょ」
何言ってんだ、この女。
「約束守って待ってたって?先に男と付き合いだしたのは誰だよ?」
「だって…しょーたは約束のことなんて忘れたいんじゃないかなって思って。それにあのころは、まだ私も、しょーたのこと、…とか、思ってなかったし」
いろいろ聞き捨てならない言葉がぼろぼろ出てくるが、俺が指摘したいのはそこじゃない。
「あのころじゃない。今だ。どこの誰なんだよ、お前の彼氏は。洋司だとかふざけたことは言わせねえぞ」
今度は深子が目を丸くして固まった。
「…だから、しょーたでしょ?」
今、その話してたんじゃん、と深子は言う。
「…ちょっと待て」
深子は俺と付き合っていると思い込んでいた。つまり、彼氏は俺だと回りに吹聴していたのか?
「……じゃあ、彼氏って俺なのか?」
「って言ってるじゃん。…まあ、それも私が勝手に思ってただけみたいだけど」
深子はそう言って、ソファに深く身を沈めた。お互い、無意識に身を乗り出して会話してしまっていたらしい。彼女の仕草でそれに気づいたが、今の俺には他に考えることが多すぎて、姿勢を変えることも出来ない。
「待て。じゃあ何だ、お前、じゃあ、俺と付き合ってもいいって思ったのか?」
「そうなんじゃない?」
深子はすっかり不機嫌になって、顔を背けてしまっている。机のティッシュを乱暴に取り出して、涙を拭いてついでに鼻をかんだ。俺はその様子を呆然と眺める。
「でもお前、ショタコンじゃなかったのか?」
一人目の彼氏を振ったときも、『小学生以外愛せない』とか言ったと聞いたことがある。
「ショタコンですけどお!」
途端、彼女は顔を赤くして叫んだ。
「だからあの人と付き合って、なんか違うなーって思ったのも、私は男の子が好きだからなんだって思ったし、そう言って別れたけど」
「ほら見ろ」
「…でも別に私は小学生を彼氏にしてどうこうなんて思ってないし。しょーたも嫌なんだと思ったの。しょーたが好きなのは、単純に『お姉さん』としてだけで、私が実際に女の子として現れて、約束したからって付き合おうとしても、戸惑うだけだって」
「だからあのとき、困った顔したっていうのか」
「そんなに困った顔してたかな」
「そんなことより、お前は大事なことを言ってない。つまり、お前は、俺のことをどう思ってるんだ」
「わからない?」
「わからない。ここまでこじれてるんだ、はっきり言ってもらわないと信用できない」
「…それは、こっちも一緒なんだけど」
しばらく睨み合った。
俺はじゅうぶん伝えてきた、つもりだ。譲るつもりはない。
彼女が、口を開いて、息を吸い込んだのを見た。
「…ぁ」
「ただいまー」
母親の帰宅に、がっくりと肩を落としたのは俺だけではなかったはずだ。
ぽつり、ぽつりと話す。相変わらず深子は、「こういうことは男から」と主張してはばからないので、不本意ながら俺からだ。片思いの歴史なんて、恥ずかしくて男としてはできるだけ言いたくない。
「確かに、最初はただの憧れだったかもしれない。お前は俺のこと妙に構うし、俺も悪い気しないだろ。俺が成長してきて、お前が他の男の…というか、他の小学生の話をしだしたから、俺は焦った。『お姉ちゃん』を取られると思った。そのときは、まだ恋愛じゃなかったと思う。『約束』したときも」
日中はまだ暑いが、夜の風には涼しさが混じるようになってきていた。いつの間にか高くなった星空を眺めて、俺たちは深子の車に寄りかかっている。
「…それから、だんだんお前の完璧な『お姉ちゃん』の皮が剥がれてきた。お前は本当はドジで、鈍感で、お人好しで、不器用だ」
「……ひどい言い様だね」
「守るから、なんて約束したけど、守られるだけの女じゃないこともわかってきた。今度は俺はそんな深子に、もっと近づきたいって思うようになった」
「う、うん」
聞いといて引くな。
「でもお前は、どんどん俺から離れていくように感じた。いつまでも、『お姉ちゃん』としての顔を崩さないまま、その顔はただの一面だって俺はもう気づいているのに、それも知らないまま。でも俺はその距離を崩す術を知らなかった。どうやってお前に、俺が男であることを知らしめればいいのか、分からなかった。高校生になればどうにかなるなんて、根拠のない希望を抱いてた。もう『約束』なんて、半分も信じてなかったくせに」
「…」
「で、お前が大学に通い始めたと思ったら、いきなり俺のところにやってきて、言うに事欠いて『男と別れた』なんて言う」
俺は否応無しにそのことを思い出して、ため息をついた。
「ふざけるなと。まず男と付き合いだしたことすら俺は知らないし、その時点で『約束』は反故にされたも同然だ。そしてなんで俺のところに来る。なんでお前の失恋話を聞かなきゃなんないんだ。失恋したのはこっちだ」
「それは」
「聞けよ。…それでも俺は諦められなかった。別れたんだからいいかって思うことにした。俺には約束があるんだからって、自分で関係を変える努力は全くしなかった」
「……」
「高校生になって、約束のときになった。俺はそのころにはしっかりした大人の男になって、問答無用で惚れさせるつもりだったけど、状況は小学生のときと大して変わりなかった。お前は約束したときみたいに困った顔で『付き合おうか?』なんて言うから、同情で付き合われるんならごめんだと思った。とっくの昔に失恋してるのを、俺は認められなかっただけなんだって思った。それでもまだ会いたいなんてお前が言うから、洋司に会う口実程度にしか思われてないんだって」
「私、しょーたに会いたいって言ったよ!」
「言ってない。洋司に会えるから、って言った」
否定しようとしたのか、口を開きかけてはっと止まった。言ってないだろ、言われたとしたら俺が覚えてないわけないんだからな。
「でもいつか認めてもらえるってやっぱり思ってて、でもこないだの『彼氏いる』発言でもう無理だと思った。俺のこと、何とも思ってないなら、望みがないなら、お前が望む『弟』でいてやろうと思った。…それも無理だったけど」
「しょーた…!」
「お前の番だよ」
この情けない顔が少しでも暗闇に紛れるといいけど。玄関の灯りで、それは無理そうだ。
深子は俺の言葉に反論したそうだったけれど、しばらくすると話し始めた。
「しょーたはもちろん、かわいい男の子だったよ。だってそれまで、興味なかったのに、小学生の男の子大好きになっちゃったんだもん」
「悪かったと思ってるよ、お前のショタコン趣味を目覚めさせちまって」
「ちょっと、変なとこだけ口挟まないでよ」
俺は黙って肩をすくめた。厳密に言えば、『悪かった』というより『まずった』と思っている。深子のショタコン趣味のせいで俺はこんなにも苦しんだと言っていい。
「しょーたとの約束受けたときも、正直まともに受け取ってなかった。どうせ憧れだろうし、大きくなったら恥ずかしくなっちゃう類いのものだと思ってたし」
それも知っている。深子はいまだに知らないだろうが、約束したあとの姉と彼女の会話を俺は聞いているからだ。
「しょーたはどんどん大きくなって、私の背もあっという間に追い越して、中学生のときの私より頭よくて、料理も出来るし、ヨウくんも私よりしょーたに懐いたし」
「それはないだろ」
洋司の深子への懐きっぷりは端から見ても十分に伝わった。まだ幼い甥に嫉妬するなんて大人げないと、俺は何度自分を諌めただろう。いや、幼いからこそ深子は夢中になるのだが。
「私といても、『兄ちゃん兄ちゃん』ってばっかでさ。私嫉妬しちゃうよ」
でもそれではいけないと、彼女は思ったらしい。いつまでも、少年ばかり追いかけているようでは先がない。澄江にその兄、さらに俺と洋司、若い世代に囲まれているようでその実彼女自身は一人っ子なのだ。相手はいないのかと両親に気にされているのも分かっていた。
「だから告白されて付き合ったんだけど、うまくいかないっていうか、なんかノリについていけなかったんだよね。合わせようとしてくれてるのも分かってたけど…」
なんだかしっくり来なかった彼女は、しかしあっさり振るわけにもいかなかった。彼女だって人の子なのだから、心も痛む。なんとか傷つけずにやりくりしようと思ったあげく、却ってあんまりよくない別れ方をしてしまったらしい。
「…なんであのとき、俺のところに来たんだ」
「…私にも、わかんない。でも、しょーたがずっと背中撫でてくれて、本当に、楽になったんだ」
ずっと撫で続けた俺の気持ちがわかるのか、お前に。背中に下着の線を感じてちょっとどきどきしてしまった俺の気持ちがわかるのか。
「しょーたはきっと呆れてるんだろうなって思った。憧れのお姉ちゃんがこんなんで、幻滅してるって。でも、そんな私でいられたらなって、思うようになってて…ヨウくんを見てきゅんきゅんしてても、隣見たらしょーたが笑ってたりして、そういうの」
どういうの。
「高校生になっちゃうなあって、思って、怖かった。きっと、約束を、しょーたは覚えてるし、そしたら、多分、いやだって思ってるだろうなって思った」
「誰が嫌だって思うって?」
「そんな昔の話持ち出して、『付き合ってよ』って年上の女が詰め寄ってきたら、引くでしょ、ふつう。でもしょーたは律儀だから、きっと約束を果たそうと思うんだろうなって」
誰が引くか。
口を挟みたかったが、さっきは深子が我慢していたから、俺も黙ったまま先を促す。
「案の定言ってくるし、でも、しょーた、やっぱり、つきあうってなっても全然嬉しそうじゃないし、私ばっかり会いに行ってるし、態度も全然変わらないし」
「お前だって全然変わらなかったろ!!」
思わず出た突っ込みに、深子は一瞬詰まったものの、すぐに俺を睨み返してきた。
「…それまで私、スミもいないのにしょーたの家行ったことない」
「!」
…確かに、そうだったかもしれない。でもそれは、洋司に会うためで、でもそうじゃなかったってことは。
「だからやっぱり、しょーたは迷惑してるのかなって、ずっと思ってたのに、そこで、あんな、あんなこと言うなんて、ひどい」
俺が固まっているうちにまた泣いているし。
「ひどいよ、しょーた。私の人生にしょーたはいなくて、しょーたの人生に私はいないの?」
泣きたいのはこっちだ。
「じゃあ、なんだよ、お前は俺と付き合っているつもりでいて、それでもいいと思っていて、俺とお前の人生が今後関わらないのは嫌だって思ってるって言うのか」
深子は黙って頷いた。ずず、と鼻をすする音もした。
「……じゃあ、深子は俺とこれからも付き合いたいって思ってるのか」
「なんでそんな確認してくるの、ばか!」
涙声で喚いた。
しかしここは慎重にいかなくてはならない。俺は深子の正面に回り込んで、しゃがんで視線を合わせた。
「じゃあ俺のことより小学生の方が好きって言って振ることもないんだな」
「…ないよ」
「俺のこと、可愛い弟じゃなくて、男として見るんだな」
少し顔を赤くして頷いた。泣いていたせいで最初から鼻と目は赤かったけれど。
「…俺のこと、好きなんだな?」
「……」
なんでそこで黙るんだ!
俺の心中の叫びを聞いたのか、深子は顔を上げてまっすぐ俺を見た。
「しょーたは?」
「…こ、ここで俺に振るのか」
睨むようにこちらを見て、頷く。てっきり俺が優勢だと思っていたら、とんだ勘違いだったらしい。
しかしチャンスとも言える。男らしく決めるチャンスだ。
「俺は、前から…ずっと前から、深子」
深子が、俺の目の前で、俺だけを見ている。俺の言葉を待っている。
「…深子」
だめだった。感極まってしまって、俺はきちんと言えないまま深子を抱きしめてしまう。
「しょーた」
深子はびっくりした声音で、でもすぐに優しく背中を撫でてくれた。あのときと逆だ。俺はどこか安心して、耳元で、ようやく声を絞り出した。
「…好きだ。好きだ、深子」
「…うん」
「好きなんだ。もう、変になっちまいそうだ。深子、深子」
深子はゆっくりと俺を抱きしめ返して、俺の、ずっとずっとほしかった言葉をくれた。
「…私も、好きだよ。しょーた」