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あなたの名前は……

作者: 山石コウ 

 昔聞いた物語、一人の少女と悪魔の話。幼い頃にお婆ちゃんが聞かせてくれたその話は、少し怖くて少し笑えるお話だった。


 その話の結末は? その話の教訓は? ――何故だろう、昔はあんなに大好きだったのに、今では何にも覚えていない。





 ガシャーン……ビリビリ



派手な音を立てて、机の上に置いてあった皿が床に散らばった。



 やってしまった。ここの所、寝る間を惜しんで仕事をしていたせいで、立眩みを起こしてしまった。でも大丈夫、あれさえ無事なら。あれをあと三日以内に仕上げれば、たくさん謝礼がいただける。切り詰めていた食事も、人並みの物が食べられる。



 ここまで仕上げるのに二ヶ月もかかってしまったけれど、今回の仕事は最高の出来だわ。何せこのあたりの地主さんのお嬢様の花嫁衣裳だもの、張り切って作ってみせる。そう拳を握り締めたのもつかの間、側に置いてあったお嬢様のドレスに目をやり血が逆流した。



「っきゃー!」



 私は我が目を疑った。あと僅かで完成するはずだった、お嬢様のドレスが無残にも破けている。



 倒れこんだ拍子に、私は手近にあった物にすがり付いてしまったらしい。わたしの手近にあった物。……それはお嬢様のドレスだった。



 私の手の中には、ヒラヒラと優雅に揺れるレースの布切れ。



「……嘘。誰か嘘だと言って!」



 早くに両親を亡くし、それ以来お針子の仕事でやっと家計を支えながら十八歳の今日まで何とか生きてきたのに。こんな大口の仕事でミスするなんて。



「もう、おしまいだわ」



 私は涙も流せない程絶望して、呆然とその場にしゃがみこんだ。目の前が暗くなって何も見えない。本当に困った時には、人は涙さえも流せないのかとぼんやりと思った。その時、部屋の中に一筋の風が舞い込んできた。



「お困りかい?」



 開いた窓から男が部屋の中を覗き込んでいる。見慣れない男。黒い髪に黒い瞳。綺麗な顔立ちに、スマートな体つき。よく見るとちょっと良い男ね。でも、今の私にはそんな事どうだっていい。呆然としたまま返事も出来ない。



 男はするりと窓から部屋へと入り込むと、無残な姿になってしまったドレスの切れ端をつまんだ。



「あらら。酷いなこれは。ここまで破れたら、元に戻すのは骨だぜ」



 言われなくても知ってるわよ!私は男を睨んだ。男はニヤニヤ笑いながら私の傍まで来て、目線を合わせるようにしゃがみこんで来る。



「なぁ、直してやろうか?」



「無理よ。あと三日で仕上げる約束なの」



「俺なら出来るぜ。困ってるんだろう? 助けてやるよ」



 私は胡散臭そうに男を眺めた。本当に出来るのだろうか。思いっきり怪しい。



 でもこの時、私は藁にも縋りたい思いだった。だから、心にもないことを口走ってしまってもしょうがないと思うの!



「お願い! このドレスを三日以内に直して!」



「いいだろう。でも、一つ条件がある」



「どんな? ドレスを直してくれるなら、出来るだけの事はするわ」



「俺がドレスを直す三日以内に、俺の名前を当ててみろ。それが出来なければ……」



「出来なければ?」



「お前をもらう」



 男がニタリと笑った。その口元からは鋭い牙が覗いている。私はそれを見て、自分の心臓が大きく跳ね上がる音を聞いた。



 この男は人間じゃない……。でも、もう時間がない。この仕事に失敗したら、きっと地主さんにこの村から追い出されてしまう。背に腹は変えられない!



「分かったわ。あなたの名前を当てればいいのね」



「チャンスは一日三回与える。俺は毎晩、お前の元に顔を出すことにしよう。もしも俺の名前を間違ったら、一晩ずつお前から何か大事なものを頂くことにする」



「何それ! そんなのズルイ」



「ズルくはないだろう。うまい話にはリスクは付き物ものだぜ? それに全部で九回もチャンスを与えるんだ、それくらいサービスしろよな。まぁ、無理にとは言わないがね」



 男は相変わらずニヤついている。腹ただしい!私が断れないのを知ってるんだわ。私はやむなく頷いた。



「毎度あり!」



 男は嬉しそうに目を細めてから、お嬢様のドレスを持って足早に立ち去っていった。



 後に残された私は暫くまんじりともつかない思いで、男が出て行ったドアを見つめていた。



 本当に大丈夫なのかしら。もちろん、その夜はちっとも眠れなかった。



 次の日、私は昨夜の出来事を誰にも話せないでいた。それはそうでしょう! こんな話誰に話しても信じてくれるわけないし、おまけにお嬢様のドレス破っちゃたー! なんて言おうものなら、三日後を待たずに今すぐこの村から追い出されちゃう。




 私はいつもどおり、ドレスを縫っているかのようにひっそりと家の中で過ごした。



 夜はあっという間にやってきた。トントントン。戸口を叩くノックの音。私がゆっくりとドアを開けると、そこには昨夜の男が立っていた。



「こんばんは」



 男は軽く手を挙げて気安く笑いかける。私が良いと言っていないのに、部屋の中にずかずかと入ってきた。なんて図々しい男なの。



 男は口笛を吹きながら傍の椅子を引き寄せて座る。私は男と同じテーブルに着きたくなくて、じっとドアのそばに立っていた。



「俺の名前は判ったかい?」



 余裕たっぷりな顔。むかつくわ。私は黙ったまま答えない。だって正直に分らないなんて言いたくないもの! それに、当てずっぽうに答えたって当たるかもしれない。



「きっと、当てられるはずよ」



 私は彼に負けじと微笑んで頷いてやった。



「それよりも、ドレスは直りそうなの?」



「もちろん。お前は安心して待っていてくれればいいさ。さて、早速はじめようか?」



 男は足を組みなおすと、真っ直ぐに私を見据えた。



「俺の名前は?」



 私は一つ息を深く吸って……吐いた。やってやろうじゃないの!



「グレン?」



「残念」



「ネッド?」



「まさか」



「リチャード?」



 男は大きく瞳を見開いた。まさか、本当に正解しちゃった?



「ブッブー!」



 男はニヤニヤ笑いながら机に頬杖を突いている。本当になんて嫌味な男なの。



「3回間違えたね。お前の大事なものを一つ、頂こうか」



 ゴクリ。私の喉が大きく鳴った。指先が段々と冷たくなってくる。一体何を要求されるのか分らず、私は緊張しながら男の言葉を待った



「お前の……今履いているパンツをもらおうか」



 は?



 今何て言った?



 男は目をらんらんと輝かせて私の下半身を凝視している。この男、本気?



「早く脱いでくれるかい?」



 本気のようだわ……。信じられない、どれだけ変態なのよ!



 私は躊躇い、半ば諦めながらスカートの中に手を入れた。人ではない者と約束をしてしまった自分を呪いたい気分だった。


 

 人ではない者との約束は決して破ってはいけない。それは古くから語り継がれている事。なぜかって?破ればどうなるか分らないから。



 男はギラギラした目で私を見据えている。羞恥に震える私の動きを、一瞬も見逃さないぞ、とう意気込みが伝わってくるようだ。はっきり言って息苦しい。


 

「真っ赤になって、可愛いね」



 変態は黙っていなさいよ!私は男を極力見ないように、パンツを下ろしていった。うぅ、私一体何やってるんだろう。泣きたくなってきたわ!



「泣きそう? もしかして泣いちゃう?」



 男のニヤニヤした顔が癪に障る。私は涙目になりながらもキッと男を睨んでやった。男は嬉しそうに口笛を吹く。正真正銘の変態だわ。



 私はやっと踝まで下ろしたパンツから足を引き抜いた。ドレスを仕立てるより疲れる気がする。



 男は口元を綻ばせながら、手を差し出してくる。うぅ、悔しい。私はその手に自分が今しがた脱いだパンツを乗せた。



「ありがとう」



 男は舐めるように、私を凝視している。心なしか、頬を染めているのが気持ち悪い。



「今、何も履いていないんだね。いいねぇ、興奮するな」



 しないでもらいたい。私は男から素早く身を引いた。この男、本気で危ないわ。



「そんなもの、一体どうするの?」



「聞きたい?まず自室に帰ってから、それをネタに――」



「いい! やっぱり言わなくていい! それよりも、もう今日は用はないでしょう? 早くドレスを仕上げて持ってきて」



 男は掛け声を一つかけてから、億劫そうに立ち上がる。



「約束の日には間に合わせるよ。それじゃあ、また明日」



 男は私の頬を掠めるように撫でてから、月夜の中に消えていった。私はザラリと苦い気持ちのまま、ため息を吐いた。この十分程で、何か大切な物を失った気がする。いや、確実にパンツは失ったんだけれど……。



 こうして一日目の夜は、私の負けで終わった。もちろん、その後すぐに新しいパンツを履いたわ。



 



 悔しさと恥ずかしさで、眠れない夜を過ごした次の日の朝。私はリサーチの甘かった自分を悔やんだ。そうよ、もしかしたら誰かがあの男の名前を知っているかもしれない。恐らく、あの男は悪魔だ。古い文献とか、言い伝えとかに出ているかもしれない。



 私は出かける用意をすると、とりあえず図書館へと向かった。こんな小さな村だが、それなりの図書館はある。すると、向こうから友達のアリスが歩いてきた。おはようと挨拶すると、彼女に突然タックルされた。



「おはようリザ! ちょっと大ニュースよ。仕立て屋の息子が町から帰ってきたんだって!」



「仕立て屋? 息子?」



 この村で仕立て屋は二軒。私と、件の仕立て屋だ。でも、そこは紡績工場や織物工場を抱えていたり、町に支店がたくさんあったりと、私とは比べ物にならないほどの大手なのだった。



「でも、あそこに息子が居たなんて話聞いた事もないよ」



「そうなのよねー。私も変だなって思ったのよぉ。でも、今まで町に修行に行ってたとか、色々事情があるんじゃない? それよりも、すっごく良い男なのよ」



 アリスは頬を薔薇色に染めて、夢見るように両手を組み始めた。



「カッコ良くてお金持ちで、最高の物件じゃない? 確かトムって名前の二十一歳で――」



 もはや薔薇色を通り越してホオズキ色になっている友人に、私は適当に相槌を打っておいた。そんなことよりも、今の私には切実な問題があるのよ。私は出来るだけさり気なく話を変えようと試みた。



「ところでさ、この村で悪魔に詳しい人とかいないかな?」



「え、突然何?」



 チッ! 失敗か。 



「そうねぇ、確か――ジャックが詳しいよ。アイツ一時期そういうのに嵌まって色々調べてたから」



 何と、元同級生のジャックが! 人は将来、何に興味を持つのか分らないものだなぁ。私はアリスにお礼を言って、ジャックの家に向かった。だって、図書館で自分で調べるよりも、詳しい人に聞く方が断然楽だもの。



「何か用?」



 呼び鈴を鳴らして暫くしてから、眠そうなジャックが顔を出した。さては、まだ寝ていたな。私はスルリと室内へ滑り込むと、ジャックに今までのことを話した。勿論、パンツの下りは丸々割愛した。



 始めは眠そうに聞いていたジャックだが、話が進むうちに段々と身を乗り出してきた。



「お前、それヤベェよ。契約交わしちゃってるじゃん」



「やっぱりそうなる?」



「しかも、対価がお前自身だなんて。魂さえも悪魔の物になるって事だぞ」



「……それ、まずいの?」



「馬鹿、最悪だよ。永遠に悪魔の物になるんだぞ。死んでも逃れられない!」



「どうしよう。ジャックなら、良い方法思いつくんじゃないかと思ったのに」



「当てるしかないだろうな。そいつの名前」



「私じゃ全然検討も付かないの。何か心あたりない?」



「うぅーん。情報それだけじゃ、流石に分らねぇよ」



 私は肩を落としてジャックの家を後にした。唯一の救いは、ジャックがこれから全力で調べてくれるらしい。どうかアイツの名前見つかりますように。



 私はその足で図書館へ向かった。この後一日かけて調べてみたが、その日は大した収穫もないまま日が暮れてしまった。夜が来るのが怖い。私は家のドアも窓も厳重に鍵を掛けてベッドに潜り込んでいた。



 トントントン。



 ノックの音が聞こえる。今日もアイツが来たんだ。私は返事もしないで布団の中で息を潜めていた。ギィィとドアの軋む音がした。



「出迎えもないのかい」



 一体どうやったのか、男はいつのまにか寝室の戸口に立っていた。



 私は何とか起き上がったが、声も出せないほど怯えてしまっていた。男は形の良い唇に笑いを乗せると、私のベッドの淵に腰を下ろした。



「元気ないね。どうしたの?」



 悪魔に狙われて元気一杯の奴が何処にいる!



「始めようか」



 男が小首を傾げるように私の顔を覗いてきた。月明かりに照らされた男は、ぞっとする程綺麗だった。



「俺の名前は?」



 私は、押さえ切れない恐怖を何とか制御してやろうと、必死になりながら名前を考えた。



「サム?」



「いいや」



「アラン」



「違う」



「じゃあ、トレース?」



「惜しい」


 

 またはずれた。私は布団を手繰り寄せる。



「また駄目だったね」



 男は嬉しそうに笑う。ベッドに座っていた腰を少し浮かせると、私の傍までにじり寄ってきた。



「今日は何をもらうかな」



 楽しそうに、歌うように私を見下ろす。



「決めた。今日はお前の唇をもらおう」



 そう言うなり、男は私の肩を引き寄せると、顎を掴んで上向かせた。キラキラと月光を反射する男の瞳。怖い、でも綺麗。私は恐怖と、それからよく分らない感情に震えていた。



「痛くしないからね」



 男の顔が降ってきたと思ったら、私の唇に微かに冷たいものが触れた。男は口を開けて、私の唇を何度も租借するように甘噛みした。入れて欲しい、というようにチロチロと擽る男の冷たい舌先。



 私は耐え切れずに、口を僅かに開いてしまった。ヌルリと入り込む柔らかい舌。口の中を嬲られる気持ち悪さと快感に、私は徐々に力が抜けていった。



 体を支えるのも困難になり、どさりと後ろに倒れこむ。男は私の動きに合わせて一緒に倒れこんできた。その間も、男は私に口付けたまま離れない。



 蛭のように吸い付かれ、男の舌は我が物顔で動き回る。私は段々追い詰められていった。何も、考えられない。何も考えたくない。



「やべぇ、止まらないかも」



 吐息のように搾り出す男の呟き。鼻先で揺れている男の顔は上気している。それはきっと私も同じだろう。さっきから、酷い動悸がして胸が苦しい。酸素が欲しくて荒い呼吸を繰り返していると、男がまた唇を重ねた。



 さっきよりも激しく。噛み付かれるように唇を合わせながら私の目頭から涙が一筋溢れてきた。苦しいのか心地良いのか、分らない。私の頭の中は溶けかけたアイスクリームのようにグチャグチャになってしまっていた。



「ふう」



 永遠に終わらないかと思った口付けは、彼の満足気な、それでいて切ないため息とともに終わった。私はまるで嵐の中に一晩中いたかのように、ぐったりとベッドに横たわっていた。



「ごちそうさま」



 男はそっと立ち上がると、私の唇に軽く触れるだけのキスを落としてドアから出て行った。男は宣言どおり、私の唇にしか触れなかった。



 私は一人、ベッドに横たわったまま夜空に浮かぶ月を眺めていた。こうしていると、まるで何もなかったみたい。何もかも夢だったんじゃないかと思えてくる。でも唇に残る痛みと熱が、あれが本当にあった出来事なのだと私に訴える。



 その夜、私は何故か夢も見ずに良く眠れた。





 次の日、私は朝とは言いがたい時間に目が覚めた。ここ連日の寝不足のせいだわ。それもこれも、みんなあの男のせいってことだわ。


 

 私は遅めの朝食を食べ、とりあえず外へ出かけた。今日が約束の三日目。あの男の名前を当てられなければ、私は悪魔のものになってしまうらしい。考えただけでも不安と絶望がこみ上げてくる。貞操の危機なんて言っていられない。生命、魂の危機なのだ。

 


 私はジャックの家へと向かった。もしかしたら、彼なら何か手がかりを掴んだかもしれない。僅かな希望を胸に、歩みを進めていると、アリスと偶然出会った。彼女は元気に手を振って……怪訝な顔をする。



「リザ! ……何か元気なさそうねぇ」



 あと一日の命だというのに、元気なんてあってたまるか。とは言えず。私は、そんな事ないよ。とごまかした。



「今ね、仕立て屋さんの工場に行って来たの!」



「工場に? 何の為に? アルバイトでも募集してたっけ?」



「まさか。出待ちよ、で・ま・ち! 仕立て屋の御曹司が工場の方に良く出入りしてるって聞いて、差し入れ持って行ったんだけど誰も出て来ないの。中で作業はしているみたいなんだけど、全然入れてくれないのよ。今日は諦めて帰って来ちゃった」



 ふう、とため息を吐くアリス。なんというバイタリティーだろうか。彼女の行動力を見習わなくては! アリスは差し入れのサンドイッチを私の目の前に差し出した。



「リザにあげる。何か疲れた顔してるから、食べて元気だして。花嫁衣裳の仕事忙しいんでしょう? 私にも出来上がったら見せて」



 それじゃ、と風のように去ってゆくアリスに向かって私は手を合わせて拝んだ。ありがとう、アンタ良い娘だよう。



 お土産も出来たところで、私はジャックの家の呼び鈴を鳴らした。案の定、ジャックは寝癖のついた頭を掻きながら、もっさりと戸口に現れた。



「入んなよ。あれから少し調べて分ったこともあるし」



 遠慮なく入ると、部屋の中は本の海になっていた。



「まず、結論。お前と契約した悪魔の名前は分らんかった」



「そんな」



「でも、朗報。お前と良く似た話を見つけた。これ見て。契約した悪魔の名前を少女に当てさせる、そっくりだろう?」



 私は差し出された本を手にとって読んだ。ジャックは私の持っていたバスケットを勝手に物色して、中からハムサンドを取り出して美味しそうに頬張る。私のハムサンドが……。



「確かに、そっくりだわ。でもジャック、これ一番大事なところが破れていて悪魔の名前が分らないじゃない。それに、これって子供用の絵本だわ。こんなの作り話でしょう?」



「いや、そうとも限らないんだ。絵本だって実話を元に作られたものもある。それに、何故名前を当てたら悪魔は逃げていくと思う? 名前は悪魔の力そのものなんだ。それを見破られたら、悪魔はたちまち力を失ってしまうんだよ」



 もぐもぐとサンドイッチを食べるジャック。……私の分が残るかしら?



「この話ではさ、少女が昼間出かけると、洞穴で自分の名前を歌っている悪魔の歌を聞くだろう? このあたりで洞穴なんて無かったけ?」



「無いわよ、そんなの」



「あ、じゃあ駄目か」



 ジャックは心底残念そう。でも、ちょっと待って。この本がもしも実話であの男の事だったとしら、これにアイツの名前が書いてあるって事?可能性薄そうだけど、調べる価値はありそう。



「ねぇ、この本貸して。図書館に同じ物がないか調べてくるから」



「あぁ、構わないよ。リザ、今夜が勝負だろう? 俺ももう少し調べてみるから、頑張れよ!」



 私はジャックに心からのお礼を言って、絵本を胸に図書館へ急いだ。持つべき物は悪魔マニアの友達だわ。例えサンドイッチを一人で全部食べちゃてもね。私はジャックの存在に心励まされた。



 静かな図書館の埃っぽい空気を吸うと、どうも私は眠たくなるらしい。でも、今日ばっかりは寝ていられない。司書さんに探してもらった結果、あの絵本はこの図書館には無いそうだ。とても残念だが、ここですごすご引き下がっては居られない。昨日に引き続き、悪魔に関する本を片っ端から調べていった。



「疲れた」



 何の成果もないまま、私は閉館する図書館を後にした。うぅ、夕焼けが目に沁みるわ。足取りも重く、家のドアを開ける。



「頼りはこの絵本一冊かぁ」



 何て心もとないのかしら。私は絵本をぱらぱらとめくった。可愛らしい少女に契約を迫る、小さな黒い悪魔。その尖った耳と蛇に似た長い尻尾を持っている姿は、どう見てもあの男とは似ても似つかない。



 私は何度も絵本を読み返した。そのうちに、ふと何かを思い出す。あれ?この話、何か知ってる気がする。今の私の境遇云々じゃなくて、この挿絵に見覚えがあるのだ。いつ見たんだっけ、思い出せない。ここまで出掛かってるのに――。



 そのとき、トントントン。ノックの音が響いた。



 私は、体を強張らせる。



 来た。



 恐る恐るドアを開けると、あの男が立っていた。相変わらずニヤけた顔で。



「やぁ」



 男は部屋に入ると、手に持っていた布を広げた。ふんわりと机に広がる純白のそれは、私が縫っていた花嫁衣裳だった。破れ目が綺麗に無くなり、代わりにビーズで作られた花の模様がきらきらと光っている。



「すごい……。綺麗」



 私はドレスを恐々手にとって、その見事に仕上がったドレスを眺めた。私が作るよりも華やかで美しい出来になっている。おのれ悪魔め、アレンジを加えるなんてやるじゃないか!



「でしょう? ここのドレープを直すのなんか苦労したんだ。後は全体的にビーズで目くらましをすればほら、破れ目なんて気にならない」



 男は自慢げにドレスを指差す。



「さて、俺の約束は守った。今度はお前の番だよ」



 男はゆっくりとお決まりの台詞を口に出す。



「俺の名前は?」



「あなたの、名前は……」



 分らない。この三日間調べたけど、本当に何にも分らなかった。どうしよう、答えないわけにもいかないのに、喉が張り付いて言葉が出てこない。



「あなたの名前は……」



 こうなったら、運を天に任せるしかない! 神様、どうぞお守り下さい!



「リチャード?」



「はずれ」



「ユリウス?」



「違うよ」



 心臓が弾け飛びそう。



「アーサー?」



 男が薄く笑う。どっち?どっちなの。



「残念」



 男は可笑しくて仕方が無いというように、声を立てて笑っている。私はその様子を呆然と眺めていた。終わった……。私、これからどうなってしまうの?



 不安でギュッと自らを抱きしめる私に、男は一枚の紙切れを握らせた。私はそれをぼんやりと見つめる。しかし、涙で何も見えない。



「リザ。これでお前は俺のものだ」



「名前、どうして知ってるの?」



「何でも知ってるさ。幼い頃に両親を亡くしたことも、好物がハムサンドだって事も」



 男は私の傍に立つと、その腕の中に押し込めるように私を抱きしめた。



「リザ、結婚して欲しい! 俺はもうサイン済みだ」



 男は私に握らせた紙切れを広げる。



「え、結婚? サイン?」


 私は驚いて男が広げた紙を凝視する。それは何と婚姻届け。新郎の欄には『トム』という男の名前がすでに記載されている。


 

 待って。訳が分らない。悪魔が婚姻届なんて持ち出す? 何でこんな事になったの? そもそも……



「あなたは一体誰?」



「俺は、仕立て屋の息子だよ。一週間前、あの窓から針仕事をしているリザを見て、俺は一目でお前を好きになったんだ。それから、ずっとリザを見ていた。その窓からこっそりとね。どう声をかけようかと悩んでいたら、丁度お前が躓いてドレスを破ってしまうのを目撃したんだ」



 男は――いや、トムは熱に浮かされたように話し始める。



「リザには悪いが、チャンスだと思った。これでお前に話しかけられると思ったんだ。実際、俺なら力になってやれるしな。だが、普通に話しかけたんじゃ唯の良い人で終わってしまうかもしれない。俺は咄嗟に、あんな約束を持ち出したんだ。パンツの時は悪乗りが過ぎたが、抵抗されればやめるつもりだった。でも、お前は嫌がらなかった。……キスの時もね」



 私は自分の頬がカァっと熱を持つのが分った。彼は悪魔じゃなかった! 私がすっごい勘違いしてただけなんて! それなのにパンツまで脱いだりして、恥ずかしいよぅ。もうお嫁に行けない。



「だから、もうこれは最後までいくしかないと思った。俺の嫁になってほしい」



 お嫁に早速誘われました。えぇ――? 頭がついていかないんだけど。



「嫌だと言っても攫って行く。俺をここまで追い詰めたんだ。責任は取ってもらうよ」



 トムはそう言うと、私に覆いかぶさるように口付けをした。昨日の熱が、またぶり返してくる。熱くて、激しい彼のキス。私の唇はそれを覚えていて、すんなりと彼を受け入れていた。



 あぁ、どうしよう。私、彼の事が好きだったんだ。今初めて自覚したなんて。



 私はトムの唇から逃れるように顔を背けた。だって、このままじゃ彼に返事が出来ない。トムは私の後頭部を掴むと、これ以上逃げられないように押さえつけた。



「ちょと……。一回、ん。離して」



 彼は私の言葉なんて聞こえていないふり。ちらりと目を開けて私を見ると、また再び目を閉じて口付けに没頭する。



「トム!」



 私は彼の顔をべりっと引き剥がした。はぁはぁと乱れた息使いと、赤くなってしまった唇が恥ずかしい。彼はぺろりと唇を一舐めして、わざとらしく小首を傾げて見せた。



「私達、お互いのこと何にも知らないのよ」



「これから知ればいい」



「結婚してから、幻滅する事もあるかもしれない」



「してみなければ分らないさ」



 トムはいつもふてぶてしい。でも、それすら今は愛しく感じてしまう私が居る。うぅ、大分私も毒されてしまったみたい。



「っていうか、リザには選択権は無いんだ。言ったろ嫌だと言っても攫って行くって」



 トムは私をひょいと抱えると、そのまま外へと歩き出した。月明かりを受けてきらきらと輝く彼の黒い瞳が、答えをねだるように私を射抜く。答えは――もう決まっていた。



「嫌じゃ、ないよ。私も、あなたが好き」



 言ってからすごく恥ずかしくなって、彼の首筋に顔を埋めた。爽やかな甘い香りが微かに感じられた。



「良かった。愛しているよ、リザ」



 彼は飛び切り甘い声を私の耳に流し込む。そのとき、遠くから微かに私を呼んでいる声が聞こえた。トムの腕の中で振り返ると、ジャックが息を切らして走ってくるのが見えた。



 忘れてた。ジャックはずっと私を心配して調べてくれていたんだった。肩で息をしながら、ジャックが恐ろしげにトムを睨んだ。



「リザ、彼がそうなのか?」



「違うの、ジャック! 全部私の勘違いだったのよ。彼は仕立て屋の息子さんなの」



 トムは柔らかく微笑んでよろしくと会釈した。



「握手したいところだが、今両手が塞がっているんだ」



「え、いや。いいんです。……リザ、本当に勘違いだったのか?」



「えぇ! 勿論」



 ジャックは何か府に落ちないような顔をしていたが、私とトムの顔を交互に見てから、そうか。と引き下がった。



「それでは、今日はこれで失礼するよジャック。彼女と色々とする事があるんだ」



「いや――邪魔をして悪かった」



 私達はジャックに手を振って彼と別れた。私がすぐ近くのトムの横顔をそっと覗くと、優しい微笑みが返ってきた。良かった、今のでトムが気を悪くしたんじゃないかと心配したけど、杞憂だったみたい。トムは私を抱えながら軽やかな足取りで歩く。



 私はすごく幸せだった。しかし、私たちの後姿を見送っていたジャックは、この時恐怖に慄いていた。



 彼は見てしまったのだ。トムの後ろ姿に、蛇のような尻尾が生えていて、それが何とも嬉しそうに左右に揺れているのを。

読んでくださってありがとうございます。ちょっと甘々な話が書きたくて突発的に書いてしまいました。ご意見ご感想、その他色々ございましたら、是非聞かせて下さい。山石でした。

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― 新着の感想 ―
[一言] 結局は悪魔だったんですか!?Σ(゜д゜lll)
[一言] 今晩は。楽しく読めて面白かったです。 悪魔なのに人海戦術でドレス直しちゃうなんて何だか滑稽というかお茶目でした。
[一言] 面白く読ませて頂きました。 「トムティットトット」が原作でしょうか?この話好きです。 トムの変態っぷりに思わず笑ってしまいました。
2011/06/21 01:46 退会済み
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