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気付いてしまえば、それは何の障壁にもならない。
モヤモヤもイライラも、全部同じところから生まれ出ているのだから。
自分の中に生まれた新たな感情に蓋をし、日常では今までと変わらないように振舞う。
彼女の事が気にならないわけではないが、来るなと釘を刺された以上、水竜の神殿に出向くわけにもいかない。
以前より放っていた影からの報告と、意外に筆まめな神官長から送られる情報から彼女の日頃の様子を窺い知ることも出来るので、じたばたせずに王宮に篭っている。
王宮ではそれなりにやる事もある。
一年中で最も祭りの多い時期である夏を前にし、決裁書類が山積みになっているからだ。
真面目に一つ一つを精査しようとすると、膨大な量の資料を読んで多角的に判断しなくてはならない。
どの村にも街にも公平にとなると、全ての資料が出揃ってから比較検討しなくてはならない。人口、祭りの規模など、報告書から漏れている信仰心の程度なども。
淡々と祭宮の仕事をこなす一方、養子に出されたとはいえ未だ直系王族の証である『カイ』を持っているので、第三王子としての仕事も舞い込んでくる。
早い話が晩餐会やら何やら面倒な、父王の私的行事に借り出されては花を添えなくてはならない。
しかも今回は唯一両親を同じくする妹の誕生会なので、適当に顔を出して終えるというわけにもいかない。
壁の花でいたいものだが、どんなに閑職に追いやられても第三王子。しかもまだ父は後継者を正式決定していないだけに、ご令嬢方やそのお父上たちが群がってくる。
貴族の子弟でもあるギーが警備を兼ねて傍にいるが、周囲の人間はまるでギーがいないかのごとく振る舞い続ける。もっともギーはギーで幾重ものご令嬢の輪に囲まれているのだが。
鬱陶しいこと限りない。
付けすぎた香水の匂いも鼻につくだけだし、これ見よがしにご令嬢の豊満な肉体をさりげなくアピールされても興味をそそることは無い。
俺の腕に手を回し体を押し付けてくる娘を止めろと、ニタニタ笑う父親に言いたくなるが、下手な事を言うと余計な面倒が起こるので放置しておく。
どいつもこいつも代わり映えしない「貴族のご令嬢」に過ぎない。心が動かされる事は全く無い。
別にササがどうこうというのではなく、この下心丸出しのお嬢様方とお父様方に嫌気がさすだけだ。しかし長兄であるクソ兄貴は、何でこんなもんに引っかかったんだか。
どこの馬の骨かもわからない街の娼婦を妃に迎えた長兄の姿が視界に入る。
俺同様お嬢様方を回りに侍らせ、しかしだらしなく目尻を下げて鼻の下を伸ばしている姿は、我が兄ながら情けない。
対照的にもう一人の兄、次兄である兄上は陸海の将軍たちの筋肉の壁が囲んでいる。女っ気など微塵も無い。それでもご令嬢方の兄上に対する評価は概ね良好だ。お近づきになりたくてたまらないというのが真相だろう。
そんな二人の兄の姿を横目で見つつ、当たり障りのない会話に終始する。
あー、つまんねえ。
水竜に釘を刺されなかったら、こんな宴なんか欠席して水竜の神殿でササの顔見にいけたのにな。
こんな時にまでそんなことを思う自分がおかしくて、フンと鼻で笑う。
本当に恋ってヤツは厄介なものだな。
どこか客観視している自分がいて、今までに感じたことの無かった感情が自分の物では無いようにも思え、新鮮な発見に興味を覚える。
例え傍にいなくとも、手の届くところにはいなくても、こんな風に心を奪われるものなのか。
まさか俺が恋なんてものをするとはね。
思わず笑みが零れると、何やら懸命に話していたご令嬢の顔が桃色に染まり目を輝かせる。
「では今度わたくしと一度ゆっくりとお話する機会を設けて頂けますでしょうか」
そういう話をしていたのか? 全く聞いていなかったが。
心からの笑みが口元だけの笑みに変わる。
「それは我が婚約者の姫君に申し訳ありませんので、辞退させて頂きます。姫にあらぬ誤解をさせてしまいたくありませんからね」
少し残念そうに眉を寄せるが、ご令嬢はそれでも笑顔を絶やさない。
「殿下は情の深い方でいらっしゃいますのね。大切に大切に巫女姫様のことを想っていらっしゃるのですね」
否定も肯定もせず、曖昧に微笑みを浮かべて返し、手に持ったままだったグラスに口を付ける。
カラン、と氷がグラスを叩く音がし、ご令嬢の視線がグラスへと移り、それからゆっくりと手元へと視線が動く。
目を凝らすような視線を感じるが、全く心当たりが無い。何か袖口に汚れでも付いているのだろうか。
ご令嬢の視線の先にあるものを確認するために心持ち上にグラスを持ち上げると、手元に戻ってきたばかりの青い石が姿を現す。これ、か。
しばらく何かを考えるかのように小首を傾げて考えるようにしてから、ご令嬢が意を決したかのように俺へと視線を移す。
「殿下、以前からこういったものを身に着けていらっしゃいました?」
その言葉に近くにいる他のご令嬢方の視線が一斉に俺の方へと向けられる。
言葉の真意を探ろうとするかのようなご令嬢方の視線から逸らすべく、グラスを下げて宝石を袖の中へと隠す。
しかし不躾だろうとわかっているだろうに、質問をしてきたご令嬢の追及の手は緩まない。
「とても素敵なものですから、もしよろしかったらもう一度お見せいただけませんか。それともお隠しになりたいようなものなのですか」
さすがに王宮に巣食うの古狸の娘。どういえばこちらが不利になるか、わかって切り出してくれる。
ま、詰めが甘いけどな。
「これですか。これは将軍である兄から贈られた祭宮就任祝いの贈り物ですよ。何でも隣国でしか取れない貴重なものだそうですよ」
見せながら石を受け取った経緯を説明する。上辺だけの嘘を吐くよりも、裏を取るべく動かれた時に真実を告げておいたほうが問題が生じない。
二つに分けたものの、一つでも十分な大きさを保持しているそれは、単体の装飾品としても見劣りのしない優れたものだ。
他のご令嬢も手首で光る石をまじまじと見つめる。
「素敵なものですわね、殿下によくお似合いですわ」
ご令嬢の中の一人が感嘆交じりに呟くと、同調の色が広がっていく。
それを俺はただ笑顔で見つめ、そっと青い石を反対の手の指先で触れ、ゆっくりと腕を下ろす。
「兄上のお心に恥じないような祭宮になりたいと思っておりますが、まだまだ精進が足りない若輩者です」
「そんなことはございませんわっ」
それから始まる俺を湛える素晴らしい言葉の数々を、張り付いた微笑みのまま聞き続け、適当に相槌を打ち続ける。
あっさりと誤魔化されるご令嬢方に、失笑を禁じえないが。
水竜の大祭に向けて、祭宮業務は忙しい。が、これを片付けなくては水竜の神殿には行けない。
滑稽だとわかりつつも、張り切って仕事をしているのが自分でも十二分にわかる。
去年に比べてこのやる気。誰かに突っ込んで笑って欲しいくらいだ。
精力的に動き回り、余計な横槍が入らないように根回しもしっかりとしてから水竜の神殿へと向かう。
去年の今頃は嫌々やっていたというのに、俺って結構単純だな。
クスクスっと馬上で笑みが漏れたのを、白い目でギーが見つめて呆れたように溜息を吐く。
「ルンルンうきうき、非常に見苦しいのでおやめ下さい」
ぷっと声を出して噴き出す。
「誰がルンルンうきうきだ。キュンに引き続き、お前の語録は妹姫と変わらんな」
斜め後ろのギーと歩調を合わせるべく馬の手綱を引き一旦立ち止まり、それからまたゆっくりと馬上で肩を並べる。
比較的軽装な俺と比べ、ギーは馬が闊歩するたびにガチャガチャと腰のあたりの剣が鳴る。
そんなギーからルンルンうきうきという単語が飛び出すとは。意外性がありすぎる。
「キュンを未だ覚えていただけていたようでありがとうございます。殿下の記憶力の良さは、もっと別の所に生かしていただきたいものですが」
「能力は無駄と思える部分でも使わなくては錆びるからね。有益に使っているつもりだ」
「さようで。ではもう一つ覚えて下さい。その浮かれた顔はおやめ下さい」
「浮かれている?」
「ええ。数ヶ月ぶりに神殿にお出向きになられるのが嬉しいのはわかりますが」
何かと勘繰る輩もいるし、下の者にも示しがつかないか。
「わかった。覚えておこう」
余計な言葉は付け足さず、それだけ口にして会話を打ち切る。
恋というヤツは厄介だ。
今まで持ち得なかった弱みをいとも簡単に作り出してしまう。それは俺だけなのだろうか。それとも恋とはそういう愚かなものなのか。
……やめた。
考えたってどうしようもない。
ササじゃないんだから、頭で考えまくったって俺が上手く答えなんか出せるわけない。
なるようにしかならない。今までだったそうだった。これからだって同じだ。
恋だって。
ササがどんな風に巫女をやっているのかを見たくて、大祭の初日から顔を出す事にした。
去年は巫女になるという事で神殿も神官も彼女も手一杯だっただろうが、今年は万全の準備をして迎えたはずだ。
礼拝堂の中の祭宮用に誂えられた最前列の席で、祭壇に立つ彼女を見上げるように見つめる。
俺が手配させた青色の布で作られた衣を身に纏い、きらびやかな宝石を身に着けて祝詞を奏上する姿は、神々しい巫女そのものだ。
どんな時間帯でも祭壇には外からの陽の光が天窓から入るようになっており、天然のスポットライトが彼女の姿をよりいっそう照らす。
先の巫女である婚約者の姫も同じようにしていたはずなのに、こんな風に心が震えることは無かった。
神である水竜は確かにここにいる。
そう思わせるような、神秘的な巫女がそこにはいた。
だから、その日の夜に神官長の執務室に彼女が姿を現したとき、ギャップに思わず目を見開いてしまった。
あの巫女と同一人物だとは思えないほど、煌びやかな巫女の正装を身に着けているのに、そこにいる彼女は一年前の彼女と同じ等身大の彼女だった。
「……巫女様」
ササと彼女の名を口にしようとして、咄嗟に「失礼致しました。巫女様だとは思いませんでしたので」と言葉を付け足して誤魔化す。
ひょっこりと、まるで覗き込むように顔を出すのは反則だろう。
そんな動作とは対照的に一生懸命巫女を取り繕っているのがまた、可愛すぎる。
王宮で作っているのと同じような笑顔を貼り付けて、顔がにやけそうになるのを気付かれないようにする。
しかしまあ、これが祭壇の上にいた巫女と同じだなんてな。
目の前の椅子にちょこんと腰掛けて所在無げに頼りなさそうに視線を巡らせる彼女は、一年前にどうしようかと揺れていた自信の無いササと重なる。
「お似合いですね」
でも、立派な巫女に成長しているとも思う。
それが嬉しくもあり、巫女の正装が似合うと褒めると、ベールで表情はよくわからないが声に動揺が現れている。
褒められ慣れていなくて、ちょっとの事で動揺して。俺の周りにいるご令嬢方や姫君たちとは全く違う。いまや彼女こそこの国で最も高貴な女性だというのに。そんなの片鱗を全く感じない。
だけれど去年と同じ彼女ではなく、一年間で成長したのだなと、彼女が巫女になったことは間違い無かったと改めて思う。
率直に彼女の成長を褒め、彼女の努力を湛えると、彼女から思いもかけない言葉が零れ落ちる。
「あの日、ウィ……いえ、祭宮様にお会いできて、本当に良かったと思っています」
ぽろりと俺が教えた俺の名を零した彼女に、笑みが漏れる。
「そんな風に感謝される事は、一つもしておりませんよ。すべては水竜の御心のままに」
名前を言いかけた事を聞き流そうかなとも思ったけれど、彼女の出方が見たくなった。
一体どんな顔をするのか、知りたくなった。
祭宮然とした態度を改めて、あの日初めて会った時と同じように話しかける。
「だけど、あの日、俺もササに会えて良かったと思っているよ」
運命なんか信じないけど、確かに彼女が俺を変えたのも事実。
兄上にもう少しちゃんとやれと言われただけじゃない。
前向きにひたむきに頑張る彼女が、俺に教えてくれた事がある。
「巫女がササで良かった。ササだったから、俺もいっぱい色んなことを考えさせられた」
「それってどういう……」
「今だから言うけどさ、俺は巫女の意義だとか、水竜の意思だとかってものは、一切考えた事も無かったわけ。だけどササは、俺から見たら、そこまで考えなくてもいいだろってくらい悩んでいたわけだ」
「……普通悩むでしょ、突然巫女だなんて言われたら」
「それは比較対象がいないから、わかんないね。たださ、俺はなんとなく祭宮っていうのは、神託を国王陛下に伝えるだけの仕事って思ってたからさ、色々考えているササを見て、俺もまた色々考えたわけだよ」
誰にも話した事もないような話を何で俺はしてるんだろう。
どうして彼女にはこんな話をしてしまうのだろう。
だけどちゃんと伝えておきたかった。一緒に悩んだから、ササが巫女になったから、俺は今ここにあると言う事を。
「簡単に要約すると、悩みまくった結果、真面目に祭宮やるかなっていう気になったっていう、そういう話」
お前が俺を変えたんだと伝えたつもりなのだが、何故か怒り出す。
一体怒りの導火線はどこにあったんだ。
「あー、そういうことなんだ。それじゃ、色々言ってみたのも、口からでまかせ? その場しのぎ?」
「何でいきなり怒り出すんだよ。わっけわかんないなあ、お前」
「お前とか言わないで下さい。真剣に話してくれてると思っていた私がバカでした」
「はあ? 何言ってんの?」
ぜっんぜんわかんねえ。何だよ。
一体何を突然怒り出して、何に突っかかってきてんだよ。
ペースに巻き込まれてもしようが無いとわかっているのに、ムカつくのは抑えられない。
「だってそうでしょ。私は真剣にウィズに感謝してたのに、あの時全然真面目に考えて無かったってことでしょ。もう、ウィズなんて嫌い!」
真剣に考えてただろうが。あんなに真面目に考えた事はめったに無い。
どうしたら一番ササのためになるかって、どうしたらちゃんと望むように生きられるようにしてやれるかって。本気で俺だって悩んだんぞ。
なのに、嫌いってどの口が言うかっ。
「嫌いって、お前子供かよ」
「だから、お前って言わないでってば」
お前って言われるのが気に入らなかったわけね。
はいはい。言い直しますよ。悪かったですよ。お前って言わなければいいんだな。
「わかったから。じゃあ、なーに。何で怒ってるの」
「ほらまた聞き流してた。もういい!」
……女ってめんどくせえ。さっぱりわかんねえ。