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「お父様」
そっと部屋の中に入ってきたアンジェリンに声を掛けられる。
「フレッドは」
「帰りました。やるべき事をやらずにお母様の傍にいたら、それこそお母様に笑われるからって。こんな時くらい、お母様のお傍にいて差し上げればいいのに」
不満そうに眉間に皺を寄せるアンジェリンの様子に頬が緩む。
アンジェリンは母としての彼女の記憶は無いに等しい。フレッドと共に国王夫妻に育てられている。
だから巫女として選ばれた時など、かなりの反発を見せた。実際、ここに着てからササともぶつかった事があると聞く。
だが、今のアンジェリンは彼女を母として認め、慕っているように思える。
俺の関与できない数年間の神殿生活が、二人の仲を変えたのだろう。
「お父様、聞いてます?」
「ああ、すまない。聞いているよ」
プンっと怒り顔で、それでも眠っている彼女を起こさないように囁き声で話を続ける。
「お兄様は冷たいです。お母様はお兄様の傍にもいたいと思っているはずなのに。どうして帰っちゃうんだろう」
ポンっとかつて彼女にしていたように、頭に軽く手を乗せて撫でる。
「フレッドは優しいよ。彼女が元気になって王都に戻ってくると信じている。その為の布石を打つ為に戻ったのだろう。また彼女を信じていると言外に伝える為に、ここに留まらないのが最適だと思ったのだろう」
「わかりにくいです」
不満そうに口を尖らすアンジェリンの姿に、かつての彼女の姿が重なる。
「詩はもういい。いらない。奇跡の巫女の詩なんて、大げさで嘘ばっかりじゃない」
そう言って唇を尖らせた彼女の姿が。あの時着ていたのは紅の衣だったか。
「ねえ、お父様」
「なんだ」
「ここには今、私とお父様しかいないわ。だから教えて。お母様ってどんな巫女だったの」
真面目な顔に戻ったアンジェリンが身を乗り出して聞いてくる。
ちらっと眠る彼女に目を向けるけれど、寝息は深く起きる気配は無い。
「それは一番詳しいのは執事だ。片目や助手でも快く教えてくれると思うが」
「そうではないの。お父様から見たお母様ってどんな感じだったのか知りたいの」
「……随分そこに拘るな」
「だってね」
そう言ってアンジェリンは窓の外を眺める。
巫女を経験した者たちは例外なくこうやって窓を眺めては竜の声を聴こうとする。
竜とは巫女にとって、どんな存在なのだろう。
「アンジェリン。巫女にとって竜とは何なんだ」
「え?」
「ずっと思っていた。竜は何故巫女を魅了して離さないのだろう。人ではない、化け物といってもいいような存在なのに。どうして巫女たちは竜に心を捕らわれてしまうのだろう」
クスクスとアンジェリンが笑い声を上げる。
その笑い方がアンジェリンの育ての親である王妃と、かつて姫とこの神殿で呼ばれていた今はアンジェリンの教育係である女性と重なる。彼女の血が流れているのに、実母である彼女のそれとは重ならない。
「お父様、竜に嫉妬しているの?」
「は? 何を言っているんだ」
クスっともう一度アンジェリンが笑い声を上げる。
「竜はね、巫女がいなかったら孤独なの。たった一人で仲間もいないの。だから巫女はこの世界でただ一人だけの竜の味方なのよ。だから一生懸命守るのよ、巫女たちは竜を」
それは彼女も昔そんな事を言っていたが、それだけでここまで愛情を化け物に注げるものなのか。
「それに『特別』って素敵じゃない。私だけが竜の声を聴く事が出来る。それってすごく魅力的な事よ。で、それよりもお父様、お母様の事よ」
思考を巡らせる余裕も与えてはくれないらしい。
ずいっと体を寄せ、全身で話してくれと訴えてくる。
「執事にでも聞いて来い」
「もうっ。お父様ってば」
腕を組み、窓の外に目を向ける。そこに紅色の竜がいる。
最近はあの山には帰っていないようで、いつも彼女の部屋から見える場所にいる。
彼女がその命を終えた時、紅色の竜が彼女を食べにやってくるという。その時を虎視眈々と狙っているのか。
そういえば、竜の愛情表現は血肉を喰らって自らの血肉にする事だと彼女自身が言っていたな。忌々しい。例え髪の毛一本だろうと奴等には渡したく無い。
ふいに紅色の竜と目が合う。
じーっと見つめるその瞳が語ろうとしているものは伝わっては来ない。残念ながら、俺には竜の声など聴こえない。
それなのに、まるで哀れまれているような気がしてならない。
俺は竜にさえ哀れまれなくてはならないような、そんな惨めな生涯だったとでも言うのだろうか。
彼女の心は永遠に竜に捕らわれていて、結局は俺の一人相撲だったのだろうか。
「私が他の誰にもあなたを渡したくないの。だからどこにも行かないで」
記憶の中の彼女が囁く。一人相撲じゃないと言うかのごとく。
それでもずっと、胸の中にぽっかりと開いた空洞が埋まらない。
俺は、竜には敵わない。
「お父様?」
「あ。ああ」
アンジェリンの問いかけで紅竜から目を逸らす。
そして再び眠る彼女に目を向ける。助手の薬が効いているのか、よく眠っている。
「別にこんなに無理しなくたって良かったのに」
そっと眠る彼女の乱れた髪を撫でる。命を削ってまで竜に寄り添う事など無かったのに。
なのにいつも無理をさせてしまう。俺が彼女を望んでしまったから。
彼女が最も嫌う二つ名を利用して神殿に縛りつけてしまった。それは俺を彼女が選んでしまったからだ。俺がみっともなく彼女を諦めきれなかったからだ。
「いつだって無理をして無茶をして周りを驚かせる。そんな巫女だったよ、お母さんは」
「お父様」
神妙な面持ちでアンジェリンが俺を腕を掴む。
「私、昔お母様に聞いた事があるの。どうして私やお兄様やお父様を捨てて神官長になったのって」
子供ならではの無邪気な問いかけだったのか。それとも年頃の娘の難しさから出た言葉だったのか。ただ、俺を絶句させるには十分過ぎるほどの衝撃があった。
目を見開いた俺のことなど気にする様子もなく、アンジェリンが続ける。
「お母様は何も言わなかったわ。でも、今ならわかる。他に誰もいなくて仕方なくここに来たのだろうって事も。それでもお母様はここで幸せそうだったの」
打ちのめされたように、もう何も発する事も出来なくなってしまった。
俺たちといるよりも、やはり彼女にとってはこの神殿にいる事のほうが幸せだったのだろう。彼女の居場所は俺の隣なんかじゃない。神官たちに囲まれたこの神殿という場所だったんだ。
言いようのない絶望感に唇を噛む。
彼女の顔、紅竜の顔、そしてアンジェリンの顔を順番に見つめていき、娘アンジェリンと目が合う。
「でもね、お母様は執事たちに泣いて頼んだの。お父様に会いたいって」
「……え?」
「執事が言ってた。お父様はお母様の運命なんだって。表裏一体の存在なんだって」
「え?」
「随分前に執事も聞いたことがあるんだって。本当に神官長になっていいんですかって。そうしたらお母様はね、こう言ったの」
「なんて」
声が掠れ、裏返った。
「立派にやり遂げなければ、お父様の傍にはいられないからって。お母様は本当にお父様のことが好きなのね。いつだってお父様が基準なんですもの、悔しいけれど」
わけも無く、涙がこみ上げてくる。
こんな風に身を削ってまで神官長をやり遂げる必要なんて無かったのに。無理をしないで良かったのに。
「もっと早く知っていたら」
頭を垂れ、両手で頭を抱える。
どこですれ違ってきたのだろう。何故彼女を信じきれなかったのだろう。
そんな風に想ってくれていたなどとは思っていなかった。ただ一方的に彼女を追い求めているのは自分だと思っていた。
手を伸ばせば、いつでもそこにいたのに。
「返して欲しいんだ」
窓の外、こちらを見つめたままの紅竜に声を掛ける。
例え窓が閉まっていても、俺の声が紅竜には聴こえるだろう。
「もう十分だろう。残り僅かな彼女の時間を俺にくれないだろうか。頼む」
無反応かと思いきや、にたりと紅竜が口角を上げる。やはり聴こえているのだろう。
その表情にほっとして、大きく息を吐き出す。
「春になったら、いいか」
アンジェリンに問いかけると、満面の笑みが返ってくる。
「いいわ。その代わりお母様がどんな巫女で、お父様との間にどんな恋物語があったのか教えてくれたら」
ふっと鼻で笑うと、アンジェリンは嬉しそうに目を細める。
「結局そこか。別に面白い話なんか無いと思うが」
「あら、面白いかどうか決めるのは聞き手側よ。それにね、例の毒殺疑惑とかお父様に直接聞いてみたいことが沢山あるの」
そういう直球なところは彼女に似なくてもいいと思うのだが。
「わかったわかった。ただし長いぞ。覚悟しとけ」
「じゃあお茶頼む。お父様もいる?」
「お茶はいるが、傍聴者はいらないぞ」
「……察しがいいわね、お父様」
「当たり前だ」
クスクス笑うアンジェリンが立ち上がって部屋の外へと姿を消す。
静まりかえる部屋の中、そっと彼女の頬へと手を伸ばす。
眠る彼女の額に口付けすると、首には銀色の鎖が見えている。この先にあるのは俺と彼女を繋ぐ青い石。二つで一つ。俺の願いが込められた石。
「具合悪いときくらい外せばいいのに」
そう口に出したものの、頬が緩んでしまうのは止められない。
恋焦がれたのはいつからだったのだろう。それが恋だと気付いたのは思いがけない瞬間だった。
この石を彼女に贈るきっかけになったのは、非常に醜い嫉妬と独占欲だった。