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夕闇で薄暗くなった部屋の中、居残り仕事を決め込んだルデアから書類の束を渡される。
「本日中に目を通してください。署名まで済ませて頂けると非常に業務が滞りなく進みますのでよろしくお願いいたします」
慇懃無礼というのはこういうことだろう。
苦笑を浮かべつつ頷き返し、書類の束に目を向ける。
例によって祭宮へ寄付を求める地方からの請願書だ。
天変地異や戦争の影響で、あちこちの水竜の祠に大なり小なり修繕の必要が出てきている。
被害が無い場所はほんの僅かといったほうが良いほどに。
早急に対処して修繕しても、また戦災や天変地異により壊れる可能性が無いとは言えない。故に全ての請願を一時保留にしている状態だ。しかしこのままで良いというものでもない。
いつかは被害を受けた全ての場所への支援を、祭宮として決断しなくてはならない。
また壊れたまま放置しているのでは、王家が水竜への信仰、ひいては水竜を軽視していると取られかねない。
「早く戦が終わってくれればいいのだけれど」
何の気なしに呟いた一言に、ルデアが溜息を吐き出す。
「終わらせるにしても、終わり方も重要ですしね。現状で停戦してはわが国にとって不利になる事は間違い無いですし」
ルデアの言うように、被害はもっぱらこちらばかり被っている。
敵である隣国の被害は少ない。
戦場がこちらの沿岸地帯で行われているというのが一番の理由であり、それこそが『朱』を招いている原因の一つになるのだが。
「朱に大河が染まる時……か。意外に詩人だな、水竜も」
書類を斜め読みしながらサインをしつつ、ルデアと話を交わす。
「実際のところ、それほど大河が血に染まっているわけではないのですけれど。まあ朱に染まっているといえばそうなのでしょうね」
俺からサインの終わった書類の束を受け取りつつ、ルデアが次の山を手渡す。
また請願書かと内心で溜息を吐きつつも、数枚サインをしたところで、ふと手が止まる。
全く同じ様式、同じ紙に書かれているのに、全く異なる内容のもの。
どうやら神殿の外部諜報員の一覧のようだ。
外部諜報員は全部で十八人。
意外に多いな。いや、全国津々浦々まで把握するには少ないくらいか?
そのリストの中には王家専属の諜報員である『闇』に属する者、俺個人が雇っている諜報員『影』に属する者もいる。
それ以外の者で、王家との繋がりが疑われる者は数人。
祭宮陣営から情報を得ている者。兄上サイドの者から情報を得ていると思われる者。そして兄王サイドから情報を得ている者。
助手が言う「片目の諜報員」という者は、俗称も『片目』のようだ。
巫女である彼女の最も身近にいる者の一人であるその者は、どうやら兄上サイドと繋がりがあるようだ。
さて、どうするか。
泳がせるか。それとも……。
兄上サイドから神殿側にもたらされる情報については、どうせ大した内容ではないだろうから、あまり気にする事は無いだろう。
問題は逆だ。
片目が兄上サイドに洩らす情報が問題になる。
肉体的、精神的にかなりダメージを受けており弱っているなどといった健康情報や、水竜を憑依させる事が出来「類稀な」と形容される巫女であるという事。
そういった外部に漏れては不味い情報が兄上に漏れ伝わるのは避けたい。
決して巫女をどうこうしようとは思っていないだろうし、片目も安易にその情報を洩らすとは思えないが、リスクは最大限避けるべきだ。
念の為、警戒するに越した事は無い。
「これはあまり状況が良くないな」
「どちらでしょう」
自分に与えられた執務用の机からルデアが立ち上がり、俺の手元の書類を覗き込む。指先さした先の『片目』という文字にルデアが静かに目線を落とす。
「ああ、これですか。どのように処理致しましょうか」
「再度情報収集を頼む。これだけでは判断のしようが無い」
「かしこまりました」
手元の書類を手に取り、ごくごく普段どおりの顔をしてルデアが自分の執務用の机に戻る。
恐らくこれでもう少し片目のことについての洗い出しが出来るだろう。
問題は神殿だな。
長老が片目を彼女の傍に付けたのは、単に片目が優秀な諜報員だからなのか。
それとも裏では長老も片目と共に兄上の勢力に飲み込まれているのか。だとすると、本当に信頼するに足る人物なのだろうか。
いや。
問題はそう単純な事ではないのかもしれない。
そもそも兄上は本当に巫女には手を出さないのだろうか。兄王のように直接的に手を下したりはしないだろうが、何らかの思惑を持って神殿に対し工作をしてくる可能性は全く無いと言えるだろうか。
水竜の神殿に行った日、祭宮の宮城でスージと会ってから、俺の中で兄上に対する猜疑心が膨らみ、払拭出来ないでいる。
本当に心から信頼してもいいのかと。
今になって迷いが出てくる。
兄王とは違う。あのクソ兄貴とは違って、兄上はいつだって俺に厳しくて優しかった。そして誰よりも清廉潔白な人だった……はずだ。
戦を望んでいた。止めようともしなかった。本当は玉座を望んでいる。
言われるまで気がつかなかったが、今思えばそうなのかもしれないと思う。
玉座を本当に狙っているのならば俺だって邪魔なはずだ。どこか隙をついてくるに違いない。
血統第一主義の古臭いジジイどもが求めるのは「より濃い建国王の血」
故に、神殿の長に納まっている婚約者である姫になんらかの策を仕掛けてくる可能性は高い。
兄王は既に腑抜けている。あれはもう使い物にはならない。
次にもし神殿に何かを仕掛けて来る者があるとするならば、それは兄上しかいない。
そう結論を出し、ふっと溜息を吐き出す。
「このサインが一通り終わったら、占い師のところに顔を出してくる」
ぴくりとギーが眉を動かす。
ルデアは深い溜息を吐き出す。
「殿下、占いなどに頼らなくとも」
眉を寄せて苦言を呈するルデアに対し、首を横に振る。
「すまないが、連絡をしておいてくれ。後ほど立ち寄ると」
何かを言いかけたルデアの言葉を遮るようにギーに声を掛ける。
ルデアは頭を抱えて溜息を吐き出し、そして再び執務に戻る。
全ては演技に過ぎないが、どうやらこれが功を奏しているようだ。
誰が外に情報を洩らしているのかはわからないが、最近王宮内で「祭宮は心が弱り、ついに占い師を信望するようになった」という噂が流れている。
兄王のあの状態と合わせ、どうやら俺もああいう状態になりつつあるらしいと専らの噂だ。
これをどこまで王宮の貴族や王族たちが信じるかはわからないが、少しでもこの噂が蔓延してくれると、今後何かと動きやすい。
「というわけで、今日も少々付き合って貰おうか」
急造占い師は辟易とした顔で俺を見る。
「あんたさー。おおっぴらに俺んとこ頻繁に来て大丈夫かよ」
「大丈夫大丈夫。心が弱い祭宮だからさ」
薄暗い部屋の中で巨大な水晶の玉を撫でながら、黒衣の男は溜息を吐く。
「そうじゃねえって。あんたの両翼が怒るんじゃねえのってことだよ」
相変わらず黒衣の占い師は口が悪い。
城下にある占い師の館の一室は狭く、この部屋の中にはギーとルデアを引き連れて入るわけにはいかない。
護衛ということでギーが扉の外に立ってはいるが。
「怒るなら出歩くのを良しとはしないだろう。それより、そろそろ占い師を抱え込む頃合だと思うが、お前はどう思う?」
「王宮に出仕しろと? それは無理だな。いくらなんでもバレるリスクが大きすぎる」
「いや。王宮にではなく、とりあえずどこかに囲い込もうと思っているんだが」
ははっと乾いた笑みを黒衣の男スージは洩らした。
「どこにだよ。あんたの両翼の息の掛かった場所にか? それ間違いなく、俺が暗殺されるぞ。あんたの両翼のどっちかに」
くくっと喉を震わせて笑みを洩らすと、スージはあからさまに眉を潜める。
「殺しはしないだろ。拷問くらいはするかもしれないが」
「勘弁してくれよ。今でさえあんたのお抱え占い師ってだけで方々から命狙われてんのに」
「へえ?」
それは面白い話だ。
にやっと笑った俺に、スージもにやりと笑みを洩らす。
「どのあたりから狙われてる?」
「あっちこっち。三勢力満遍なくってとこだね。あんたの勢力は俺みたいな胡散臭い奴は排斥してご立派な第三王子に戻って欲しいらしいし、上二人のところは俺が何らかの策謀の為に動いていると思ってるってとこだろうね。まあ早い話、あんたの勢力そぎ落としの為」
なるほど。それはまあその勢力の「頭」がどう考えるかではなく、それぞれの立場から勝手に動いているという可能性が大きいだろうな。
そもそも兄王は「頭」として機能していないし。
「ヤっていいならヤるけど?」
「……物騒すぎです」
ほとんど気配を隠したままルデアが扉を開け、中に入ってくる。
「狭い」
文句はルデアの溜息に一蹴される。
「カップルの相性診断をする事もあるようですから、二人くらい余裕で入れますよ」
言いながら俺の横に腰を下ろし、ルデアが口元を引き上げる。
それをスージは溜息を吐いて受け入れる。
「何しにきた」
「殿下の信望する占い師に会った事が無かったので、様子を伺いに」
一触即発という感じで、二人の視線がバチバチとぶつかり合う。
「あなたは一度殿下を裏切った。そのような者は信頼するに値しません」
切り捨てるように言ったルデアに、スージはにやりと人の悪い笑みを浮かべる。
その黒衣とあいまって、まるで死神のようにも見える。
「へえ。お前がそれを言うか」
「どういう意味です?」
「完璧など世の中には無いって事だよ、ルディアンス・リーエル伯爵」
瞬きをし、スージは興味が無いといった様子でルデアから目を逸らす。
そして道化のような表情を浮かべて、ふうっと息を吐き出す。
「ホント、あんたのとこの両翼は喧嘩っ早くて面倒くせえなぁ。それより話を戻すが、まとわりついてきてウザイから、まとめてヤっちゃっていい?」
「城下に死屍累々というのも、このご時勢ではあまり目立たなくて話題にも上がらない可能性があるが、後の処理が面倒だから却下」
ははっとスージが乾いた笑い声をあげる。
「全部川にでも投げ込んで証拠隠滅するけど?」
「大河を朱に染めんな、阿呆。それよりは泳がせておけ。そのほうが面白い」
「どう面白いんだよっ。俺は楽しくねえぞ、命狙われてんの」
「死に物狂いで頑張って、殺されずにスージとギーの信頼を勝ち取ってくれ」
「やだって言ったってあんた聞かないよな。ホント面倒くせえ、この男。なあルディアンス。お前はこいつに仕えて嫌にならないの?」
「慣れてます。それより殿下、この殺人鬼もどき、本当に死体にしなくても宜しいのですか?」
「ルデア。これでも一応今のところ役に立っているから」
「ひっでえ言い草。せーっかく情報持ってきたのに、教えてやらねえ」
ヘソを曲げたかのようにプイっと横を向いたスージだが、それもまた演技だとわかっている。
ルデアは深い溜息と共に軽蔑するような視線をスージに向けるが、スージは意に介さない様子だ。
元々の、という言い方は語弊があるかもしれないが、スージは貴公子と呼ばれるようないでたちや立ち振る舞いを信条としていた。
それが今じゃまるでチンピラのような物言い。
どちらが本当なのか。それともどちらもスージなのか。はたまたそのどちらもスージではないのか。
しかし一つだけ変わらないことがある。
スージも、ギーやルデアと同じく、真っ直ぐに俺にぶつかってくる。そこに嘘は無い。いや、嘘は無いと信じている。
「お抱え占い師。うちの屋敷に匿ってやるから情報を洗いざらい吐いて貰いますよ」
「断る。情報はくれてやるが、お前に監視されるのは真っ平ゴメンだ」
ルデアの提案を却下し、スージはコンコンっと水晶を指で弾く。
「ウィズラール。あんたのお姫様とお嬢様は最近どう?」
「……どうもこうも、元気じゃないのか?」
スージがふっと顔を真顔に戻し、ルデアは片手で頭を押さえる。
「案外厄介だぞ、あの二人」
「どういう意味だ」
「神殿内が二分されているのは知っているな」
「ああ」
「女官を中心に、姫を神格化する動きが出てきている。一部にはお嬢様を排斥しようと画策している者もいるらしい」
ルデアが首を捻り、考え込むように腕を組む。
今頃頭の中では神殿内勢力図が検証されているところだろう。
「神官は?」
「絡んでいる。しかしそれが誰なのかがはっきりしない。出来るならばあちらに警告しておいたほうがいいかもしれない。排斥という言葉では優しすぎるような事態が引き起こされる可能性も否定できない」
スージから視線を逸らし、そしてルデアを見る。
「何か思い当たる事はあるか?」
「いえ。そういった報告はこちらには入ってきておりませんね。ただ女官絡みで神官も関わっているとなると、その両方に人脈のある者という事になるでしょうね」
それが一体どういう人物になるのか、俺にはさっぱりわからないので今度はスージを見るが、スージは首を横に振る。
本当にまだ情報を掴んだばかりということなのだろう。
「近日中に情報が上がってくると思うが、あそこは複雑すぎる。組織も人間関係も。しかもやたらと人数だけは多い」
王家専属の諜報機関である『闇』をもってしても、なかなか情報収集は困難という事か。
俺が祭宮になってから諜報員として送り込んだ『影』たちよりもずっと以前から神殿内に精通している『闇』が苦戦するほどか。
俺やスージがそれぞれ物思いに耽る間、ルデアは身動きせず頭を働かせている。
暫くの沈黙の後、ルデアがすっと顔をあげる。
「これは可能性の一つです。ですので正解ではない事を最初にご了承下さい」
俺へと向けられた言葉であるが、同時に『闇』の首領であるスージにも向けられている。
「女官ならびに神官に関わる者。それは人事権を持つ者か、教育係でしょう。古参の女官。もしくは神官。そしてその意見が影響力を持つ者」
「なるほどな」
頷くスージは素直に納得しているようだ。その結論に異論は無いというかのように。
「個人的に怪しいと思うのは女官長です。神官長を長としての組織を形成している神官に対し、女官は主に神官長や巫女の世話に従事します。そして数も多くない。女官に強い影響を与える事が出来るとなる人物となると女官長の可能性が浮上します。しかし女官長が神官たちに影響を与えるとは言いがたい」
「何故?」
俺の問いにルデアがこくりと首を縦に振る。
「基本的に神殿内の女官の地位というのは低いのです。貴人の身の回りの世話をしているというだけで、神に仕えているわけではないというのがその理由です」
「神殿というのは不可解なところだな」
率直な意見を洩らすが、ルデアはまるで聞いていないかのように話を続ける。
「ですから神官の中でも特に影響力の強い長老。または神官の教育を任されている者。祭祀に強い影響力のある者がその候補として挙げられます。特に祭祀に強い影響力がある者に関しては、女官たちとの意思疎通が不可欠になってきますし、可能性が高いように思われます」
「……まあ、その線で洗ってみる。また何か判れば連絡する」
スージが『闇』としての結論を出すと、ルデアが「お願いします」と口に出す。
信頼はしていないが、情報源としては利用するというつもりなのだろう。
そして挙がってきた情報を後々精査して、真実かどうか確かめるつもりだろう。
「というわけでウィズラール。立ちんぼのギールティニアがそろそろ悪目立ちしすぎる頃だ。帰れ」
「帰れって酷いな。まあいい、情報ありがとう。スージ」
「とっとと帰れ。これから仕事してくる」
黒衣の男は俺たちを残してカーテンの向こう側へ消えていく。
その様子をルデアが無表情で見送り、俺の肩を叩く。
「帰りますよ。帰り道が多少物騒でも、決して手はお出しになりませんように、祭宮殿下」
「城下で一杯飲んで帰るつもりだったのに」
「今日は諦めて下さい」
ルデアが入ってきた扉を開けると、ギーが窮屈そうに扉の前で立っている。が、その手は剣の柄を握っている。
「どっちです?」
抽象的なルデアの問いに、ギーは「わからん」と短く返す。
あちこちから感じる視線と殺気。
どうやら怪しげな黒衣の占い師だけではなく、俺たちも狙われているようだ。
「腰抜けを襲って何が楽しいんだか」
威嚇の為に刃のついていない飾りの剣を抜こうとすると、ルデアが柄にかかる俺の手を押し返す。
「望みを叶える為にご辛抱を」
代わりにルデアが剣を抜き、利き手である左手に持つ。
ルデアも本気で俺が剣で人を切るとは思っていないだろうが、剣を持つことも祭宮として善しとしないということだろう。
右手で剣を握るギーと左手で剣を握るルデアに挟まれ、狭い通路を出て店外に出る。
そしていかにも三下といった風情の集団に絡まれるが、軍で鍛え上げているギーと、軍に所属した過去に一通りの教育を受けているルデアの前に命の花を無駄に散らして終わる。
また二人とも貴族の子弟であり、ルデアにいたっては伯爵。
その地位に相応しい者としての護衛がついており、戦況はあっさりと決する。
また目に見えぬところでスージがとその配下が、スージ流に言うならばヤっているだろう。
これで暫くはこのような直接的な手段が止むといいが。
当分は城下で酒を飲むという希望は持たないで置こう。城下に出るたびにこのような襲撃にあうのは辟易する。万に一つも血に濡れたくは無いしな。